すべての肉体的労働は人間を高尚にす。自己の子供に肉体的労働を教え込まぬは、彼に掠奪強盗の準備をさするのと選ぶところなし。

「ユダヤ伝経」


つねにはたらくは犠牲なるべし。

鴨長明 「方丈記」


まだ日が暮れない、働けよ、あくことなく。そのうちに誰も働くことのできない死が来る。

ゲーテ 「西東詩集」


一分間さえ休む暇のないときほど幸せなことはない。働くこと、これだけが生き甲斐である。

ファーブル 「昆虫記」


一日作さざれば一日食わず。

「五燈会元」


人を偉大にするものはすべて労働によってえられる。文明とは労働の産物である。

スマイルズ 「自助論」


人間は、日常従専している労働のうちに自分の世界観の基礎を求めなくてはならない。

ペスタロッチ 「リーンハルとゲルトルート」


働け、いっそう働け、つねに働け。

ガンベッタ (演説-1874/6/24)


働けど働けどなほ 我が暮し楽にならざり じっと手を見る

石川啄木 「一握の砂」


労働の中にのみ平和が宿り、労働の中には安息がある。

フォントネル 「幸福論」


労働の愛は社会における人間の美徳である。

ローラン夫人 「回想録」


労働はいっさいを征服す。

ヴェルギリウス 「農耕詩」


労働はすべての徳の源泉である。有用な労働はまた、最高の崇高な労働でもある。

サン・シモン 「産業者の政治的教理問答」


労働はつねに人生を甘美にするが、誰でも甘いものが好きだとは限らない。

フーゴー 「詩」


労働は人生を甘美にはするが、重荷にすることはけっしてない。心配事を持っている者のみが労働を嫌う。

ブルマン 「少年少女小曲集」


労働は最良のものでもあり、最悪のものでもある。自由な労働であるならば、最善のものであり、奴隷的な労働であるならば、最悪のものである。

アラン 「幸福語録」


労働は神聖なり、結合は勢力なり。神聖の労働に従ふ人にして勢力の結合を作らんか、天下亦何者か之に衝る者あらんや。

高野房太郎 「語録」


労働は美徳の源泉である。

ヘルダー 「誓い」


労働を軽減させるための彼らのあらゆる発明は、結果としては、ただ労働の重荷を増大させることで終わっている。

モリス 「無何有郷通信」


労働力は、それらが売られたり、買われたりする限りにおいては、すべての他の商品と同じく、ひとつを行うのに必要なものから成っている。

リカード 「経済学原論」

君は二つの手と、一つの口とを持っている。その意味をよく考えてみよ。二つは労働のために、他の一つは食事のためにあるのだ。

リュッケルト 「パンテオン」


困窮は祈ることを教える。労働はいかにして困窮を防ぐかを教える。

グライム 「ピタゴラスの金言」


国富の原因たるものは労働一般である。

アダム・スミス 「国富論」


歓びのない労働は下賎である。悲しみのない労働もそうである。労働のない悲しみは下卑である。労働のない歓びもそうである。

ラスキン 「胡麻」(講演)


神は、人間に欲望を与えることによって、また人間に労働の手段を必要とさせることによって、労働する権利をすべての人間の持物とした。

チュルゴー 「語録」


諸君は100年も生きるつもりで働け。諸君は明日死ぬつもりで遊べ。

フランクリン 「貧しいリチャードのアルマナック」


資本は労働の結果である。ゆえに労働は、この資本を使うところのものである。

ジョージ 「進歩と貧困」


過去の労働の記憶は甘美なり。

エウリピデス 「語録」


青年に対して、私は助言すべき三つのことばがある。働け、働け、働け。

ビスマルク (演説)

 

 

 

これら労働の名言って、絶対何割か慰めで言ってるよね

 「慣れる」ことについて


人間には「慣れる」という素晴らしい能力がある
つらくて何もできなくても、それを信じて、時を待てばいい  

 

 

 『人間は何事にも慣れる存在だ』 ドストエフスキー

 

 『人間が馴れぬことができぬ環境というものはない』 トルストイ

 『物事の恐ろしさは馴れ親しむと薄らぐものだ』 イソップ

 『慣れるということが生活の全部である。
  どんな生活にでも慣れるまでの辛抱である』 宇野千代

つらい環境でも辛抱できれば、やがて慣れ、ふつうになる。

 『あらゆる不幸を克服する第一歩は、
  起こっている事態を受け入れることだ』 ウィリアム・ジェームズ

 『現実を受け入れたら「苦しみ」はないですよ』 A・スマナサーラ

 『あきらめてしまえば、癒しようのない不幸も和らぐ』 ホラティウス

早く慣れるためには、現実を受け入れること。



その他の名言
 

どんな日であれ、

その日をとことん楽しむこと。

ありのままの一日。

ありのままの人々。

過去は、現在に感謝すべきだということを

わたしに教えてくれたような気がします。

未来を心配してばかりいたら、

現在を思うさま楽しむゆとりが

奪われてしまうわ。

 

- オードリー・ヘップバーン -

(英国の女優 / 1929~1993)

 

幸福のこんな定義を聞いたことがあります。

「幸福とは、健康と物忘れの早さである」

ですって!

わたしが思いつきたかったくらいだわ。

だって、

それは真実だもの。

 

- オードリー・ヘップバーン -

(英国の女優 / 1929~1993) 

 

 

尊敬すべき幸福な人は、

逆境にいても、

つまらぬことはくよくよせず、

心配しても始まらないことは心配せず、

自分の力のないことは天に任せて、

自分の心がけをよくし、

根本から再生の努力をする人である。

 

- 武者小路実篤 -

(日本の小説家、詩人、劇作家、画家 / 1885~1976) 

 

 

たとえ一人になろうとも、

全世界に立ち向かい給え!

世界から血走った眼で睨まれようとも、

君は真っ向から世界を見すえるのだ。

恐れてはならない。

君の心に響く、

小さな声を信じ給え!

 

- ガンジー -

(インドの弁護士、宗教家、政治指導者 / 1869~1948) 

 

もし幸福な生活を送りたいと思う人々が

ほんの一瞬でも胸に手を当てて考えれば、

心の底からしみじみと感じられる喜びは、

足下に生える雑草や

朝日にきらめく花の露と同様、

無数にあることがわかるでしょう。

 

- ヘレン・ケラー -

(米国の教育家、社会福祉活動家、著作家 / 1880~1968) 

 

 

 

 

 

 

なんか最近、遠くのものが見えにくくなってきてたからメガネの新しいのを買いました。

 

ちょっとふちが広めのやつ。

 

 

めっちゃ見えるようになった。見えるって当たり前なことだけど嬉しいですよね。

 

 

PCばっかみてるから、調子のってブルーライトカットも入れました。

 

 

 

 

さて、最近とくに思うのですが、幸せって人によって違うものだよなーと。

 

 

最近、いろんなことに不安を感じることが多くても、喜びを感じることって少なくなってきたように思うんですよね。

 

 

幼年期の頃はなんでも楽しかったのにね。

 

 

僕がよく読んでいたマンガに「自殺島」ってマンガがありました。

 

 

このマンガの10巻で作者は、現代人はこの「喜びを感じる能力」が不足している人が多いんじゃないかと説きます。

 

 

作者は具体的に大きな理由(ひどいいじめや生活苦、健康問題)がなくても、自殺者が増えている現代に危機感をもっているようです。

 

 

その原因の一つに「喜びを感じる能力」が現代人から無くなってきつつあることを指摘しています。

 

 

なるべく勝ち

なるべく得て

なるべく上に行く

 

そのように私たちは教育されてきた。

 

作者はそれを否定するわけではないのだが、競う能力の向上に比べ、「感じる能力」の向上にあまりに無関心すぎると指摘します。

 

 

たしかに僕にもそういったことに、ひどく思い当たるフシがある。

 

 

当たり前なことだが、おいしいものを食べることの喜び。

 

 

クソ寒い日に温かい飲み物で幸せを感じる瞬間。

 

 

お天気の日に、お陽さまにあたって幸せだなあと感じる心。

 

 

花や景色など、綺麗なものを眺めて感動する気持ち。

 

 

何かを作る喜び。

 

 

人と話をする喜び。

 

 

当たり前なことなんだけど、そういう当たり前の喜びの瞬間を、そんなに価値のあるものだと思ってはいないのではなかろうか?

 

 

たしかに事業に成功したり、競い勝ち続けることの喜びも幸せだ。

 

 

しかし、だからといって当たり前な小さな喜びを集めて、幸せだって感じる瞬間を見逃してはいないだろうか。

 

 

最近、僕の中でそういった小さな喜びに対して、幸せを感じる力が鈍化しているように感じることがある。

 

 

特に鬱っぽくなったときなんてそうだね。

 

 

何に対しても無関心・無気力、ただ虚しい時間が過ぎゆくだけ。

 

 

マイナス思考。

 

 

 

 

「自殺島」の主人公セイは言う。

 

「人間以外の生き物は、ただ生きることのみで幸せを感じることができる」

「でも、人もそうなんだって思う。僕は今幸せだ」

 

「明日、大変なことが・・・この先、つらいことがあるかもしれない・・・

だけど、今は幸せだ」

 

 

そうなんだよね、今、幸せだってことを感じてひたっていることが重要なのに・・・

 

どうしても明日のことを考えて不安になっちゃうんだ。

 

だから幸せを感じ、実感しているヒマがない。

 

いや、もっとハッキリ言えば、幸せを感じることを途中でキャンセルしてしまっているんだ。

 

これはもう救いようがないくらいダメな癖だ。

 

悪癖

 

 

たとえ僕は宝くじで10億円当たったとしても、それは嬉しいんだろうけど、心のどこかでまだ不安を探そうとしているだろう。

 

そういう自分が容易に想像できる

 

もともとはこんな考え方じゃなかったはずなのに

 

最初は、不安や不幸にひたって、そこに悦を求めていた部分があった。

 

ところが、それがだんだん癖になりだして、エスカレートしていき、自分の不幸探しの名人になってしまった。

 

 

今ではその不安が新たな不安を呼び、不幸を感じる螺旋に呑み込まれて抜け出せなくなってしまうことが多い。

 

不幸ぶっていただけなのが、本当の不幸になってしまったw

 

 

「自殺島」のセイは、島で文明社会から外れ、自給自足の生活で夢中になっているうちに、「ただ生きること」に秘められた喜びを実感することになったんだと思う。

 

 

この「喜びを感じるスキル」はとても重要なものなんだと作者は述べる。

 

そして、親や教育者たちはその重要なスキルにもっと目を向けてほしいと述べている。

 

本来、人は喜びを得る能力をもっているのだからと・・・

 

 

 

 

 

ところで

 

皆さんはマズローの欲求段階というものをご存じだろうか。

  • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
  • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  • 安全の欲求 (Safety needs)
  • 生理的欲求 (Physiological needs)
 
というピラミッド状の欲求段階であり、一番下層の生理的欲求から順に満たされていかないと、上の欲求まで届かないというものだったと思う。また、下層の欲求が満たされると、自然に1つ上の欲求が起きるようになってゆくというもの。

 

今、自分がどこの欲求段階にいるか、確認してみるのも面白いと思う。

                       ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96(ウィキペディア)

 

これによると、マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、自己超越 (Self-transcendence) の段階である。 自己超越者といって、この段階にいる者は人口の2%程度だということである。仙人みたいなものなのかな?w

 

 

ここでまた話は変わるが、昔、「脳内革命」という本がベストセラーになった。

 

人の脳には「脳内モルヒネ」と呼ばれる麻薬物質のようなものが存在し、その物質は特定の時にしか放出されない、超幸せを感じる物質である、ということだったと思う、たぶんw

 

特定の時とは、何か人類的偉業を成し遂げたときとか、超慈愛の精神で満たされたときなどに放出されるらしい。

うろおぼえだが・・・

 

たしか、作者はその中で、ナイチンゲールの話を持ち出していた。

 

 

ナイチンゲールとはクリミア戦争時代にその負傷兵の看護にあたった、看護師の元祖のような存在で有名ですよね。

 

 

そのナイチンゲールの姿は、負傷兵からは女神のように見えたであろうほど、献身に看護にあたり、ボロボロに自分の身を挺して活動にあたる姿を不憫に思われさえしたのではという意見もある。

 

 

しかし、当の本人はその看護の中で、超慈愛の精神に突き動かされ、実は「脳内モルヒネ」がドバドバ状態で、いかなる何者も想像できないほどの圧倒的幸福感を感じていたのではないか、と作者は述べている。

 

 

これが本当なら、彼女こそマズローの欲求段階でいう超越者であり、彼女しか分からないような悟りの境地に至る、超幸福を体現した人ではないのだろうか。

 

 

もちろん誰もがそうなれるわけがない。

 

 

しかし、ふだんのささいな生活の中にある、幸せに目をやることくらいはできるかもしれない。

 

 

僕が敬愛するドストエフスキーも

 

1「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。」
(米川正夫訳。『悪霊』のキリーロフの言葉。第2編第1章の5。新潮文庫では、上巻のp371。)

2「人間というものは、不幸のほうだけを並べたてて、幸福のほうは数えようとしないものなんだ。ちゃんと数えてみさえすれば、だれにだって幸福が授かっていることが、すぐわかるはずなのにね。」
(『地下室の手記』より。)


 

3「人間の情け深さと人間の相互愛を確信することよりも、大きな幸福はない。これは、信仰だ。まったく一生をかけての信仰だ!この信仰よりも大きな幸福があろうか!」
(『作家の日記』より。)


 

4「幸福は快適な生活の中にはない。幸福は苦痛によってあがなわれる。人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ。しかも常に苦痛によって。」
(『罪と罰』の創作ノートより。)

「あらゆる偉大な幸福はいくらかの苦悩を内包している。というのは、それがわれわれのこころに、より高い意識を呼び起こすからである。」
(『作家の日記』より。)


 

5「幸福幸福のなかにあるのではなく、ただその獲得のなかにのみある。」
(『作家の日記』より。)


 

6「自己犠牲よりも大きな幸福はどこにもない。」
(『悪霊』より。)


 

幸福は徳行の中にこそ含まれているものである。」
(『スチェパンチコヴォ村とその住人』より。)


 

7「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。」
(『悪霊』より。)


 

8「いまのわたしにはあの人から受けるものなら、苦しみさえ幸福です。」
(『虐げられた人びと』のナターシャの言葉。)


 

9「不幸なのは心のよこしまな人間ばかりです。私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。」
(書簡より。)


 

10「よしんば(=仮に)まちがったものにせよ、美の理想をもつ者は、幸福である!」
(『未成年』より。第1部第5章の3内。新潮世界文学のp111。)


 

11「キリストさまがおっしゃっておられるのは、そんなことじゃない。『行きて、汝(なんじ)の富をわかちあたえよ、そして万人の僕(しもべ)となれ』こうおしゃっておられる。それでこそ今までよりも百万倍も豊かになるのだよ。だって人間というものは、食物や、高価な衣装や、誇りや、羨望(せんぼう)で幸福になるのではない、限りなくひろがる愛によって幸福になるからだよ。そうなれば十万や百万ぽっちの少しばかりの財産ではなく、世界中を自分のものにすることになるのだ!」
(『未成年』より。第3部第3章の2内。新潮世界文学のp464~p465。)


 

12「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
(『作家の日記』より。)
※、気になる言葉です。


 

13「それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか!なんと心は愛にわき立つものか!」
(『白夜』より。)1
14「幸福な人間はつねに善良である。」
(『未成年』より。)


 

15「家庭の幸福以上に大事なものはこの世の中にはなにひとつない。」

 

 

 

 

 

15番まであるけど、今回、僕が注目したい言葉は1番の言葉なのです。

 

 

僕も遅まきながら、喜びを感じるスキルの再習得に目を向け、得ていきたいと思う

 

 

幸せなんて、しょせん主観的なものであって、外から不幸に思われようが、それは的外れなんだから

 

 

感じる心って、もともと人に備わっているものなんだろうけど、生きていくうちに変に矯正されたり、改変されたりするし、でも逆に良い方向へ矯正・改変できるものなのかもしれないなって。なんかまるでマインドコントロールみたいだけど、そういう部分もあるのかもなって。それならば、良い方向へ修練をすることもできるはず。

 

 

 

しかし、もう一つ言えるのは、「喜びを感じる能力」は、そうそう簡単に獲得できるものではない!

 

 

だって、いくら考え方・感じ方次第で幸福になれると言っても、簡単にそう変われるものならば、世界中に3億人いると言われるうつ病患者は明日にだって激減してもいいはずだし、うつ病の薬なんていらないんだろうから!

 

 

 

つまり、だからといって簡単なことじゃない!

 

 

どうせ同じ生きていくのなら、不幸を感じながら生きてくよりも、幸福を少しでも感じていける思考で生きていけるほうが良いし、そのほうがお得なんだよな