昨日、わが人生で最も多感で素晴らしき日々をともに過ごしてきた人物と酒を酌み交わしました。

 

私の数少ない心許せる人物の1人です。

 

実に2年ぶりの再会でした。

 

 

懐かしい思い出とともに、じつに実のある時間でした。

 

むちゃくちゃ深い話も吐露しあえるし、しょうもない話も延々と話して楽しめました。

 

失ってきた大切な自分を取り戻せるかのような、我が半身を取り戻せるかのような気分になりました。

 

 

お互いに、人生いろいろあったけど、20代のあの時期ほど輝ける日々は他に無かったよなと酒がすすみました。

 

 

また何よりも嬉しいのは、彼が20代当時とほとんど変わっていないところがいいのです。

安心できるのです。

 

 

 

きっと彼はさらに有名になって巨万のお金や地位や名声を手に入れたとしても、変わらない・ブレない人なのだと思います。

 

それは共通の友人であるもう一人の彼にも言えることでしょう。

 

我ら3人はずっ友だからぁあっっ~~~~~~♪♪♪

とか親友という言葉は安直にあまり使いたくないですが、文学や音楽や人生観など、何か深い部分で共通に響く不思議なものがある、かけがえのない仲間です。てかまぁ、ぶっちゃけ親友です(照)

 

 

 

とまぁ、酒の話題の一つにあがったのが

 

「人生の中で、己の存在以上に大切で、愛せる存在を見つけること」

 

についてでした。

 

 

なぜこんな話題をしたのかというと、誰が言っていたのかは忘れてしまったのですが、1年前くらいにある人物が

 

「人生の中で、己の存在以上に大切で、愛せる存在を見つけられていないのなら、あなたはまだ人生でやり残していることがある」

 

「己の存在以上に大切な何かを見つけ出せていないのなら、あなたはまだ半人前であり満足できていない」

 

 

 

という言葉を言っていたのを思い出したからなんです(正確な文章ではないですが、こういったニュアンスだったと思います)。

 

その大切な存在とは、おそらく家族であったり、子ども、恋人、仕事、研究、何らかの活動、業績、はたまた信念とか、そういったところなのでしょうか。

 

 

 

この言葉は、私にとってとてもショックであり、無視できないものでした。

 

たしかに、私にとって親は自分の存在と比肩しても差し支えない存在ではありますが、私自身が探し出し、生み出した存在ではありません。そういったものは、おそらくまだ見つけだせていない、生み出せていない・・・・

 

この言葉はとても深いものだと思います。

 

 

 

自分の命よりも大切なもの?

世間の人の多くは、はたしてどのような答えを示すのでしょうか?

 

 

私はまだ結婚もしていないし、子どもも当然いません。

だから、いまいちピンとこない。

 

 

私が残してきた業績なんて無いに等しいから、プライドをもって言い切れるような、自分の命を上回るものなどあろうはずもありません。

 

 

世間のお金持ちは「カネだ!」とか言うのでしょうか。

 

しかし、自分の存在よりお金が大事だなんて、本末転倒で、それこそ遺産を残すための大切な人でもいない限り考えられないでしょう。

 

 

 

「己の存在以上に愛せるものを見つけ出せていないのなら、それは真の幸福とはいえない」

 

そんな感じでその論者は言っていました。

 

 

この言葉はある種、個人主義が繁栄した世界の行きつく先の落とし穴であり、盲点を示しているのかとも思えました。

 

 

でも自分よりも大切なものなんて、そうそう見つけ出せるものではないですよね

 

考えさせられるものです・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小沢健二が最近になって復活しましたね。

 

なんと初登場ランキング2位ですか?

 

これはすごいし、嬉しいですね。

 

アイドルとジャニーズに席巻されている日本のヒットチャートでまさかの出来事ですよね。

 

 

日本の音楽を諦めずに、期待をもっている人がまだこんなにいたのでしょうか。

 

おもにCDを買った人はおっちゃん、おばちゃんばかりだと思うけど。

 

今の若い人にオザケンの良さが分かるのだろうか?

 

 

オザケンといえば、90年代の音楽業界を一時期、一世を風びした人物であるが、そのかわし人によっては好き嫌いも激しいと思う。

 

 

頭でっかちで軟弱で、軽いラブソングを歌って、気取っている人物だというイメージを持っている人も多いのではなかろうか。

 

 

それもあながち否定しきれない自分がいることも心苦しい限りであるが、人とは一面からのみ見るにあらず!

 

 

彼はたしかに「持っている」のだ

 

「持っていた」なのだろうか?

 

 

彼のソロのファーストアルバムに「犬は吠えるがキャラバンは進む」(後の「Dogs」と改名)というアルバムがあるのだが、このアルバム本当にすごい!

 

 

特にきらびやかな内容のアルバムとはいえないが、それだけにシンプルにすごい!

 

目を引く脚色があるわけでなく、シンプルに楽曲が演奏され歌われている。

 

孤独でタフで神秘的な空気がアルバムを通してずっと続く。

 

作中の歌詞にある「脈を打つビート」というように、体内までしっかりと響いてくる魂の音楽。

 

 

そして音だけではなく、天才的な歌詞と融合することによって、神の域に達しているかのような仕事。

 

音楽なのに最高の純文学小説を読んだ読後感のような感覚に、精神が引き上げられる。

 

 

日本の音楽史上、こんな作品がかつてあっただろうか?

 

そう言っても大げさではないアルバムとなっているのだ。

 

 

特にアルバムの佳境といえる「天使たちのシーン」という曲。

 

これはほんまに神です。

 

 

わたくしことイサはこういう曲に出会って、最高の感覚を味わうために生きているのです。

 

考えてみるに、私の人生でこんな曲や小説に出会うこと以外に、他に高揚することがあっただろうか?

 

 

まさに芸術的興奮!

 

 

それ以外の私の人生なんて、この一瞬の高揚に比べたら、何の価値もなさないのです。

 

この高揚は特別なものなのです。

 

たえまない生活の連続に削られ、いつしかこの高揚の存在自体忘れてしまう。

 

生きる目的を見失う。

 

なんのために生きているのか、生活のために生きているのか、何が楽しいのか、わからなくなってしまう。

 

多くの人がそういう経験をしているのではないでしょうか?

 

そう、みんな忘れてしまうのです。

 

 

そしてこういった音楽に再び出会うことで、生きる活力を取り戻す。

 

熱がわいてくる。

 

生きる目的とは、この高揚を探求することにあったのだと。

 

 

 

「神さまを信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬように」

(天使たちのシーンの歌詞より)

 

 

今のオザケンがどうなのかは知らないけど、私にとっては言葉にならないものを教えてもらった人物なのです。

 

 

ぜひ歌詞を読みながら堪能すべき曲である。

 

 

天使たちのシーン

 

 

 

海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く足跡をつけてゆく
過ぎて行く夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間


真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ
駅に立つ僕や人混みの中何人か 見上げては行方を気にしている

 

いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋りだすのなら
何千回ものなだらかに過ぎた季節が 僕にとてもいとおしく思えてくる

 

愛すべき生まれて 育ってくサークル

君や僕をつないでる穏やかな 止まらない法則(ルール)

 

大きな音で降り出した夕立ちの中で 子供たちが約束を交わしてる

 

金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる
真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン遠い町の物語話してる

 

枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星が幾つでも見えるよ
宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る

 

愛すべき生まれて 育ってくサークル

君や僕をつないでる穏やかな 止まらない法則(ルール)

 

冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう
暗い道を歩く明るい光をつけよう

 

毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕は
生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払いはね上がる枝を見る

 

太陽が次第に近づいて来てる 横向いて喋りまくる僕たちとか
甲高い声で笑いはじめる彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色

 

愛すべき 生まれて 育ってくサークル
気まぐれにその大きな手で触れるよ


長い夜をつらぬき 回ってくサークル
君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則

 

涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう
凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!


月は今 明けてゆく空に消える
君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則 ずっと

 

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

 

 

 

CD原曲

 

 

 

 

このほど仕事を辞めました。

 

理由は人間関係です。

ずっと人間関係のつらさに耐えながら仕事ををしてきたものの、最後には仕事を教えてくれて信頼してた上司に、根も葉もないうわさを流され、そのことにより僕に対する周りからの人当たりが厳しくなったと同時に、精神的に病んでしまったので退職しました。

 

なぜ仲間同士でこうも陥れたりするのか理解に苦しみます。

 

 

しばらくは失業保険で食べていき、体調を元に戻していく生活になろうことと思います。

 

この機会に、今までのんでいた抗鬱薬・抗不安薬を減薬・断薬しようとはじめています。

 

仕事をしながらの断薬はかなり厳しいと思ったので、家にいる今のうちに断薬を試みるのが良いだろうとの考えからです。

 

しかし、予想以上にこの減薬・断薬は難しい・・・

 

かれこれ10数年はのみ続けている薬だけに、減薬に対する体の拒否反応が著しいのです。

 

いわゆる離脱症状というものに悩まされています。

 

 

この数日、断薬をしていたんですが、まるで車酔いをしているかのような症状、また耳鳴り、動悸、吐き気に悩まされ続けているのです。

 

またこの症状は1週間経ってもずっと続き、まともな生活ができません。

 

離脱症状がこれほど苦しいものだと再認識させられ、今はまた一定量の薬を飲むようにしています。

 

ネットで調べてみたところ、私がのんでいるベンゾジアゼピン系の薬は、特に離脱症状に気をつけねばならないらしく、場合によっては「致命的」な症状に至るということでした。

 

断薬にかけては、段階的に、数か月かけてのゆっくりとした減薬が必要だとのことでした。

私は数週間単位で断薬に至れるものと思い込んでいたのですが、認識が甘かったようです。

 

数か月単位を覚悟して、断薬までもっていきたいと思います。

 

気になるパニック障害ですが、だいぶコントロールできてきているので、薬によるコントロールの必要性が薄くなってきたものとの判断からの断薬への挑戦です。

 

パニック発作が起きても、精神的恐れや、身体的負担に耐えれる体になってきたのが大きく、このことの自信から断薬に挑戦してみようとの試みです。

 

しかし、やはり医師の指示による減薬にするべきでしたね。

私の認識の甘さを痛感しました。

 

離脱症状との闘いが当分続きそうですが、なんとか頑張っていきたいと思っています。