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モッポ大学おじさん留学記345  沖縄と東北被災地を結ぶ旅7

  岩手県宮古市・山田町へ~船上からの日の出を見る

 沖縄から帰って二日後、沖縄での素敵な体験、素晴らしい出会いと頂いたメッセージを岩手県にもって行くことにしました。もともと継続支援活動をしている宮古市崎山仮設住宅・山田町仮設住宅・障害者施設に群馬県明和町の方々から頂いた梨段ボール箱5箱届けることになっていました。

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(群馬県明和町の嶋田さんグループから沢山の梨を頂きました。)

私の車にDJで活躍している近田和生さん、それと事務局長の三人。午後7時に出発して山田町に朝の五時~6時に到着の行程、ほぼ12時間。ちょうどこの時期が秋祭でもあり、震災後の秋祭り見学も兼ねていました。


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 5時に着いて、交流のある山田町の漁師、白野さんの船に乗せてもらい、船上から日の出に輝く山田湾を見せてもらった。

山田湾は、有名なホタテ養殖カキ養殖場だったが、壊滅。それを必死に復興させる努力をしているのが若い白野さんの動きです。過酷な現実を前にしながらも未来に向かっている彼を支援したいのです。 

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左から嶋田さん・白野さん・近田さん

いつも通り笑顔で私達を迎えてくれ、さっそくまだ明けやらぬ山田湾に向かいました。

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水平線には湧き立つ雲が無数に群がり、隙間から鮮やかな茜色が見え隠れする。

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波は無く、本当に美しい山田湾の姿がそこにはありました。流された養殖いかだもかなり増えていました。しかし、種付けして間もないカキはまだ本当に小さい。成長するには、かなりの手間がかかり、成長まではまだ数年が掛る。作業の幾つかを見せてもらったが、本当に大変な労力でした。

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(養殖筏。ブイの下に数十メートルの長さでカキが吊ってある)


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 (時々上げていく)

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 (ホタテ貝の殻に小さな種がある)

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 (成長を点検・間引きのために上げる)


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雲の一部分がひと際輝いて、オレンジ色の光の筋が走り、その瞬間、きらきらと黄金に輝やく太陽の一部が見え始めました。ハッとしながら息をつめて見とれていると、するすると黄金の塊が雲の間を縫って上がり、海に光の道が出来る。

日の出の瞬間でした。地球が回っていることを体感する一瞬でした。太陽の光を受けると、夜の冷気が一気に氷解するように温かい。じっと見とれながら潮風を受けてすがすがしい気分に心が満ちていきました。




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モッポ大学おじさん留学記343  沖縄と東北被災地を結ぶ旅6 不屈の意志

  金城 実  不屈の彫刻家


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 昨日、沖縄に米軍のオスプレイが強行配備されました。本当に怒り心頭です。一体何十年、本土政府はおきなわ住民の願いを踏みにじり続けていることか!そして、一体何十年、その怒りを本土に住む私も含めて人達が他人事にしてきたことか!悲しくなります。9月6日に私は読谷村にいましたが、村の広報も、他の地域の広報も、テレビ・ラジオ・新聞も、オスプレイ反対の集会に対する報道一色でした。沖縄の全市町村議会、県議会が反対決議を上げていたからです。それほどこの問題は深刻な問題であるということで一致していました。オスプレイについての本土メディアは「新型輸送ヘリコプター」という名称で語られましたが、沖縄では、このオスプレイは単なる輸送機ではなく、「戦闘機」であることを誰もが認識していました。沖縄から飛び立って、西アジア近くまで航続でき攻撃できる戦闘機ヘリコプターなわけです。オスプレイが沖縄に配備され他国に攻撃できると言う事は同時に、沖縄がより多く攻撃される可能性が高くなると言うことを知っているからです。川崎さんが「江藤さん、沖縄に新型戦闘機や基地が強化されれば、必ず真っ先に沖縄が悲劇の地になることは、沖縄戦で誰もが経験しているのですよ!」そう、ニュースを聞きながらぽつりと語った言葉が、胸を突きました。

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 金城実氏のアトリエ

 FM読谷のインタビューを終えてから、「江藤さん、近くに金城実さんがいるんですよ、案内しましょうか?」、川崎さんが言いました。びっくりしました。金城実さんは、沖縄の彫刻家として、有名な人です。それ以上に私にはとても縁のある人だったからです。1995年の阪神淡路大震災の時に、すぐにボランティアで入ったのが西宮市立西高校。その学校に入り口に大きな「シーサー」が一対立っていました。どうしてこの高校にシーサーがあるのだろうと、いぶかって台座を見ると、このシーサーを作ったのが金城実と生徒達の作品であることがわかりました。すぐに納得しました。その当時から彫刻家金城さんのことを私は知っていました。この西高校で英語の先生をしながら制作もしていたのです。もともと西宮西高校は昼間の定時制高校という独特のものでした。ここでは、生徒たちと独特、素晴らしい教育実践が行われていたのです。

その学校が、たまたま震災の避難場所になっていて、そしてまたそこに私が偶然入りこんだと言うものでした。いまから考えると、本当に偶然のことですが、何か因縁を感じます。その後、金城さんは沖縄に戻り、読谷村で村で反戦平和の意思を鮮明に出す作品を作り続けていました。ちょうど、埼玉で言えば丸木美術館を開いて丸木夫妻の活動に似ています。金城さんは沖縄の歴史と人々の姿や願いを彫刻で具現化し常に行動の先端にいる人です。

 川崎さんの日本一周したバイクの後ろに乗って会いに行きました。20分程で家とアトリエに着きました。「金城さん!」と声を掛けると、「おーい!こっちだー!」と返事がありました。その方向に行くと、新しい木に、向かいたばこ姿の金城さんがいました。まったく気さくな、見るからに頑丈な、強い意思を持った表情の金城さんがいました。すごく迫力があります。私は直接あったのは初めてでした。いろいろ話をしてすぐに心を共有しました。金城さんの大きな作品が無造作に置かれている庭?を歩きながら作品をかんしょしました。強いインパクトがありました。今、70代前半ですが溌剌としています。このオスプレイ強行配置に対しても強く語っていましたが、そこに一つのブレがありません。私なんかは、これだけ踏みつけられたら、もう嘆いて諦めるか、逆切れするかしかないのですが、そういうものは全くありません。あるのはただただ、この島を平和の島にするまで戦い続けるのだ、それが沖縄と、本土と、アジア全体と、そして世界の平和につながるのだと言う、本当に強い精神だけでした。そう、諦めるのは簡単。嘆くのは簡単、しかし、嘆き諦めることは、不当を認めることでしかないのです。私の尊敬する沖縄人物・伊江島の阿波根 昌鴻(あはごん しょうこう)と同じものを感じます。阿波根さんは沖縄のガンジーと言われる人です。もうなくなりましたが、二度程あいました。その穏やかな表情、非暴力でアメリカ政府に戦い続けたその姿とかさなりました。「江藤さん、またおいでよ!今度は一緒に酒をのもう!」「えー、ぜひ飲みましょう!」と言って別れました。

モッポ大学おじさん留学記342  沖縄と東北被災地を結ぶ旅5

 沖縄FM読谷でON AIR! 


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 http://www.ustream.tv/recorded/25371935

  宮古島を後にして、また沖縄本島読谷村に行きました。前に話したギターを演奏をしてくれた、川崎さんの家にお邪魔することになりました。川崎さんは私と同年です。音楽の先生で、中学の校長を退職してから、バイクに乗って北海道まで一人旅をしながら、各地で人々と交流。特に東北に行った時は被災地を訪ね歩いてきた人です。川崎さんの娘さんが、かつて私の音楽仲間として埼玉で一緒に活動したとがあり、その縁でつながったわけです。すごく行動的で、同じ年だということもあり、共通したものが沢山ありました。久しぶりに川崎さんの奥さんと娘さんと一緒に美味しいお酒を飲みました。

 翌日10時に、素敵な女性が二人がやって来ました。インタビューだということでした。この読谷にFM読谷というコミュニティー放送局があり、川崎さんがそこに私を紹介してくれたのでした。川崎さん自身も、バイクで被災地に行った体験を、この放送局で話したそうです。スタッフの女性は、比嘉さんと玉木さんという元気で明るい人達でした。そこで私がやっている岩手県宮古市・山田町での災害ボランティアの活動をインタビューされました。約一時間程の番組として913日にON AIRされました。少し長いですが、聴いてくれると嬉しいです。




モッポ大学おじさん留学記341  沖縄と東北被災地を結ぶ旅4

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   宮古島-人頭石

 宮古毎日新聞のSさんが翌日宮古島を案内してくれました。宮古島の歴史の中で特筆すべきものは、何と言っても人頭石に関することです。琉球王朝時代は、沖縄は薩摩が実質的に支配していたので、薩摩に出す税と、琉球王朝に出す税で庶民は苦しみました。多くを絞り取るために、ある程度の背丈になった者を年齢などに関係なく税をかけました。所有している土地や作物の取れた量から税をとるのではなく、働けようが働けなかろうが関係なく人数分の税を取り立てると言う過酷な制度を強要しました。一つの石と背丈が同じになると税を強制しました。その石を人頭石といい、今でも宮古島に残っているのです。


  人頭税撤廃の運動

 明治政府が琉球処分という形で軍隊を動員して琉球王朝を廃止、沖縄県にしました。また、明治政府は沖縄県に対して差別的な政策をとり続けます。本土では地租改正が行われましたが、沖縄だけに、封建的なこの人頭税を継続したのです。沖縄県に本土から派遣された県知事に廃止を要求しますが、まったく駄目でした。人々は本当に苦しみ続けました。

 たまたま、新潟県出身の中村十作という人が宮古島に真珠養殖にきました。彼は、島人の姿に驚きます。新潟の小作人以下の貧しさでもがいていました。その原因が本土ではありえない、封建的な人頭税が原因であることに気付きます。それで、同じく沖縄本島からやってきていた若い城間正安(ぐすくませいあん)と協力、島人の苦しめている人頭税廃止運動を島人と一緒に展開しました。島人はどんなに弾圧されても屈することなく、中村も事業のお金を資金に、城間も家畜を売って資金にして住民を応援。中村達のアドバイスを受けて、本土の明治政府に直接訴えるために代表を派遣したのでした。激しい妨害にもめげませんでした。この辺の動きはドラマティックです。東京では、中村達を先頭に有力者に実情を訴えて、大きな成果を上げ、1895年の帝国議会に取り上げられ、1909年に悲願の人頭税撤廃を実現させたのでした。本土では1873年に地租改正なので、なんと33年も遅れていたのです。

 

 案内された人頭石は、ごつごつの岩の塊でした。しかしこの石と同じ背丈になった子どもと家族が、どれほど苦しんだのかを想像させるような醜い石塊でした。

撤廃運動が今に教えてくれるものー沖縄問題は本土問題

 この撤廃運動が私達に教えてくれるものがあります。それは、沖縄が苦しむ諸問題は、沖縄の問題ではなく、本土が沖縄に苦しみを負わしている事実です。「沖縄問題」は沖縄の問題ではなく、「本土」が沖縄に問題を押しつけている問題です。宮古に来た中村十作のように、本土の人間が理解し、本土の人間が立ちあがり解決しようとした時に、初めて「沖縄問題」が解決するということです。人頭石を見ながら、そのことを改めて思いました。

モッポ大学おじさん留学記340  沖縄と東北被災地を結ぶ旅3

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   音楽で想いを繋ぐコンサートは大成功 

 働く女性のための施設のホールでのコンサートです。5時にミュージシャンは集まりリハーサル。地元のミュージシャンであるジャズギターの下地さんは、かなり緊張していました。でも、なかなかいい感じです。そしてパーカッションの根間さんはまだ30代前後ですが、想いの深い人です。ライブしながら義捐金を集めようという活動の中心です。そしてビオラの伊藤さん。それと昼から飛び入り参加してくれた読谷村の川崎さん。なかなか個性派ぞろいですが、息はぴったりでした。練習している間に客が入り始めました。7時には、すでに一杯になりました。やく70人を越える人が集まってくれました。最初は私のほうで、スライドを使って岩手県宮古市と山田町の被災の状況の説明をしました。皆熱心に聞いてくれました。そして、宮古のミュージシャンとのセッション。最後は皆さんのリクエストを受けながら演奏と歌がホールに響いて終わりました。本当に充実した2時間でした。沖縄の宮古島と岩手県宮古市、山田町を音楽と想いで繋ぐコンサートは成功に終わりました。この様子は、奥村レモンさんの力で宮古放送のテレビで流されました。さらに翌日には、宮古毎日新聞に大きく紹介されていました。