再会
垣花さんと出合ってからほぼ二年近く立ったある秋の日の午後、大宮北高校の社会科準備室に事務室から電話がありました。「江藤先生、沖縄の垣花さんという方から電話ですよ」、すぐに電話に出ると「江藤先生ですか?恩納村で出合った垣花です」。びっくりしました。聞いたところによると、川越に仕事で来たので是非会いたくて、大宮の高校ということだったので、大宮市内の高校全てに電話して「社会科の江藤先生はいますか?」と聞いたそうです。そうして北高にたどり着いたということでした。本当に驚きましたし、嬉しかったです。その日の夜に大宮市内の沖縄料理店で再会しました。それから今までの付き合いがはじまったわけです。垣花さんの仕事は、犯罪を犯した青少年の矯正ぐあいを確認して、その後の方向を決定する仕事で、関東全域の保護施設のほとんどを担当していたようです。深い人間観察と洞察力、人生観に私はとても影響を受けました。良き酒のみ友達であり、音楽仲間でもありました。
サンゴ保全に本気に取り組む伊藤さんと、音楽仲間
那覇から飛行機で50分ほどで宮古島。宮古島では、ここでいろんな人に出合いました。垣花さんの友人である宮古毎日新聞の女性や保育・幼児教育関係者の努力で会場の用意と、新聞などでの宣伝がすでにされていました。後は、地元のジャズ愛好家のメンバーとの共演が上手く出来れば問題ありません。まずは、私の音楽の師匠でもあり、今回コンサートを宮古で開くきっかけを作ったジャズビオラの伊藤さんの家で練習するだけです。
伊藤さんの本宅は東京です。その伊藤さんがどうして宮古島に家を作っているかと言うと、宮古に来てサンゴ礁が危機的な状態であることを知り、サンゴの現状を映像で記録して保全活動をしているのです。本気さが満ち溢れた伊藤さんの部屋で、宮古島の音楽仲間と手合わせをしました。それぞれ仕事を持ちながら、音楽が好きだというそのことだけが共通している素敵なメンバーがいました。音で心を通わせるのは楽しいもの。シャイな下地さん、若い根間さんと私達はいっきに近づくことができました。
ハンセン病施設 南静園で
コンサートは9月4日夜ですが、時間があるので宮古島にあるハンセン病の施設、南静園でコンサートをすることになりました。ハンセン病の施設ではこれまでも演奏してきました。沖縄名護に愛楽園、東京多摩にある全生園、群馬県草津にある施設など。差別の中で生きて来た人々の姿には、本当に教えられることがたくさんあります。この時に、読谷村からあらゆる音楽に造詣が深い音楽仲間である川崎さんが来たので、すぐにギターをお願いして伊藤さんと三人で演奏しました。川崎さんは、中学校の校長を退職してから、オートバイで日本一周をしてきた人物です。被災地にも行って活動もしてきていました。青い海、青い空、赤瓦とシーサーが美しいこの建物の中での演奏は、本当に印象的でした。
浦和出身のアナウンサー
そこで宮古テレビのインタビューをうけました。若い女性アナウンサーの奥山レモンさんでした。宮古島では有名な人で、テレビに良く出ていました。私の住所がさいたま市であることを知ると「江藤さん、実は私は浦和出身なんですよ!」というではないですか!これには驚きました。宮古島でまさか、さいたま出身のアナウンサーに出合うなんて考えられないことです。とても驚きましたが、遠く宮古島に来て、一人で頑張っている姿をみて嬉しくなりました。
8月27日に帰国してから、もう少しで一カ月になります。ブログを更新できませんでしたが、この間、沖縄の久米島、恩納村、読谷村、宮古島に出かけてきました。そして今度は、東北の岩手県宮古市、山田町に出かけるなど、南から北と歩きまわって来ました。今、やっとひと段落しているところです。今回の長い旅も、素晴らしい人達、素晴らしい出会いが沢山ありました。幾つかを書いてみたいと思います。
久米島での日の出
沖縄と東北被災地を結ぶ旅
9月に入って沖縄の宮古島に行きました。前は船もありましたが今は飛行機でしか行くことはできません。交通手段の問題もあって、宮古島に行くことは中々できないものです。私は1968年から沖縄の石垣島を中心として八重山諸島の島々を巡っていました。宮古島は、八重山諸島からも離れているので、とうとう今まで一度も訪ねることが出来なかった島でした。今回その宮古島に初めて行きました。もちろん単なる観光目的で行ったわけではありません。
私は、東日本大震災が起きてすぐに、東北の被災地の継続的な支援活動をするあめに、「宮北会」というボランティア団体を友人達と立ちあげて現在まで活動していることは、これまでも何度かこのブログに書いてきました。被災地の拠点は岩手県宮古市の崎山仮設住宅に住む被災者と宮古市の南に位置する山田町の仮設住宅の被災者です。これまで12回にわたる活動に参加してくれた伊藤さんという音楽仲間がいます。その伊藤さんはサンゴの保護活動のために沖縄の宮古島に家を作って本格的に活動している方です。その伊藤さんの宮古島での音楽仲間達が、島でライブ活動をしながら、被災者支援の募金活動をしていて、集まった義捐金を有効に使いたいが、どこにどうしていいかわからないで困っているという話が伝わって来ました。それなら、宮古市と宮古島は、「宮古」つながりでもあるし、同じ海を生活の拠点にしている地域でもあるということで、急遽、私が被災地の報告を兼ねて、宮古島の音楽仲間とコンサートをやろうということになったわけです。沖縄の那覇から飛行機で1時間の宮古市と東北岩手県の宮古市の距離は、本当にかけ離れています。おまけに、私は韓国のモッポにいるのですから、この計画を実現するのは大変なことです。私の想いだけでは絶対にできないものでした。
不思議な出会い
宮古島の出身で、現在は沖縄県沖縄市に住んでいる垣花鷹志さんという私の音楽の友人であり、人生の師とでもいうべき方がいます。私が宮古島と宮古市をつなぐコンサートを開いたいと伝えたら、江藤さん、それは是非やりましょう。私の友人たちもきっと手伝ってくれるはず!」と力強く言ってくれました。垣花さんは宮古島でも有名な方であったし、法務省を退職後も琉球大学で心理学の講師をしていて、様々な活動をしているので、とても影響力のある方です。この垣花さんの協力がなければ、今回絶対にできなかったことでしょう。
垣花さんは現在70代始め、私とは10歳位の差があります。垣花さんとの出会いは今思い出しても感慨深いものがあります。
1998年の10月、私は修学旅行の引率で恩納村のリゾートホテルに修学旅行の引率に来ていました。大きなそのホテルには、沖縄・九州地区の保護司(犯罪を犯した未成年を指導、見守る民間協力者)が数百人集まっていました。修学旅行の最後の夜、私はかなり疲れていて、夜遅くに一人でホテルのビーチに散歩に出ました。月夜の晩で本当に美しい夜でした。すると、少しはなれたベンチの方から、ハーモニカの音色が聞こえました。その曲は「芭蕉布」という私の大好きな沖縄の歌でした。その音色の方に歩いていると、月影の中で一人の男性が吹いていました。曲が終わるとすぐに声を掛けました。「芭蕉布ですよね、その歌は!」、「そうですよ。ご存知ですか?」「エー!もちろんですよ。お願いですが、もう一度聴かせてくれませんか?」「いいですよ」と言って、もう一度演奏してくれました。波の柔らかな音と月の明り、その中に美しい芭蕉布の旋律が流れて行く。心が洗われるような想いで、しばし、聴き惚れていました。終わった時「どうもありがとうございました。おかげさまで疲れが取れました。お礼に私も一曲、パンフルートという楽器で演奏させて下さい」、そう言って私の作曲した「追憶」という曲を演奏しました。垣花さんは、保護司の大会の主催者の方でした。私も大宮北高という高校の社会科の教員だと、互いに簡単に自己紹介をして別れました。それが、二人の出合いでした。
ジョンジュの夜のマッコリを美味しく飲んだ次の日、コチャンに行くことにしました。コチャンはクァンジュ光州方面に南下した所にあります。ここも、東学農民革命では大切な場所です。ジョンボンジュンを始め中心者が早くから活動したところとして知られていました。それで、とにかく行ってみようと思ったわけです。それと、もう一つ理由がありました。コチャンには立派なお城があります。やはり、ここにも倭寇や秀吉の軍が襲いました。それに対抗するために、城が作られました。そのための石を女性達が頭に載せて運んだのだそうです。そのために女性達の髪の毛が擦り切れた程だと言う話しさえ残っていて、今は祭りとして美しいチマチョゴリの女性が頭にモノを載せて城垣を一周すると幸運になるという行事になっているほどです。
バスで向かいました。バスは古い国道や、田舎の道をたどりながら走って行きました。その道は同時に、1894年の東学農民革命の時に、呼びかけに応じて義勇農民軍がコチャンから進軍した道でもありました。曲がりくねった道、平野の道などを見ながら、当時の様子を考えていると、2時間ほどの時間もあっと言うまでした。コチャンにはもうひとつ有名なものがあります。それは、新石器時代の巨石文化の一つとして有名な支石墓が集中していることです。もう一か所のファスンという場所にも支石墓が集中していて、この二つはユネスコの世界文化遺産に登録されています。こうして、コチャンのバスターミナルに到着しました。
バスターミナルから歩いて10分もしない所に城があると言うので、相変わらずの猛暑の中を歩いて行きました。5分程で城壁が見えてきました。とても立派なものです。
そのまま進むと案内所があったので、地図と資料をもらうために入りました。中には韓国人以外のフィリピン人の女性と数人の女性がいました。韓国語の地図と日本語の地図を求めると、対応した女性がすぐに奥にいた人に声を掛けると、一人の女性が出てきて、流暢な日本で話してきました。ジョンウップの案内所にも日本人女性がいましたが、ここにもいたのです。結婚してある程度、時間が出来るようになった彼女達は、こういう所で頑張っているのですね。
彼女と話しながら、新たに発見したことがありました。実は、ジョンボンジュンはこのコチャン出身だということでした。確かにジョンウップでは生活した家がありましたが、生まれたことは書いていませんでした。話によると、最近それが学術的にも明確になり、また農民蜂起もこの地でも大きく進軍したそうです。つまり、今まではジョンウップが東学運動の中心地とされていましたが、このコチャンの動きもそれに比するほどのものであったということでした。彼女から沢山の学術関係の資料も貰いました。
城壁を一周することにしました。素晴らしい景色です。しかしこの美しい景色の裏に厳しい歴史が見え隠れする。長い時間にさらされた美しさであることを忘れてはならないのでしょう。
ジョンジュ全州・・マッコリタウン-ちょっと一息
農民軍は勢いついて全羅道の州都であったこのチョンジュに向かい、政府軍から無血開城させたことはすでに話をしました。東学農民革命の蜂起の地であるジョンウップ(井邑)市から市外バスに乗って一時間ほどでジョンジュ全州に着きました。
バスターミナルから外に出ると、本当に灼熱の暑さで、一瞬よろけるほどの日差しが照りつけてきました。宿をまだ決めてないので、荷物を置くためにとりあえず宿さがすことにしました。この街にはもう一つ高速バスターミナルがあります。どの街でもこうしたバスターミナル周辺には沢山のモーテルがあるものです。とにかく暑い中を歩いて行くとモーテル街が見えてきました。バスターミナルのすぐ傍の食堂の上に「一泊20000ウォン」という看板が目を引きました。すぐにここに決めました。この安さだとインターネットはないと思うけど、それは近くにPC房(いわゆる日本のインターネットカフェ)があるので、問題ないと判断しました。部屋に入ると予想通り。でも十分です。あまり睡眠が取れてないので、夕方までしばし寝ることにしました。
6時程に目が覚めて、街を歩くことにしました。まずは南門。ジョンジュもかつては街全体を囲む城壁がありました。しかし今はこの南門しかありません。この南門も、秀吉の侵略の時に被害を受けて再建されたもの。その後再建された門で残っているのは、この門だけになっている。ライトに照らされた門は美しかった。このジョンジュは、小西行長などの日本軍がここで戦略を練ったりした時代があり、農民軍が政府軍と画期的な和約を結んだり、様々な時代の歴史の舞台になった場所でした。そんなことを考えながら、夜のハンノクマウル(韓屋村)を歩きました。
観光客が沢山いて賑やかでした。この地域は韓国のハンノクマウル(韓屋村)といわれる中でも間違いなく一番の規模と華やかさを持っていると思います。歴史的な場所を幾つか見て回って、やはり行きたいところが一つありました。それは「マッコリタウン」です。ジョンジュは、歴史のある場所にふさわしく美味しいお酒の産地でした。町の中に「マッコリタウン」が三つありました。比較的宿に近い「マッコリタウン」を選んで行きました。有名な店は、本当に混んでいました。そこは諦めて歩いて行くと何軒かありましたが、最後の所で比較的客がいない店がありました。ここだと決めて入りました。
店の名前はチャングム。どこかで聞いたことがある名前です。中に入ると大きなポスターがありました。それはそう、日本でも人気だった「チャングムの誓い」の彼女でした。韓国でのドラマの名前は「テ・ジャングム」。その名前でした。中に入ると3グループが飲んでいました。
彼らのテーブルにあるものを注文しました。そして待つこと5分、沢山のオカズと、大きなヤカンに入ったマッコリが来ました。本当に美味しい料理とマッコリに堪能しました。
最後に、おかみさんの写真と撮らせてもらいました。全て満足したチョンジュの夜でした。きっと、無血開城した農民軍は住民たちと一緒にこのチョンジュマッコリを飲んで喜んだことでしょう。
しばらく、連載を休みました。8月の中旬から昨日まで、長い旅行をしていました。これはまた、次回に書いていきたいと思います。
鳥よ鳥よ・・・・緑豆将軍と呼ばれ、民衆から愛された男
タクシーに乗って、ここの広い平野を走る。見渡す限りの水田の中のイチョウ並木の道を走る。本当に美しい。やがて、やや小高い所で車が停まった。入り口にジョンポンジュン(全琫準)の墓とある。
平野を見下ろすとこに彼の墓があった。中央に墓があり、その隣に記念碑があった。そこの表には、彼が死んだ後に、農民から彼を思って歌われ続けた歌の歌詞があった。彼は、身体が小さく、けして格好いい男ではなかったが、強健で意思の強い男であったという。姿や行動からあだ名が「緑豆」と呼ばれていたようです。
全州和約を取り付けた後、もう闘う必要はなかった。しかし、日本は、朝鮮政府が清に援軍を要請したことを理由に、一気に朝鮮での支配権を握るために軍隊を派遣。そして宮殿に軍隊を送りこんで清日はの政権を作りあげました。こうした事態を受けて農民軍は、再度、立ち上がり進軍を開始。日本は清国と戦争を始め、軍事的優勢を確保しました。ジョンポンジュン達は、政府軍と日本軍と戦う事を決意しました。しかし、近代兵器を整備した日本軍の前に各地で壊滅していき、何部に逃げながら、農民軍を解散し、わずかな者達と身を潜めていましたが、密告により1994年12月28日彼は逮捕され1995年4月23日に処刑されました。日本軍は、各地に戻っていた農民軍参加者を徹底的に探り出し、過酷に処刑していきました。見せしめ的な処刑は1995年の1月まで続き、最後は全羅南道のチンド(珍島)で終わりました。この住民虐殺は、その後の日本支配の一つのパターンを作った感じがあります。
私は、大学から比較的近い小さな村に行った時、そこの村の広場に建てられた碑を見た時のことを忘れられません。
こんな小さな村でも参加者がいて、日本軍に処刑されたことに、改めて当時の動きのすさまじさを実感しました。
ジョンボンジュンの墓の記念碑には、全羅道で有名な童謡が彫られていました。彼のことを慕う人々が、激しい弾圧の中でも、緑豆という童謡を歌いながら、彼を誇りに思い、慕い続けたのでした。
鳥よ 鳥よ 青鳥よ
緑豆の畠に下り立つな
緑豆の花がホロホロ散れば
青餔売り婆さん泣いて行く