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モッポ大学おじさん留学記335  東学農民革命(1893~94)の道を行く8


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務安に残されている農民軍の自治組織の建物
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 二重権力状態 「執綱所」チプガンソ

 これは、良く検証しなければなりませんが、間違いなく二重権力状況が一時的であれ実行したことは間違いありません。でもこの目でそれを見たくて比較的大学から近いムーアン務安に作られた「執綱所」チプガンソを地元の研究者の案内で見てきました。韓国内で「執綱所」チプガンソの建物が現存しているのは、二か所だけだそうです。少し荒れてはいますが重厚な雰囲気のある建物が残されていました。ここで司法・行政・政策決定が行われたという歴史現場でした。「執綱所」チプガンソは、農民軍の支配力の強い所では実行されましたが、古い支配者の激しい抵抗があるところでは、機能できなかったようです。ある意味では、時代背景は違いますが、ロシア革命での「ソビエト」を彷彿させるように思われました。「全ての権力をソビエトへ!」という、あの二重権力状況の創出過程です。イメージとしてはそんな感じです。

  農民軍の全州無欠開城以後

 もう少し農民革命の展開を書いておきます。

全州和約が政府と農民軍の間で交わされた段階で、国内的には事態は一息つきます。つまり、この段階では、日本軍が鎮圧に乗り出す必要性はもう無かったということです。しかし、朝鮮での支配を目指す日本にとっては、このままではおれません。以後様々な動きが起こってきます。


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日本軍の介入


モッポ大学おじさん留学記334  東学農民革命(1893~94)の道を行く 7

黄土峴ファントジの決戦

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 なだらかな丘が両側にあり、その真ん中が低地になっている地域にタクシーが入って行きました。その真ん中に東学農民革命記念館がありそこにとまりました。ここが黄土峴ファントジの決戦の場所だということはすぐわかりました。実に闘いの場にふさわしい地形です。両軍が少し高台に陣地して、1894年5月14日の決戦を迎えたわけです。

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最初建物に一人で行くと閉まっていました。もう一度もどり運転手に話すと彼もまた建物に行って戻ってくると、どうやらそこではなく、隣の建物らしいと言うのです。車に乗り移動して、記念館に入りました。とても良い記念館です。東学農民関係の資料は、実は韓国の中にはあまりありません。むしろ、鎮圧の中心になった日本側にほとんどがあるのです。したがって、ここは数少ない資料をもとに、世界史的な背景や革命の絵などが基本にして、この農民革命の目指した内容・意義などを説明しています。これはこれで十分に理解できるものでした。それにしても、あの有名な全琫準の写真は、何度見ても心に染みいるようです。彼の無念さ、しかし、けして挫けない後悔のない厳しい顔は、歴史を貫く意思さえ感じるのです。

 農民軍が利用した井戸

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記念館を出て来るまですぐの所に、農民軍が利用した井戸がありました。ここで決戦に備えて食事や水の補給などをしたのです。そこに行くと井戸の前が老人会館で、女性達が集って花札で遊んでいました。


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花札は韓国ではトランプ以上に一般に利用されていて、絵がらも全く日本と同じだしルールも同じです。気軽に声を掛けて、写真を取っていいですか?と聞くと、こんな格好では恥ずかしいよ!と言いながらも、取らせてくれました。とても明るい女性達でした。この井戸でお握りなどを作って農民軍に渡したのは、こうした女性たちなのかもしれません。

決戦

政府が送った正規軍と取り合わせの武器をもった農民軍がぶつかったのは5月14日。

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この戦いで犠牲は出ますが農民軍が圧勝したのです。これは歴史的快挙です。この戦いの勝利はすぐに全国に知らされ、釜山から遠く北朝鮮から中国に入る地域までが一斉に立ち上がることになりました。特に全羅南道、北道からは続々と闘いに参加する農民が集まり、農民軍は茂長・霊光・咸平・羅州・務安と南下、あわてた政府は精鋭軍を繰り出し5月27日に再度決戦が行われたが、これも圧勝したのです。農民軍は全羅道の中心である全州に向かうと、政府軍は逃げだし無欠開城を実現しました。

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これに驚いた政府は、あわてて清国に助けを求めると、日本軍はこれを口実に軍を出兵することになりました。

農民軍は政府と交渉を始め、政府は妥協していわゆる「全州和約」が成立しました。これは農民軍にとっては完全な勝利です。その内容は、

・腐敗官僚の処断

・身分制度の否定

・人材登用

・土地の均等配分

などの、農民達の主張が入っています。特に歴史的に意義が大きいのは、農民軍はこの後すぐに各地域に「執綱所」チプガンソを全羅道ないに設置し、農民軍が自治権力を握り行政司法権をもって地域支配を実行したことです。ここで初めて封建社会を否定した新しい社会を目指す萌芽が現実に実行されたことです。単なる反乱ではなく、明確に新社会を目指した革命であったという所以です

モッポ大学おじさん留学記333  東学農民革命(1893~94)の道を行く 6

  農民軍の出撃

 再び、タクシーに乗って行った場所は、白服に刀な槍・竹槍などで武装し、「除暴救民」「輔国安民」の旗を掲げて一斉に攻撃した郡役場です。タクシーに乗って10分位の所に古阜コブの役所がありました。でも今は小学校の校舎とグランドだけになっていて、昔をしのばせるものはありませんでした。1894年2月15日、千人の農民軍は、ここの護衛軍を打ち破り、徴税台帳を焼き捨て、獄舎にとらわれていた農民を解放したのです。これが東学農民革命の第一歩になりました。あの悪代官はすぐに逃亡したのは言うまでもありません。農民軍は政府に対して、直ちに逃亡した趙秉甲チョ・ビョンガの郡守の役を解き、新郡守に悪政をしない約束を求めました。しかし、政府の特使が農民の処罰、財産没収を画策し始めたのです。まだ当時の政府は事態の深刻さを理解してなかったのです。これを受けて、再び農民軍が動き始めることになります。1894年全琫準を農民軍最高指揮官とし、副官を孫和中・金開南として組織を整備し、全国に政府との対決を呼び掛け、白山に陣地を築き決起したのです。地方の一民乱がこうして、反封建制度打破の革命運動の変化していきました。5月4日、古阜・泰仁の政府武器庫を襲撃し、続々と集まって来た農民達を軍として編成したのです。そして、政府軍の正規軍と決戦を迎えることになりました。

 その黄土峴ファントジの歴史的な決戦の場所に行くことにしました。

モッポ大学おじさん留学記332  東学農民革命(1893~94)の道を行く 5

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 この老人、老人とは言えないですね。髪も黒々としているし・・・・!

この方の名前はホ・トゥクチュンと言いました。ホさんと出合ったのは、「マルモク市場の柿の木」遺跡でした。

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そこは、この怨みの堰に対して蜂起した農民たちが初めて終結した場所でした。案内板の所でタクシーから降りてみると、ちょうど案内板が日陰になっているので、そこで涼んでいた二人の男の人がいました。私が案内板の写真を取っていると、一人の人が話しかけて来たのです。その方が、ホさんだったのです。

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この場所の周辺の壁やバス停留所などには、蜂起の絵などが沢山描かれていました。

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この柿の木に集合した武装農民軍は、ここからあの「悪代官」がいるコブ(古阜)の官衙に向かって進軍したのでした。2002年の台風でこの柿の木は倒れたので、この柿の木から生まれた子どもの柿の木が今は植えられ、親の柿の木は歴史の証人として資料館に展示されていました。


 こうして集まった約千人の農民軍が目指したのはもちろん、あの「悪代官」趙秉甲チョ・ビョンガがいる郡役所でした。すでに1893年末には全琫準をはじめとして蜂起の計画が立てられ、1コブ城を撃破して、チョ・ビョンガを捉える 2武器庫と火薬庫を奪う 3人民を苦しめる下級役人を懲らしめる 4全州を陥落し、ソウルに向かう。この4項目が決められていた。いよいよ、農民革命が展開していくのです。

 ここで、「東学」というのに関して簡単な説明をしておきます。「東学」は、西洋の宗教あ技術にたいして「東学」という名前で呼ばれます。この創始者は崔済愚という人物で1824年に生まれ1864年に逮捕さらし首になっています。彼は、人が天であるという思想を建て、そこには身分や性別の差別はないとした。身分制と腐敗官僚の搾取に苦しんでいた農民たちは、この思想に大きな影響をうけたのでした。コブで農民軍が蜂起する前から、韓国全土で農民たちの反乱が起きていて民乱と呼ばれていました。この民乱の中に多くの東学教徒がいたわけです。それで朝鮮政府は、東学の弾圧をするわけですが、帰って全国にいた東学の信徒達が一斉に闘争に関わることになったわけで、その過程でジョンポンジュン(全琫準)が総大将となり明確な革命運動になって行きました。日本側は、この東学を無知蒙昧な宗教団体と歪曲することで、弾圧の正当性を主張しようとしました。しかし、この東学農民革命はそんなものではなく、反封建、自由平等の精神の具現を自ら獲得し、さらには自治政府も構想し現実化しています。けして単なる「乱」ではなかったわけです。かれらの初期のスローガンは「除暴救民」「輔国安民」で、日本・神が鎮圧を目的に軍隊を出し始めた段階から外国勢力打破のスローガンも出てきました。これは、20世紀にはじまる帝国主義への闘いの第一歩だったわけです。

モッポ大学おじさん留学記331東学農民革命(1893~94)の道を行く 4


   「悪徳代官」の典型が作った怨みのマンソクポ(万石堰)

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 1892年5月にこの地域の郡守(地方長官―代官)になった趙秉甲チョ・ビョンガは、ちょうど日本の水戸黄門にでてくるような悪代官の典型のような人物で、私利私欲を肥やすために、もともとあった川から田に水を引く堰を壊し、地元の農民を強制動員して新しい堰をつくったのです。そしてその堰からの水を使うしかない農民に今度は「水税」という名前の税を作り多くの米を搾取したわけです。これは本当にあくどいやり方です。当時の封建制社会末期の中でこうした支配者による農民搾取が公然と行われていたわけです。これに対して農民は黙っておられず、怒りの蜂起をおこしたのです。これが農民革命の引き金になりました。

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 本当に広いベドル平野です。地元の老人に案内されて、その怨みの堰に立って見ると、今はただ、そこに堰があったという記念碑だけがありました。

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広い平野と川をさしながら、この地域の農民たちがいかにこの不当な堰のために苦しんだかを、自分のことのように話してくれました。私は、その姿を見ながら、思いだしたものがありました。

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それは、1975年の12月25日、1人で足尾鉱毒事件の現場を朝から現地調査をしていて、夕日で空が赤くそまり、その向こうに富士山がくっくりと姿をきらめかせていた頃に、渡良瀬川遊水地に着きました。今のような公園になっていない葦原でした。偶然出会った地元の人が堤の上から水没させられた旧谷中村の場所を教えてくれながら、「まだ、役人は俺達に、だまってごそごそと企んでおる!」と厳しく言い放ったのです。あの老人は自分が子どもだったころの記憶として、足尾鉱毒の農民被害者が、訴えに立ちあがったことで有名な、川俣事件のことも話してくれました。今考えると、歴史現場に直接行くことの大切さを教えてくれた人だったような気がします。あの老人の名前も書くことなく終わってしまったことが後悔されます。福岡出身の私は水俣病問題を調べていました。1970年に東大で行われていた「公害原論」という自主講座で、公害問題の最初の顛末記である「谷中村滅亡記」を書いた荒畑寒村に出合い話を聞いて感銘しました。いつかは自分で調べたいと思っていたので、たまたま埼玉県に就職したことから、行くことになったのでした。