柏木むつきです。
(YOUKYOUカフェに込めた想いはこちらです)
10月になりました…!
ということに気づいたのが今日です(笑)
(「YOUKYOUカフェ、開催予定ありますか?」
というご質問もいただいているのですが、現時点で土日もたいがい仕事が入っている状況です。
といって平日はフルタイムで働いているため…皆さんもそうですしね💦
オンラインで夜にYOUKYOUプライベートカフェが今は限度といった状況です…。)
前回の記事の続きにもなるかもですが…
10月に入り、多くの自治体で教員採用試験の2次試験の結果も発表されています。
つまり、来年度の自分の「道」がある程度確定するということ。
私も仕事上、「合格した」「不合格だった」
という生の声を複数聴いています。
私は(あくまで個人的な考えです)どうしても、
「合格した」に対して「おめでとう!」
という声をかけることができません。
それは決してひねくれているわけではなくて、
「合格した=おめでとう」
「不合格だった=残念だね(とも言いませんが)」
という「図式」になってしまうのが苦手だからです。
もちろん、合格したということは、
これまでの頑張りが認められたということだし、
嬉しいことに変わりはないのだから「おめでとう」というのは
当たり前のことだろうとは思います。
それでも、その「対極」にある(ように一見思える)
「不合格だった」は、
決して「頑張り」が足りなかったのでも、
「残念だった」ことでもない、と私は思います。
今はその「タイミング」ではない、ということです
(もちろん、「テキトー」に受けただけの場合もあるので一概には言えませんが、
少なくとも私の周りで「テキトー」に受けた人はいないから)。
「合格」してもその現状にあぐらをかいて、
その後の「自己研鑽」に励まなければ意味はないし、
「自己研鑽」と「自己犠牲」のバランスを間違えてしまって、
体調を崩してしまっては水の泡だし。
「不合格」でもそれをバネに自分の課題と向き合い、
来年度もっともっと自信をもって試験に挑めるのであれば、
この経験も決して無駄になりません。
それから…やっぱり「タイミング」はあると思います。
それは目の前の「合格/不合格」という単純な図式では分からないくらい、
長い長い人生においての「タイミング」という意味です。
あくまで個人的な経験にはなってしまいますが、
私自身、一度採用試験に落ちたからこそ出会えた人、学び、経験が山のようにあります。
正直今の自分がいるためには、あの時不合格でなければならなかった、とさえ思います。
落ちてしばらくして
「あぁ、不合格の意味はこれだったのか」
とも当然ながら思いましたが、
落ちてから15年ほど経て、
「「不合格」から続いた道はこんな風に拓けていくのか」
と実感していることもあります。
むしろそちらの方が大きいです。
こういうことを考えてしまうから、
私は「合格した」にも「不合格だった」にも、
ひとまずは「おつかれさまでしたね。頑張りました。」
という声かけをしています。
そしてそこから生まれる「対話」の方に重きを置いています。
そこにその人の「想い」があるだろうから。
もし、この記事を読んでいる方で、
現時点で「不合格だった」ことに対してマイナスな感情をお持ちの方がいれば、
まずは「おつかれさま、頑張ったよ」と自分を労ってほしいです^^
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