しばらくご無沙汰してました。久しぶりの更新です。どうぞよろしくお願いします。

 

円安が続いて、海外で働いた方がお金になると、オーストラリアにワーホリへ行って、「月50万稼ぎました」などの報道を見た。そうしたら今度は、「オーストラリアに行っても仕事がない。1人の募集に50人の日本人が応募する。ホームレスへの炊き出しに並ぶ人の3割は日本人」とのことで、いったいどうなっているのやら、ではある。

 

人手不足、売り手市場の日本とは正反対である。

 

僕の若いときはワーキングホリデーは、オーストラリア、ニュージーランド、カナダだけだったが、今や行ける国は20か国以上。それでもワーホリ全員の半分がオーストラリアへ行くというから、すごい。

 

ビザ代も値上がりし、僕の時は1万なんぼだったはずが、今やビザだけで7万もとるというから、驚きである。いい商売だ。

 

僕がオーストラリアを回っていた時、20年前はオーストラリアドルは1ドル60円前後、今は110円前後と、2倍近いの開きがある。それにオーストラリアは毎年物価が上がるから、物価が上がらない日本と比べると、オーストラリアの物価や給料は2倍強になっているはずである。

 

当時の日本の時給は1時間900円ぐらい。オーストラリアの給料は日本人の半分くらいかな??と思っていた記憶がある。だから、多くのワーホリの人は、日本でお金を貯めて、オーストラリアへ渡った。いい経験になって、小遣い程度稼げればいいのである。

 

日本人相手のお土産屋、食堂でも求人を見かけることは多かった。日本円が強く、日本人旅行者も多かったから日本人労働者も必要なのだ。ところが、この円安ではそうそう日本人旅行者など、オーストラリアにいないのではないか、と思う。

 

となると、日本人の強みの「日本語が喋れる」というのをオーストラリアで生かせない。単純な労働力として、世界各国の人たちと、勝負しなくてはいけない。

 

語学力で彼らにかないそうもないから、これでは移民どころでなくて、難民並みの地位に日本人が転落である。移民は、なにか特定の技能やコネがあって、というイメージである。

 

ああ、おそろしい。ヨーロッパやアメリカにいる、南米やアフリカからの難民と同じくなってしまう。たこ部屋で暮らし、観光地へ行って、芝生にゴザ敷いて、いくら売れるかわからないお土産を売るのである。

 

これでは、ワーホリで、忘れられないいい経験をしたいどころの話ではない。高給を取れると思って渡ったら、ひどい暮らし、である。昔のゴールドラッシュに似てるかもしれない。金が出るといわれて行ったら、もう遅くて何も出なかった、というわけ。

 

円安、円高、どちらがいいのかわからない。どちらにもいい点悪い点がある。いい話だけってないなぁ、と思うのである。

 

円安で、外国人にとって安くなった日本。マスコミレベルでなくても、オンラインで一般人レベルに聞いても、韓国人も「日本は安くてたまらない」、フィリピン人も「日本はフィリピンよりちょっと安いかな??」と言ってみたりと、なっている。

 

これをひっくり返してみれば、日本人が外国へ行ったら、「韓国は高くてたまらない」となったりするはずである。それに物価レベルは、所得水準と紙一重のものだ。韓国はともかく、フィリピンとも所得が一緒??となると正直、えっと思ってしまうのである。でも、これは実際どうなのだろうと思う。

 

たぶん、国のレベルで見れば、フィリピンと日本は大きな差があるとは思う。僕の興味のある、交通関係で言えば、日本の鉄道やバスは、とてもきれいで、整然としており、正確だ。施設を作ったとしても、維持していくのは並大抵ではないと思う。これはフィリピンレベルではないと思う。

 

韓国や台湾へ、この円安になってから行っても「高くてしょうがない」と思ったことはない。日本と同じか、ちょっと安いかな??と感じるレベルのものだ。

 

円安になる前でも、カンボジアのような国でさえ、イオンのような日本と同じようなエアコン完備のショッピングモールへ行ってみると、売っているものの値段は日本と同じか、高かった。

 

それは多くは輸入物だから、かえって関税や輸送費がかかって高くなるし、ショッピングモールの維持コストは人件費以外は大して変わらない。利用する人は比較的上の階級の人だから、収入もそこそこだし、利用する人数が少ないから、その少ない人数で施設費を負担するから高くなるんじゃないかと思う。

 

マックにしても、どんな低所得の国へ行っても、値段は日本と同じか高かった。これも理由は前と同じだ。

 

そして、カンボジアより国力のあるタイへ行くと、旅行者にとってもっと物価の安い国だった。一般の人たちも、いろんなもの、サービスにアクセスできるから、その分普遍的になって安くなる。

 

カンボジアのような国の一般庶民が利用するものは、先進国から来た人にとっては、勇気のある人しか利用できないものとなる。ミャンマーの一般人食堂は、「ええ、これはちょっと、、、」というような食べ物、雰囲気だった。

 

たぶん海外旅行者にとっても、物価の安い国、というのはそれだけ、旅行者、日常生活者、どの人にとってもある程度暮らしやすい国になってきているのか、とも思う。

 

 

学生のころ、ローカル線や自転車で、日本の地方をくまなくまわった。その時、列車の中や銭湯などで、地元の人同士が話す言葉が全く聞き取れない、という経験をいっぱいした。

 

これは方言だから、なのだけれど、今そんな「ああ、何言っているんだかわからない」という感覚を持ったことがもうずいぶん久しくない。若い時ほど、ディープに地方を旅してない、ということもあるんだろうけれど、どうなんだろうか??

 

宮城県出身の妻に聞いてみても、まさに同意見だそうだ。宮城県もかつてはかなりひどい訛りだったそうだ。自分たちのおばあちゃんおじいちゃん世代がそれにあたる。今生きていれば100歳前後となるだろう。ひどい訛りで、標準語への翻訳も本人たちはできない。

 

そして次の自分の親世代、80歳前後の人たちは、訛りはあるが標準語がかなり混じっているのだそうだ。本人たちの標準語への翻訳もできる。

 

自分たち50歳前後の世代は、ほとんどが標準語になってきているそうだ。そうしたら、その下の世代はだいたい標準語になってしまう。

 

地方都市が急速に東京と同じくなっていったのも、30年くらい前かな。ヨドバシカメラのようなお店は東京にしかなかったのに、地方にどんどん進出していった。

 

それはそれで差がなくなったことで喜ばしいけれど、どこ行っても同じ、という感覚も強くなってくる。

 

世界では、圧倒的優位な(英語のような)言語に地方古来の言語が飲み込まれて、消えていく、というのがあるが、日本国内でも方言が標準語に飲み込まれていく、というのがあるかもしれない。

 

この方言や、お店の違いを見て、「ああ、ずいぶん遠くへきたもんだ」と旅情に浸ったものだけれど、その遠くへきた、と感じるためには別の視点が必要かもしれない。

 

 

というわけで、前回は天才の人とオンラインレッスンをしたことを書いた。じゃあ、そもそもなんでそんな人がオンライン英会話で教えているのか??という疑問につきあたる。

 

でも、彼だけじゃなくて、それは常々感じていたことだ。先進国じゃないコースの講師の給料はおそらく30分で2ドルくらい。先進国コースの人は30分で6ドルである。この程度の給料で働くのか??

 

例えば、日本人と結婚した、フィリピン人女性。日本とフィリピンを行ったり来たり。高いアメリカへ留学経験のあるエジプト人。

 

先進国コースでも同様だ。ニューヨークに住んでるアメリカ人。マーケティング関係の仕事をして空き時間にやる韓国人、などなど。

 

ほかにもっといい仕事あるだろうに、とは思う。

 

結構な部分の人が、趣味、あるいはストレス解消でやっているのか、と思うし、実際そう答える人もいた。仕事(お金をもらって)をしてストレス解消??

 

では、一体このオンライン講師のどういった点が、この「ストレス解消できる仕事」となりうる条件を持っているのか??と考えてみる。

 

まずは、自分の得意分野を教えれる、ということか。アメリカ人やイギリス人ならもちろん、韓国人や台湾人などにとっても、先生のほうが圧倒的に知識がある。これを伝授するのが楽しいんだろう。これは同じく収入度外視の野球などのスポーツコーチにも言えると思う。相手ができるようになって喜ぶ姿がうれしい。

 

次にフレキシブルさである。働く場所はもちろん、好きな時に好きなだけコマを出せばいい。同じ教えるといっても、学校や塾の先生も同じ教えるだけど、拘束時間が自分の思い通りにならない。それにやらなきゃいけない時間もたんまりある。

 

雇う側も、きちんとこの日に来てほしい、こうしてほしいという要求が多い。これであれば、きちんとした給料を払わないとやる人がなかなか見つからない。

 

生徒も多彩らしい。ほとんどは日本人だけれど、子供からビジネスマン、果ては100歳近いおじいさんでさえいるらしい。これはおもしろいかもしれない。講師も国籍、元の職業、年齢も様々だ。

 

本来ならボランティアでもいいけれど、その上に謝礼も少しばかりだがもらえる。

 

真剣にしている人は、あまり仕事のない南アフリカのような国や、先進国コースの給料で、物価の安い国に住む人だけにも見受けられる。

 

こんな働く側のニーズをつかんでオンラインで全世界をつないじゃおう、なんて頭がいいんだ、と思う。

 

 

なんだかすごい人と英会話オンラインレッスンをしてしまった。そんなことってある??ということだらけ、本当だったらものすごいことだ。

 

すごいことはあらかじめ知っていた。DMMの公式ホームページコラムに講師代表として出ていたからだ。この方は全盲の30歳代セルビア人男性だが、イタリアやフランス語などヨーロッパ言語ではあるが10か国語を話す。セルビアに住みながら、アメリカ政府のIT関連の仕事をオンラインでしているらしい。

 

ところが話をすると、なかなかびっくりだ。1日の平均睡眠時間は30分ほどで大丈夫だという。そんなことあるんかいな??つい最近は3日間寝てなくて、その前は2時間だけ寝たのだという。

 

忙しくて寝る暇もないというのとはわけが違う。こうやってオンライン講師やってるぐらいだから、そんなわけはない。子供のころからそうだったという。

 

寝る楽しみがないというのも残念ではあるけれど、寝ないでいいというのは時間がたっぷりあってうらやましいことだ。

 

この方、30年ぐらいアメリカで生まれ育ったとのこと。こんな子、日本にいるのかな??そうしたら異常児として扱われそうだ。幼稚園でも昼寝しなさいだったからねぇ。

 

そしてもう1点。国籍はアメリカと両親のいるセルビアの2つを持っているとのこと。このDMMでは国籍によって、料金の違うコースが分かれ、講師の給料も違う。

 

アメリカ国籍で登録すれば、先進国コース。セルビア国籍の3倍もらえる。ところが登録はセルビア国籍。

 

なんでわざわざ安い給料のほうを選ぶのか??というと、「生徒の授業料も3倍になってしまう。それではいろいろな人を助けられない」とのこと。

 

10か国語じゃべれるのも、これらの国の人たちを助けられるように、だとのこと。

 

寝る時間といい、安い給料のほうを選ぶことといい、信じられないことだらけ。それか自分の視野がものすごく狭く「人間は1日〇時間寝る時間が必要だ」だの「同じ仕事で安く働く人はいない」だの思っているだけかもしれない。

 

日本人に対しても、英語で日本の歴史を教えているのだという。例えば鎌倉幕府だとか。「ホウジョウマサコ」が、などと言い出して、???である。

 

とにかくこの人は天才なのだろう。狐につままれた思いもしながら、レッスンを終えた。

人間の性質なんて、どこも同じだろう、だから全世界にあるだろう、と思っていた「引きこもり」。これは、どうやら日本が発祥らしい。そして、日本でしかなかなか見られないらしい。外国人がそんな人がいるのか、とびっくりしていた。

 

家や、自室から出ないという状態で、孤独ともまた違うとは思う。英語でも「hikikomori」とあるぐらいだから、あながち嘘でもなさそうだ。

 

最近は全世界で見られるらしい。今やインターネットの発達で、部屋から出ずして、買い物もできれば、お金まで稼げてしまう時代である。しかし、日本のひきこもりはそんなインターネットが発達する前から存在していた。

 

なんでそんなことになったのか??ちょっと考えてみた。

 

僕の感覚だが、日本は会社勤めの人が多いから、というのが一つあるかと思う。もし、自分の家がお店だったり、農家だったり、家族内で誰かが、フリーランスなどをしていれば、その仕事をちょっと手伝うことができる。例えば、段ボール1つを運んだだけでも、仕事をしていることになる。そうしたら、解釈上、ひきこもりではない。ただの怠けものである。

 

しかし、会社勤めの場合、勤めている人以外に仕事を頼むことは一切ないし、できない。たとえ自分より、それがうまくできたとしても、とても簡単だったとしてもだ。だから会社員以外の人は、学生、主婦でもなければ、自動的にニート、引きこもり扱いになってしまう。

 

ではなぜ会社勤めが多いか、というのだが、安定志向や、会社員化推進のために、社会保障制度が会社員有利にできている(税金面では不利だが)という点がある。日本では仕事内容よりも「どこの会社に勤めている」というのがステータスを表す指標の一つになっていること、「正規職員」「非正規職員」への意識の違いに見られる「正規職員」への志向の強さから、「会社勤めがいいという信仰」からきているのか、とも思う。

 

バブル時代、世界第1位の経済大国になった。そして、その後就職氷河期で、転落していく。この中で、引きこもり化した人もいただろう。不況は多くの国が経験することだけれど、日本には世界1位になる仕事があって、その仕事が突然なくなった。世界1位になった国はプライドが高い。なんでも仕事を選ばず、などできるわけもなく、自信も失って、行き場も失って、引きこもりっていうのもあるのかなぁ。

 

世界1位だった時に学生時代だった人は、将来に対して違う像を描いていたのかもしれない。

 

韓国も会社勤めへの意識に関しては、日本と似ているかもしれないけれど、世界1位になったことはない。

 

こんな日本特異の事情から、引きこもり元祖になってしまったのか、ともちょっと思ってしまうのだ。

 

 

相変わらず、オンライン英会話をやっているのだが、そのパキスタン人の先生との会話である。

 

「このゴールデンウィークはどこかへ行ったのか」と聞かれて、「いや、どこも行かない。どこへ行っても人は多いし、高いし」と半分は決まり文句、半分は本当に思っている答えで返した。

 

すると彼は、「生徒(ほとんど日本人)の99%は同じことを言うけれど、ならば一体何でゴールデンウィークはどこも混んでいるのか??いったい誰がでかけているのか??」と言われた。はた、と思う。誰だろう??

 

そもそも、GWにオンライン英会話をやっているような人だから、99%がそう(GWにはどこも行かない)であって、全体がそうであるとは限らない。でも不思議ではある。

 

これは昔から持っている固定観念、決まり文句で実際は違うのだろうか??

 

道路、鉄道、航空や旅館、観光施設のキャパは限られている。どんな大移動が起こったって、たかが知れてるというものだ。普段の週末だってたいそうな混雑になる。

 

たしかに、新宿などGWよりは普通の週末の方が人が多い感じがする。

 

こんな決まり文句で思い出すのがもう一つある。

 

「終身雇用、年功序列はもうなくなった。今の若い人はそんな考えを持っている人は多くない。」

 

これは30年前の自分が若いころも全く同じことが言われていた。もし30年前これが本当だったとしたら、今はもうとっくに終身雇用なんてとっくになくなって、死語になっているはず。それなのにまだまだ終身雇用は残っていて、まだ同じ言葉が言われている。

 

ひょっとすると60年前にも同じ言葉が言われていたのかもしれない。

 

そうすると、これらの言葉の中に真実もある程度は混じっているけれど、そうでもないのも結構混じっていて、話半分にとらえる、というのがいいのかもしれない。

 

人生、そううまくは運ばないのだけれど、数年のスパンで考えれば、今はお金の稼ぎ時だなぁ、とつくづく感じる。お金を使うよりは、稼ぐ方が有利、というか楽だ。

 

物価も上がるけど、給料も上がる。物価があがる、ということはモノを高くしてもまぁまぁ売れるということ。人手不足だから、簡単に仕事も見つかるし、人手を集めるために、給料も上がる。あまりこき使うと辞めてしまうから、それもできない。

 

円安だから、外国人も日本へいっぱい来て、あまり考えずにお金を使う。輸出も同じだろう。その代わり、日本人が外国へ行ったら、高くて買えない。国内も値段が上がる。お金の使い時ではない、稼いだ方が楽である。「今はお金の稼ぎ時だよなあぁ」。働き手不足である。

 

30年前、僕が20代の時に思っていたことと逆だ。この時僕は「今はお金の使い時だよなぁ」と思っていた。買い手不足だった。

 

当時はとても不景気。給料も大したことなく、無名の会社でも就職が大変。就職しても、リストラされないか心配。お前などいなくたって、代わりなどいくらでもいる、という感じでこき使われる。お金を稼ぐのがとても大変。

 

物が売れないからどんどん安くなる。安くしても売れない。牛丼が280円の時代だ。そして1ドル80円の時代。どこの国へ行っても、日本より安い。国内も海外もお金の使い時である。

 

外国人旅行者なんて日本には高いから来ない。そして、日本人旅行者は、国内旅行が高いとなって、海外へ出ていく。ますます国内がさびる。輸出も国内で作ると高いから、海外へどんどん工場を移転させる。仕事がどんどんなくなっていく。

 

例えば営業で100の件数を月にとって来るのなら、今の方が、30年前よりはるかに簡単そうだ。

 

政府が円安に対して手を打ってなさそうに見えるもの、日本は相当儲かっているのかもしれない。あまりそれを言うと、叩かれちゃうから、言わないのかな??とも思う。

 

人生のステージでそうそう、使い時と稼ぎ時、ぴったり合わないので、だからなんだ、という話でもあるのだが、このひどい円安と、外国人の多さで、そんなことを考えてみたのだった。

こうして、コロナ以来、4年ぶりの帰省をした。その間に、気仙沼や陸前高田などを見て回ったのだが、この4年の間にまた随分変わった。

 

だいたい、大都市以外は、どこへ行っても10年早々ではそんなに変わらない。30年経っても変わらないのだが、ここは次々と新しいものができている。

 

まずは立派な大きな橋が気仙沼湾に掛かった。フェリーで30分ほどの距離にあった大島にも橋が架かった。

 

何十年も請願しててもできなかったそうだが、震災があってすぐにできた。大きな堤防も、作りかけだったものが、今や立派に完成した。どんな小さなところにもだいたいできている。

 

気仙沼は比較的地形に凸凹が多くて、津波を免れたところも多かった。陸前高田は平地が市街地で、多くをやられてしまった。ここもかさ上げして、住宅地ができている。

 

「全部の住宅地をかさあげする」と言っていた時は、「そんなこと本当にできるのかな??」といぶかしんでいたけど、できている。そして整地も完成している。

 

ただ、ちょっと前よりは家が少ないかな??と感じる。人口推移は、震災前は25000人だったのが今では17000人である。

 

10年ちょいと言えば、短いといえば短い。この間によくここまでやったと思う。遺物はところどころに残っているけれど、津波があったことを知らなけば、そのまま通り過ぎてしまうぐらいに町の様子が変わった。

 

日本も捨てたものではないと思った。

結局今回の春休みは、コロナ以来、3年ぶりとなる、妻の実家の宮城県気仙沼へ4日間、車で帰省した。

 

僕たちが50歳であるならば、妻の両親も高齢で、80歳近い。そうなると、実家に長くお邪魔するのも負担である。このため、中日1日、岩手県のどこかへ、というわけで、宿が安く取れた、岩手県北上泊まりとし、実家帰省プラス小旅行ではある。

 

3月の平日。北上や盛岡は岩手県の中でも、安い宿の豊富なところで何回か泊ったことがあるが、今回は、なかなかみつからなかった。結局1部屋4人で1万4千円の、研修施設のようなことろに泊まった。

 

宿代は、円安になったとはいえ、日本がまだまだ高い部分だと思う。首都以外で泊っても最安1万を越えてしまう。これは韓国プサンのホテルの倍額、台湾の台南の3倍だ。

 

盛岡はアメリカのニューヨークタイムズとやらに「2023年に一度は行くべきところの52か所」のうちに選ばれたらしい。そうなの??という感じである。

 

この1年でぐっと物価が上がった感じだ。以前はソフトクリームが300円だったのが、今はどこも400円である。自国で、同じレベルの給料をもらっている人が働いて、作っているのだから、外国と違って、「これは安い!」と思うものがないのは仕方がないことだとは思う。

 

北上でしたことは、と言えば、宮沢賢治とわんこそばである。宮沢賢治の天才っぷりもすごいのだが難しくてよくわからない。満州事変やらいろんな歴史用語が出てきて、おぼろげの知識しかないから、理解できなくてとても残念だ。まずは日本史の学びなおしをしなくてはいけない。

 

そしてわんこそばである。かの有名なもので、隣に立ったお店の人から2口サイズのそばをお椀に入れられる。それを食べたら次のソバが入れられ、食べて、を繰り返して、何杯食べれるか、という、グルメというよりはゲームのような食べ方である。10杯で普通のかけそば1杯分。普通は女性は20杯、男性は30杯食べるという。

 

さすがに僕はそんな食べ方はしたくなく、体にも悪そう。ただ、子供の頃、盛岡で一度経験したことがあって、写真もないのにいまだに覚えているから、体験の価値は高いと思う。ただ、人生1回でいい。だから、子供が挑戦した。

 

本場盛岡は、宿のある北上から少々遠い。近い花巻にも3軒ほど、わんこそばをやっているお店があった。適当にピックアップして、前日には予約を入れる。

 

当日行ってみれば、もうわんこそばの受付は終了。張り紙には「人手不足により、週もう1日定休日を増やし、、、」とある。

 

想像の通り、わんこそばは人手がかかる食べ物だ。実際に食べる時間は正味10分ほど。しかし、お客のお椀にそばを投げ込む人のほかに、この投げ込む人にそばのお椀が入ったものを渡す人が必要だ。お客はすべて日本人だが、引きも切らない様子で、にぎわっている。

 

値段も1人3500円でなかなかのものでもある。結局中1の長女は20杯、高1の長男は35杯で平均通りだ。

 

どうしてこんなに人手不足、特に観光分野で人手不足になっているのだろう。コロナで人減らしした上に、人は戻ってこず、外国人旅行者まで来てしまって、ホテルも食堂もお土産屋もてんてこまい。

 

物価も上がり、給料も上がり、人手不足でというとこれを「景気がいい」と呼ばずして何と呼ぶのだろう??お隣の韓国や台湾はこんな感じではないから、なぜ日本だけが??と思う。

 

お客よりも(まともな)従業員が来てくれる方がうれしい、というような場面をそこここで見かける。ただ、日本は少々お客を大事にしすぎな傾向がある。従業員の方が事業存続のためにお客よりも大事なのかもしれないから、正常な姿になってきたのかもしれない。