僕は、お酒を飲まない方である。お酒の付き合いに対して、かなり厳しい、偏った見方をしてはいると思う。お酒が好きな人は、また僕の知らない素敵な見方をしていると思うし、それは素晴らしいとは思う。なので、お酒が好きな方はこの項は飛ばして頂ければ、と思う。

 

例えば、目の前に知っている人がいる。この人とコーヒー飲みに30分行けるかとなると、10人中9人以上の相手は、なかなか厳しい、話題が持たないと思う。しかし、お酒が入れば2時間ぐらいなら、なんとか場が持つと思う。

 

このように、お酒は魔法だと思う。人間関係の潤滑油と呼ばれるのもこのためだと思う。誰とでも行ける。心のガードを崩してくれる。

 

しかしながら、結局は誰とでも行けるのである。本当に誰とでも。なので、これを逆説的に言えば、お酒が入らないと続かない人間関係自体に多くの意味はないと思う。すぐに代替可能だからだ。

 

これはどちらかというと仲間だと言える。酒飲む時だけ自由時間に関わる人。シラフの時は、仕事場など強制的に一緒にいる場面のみとなる。自由時間に酒なしだと、なんとなく気まずい感じとなる。

 

現実世界はどちらにあるかというと、多分酒が入っていない状態が現実となる。現実世界の自由時間に関われない人という事もできる。

 

本来、友人関係とは、ある程度の自然体、自分の素の姿を受け入れてくれる相手と築くものである。先に、お酒はガードを低くする、と書いたが、お酒がないとガードが低くならない、というのは、その時点で、友人関係と言えなそう。

 

そして、お酒の席は、側から見ると、とても盛り上がっているようには見えるが、実はそうではない。お酒が入ると声が大きくなり、そのように見える。居酒屋など特にうるさいから、そうせざるを得ない。

 

しかし、お互いの話をよく聞いていず、ただ言いっぱなし、相手が自分のことを聞いていないことを気づいていないことから来る、見せかけの盛り上がりのことも多い。

 

この見た目と実態のギャップは、大学生のサークルなどの集団のようなものである。見た目は、男女数名グループがワイワイやって楽しそうに見える。しかし、実際本人たちは、合わせて笑ったり、聞いてるふりして別のこと考えていたり、早く帰りたいなあと思っていたりするのだ。

 

大学生になったら、あんな風にサークルで楽しんで、とかいう話を聞くと、ああ、あれって見た目ほどそう楽しくないんだよね、という答えをついしてしまう。

 

飲みの席もそんな感じだ。盛り上がっているようで、ただ自分が大声で話して、相手のことを聞いていないだけのことも多いのである。

 

大人になったら、友人ができにくくなる一因としてすぐに人間関係にお酒を入れてしまう、というのもあるのではないか、と思う。アルコール中毒でもないのに、酒場へ直行という思想はどうなのか、と思う。

 

アルコールを入れることによって、育てたい人間関係も、無理やり酒でガードを外したことにより、一般以上に関係が育たなくなる、というのがあるんじゃないか、と思う。

 

お酒がなくてもいい出来上がった関係なら、多少のお酒をたまに入れるのはいいと思う。それに育てる気のない人間関係も酒を入れてしまえ。どうせ、みんな同じだ。

 

でも、育てたい人間関係なら、なるべくお酒は入れない方がいいと思う。そうしたら、とても貴重な人間関係になっていきそうだと思う。

 

なぜなら、そうそう酒なしで会える人など、お酒の飲めない僕にでも現れないのだから。

タメ口だと相手との距離が縮まるというか、敬語を使うと相手との距離を遠ざける効果?がある、という話がある。30年前ぐらいからこの話はあった。

 

多分、英語と日本語の比較からもきているにだろうかとも思う。英語にはあまり尊敬語がなくてフランク、日本語には、尊敬語や謙譲語があって少々堅苦しい。だから相手と打ち解けるまでに時間がかかる。

 

僕も若い頃は多少は同意する点もあり、では親しくなりたい相手となるべく敬語を使わないようにしよう、相手が年下であっても、なるべく敬語を使わないようにしようと思ってはいたのであるが、一つも経験から、それはケースバイケースで、一概に当てはめてはいけない、ということを思った。

 

その話は、学生時代の東海道新幹線での車内販売のアルバイトの時のことである。今はほとんどなくなってしまったけれど、コーヒーやお弁当を売って歩くやつだ。

 

このアルバイト、旅行気分で素晴らしかった。その日は博多まで行って、宿舎に一泊して泊まる行程。バイト数人と泊まる。いつも違う人と組んで、たくさんバイトがいるから初めての人ともよく組む。宿舎は二段ベットで同じ部屋で寝る。

 

その日は3人と組んだ。自分は18歳だったから、ほとんどの場合で一番年下だった。一人は2歳上、もう一人は3歳上。一番上の人が

「自分は気を遣われるのが嫌いで、みんな同じ、平等だから、敬語を使うのやめにしない?敬語使ったら罰金ね」と言い始めた。

 

僕もある程度は同意していた「敬語は人の距離を遠ざける」という話を言っているのだと思う。僕は内心、え?と思ったけれど、1番の年下だったのでやむなく同意した。

 

結果はどうだったか、というとより距離が遠くなり、話しづらくなった。何話しても、あ、タメ語にしなきゃと思い「〇〇だよね」と無理やりそこで話を止める。そのうち、面倒くさくなって話す回数を減らす、という方法に切り替えた。

 

敬語で話せばもっと自然に話ができたのに、そんなことに囚われて、大変窮屈になった。とっても疲れてしまった。それに、そのタメ口強制の影響を受けるのは、3人の中で一番年下の僕である。勘弁してほしいものだ。

 

その人と組んだのはこの一回きり。2度と会うことはなかった。

 

確かに、距離を置きたい人とは敬語を使う事はままある。でも、今の自分は誰に、誰から敬語を使われているのか、あまり意識はしていない。それはその人にどういう呼び名で呼んでいるか、さん付け、呼び捨て、などなどと同じく意識にも上ってこない。

 

ではどういう区別があってこの人と敬語なのか、そうでないのか、というとその人のまとう雰囲気を自分が何がしかで判断して、これが一番自分にとって快適で、自然体に近くなるという文字を無意識に選んで使ってるんだと思う。

 

より自然体だと、相手との距離が縮まっていく。

 

敬語を使うと距離が縮まらないと言って、無理やりタメ口を使うと、もうその時点で自然体から離れてしまう。より距離が大きくなる。

 

ただ、このバイトの経験がなければ、いまだに、敬語は、、、の呪いにかかっていたかもしれない。それを体で張って教えてくれた彼には感謝である。

 

 

僕は、飲み会が強制に近かった時代に、この人たちは何ゆえに自分に飲み会への出席を強要してくるのか、をよく考えていた。

 

なぜ、この人たちは行きたい人たちだけで行かないのだろうか?嫌だ、と言っている人を無理やり連れて行くのだろうか?である。

 

まず一番先に消えたのは自分と飲みに行きたい、という理由である。そうやって無理やり誘ってきた相手は、飲み会の席では、自分のことなどとうに忘れてほかのだれかと騒いでいる。これとともに、この経験をしないともったいないから、是非来い、という線も消える。

 

上司が来いと言っている、という線も実のところ薄いと思う。上位職にある人は、全員来いなどあまり思っていないと思う。せいぜい多くの人の参加してほしい、ぐらいだと思う。主に強要するのは、数年先の先輩レベルで、上司ではない。

 

こういった飲み会を本当に楽しみにしている人が無理やり楽しいから来い、というのも違うとは思う。彼らは、来たくない人のことなど眼中になさそうで、自分たちが楽しむからいいや、関係ないぐらいに思っている。

 

ならば、いったい誰が??と思うが一番濃い線は、自分も行きたくなくて参加しているのだから、お前も来い、という一種の仲間なはずなのに敵になっているというケースだと思う。

 

自分だって、嫌なのに、他にやりたいことがあるのに、それを我慢してきている。だから、お前も一緒にその嫌な思いをするべきである、と思っている。「上が行かないとうるさいから」「まとまりが大事だから」「組織だから」というウソを言って。これって本当に本末転倒だと思う。

 

「自分はこれだけの大切なものを犠牲にして、集団に奉仕しているのだから、お前たちもそうして当然である」と思っている。

 

鳥井氏はwasei salonのブログの中で、戦争へ大事なわが子を差し出せ、と迫ることをできるのは、国家や軍隊のトップでもなく、自分が自分の子を差し出させられた人である、というところに書いてあったのを見て、はっとした。

 

他者から大切なものを奪われた経験があるひとたちが、他者の大切なものを平気で奪うようになる。 | Wasei Salon(ワセイサロン)

 

そういう構造なのであれば、本当に自分が大切なものを大切にしなければならない。そうでないと、他人にも大切なものを大切にする権利を捨てるように迫るようになる。

 

こんなにみんなが参加しているのを、僕はまとまりや統率などとは呼ばない。ただ単に強制、断る自由のない集団である、としか見ない。ただの暴力的なものである。

 

 

 

今、森博嗣氏の「お金の減らし方」という本を読んでいる。その中で、「この世の中で知って得することなんてひとつもありませんよ」と書いてあり、はっとする。

 

ここで、知って得をするという意味は知識とかそういうことではなく、どこかでセールをやっているとか、これは儲かるといったような話だ。

 

この文句って僕は結構弱い。他人よりも自分だけ損をしたくないから、とかいう理由もあるのかもしれない。このクーポンがあれば、このアプリがあれば何円引きになる、それを知らなければ、その分損をする。だからこれが知って得することかもしれない。

 

考えてみれば、あるようなないような、全然ないとは言い切れないけれど、どうなんだろう?

 

でも、それって日々の生活に影響することだろうか?と思う。そのアプリやクーポンを知っているがゆえに、たいして欲しくもないものを買っている節もある。となると本当に得しているかどうかわからない。

 

もっと大きなもの、となると大学の楽勝科目はこれだ、とかが知って得することなのかな?知って得することというよりは、もっと何か大きいもののような気もする。でもそれをとると、楽で別のことができる代わりに、本当に学びたいという隠れた意欲をそいでいる可能性もある。

 

知って得することにひきよせられると、初めのうちは得をしても、トータルをして結局損をしているんじゃないか、と思うこともある。

 

妹が投資詐欺にあったらしい。金額は言わなかったが優に100万円は超えていそう。はじめのうちは、得をさせてくれていたらしいから、ありそうなことだ。そんなことしてたら、せっかく今まで得してきたとしても、これで一気に得を吐き出した感がある。

 

世の中に実は金額的に知って得することなど、あまりないのかもしれない。それにばっかり引きずられると、後でこれを知っておけば得だったって知ることも多くなって、損をした気分になることもある。余計なものを手に入れることにもなる。

 

そうしたら、これはお得、というのは全無視したほうがいいのかもしれない、とは思う。

日本の英語教育はよくない、という話はよく聞く話ではある。それは、何年も勉強しているのに、全く話せるようにならないから、というわけである。確かに文法などが中心で、読むことと書くことはそこそこできるようになるが、聞くことと話すことが全然できないのだ。

 

全くその通りではあるけれど、僕や同僚が勉強している韓国語では、全く逆の現象が起こってしまっている。聞くことと話すことはそこそこできるけれど、書くことと読むことが全くできないのである。

 

特に、僕の同僚の友人は、韓国人のパートナーがいるため、電話でも韓国語で話せるほどなのだが、読むのがダメである。彼女は英語が嫌いだそうだが、まだ韓国語より英語の方が読みやすいという。

 

読むのがダメ、というのはどういうことか、というと、大変時間がかかる。ハングルをゆっくり読んで、単語ひとつずつを頭の中で訳していくような感じだ。ちょっと長めの文となると、文の終わりの方に来たら、初めの方に何が書いてあったのか忘れてしまい、もう一度戻って読み直しとなってしまう。

 

ある程度読める、とはどういう状態か、文字をそこまで追わなくてもなんとなく意味が掴めるぐらいかな、と思う。

 

ペラペラにしゃべれたとしても、何が書いてあるかわからない。「薬屋」とか1つの単語だけなら問題ないが、文章となるとお手上げだ。これはこれで片手落ちだ。

 

話せないのも問題だけれど、聞いて、話すことができない。読んで、書くことができないとなると文盲である。識字ができないということだから、ちょっとでも難しい内容の事だと知らないことになってしまう。

 

自分たちは、聞くこと、話すこと、読むこと、どういった形で情報を入れて日々過ごしているのか?多分込み入った内容だと、読むことが多くの部分を占めそうである。

 

道端で外国人に話しかけられたらどうする?という場面で、話すのが重要というのもわかる。それがどれだけの頻度であるかわからないし、できるのに越したことはない。

 

しかし、その外国語で書かれた題目を見て、翻訳機にかける前に、大体何のことについてか書かれているかわかる、ってこともとても重要だと思う。そこで、自分にとって意味があるかないか振り分けて、翻訳機にでもかければいい。読むこともとても重要だ。

 

読むこと、書くことに力を入れると、話すこと、聞くことが疎かになる。それでは話せるように、と力を入れると今度は読むことが疎かになる。なかなか難しいと思う。

 

 

 

もう子供も中3と高3になったので、過去形になってしまうか、と思うけれどうちの教育方針はなんだったんだろうか?と思う。人から、教育方針はなんですか?と聞かれたら、なんて答えるだろうか?

 

となると、特に何もないのである。よくある、のびのび育てたい、というのがあり、そのように思った事もあるけれど、それも自分は本気でそう思っているのか?と自分に問いかけると自信がない。

 

のびのびとは、押さえつけられず、自由である様である。確かにそう育ってほしいと思うが、もし、子供が宿題もせず、スマホばかりに夢中であったとして、それをいいよいいよと手放しで喜べるか、というとそれはないと思う。

 

野山を駆け回って欲しいとも思うけど、それは江戸時代か何かのイメージか。野山など電車や車で数時間の彼方にしかない。それに、昔の子沢山の時代とは違い、子供が少ない今、野山を駆け回ってドブに落ちて死なれでもしたら困ってしまう。

 

のびのび育てたいって具体的に何よ、それって親のイメージ範囲のものしか許さないんじゃないのかと思ったりすると、それ自由じゃないよね、と思ってしまい、のびのび育てるを教育方針から外してしまう。

 

やりたい事を出来るだけやらせる、というのも合ってないと思う。習い事など、あれやりたい、これやりたいなど言ったりしても、お金が高いなどで却下した事も間々ある。私立中学へ行きたいと、娘が言い出した時も、理由が設備が良くて、制服が可愛いから、だったので却下した。

 

心掛けたことはなるべく口を出さないように、ぐらいかな。例えば、部活に入れ、友達を作れ、遊べ、先生の言うことは聞け、などなるべく言わないようには気を付けた。

 

最低限のやること、学校へ行く、宿題するさえクリアすれば及第点だと思う。自分だったら、何々したいといって却下されることより、やっている事にあれこれ口出されたり、あれやれコレやれって言われる事の方が嫌だ。だからなるべく口は出さないようにしたけれど、出来ていたかどうかはわからない。

 

挨拶や感謝できる子に育ってほしい、規律を守れる子になって欲しいなども、そうではあるけれど、意識してした事も実はない。自分自身がどうか?というと甚だ疑問でもあるからでもある。

 

教育方針か、考えれば考えるほど何だったかわからない。別に何もない感じだ。結局は、一番身近な親の姿を見て子供が勝手に判断するものかもしれない。親が規律を守っているか、他人に感謝を示した態度をとっているか、スポーツに熱心か、勉強が好きかなどにかかっているのかな。なので、教育方針というよりは普段の行動なのかな?

 

ならば、教育方針など実はいらないのかもしれない。

 

 

高校3年の息子と、中学3年の娘。来年受験である。1年以上勉強して、準備して、いざ勝負である。大変そうではあるが、本人たちが好きでやっていることでもあるから、可哀想だという感じはしない。

 

そして、こうやって長い期間準備して、その成果を出せるかどうかの真剣勝負ができるのはある意味では羨ましいなぁ、と思うのである。それは勉強だけでなく、スポーツなどの大会でも同じことが言えると思う。

 

なぜなら、大人になると、長い期間そのために準備して、いざ真剣勝負、という機会は僕にとってはほとんどなくなったからである。

 

一応、大人でも試験らしきものはある。転職による入社試験や昇進試験、資格試験である。しかし、入社試験などは、そのために準備することってあまりないんじゃないかと思う。面接官との運かな。それに転職であれば、別に今受からなくてもいいというのがある。

 

昇進試験か。そのために準備ってあるのかな。ゴマスリぐらい?それに1年遅れても、ちょっと同期から遅れをとって、プライドが傷つく人がいるくらいかな?僕は3つの会社に勤めたことがあるけれど、他の人もそこまで上になりたいという熱も高くなく、自分も高くない。真剣勝負とは程遠い。

 

社内の資格?試験のようなもの。8割ほどとあまりにも合格率が高すぎるし、落ちてもいいし、というので真剣さのかけらもない。

 

例えば、TOEICなどの外部試験。自分の意思で受ける試験などは、準備期間はあるし、大変だろうが今受からなくてもいいし、というのでこれも若い頃の真剣勝負とは程遠い。

 

告白は真剣勝負だが、準備期間?などの条件満たさないし、これもその人でなくても良くて、というのもあって違うかな、と思う。

 

大人になって、真剣勝負ってあまりないなぁとつくづく思う。それがいいのか悪いのかはわからない。だから時間があっという間に過ぎていくんかなぁ、と思う。

 

となると、学生の最中の勉強であれば受験、スポーツであれば大会。準備期間が長くなって熱を入れれば入れるほど、一生で数少ない、もう最後かもしれない真剣勝負になっていく。こんな貴重な経験できるなんて、なかなか羨ましい、と思った。

ある人が、他の人より傷つきやすいってあるのだろうか?と思う。自分もそうなのだが、多分、多くの人が自分は傷つきやすいと思っているのかもしれない。でも、それって、何でそんなことがわかるのだろうか、と思う。

 

自分がどれだけ、何で傷ついているっていうのはある程度はわかるのかも知れない。でも自分以外の人が、どんなことで、どれだけ傷ついているのかは、本当は全くわからない。

 

自分が傷つきやすい、これは他人よりもという言葉が前に隠れているのだろう。なぜなら

、しやすいというのは比較の問題であるだろうから。反対にしにくい、というのがある。しかし、これは厳密には誰にも言えなそうなのである。

 

何かを言われて傷つく分野が、人によってズレている、ということはあると思う。でも、自分以外の人って、どれだけの量、傷ついているのだろうか?例えば、1ヶ月、1年の間に、とは思う。

 

これって絶対わからない事だと思う。多分10人中1人くらいは、傷つく量が少なそうな人はいる。しかし、他の人の心の中は全く読めない。外の様子からしかわからない。外の様子と心って、自分のことでもどれだけ乖離しているか全くわからない。

 

えー、自分のことそんなふうに見えてたの?全然溶け込んでないよ、ただの振りだけだよ、と思うことが頻繁にある。

 

傷つけられるようなことを、しない事によって傷つく量を減らす。これによって人によって傷つく量が違う事もあるのかな?傷つきやすいから、誘わない、話しかけない、挑戦しない、とかになってくるのだろうか?

 

自分のことでもよくわからないことがあるこの世の中の不思議。いったい傷つきやすい、とは?である。誰も同じくらい傷ついているとは思うけど、どうなのだろう?

今は、通信手段が発達して、すぐに色々な人と知り合うことができる時代になった。それは国境を超えてでもである。こんなことは誰もが聞き飽きたくらいのフレーズだ。

 

ただ、僕は人間の脳や関係認識のキャパシティって、そうは簡単に増えないはずである。これはテクノロジーの発達とは別物だ、だから何がしかのすぐつながり、連絡を取り合うことが容易なことの大きな副作用があるはずだとも、思っていた。

 

ある会社の同僚の話である。0歳からの幼馴染の親友が突然4年前に前触れもなく連絡をたった。連絡を絶ったと言うのは、LINEで繋がらなくなったという。共通の知り合いも、同時にLINEの接続を絶った。

 

この場合は幼なじみであるため、彼の両親や兄弟とも知り合いであったが、彼らにも本人の行方はわからないのだという。つまり、本当に連絡が取れなくなった。この同僚は悲しんでいた。今まで35年間、今でも1ヶ月に1回は会う仲だったという。それなのに理由もわからず、連絡が取れなくなる。

 

彼は唯一無二、余人をもって変えがたい存在だったのに、こんな事になるなんて、である。僕も昔の親友と会えなくなっているが、今でもこんなことがあるんだ、と思った。

 

彼のケースは住所や周辺の家族の状況もわかってはいるが、こうなってしまった。

 

しかし、今は親しくても、住所、固定電話など知らないのが当然の時代だ。そんなのはいらない。なんて言ったって便利なLINEがあるのだから、である。そうなのだが、その関係はLINEを絶ったり、無くしたりで、簡単に連絡が取れなくなってしまうものでもある。なんとも危うい基盤の上の関係とも言える。

 

ちょっと喧嘩したり、気まずくなったりしたら、すぐに終わり。いいや、すぐに別の関係見つければ。なんといっても世界と繋がって、誰とでも知り合える時代なのだから。良くも悪くも。

 

昔の住所や固定電話って、どっしりとした存在だと思う。簡単に移動できない、無くならない。しかし、LINEなどはたかがアプリなのだ。そんな物に関係を頼るのってどうか、である。関係を絶つのが、操作一つであまりにも気軽すぎる気がする。

 

それが現代の関係と言ってしまえば、それまでなのだが、そういった気軽な関係だと、どこまで深まっていくのか、という気もする。ある程度関係をのっぴきならないようにしないと関係は深まっていかないのではないかと思う。

 

そうすると、年賀状の効用も見逃せない。相手の住所を聞くのって、不審がられても不思議じゃない。でも、年賀状を出すためだとすれば、自然な流れになる。今、僕も年賀状を出していない。面倒だからなのであるが、関係を維持するためには、面倒を避けてはダメなんじゃないか、とも思ったりもする。

 

住所がわかれば、連絡先紛失でも大きな手掛かりとなる。簡単に切れない関係への第一歩ではある。

 

相手の近況はFacebookでわかるからいい?でもその投稿はいつの間にか5年前で更新が止まっていたりする。それさえも気づかない。Facebookなどとっくに死んだページとなって、連絡取れなくなっている事も気づかない。近況やを知っている気になり、その人と繋がっている気になる。実際はそうではない。

 

簡単に繋がれば、簡単に切れる。いいことばかりではない。

 

30年音信不通だった親友に手紙を出した、というのを書いた。大学時代の親友である。

30年音信不通の親友のその後 一人だと考えがネガティブになる | 世界一周に行きたい!!

 

実家の住所のみ知っていたから、自分の近況と住所、メールアドレス、電話番号を記した手紙を出した。実家にいないまでも、彼が実家に寄った時にご両親が渡してくれることを願った。

 

もし、彼から連絡来たら、なんて言おう。僕は今52だが、最後にあったのは24の時である。彼の姿はそのままで凍結されている。若い時のまま。容姿だけでなく、すべての記憶も若い時のまま。だから実際にあったら、びっくりか当惑はするだろうと思う。

 

30年ぶりに会う人もいるだろうと思う。でも、クラスが一緒でまぁまぁ遊んだくらいであれば、それぐらいあくことも珍しくない。そんなに思い出も多くないだろうから、姿を見てびっくりはするだろうけれど、それだけである。でも、彼とは多くの思い出がある。自分がどんな感じになるのか?想像もつかなかない。

 

なかなか連絡が来なかった。妻によれば

「昔の記憶に戻るって、とてもパワーがいることだから、連絡をとろうかと迷っているんじゃないか」という。

だから昔の写真もあまり見ないようにしている、という。

 

パワーがいるのはわかる気もするけれど、それはなぜだろう??懐かしむのはパワーがいるのか?次から次へと出てくる思い出に頭が忙しくなるからなのか?

 

ところが今日、手紙は住所不明で戻ってきてしまった。万事休す。あ~あ。もう死ぬまで会えない可能性が高くなった。

 

新卒で入った会社は、すでに辞めていることがわかっていた。これも先日のことだった。YUASAという商社に勤めたのだが、友人の友人がYUASAに勤めていて調べてもらったら、そんな人はいないという。

 

なんでも一時期会社が危ないことがあって、ごっそりこの世代の人が抜けているのだという。会社から探す線はすでに消えていた。

 

この時代で、こんな昔みたいに連絡が取れないことがあるのか、と思うが現代の方がこんなことは起こりやすいと思う。

 

今やスマホの時代。親しい人でさえ、住所、家の電話番号など知らないことが多い。LINEですぐに連絡だ。すぐに連絡できるということは、すぐに連絡を絶つことができるのも同じ意味だ。

 

住所や家の電話番号などかなり物理的にしっかりしたものだ。しかし、LINEやスマホなど、ある意味では虚構だ。どんなに親しかったとしても、すぐに連絡を絶つことができる。

 

この時代でもどうしても会えない、連絡を取る手段がない、ということはありうる。それはたとえお互い連絡を絶ちたいという思いがなくても、ということだと思う。

 

そうしたらバックアップとして、親しい人の住所ぐらいは聞いておいたほうがいいと思う。何が起こるかわからないのだ。

 

どうぞ皆さん、会いたい人がいたら、放っておかないで、忙しいなどと言わないでいっぱい連絡をとって会うといいと思います。いつ何が起こるかわからないのだから。いつの間にか時間がたって、どんどん遠くなってしまいます。