ある同僚の友人から出た言葉だ。結婚相手に求める条件として「宗教を持ってないこと」。彼女は韓国人との結婚が視野に入っている人だから、そういう発言が出たのだろうけれど、自分は考えても見なかった。しかし、考えても見なかった🟰どうでもいい、ではない。宗教を持っていないことを当然のこととして結婚相手に求める条件として忘れていた。しかし、実際これは重要である。

 

宗教を持つのは当然悪いことでない。これは大前提。ここで、日本は「無宗教である」という言葉を思い出す。これは、宗教など問題にしない、なんでもウェルカムというわけでなく、宗教を持っていないことが宗教で、それ以外の人は自分のテリトリーに入れない、ということだと思う。

 

宗教を持たないことは、同じ宗教である事と日本では同義である気がする。

 

結婚相手はもちろん、親友クラスの親しい人も自分のテリトリー近くに入れるから、そんな感じになってきそう。薄い友達か、知り合いならテリトリーに入れないから、どんな宗教でも大丈夫、という感じか。

 

この結婚相手に求める条件って、自分が何を大事にするかを反映している気がする。それに、この宗教のように、無意識で実は隠れている条件がありそう。

 

よくある、容姿、話が合う、金銭感覚が合うなども、人によって許容範囲が違いそう。そして、許容範囲が狭い部分がその人が大事だと思っているポイントなのではないか?

 

例えば、容姿。自分が20歳だったとして、20歳の女性を集めた時、10人中何人までなら許容できるのか?容姿がいい、という意味でなく、個人の好みの容姿はどれくらいいるか?うーん、5人か6人くらいかな?

 

人によっては2人とかになりそうでこうなると、容姿重要、面食いとなるのかな?好みにズレはあるけれど、さすがに8人とか9人っていう人はいなさそう。

 

話が合う、となると、同条件で、自分は2人とか1人になりそう。3人はいなさそうだ。かなり自分厳しいなぁ。これ重要だと思っているだろう。人によって7人とかになるのかも。

 

20歳の時、バイトで可愛いなあと思った人とデートしたことあったけれど、全く話が噛み合わなかった。お互いどの話題出しても、短い答えで終わってしまっていた。これ重要。

 

金銭感覚。自分のケチだと同条件で3人かなぁ。なかなか厳しい。ケチじゃない人の方が許容範囲広がるのかな?金銭感覚と話が合うっていうには、密接に関係はしている。ケチ同士だと話しがあいやすそう。

 

自分特有の条件は、海外バックパッカー旅行をしていること又は興味があること。海外に興味あるやら、パックツアーではダメ。なぜか?バックパッカーは、安く、現地でその都度宿を取っていくという行動がベースで、自由の象徴の気がする。パックツアー、高級宿とは根本的に違うスタイル。

 

これかなり厳しい条件で、日常生活だと、10人くらい集めて1人いるかな?という条件になる。この人を見つけるためには海外バックパッカー中に出会うといいだろう。

 

この条件がないと、結婚したら、一生バックパッカーできなくなる可能性が高くなってしまう。

 

超インドアの親友は、アウトドアの趣味がないことと挙げていて、反対で面白い。休みの日に、キャンプや旅行行こうなどと頻繁に言われてはかなわないということで、納得だ。

 

隠れた条件って、言われてみないと気が付かないからよくわからない。あーそんなのあるねぇ、それってでも大事だよねってことはいろんな人と話してみないとわからない。

 

専業主婦じゃないと、片付けできないと、タバコ吸ううと、など各個人固有の条件が出てくると思う。

 

こんなことを紐解いていくと、無宗教という日本文化だったり、自分というものがわかって面白いと思う。

 

当然、相手も似たような条件でふるいにかけているんだろうと思う。

数多くの人の群れの中から選んだ一人。代替不可能な余人を持って代えがたい他人。なんでなの?と聞くと、波長が合うから、という答えが多く返ってくるが、この波長という言葉、なんとなくわかるけど、よくわからない、かなりざっくりとした言葉だ。

 

もうちょっと、この波長の正体を分解してみたいと思っていた。

 

この仲良くなる人の特徴の波長が合う中の一つに、「ユーモアのセンスが合う」というのがある。これピンと来なかった。わかるようなわからないような。人はセンスがあって面白くなきゃいけないの?面白いこと言わなきゃいけないの?という感じにも取れる。

 

しかし「ユーモアコードが合う」という「コード」という言葉を使っている人がいて、この方がより分解できそう。

 

コードという言葉のニュアンスに、他の人は笑わないかもしれないけど、何か笑う視点が一緒、ということが伝わってくる。笑う目のつけどころ、そこがかなり近い。

 

コードが近いと、ちょい面白い話をしてもお互い笑えるようにもなる。冗談を本気で取られて気分を害したり、怒るような誤解も少なくなるから、とても楽しい相手となる。

 

あいつ冗談通じないとは、どちらが悪いわけでなく、ユーモアコードが違いすぎるだけかもしれない。

 

「会話コードが一緒」とこれも、コードという言葉を使えば、ちょっと違う観点から解析できそう。会話コードだと、ある話題で掘り下げ具合が大体同じ程度だ、ということか。お互いにとって、浅すぎず、深すぎず。

 

浅すぎると消化不良になるし、深すぎるとお腹いっぱい、聞いてられない、となってしまう。この具合が一緒ということになる。

 

また、このコードという言葉から、話題の方向性が似ているという事も伝わってくる。あー、そのこと言おうと思っていた、考えていた、という事。それ全く興味ないんだけど、という話が出てくる可能性がほとんどない、という事になる。

 

また、話のスピードや、説明や返答の長さ、語彙量も含まれてくる。お互いにとって、早すぎず遅すぎず、長すぎず、短すぎず。語彙量も難しすぎず、簡単すぎず。

 

このコードが合っていれば、出てくる意見は違えど、話題の方向性や、掘り下げ具合は同じようになるので、大変快適な話になると思う。

 

「趣味が合う」「年齢が近い」「価値観が近い」というのも波長が合う条件にありそうだが、これは趣味が合えば、年齢が近ければ、価値観が近ければコードが合う可能性が高くなる、というだけで、波長が合う条件じゃなさそう。

 

このコードという言葉からは、そんなに広い範囲で合うものではないというニュアンスも伝わってくる。ユーモアコード✖️会話コードの掛け算で、より狭くなる。だから、コードが合う人は、とても少ないのだと思う。

 

波長が合うの正体を、ユーモアコード、会話コードが合うこととコードという言葉を使って説明したら、ちょっとはっきりしてきた。

 

では、その個人個人のコードとは何?どれくらい?となると、ここからは直感か何かで説明不可能の領域になってきそうなので、ここでやめておこうと思う。

よく対人関係で話題に上がる、距離の取り方についてである。大体こういった話の趣旨は、相手との距離が近すぎることによる。もうちょっと距離を取りたいのに、思っていたより近すぎる、というわけである。

 

こういった話でよく思うのは、では、大体距離が遠いというのはいいことなのか?ということだ。これはもちろん人によるという答えであるが、そうではなくて、ということである。

 

一般的には、距離が離れている方が対人関係で問題が起きないことが多くなる。距離が遠ければ、傷つかない、期待しない、不安にならない、衝突しない、というわけである。

 

しかしながら、距離が遠いとなると、人間関係がくれる、温かさや喜びや親しさ、深さまでも遠ざけてしまう。これは距離が近くならないと、得られないもので、得難いものだと思う。

 

対人関係で問題はつきものだ。それは嫌な人との関係というより、かなり良好な間柄であっても、だ。これを避けては、深い人間関係などできない気もする。

 

せっかく出来上がりかけてきている人間関係も、距離をとってしまえば、霧散してしまう。距離を取れば、関係などできないのだから、出来上がった関係が壊れるかもしれない、という不安などからも解放される。離れたりなどの心配もない。

 

しかし、そうなると、相手はどうでもいいという存在のまま。どうでもいい相手に不安などは感じない。確かに楽なのだけれど、自分が今ここに他者から認められて存在している、今この時間を共有している、という感情も十分に共有できない気もする。

 

近すぎるのは良くないけれど、距離は取ればいい、というわけではない。

残念ながら、僕は、数が少なくないとなかなか貴重だ、と思うことができないようだ。貴重なものがたくさんあって嬉しい、とはならないようだ。

 

以前、子供が小さい頃、プラレールを集めていたことがある。プラレールにも驚いたことに格がある。プレミアがつくものと、つかないもの。発売個数や発売箇所の限定具合によって左右される。

 

本来ならば、自分が好きな電車、親しみのある電車のプラレールが欲しくなるはずである。しかし、実際そうではない。そんな電車のプラレールが、イオンなどどこでも、いつでも買えるようなプラレールであれば、途端に欲しくなくなる。欲しくなるのは、それがどんな電車であっても、決まって入手困難なものである。

 

その昔、砂糖はとても貴重なものであったようだ。しかし、今や簡単に手に入るようになって、砂糖を貴重なものと考える人は誰一人としていない。今はガソリンなのかな?しかし、これももっと簡単に手に入るようになれば、手に入れられて幸せ、というより、なんとも思わなくなるだろう。

 

となると、ガソリンなどを安くして、庶民の生活を楽に、ということなど大して意味のないことだとも思う。なぜなら、まずすぐ手に入るようになったものの存在を忘れる。次に手に入りにくいものの存在へフォーカスしていくだけになる。きりがない。

 

友情についても同じかもしれない。なぜ、昔はクラスは40人いたのに、その後も知り合う人が多いのに、本当に気が合って親友となる人はたくさんではなく、数が少ないのだろうか?と思う。

 

これも5人とか数が多いと、貴重でなくなる。少ないから代替不可となり、貴重になっていく。そこらじゅうに気が合う人がいればその人でなくても別の、ということになってしまい、替えがきく存在になってしまう可能性が高くなる。だから、そんなに容易く合う人を見つけるものでもないと思う。

 

よく言葉で人と比較するな、というのがある。これは僕も完全に同意するわけだけど、この言葉の中には、相対的に見るな、絶対的に見よ、という意味が含まれていると思う。しかし、この貴重な、数が少ないという概念は、かなり相対的な視点を含んでいると思う。絶対的な要素が少ない。

 

となると、比較するな、というのが本質的に可能なのだろうか?と思うのである。

以前、日本人の人付き合いについて書いた。

 

かいつまんで書くと、日本人の交友関係の形態は、例えば大学時代の友人と、同僚である友人がいたとして、それぞれ別個で会うことはしても、彼らを混ぜて会うことはない、ということを書いた。

 

つまり、同じ集まりに大学時代と、会社の友人がいることはないということである。これは韓国もほぼ同様らしいが、これは結構世界では珍しいことらしい。

 

これはなぜか?なのだが、日本人が恥ずかしがり、というか知らない人に声をかけるハードルが高いからなのかな?これは日本語、日本の文化からきていると思う。

 

なぜ、日本語から、というと日本語でそういった見知らぬ人に話しかける場面が想定できないからである。

 

例えば、エレベーターの中で知らない人と乗っている。その人の靴が自分と同じ靴だった。これを「あ、同じ靴だね、どこで買ったの?」などと話しかけたら、頭のおかしい人である。関わらないほうがいい。

 

しかし、これが英語だったら出来るのだ。例え相手が日本人同士でも、英語であればそんな会話ができる。

 

これはなぜか、というと英語で見知らぬ人に話しかける場面が想像できるからである。あまりおかしいと感じない。

 

日本人の恥ずかしがり屋を含めた行動様式は日本語から来てるかもしれない。言語によって性格が変わる。日本人が別の言語を使うと、その人の振る舞いは違うものになる。英語で話す日本人が、陽気で調子に乗っているように見えるのは、英語がそんな性格を帯びた言語だからである。

 

ヨーロッパ方面の言語は、こんなオープンなマインドの言語が多いらしい。これはなぜなのだろうか?農耕民族と狩猟民族の影響があるのかな?

 

農耕民族である僕らは、同じ土地で固定して育つ。すると、関わる人はいつも同じ人だ。なので、内輪の関係が大事になる。見知らぬ人などどうでもいい、となってくる。なので、話しかける、という言語ではない。鎖国も長くしていたし、島国の影響もある。

 

しかし、狩猟民族は、地を動く。常に新しい人と知り合って、その土地で狩猟をする。なのでオープンになる必要がある。同じ人といつもいる、というわけではない。今でも国境はすぐ隣である。オープンにならざるを得ない。

 

こんな違いがあるのか、とも思う。言語とそれを使う人の行動様式は等しいようである。ある国を、急に英語を公用語にしたら、行動様式も変わっちゃうってことだと思う。

最近、感じることがある。旧友と会う。仕事が終わってからなので19時ぐらいか。1年に1回ぐらい。2人か3人でである。久しぶりのようなそうでないような感覚である。近況をざっくりと報告し、そして昔話に花を咲かせる。金曜日でない事もあって、22時ごろにはお開きとなる。

 

その帰り道に感じること。楽しかった。しかし、何か足りない感じがある。近況のような大きなことでもなく、昔話のようないつも出てくる話でなく、ちょっと小さなこと、何か最近感じてることを、あなただったらどう思うか聞きたかったなぁと思う。いつも会っている人ではないのだから、違う視点があるかもしれない。

 

しかし、久しぶりに会う人に対して、それがなかなかできない。それはなぜか、というと時間の不足があると思う。その小さな事柄に対して、1年に1、2回の3時間では割ける時間がない。

 

1回の会食3時間の限界だと思う。表面上をサラーっと掬って終わるような感じか。楽しかった。対立や葛藤などもない。ただ、何か、である。

 

人生の残りもさほど多くないのかも、と思い始めた今日この頃、ああ、このままサラーっとすくって関係が終わるのかなぁと思うと、ちょっと物足りない気もする。

 

3時間というと、会ってから少々の世間話から入る。まず相手が、今この現在の機嫌が、状況がいい状態なのか、悪い状態なのかを見極めるためである。そして、近況報告とそれに肉付けした内容に入る。その後、いつもしている昔のエピソードと、昔の人の消息となる。

 

これらは、計画された自分の姿を演じているようなものである。あまり横道に逸れる余地がない。何かパターンから外れた話題の中から、ちょっと小さなものから、今のその人なりの姿が見れたりする。計画されていない姿が見れる。3時間では演じ切れてしまうのである。その人の素に近い姿を見れない。自分も出せない。

 

これだと、関係の深まりの感じが得にくいと感じている。

 

一つは、まずはそんな関係であると諦めるというのもある。楽しめたからいいじゃないかというわけである。そんなもうちょっと中まで入ったら、悪い部分も見れてしまう。対立が起きるかもしれない。これぐらいがちょうどいいというわけ。それはそれでいいと思う。

 

しかし、もう少し関係を掘り下げるにはどうすればいいのだろうか?

 

まずは時間を伸ばす、というのがある。これが難しいかもしれないけど、一番近い方法だと思う。

 

僕は夜勤の仕事をしているので、仕事終わりが朝となる。となると、同じような仕事をしている人とは1回の時間がかなり多く取れる。5時間は当たり前で、10時間もある。しかも、平日にできる。となると、かなり小さな話題までカバーできる。時間が長過ぎて、取り繕うことができない。そのため素に近い姿を見せることになる。

 

ところが、普通のサラリーマンだとそれができない。1回長くて4時間か。土日となると、どこも混んでいて、行く気が失せてしまう。それに土日は何かと用があって難しそう。

 

そうなると、時間面はこのままだと、頻度を増やすのと、1回あたりの会う人数を減らすというのがいいかとは思う。2人か3人がちょうどいいと思う。

 

時間も伸ばし、人数も絞りとなると維持できる人間関係は本当に限られた人数のみとなる。必然的に量より質となっていく。それでいいと思う。

 

次に場の問題だが、居酒屋は向いていないのではないか、という点だ。居酒屋というのはまさに、その3時間程度の表面をすくった楽しい会合の場である。この為、先ず騒がしい。大声を出さないといけないし、聞き取るのも大変だ。この細かい話をするのに大声は向いていない。

 

さらに、お酒が中心となる。多少飲むくらいなら大歓迎だが、時間が経つと量が行ってしまい、まともに話できる状態ではなくなってくる。片っ方はしゃべりまくり、相手は全然聞いていない、ということになりかねない。と同時に費用も嵩む。

 

酔っ払う姿と、素に近い姿って、似ても似てあらざるものだと思う。なので、程よい飲酒を超えた姿は逆効果だと思う。

 

大声で話し、酒も大量に飲むと、体力も使い3時間以上持たない。となると居酒屋ではないところがいいとは思う。

 

候補としては、カフェ、ファミレス、公園、家、日帰り温泉となる。5時間以上使う時は、それらに行く。カフェ、ファミレスはともかく、家、日帰り温泉は、夕方から集まるサラリーマンには不適である。

 

ただし、会ってからファミレス行こうぜ、というのもいい歳をして、なかなか勇気のいることだと思う。

 

これを打破するにはあとは、もう旅行を組み込んでしまうか。それであれば長時間になるし、わざわざ時間を空ける手間も、旅行だから仕方がないとなりそう。長時間行けば、、その人の素が出てくる。近況や昔話以外の話もできる。

 

旅行であれば、見慣れないものを見聞きすることになる。これによって、話がわき道に逸れる余地が生まれる。普段は話さないような話題、見ないような姿を見ることができる。

 

この物足りない感は、年だから、とか相手との関係性が、というわけではなく、3時間の設計がそもそも無理があるのではないか、と思う。これを直さないままずーっと同じことを続けると、同じままになりそう。なんかもったいないのである。

 

3時間以上持たない、それで十分だ、となれば、それはそれでいいと思う。

 

 

これは親戚の話である。

 

この人は70代男性、独身。僕の父親のいとこだ。親父の母方の方なのだが、その親父の母は、実母が早くに死んだため、後妻である。僕とは血が繋がっていない。なので、彼のことを親戚と言っちゃ親戚、いとこと言っちゃいとこ、と必ず「と言っちゃ」という言葉が入る。

 

この人、子供の頃は全く接触なし。初めて会ったのがその親父の母親が死んだ時の葬式。その後も全く接触なし。再度会ったのが、去年の20年後の親父の通夜と葬式。なんかこの人どっかで見たことあるなぁ、という程度の人。なので、血の繋がり以前に、何も関係がないという言い方が正しい。

 

親父とこの人は、親父が主宰する日本で働くモンゴルの学生を支援する活動で、接点があったらしい。

 

その親父が死んでからというもの、頻繁に会ったり実家でも会ったりするようになった。僕の母親は、なんなのこの人、という感じだが、拒絶まではしていない。親戚だけの法事にも必ず顔を出しに来た。親戚と言っちゃ親戚だからいいけど、ぐらいにしか思っていなかった。

 

先日、親父を偲ぶモンゴル会のようなものが実家であった。それにも出ていた。僕も出たけれど、10人ぐらい参加者がいた。あ、自分ここに必要ないかも、と感じて、ちょっと顔を出して、お酒を少し飲んで、自分の部屋に引きこもり、好きな事をしていた。

 

この人は、少々酒も入り、自分の部屋まで入って来た。みんなのところへ来なよ、と言うまではいいのだが、酔っ払った勢いか、血が繋がっていないからなかなかこの家との関係ができない、距離が縮まらないなど、親父の子である僕や弟と仲良くしたいだの、君にこの家はかかっているだのが始まった。

 

自分の部屋まで押しかけられたのもかなり鬱陶しかったのだが、子供の頃からたまにでもいいから接点があって、というのならまだしも、急に親父が死んで距離を詰められても戸惑うばかりだ。

 

最後はこれからもよろしくな、と握手はしたのだが、この話は、僕にとって信頼関係を築く逆効果だと思う。

 

この行動で、この人がこれから老年へ向かうに従って、気にかけてもらおう、面倒見てもらおうという気持ちが透けて見えた。親父が死んで、関係性の後ろ盾が急になくなって焦ったのかな?そんならもっと早くから動いとけよ。

 

これから、そういった関係がこの人とできるのかはわからない。でも、自分が子供の時から接点があって、向こう側の気にかけてくれる気持ちが伝わっていれば、ああ、あの人にもお世話になったしなぁ、となろうもの。それがない段階でそんなこと言われても、、、である。

 

親父とはそんな関係だったかもしれないけれど、僕は預かり知らぬ事。で、そんな信頼関係というか、お互い気にかけるという関係は、長ーい時間をかけて、ちょっとずつ積み上げていくもの。それは友人同士の関係も全く同じだ。急いで築こうとすると、相手が警戒する。

 

その急いでやる行動に、別の意図、大体は、自分だけの利益になることが含まれていそうだと相手が感じ取ってしまうからだ。そうでないと言うのなら、ゆっくりと時間をかけるしかない。結果として、信頼関係ができちゃっていた、という形にしか信頼関係ってならないと思う。

 

一発の行動だけで、あるいは言葉だけで信頼関係作っちゃおうなど、警戒だけだ。

 

だから、逆に信頼関係ができている人とは大切に、という事でもあると思う。

 

そして、お酒を飲んでのぶっちゃけは、相手が酔っ払っていて話を聞いていない限り、禍根を残すことが多い。この人のように、そんな事思っていたのか、と僕の疑いの眼差しを向けられてしまう。酒の席ではあまり酔っ払っていない人は結構多い。

 

それに、身内でも気軽に入ってこない個人の部屋に、親戚と言っちゃ親戚が入ってくるという行為も、なかなかのものだ。話があるなら、部屋の外から呼べよな。こっちの逃げ場がなくなる。酔っ払っていたからといっていいのだろうか?行動と発言は要注意だ。

 

酒飲みは酒飲みとだけにしておいた方がいい。酒をあまり飲まない人は酒の席での冗談とは受け取らない。口には出さないけれど、心の中で静かに切り落とす。

 

 

若い頃、よく本に出てきたのだが、人間関係は鏡、とか他人は自分を映す鏡、という言葉が嫌いだった。

 

なぜなら、僕の主観で、嫌な人だとか、くだらない人だとかが自分の人間関係の中にいて、他人は自分を映す鏡という言葉が本当だとしたら、自分もそのようだ、ってことになってしまうじゃないか、と思っていたからだった。

 

しかし、最近は、僕はその言葉は真実をついている、と考えるようになってきた。多分、若い頃に比べて、自分の限界を知って、高望みをやめたり、時間や体力の限りから人間関係を厳選するようになって、くっきり自分はこういう人と一緒にいたい、と思うようになってきたからだと思う。

 

なぜ、他人は自分を映す鏡となるのか?

 

以前の項で、賢い人とはどういう人を指すのか、という問いを周りにしたことがある。その答えは千差万別。賢いというのも、そんな広い概念があるのかと驚いた。その各個人の賢い、という答えは、「自分はこうなりたい」「自分はこういう人と一緒にいたい」と思うことの反映ではないか、というのがある。

 

なので、人は各個人の規定した賢い人と一緒にいる可能性が高くなる。

 

次に、どんな人と波長が合う、一緒にいて心地いいかという問いで、語彙量が同じくらいの人が、一緒にいて快適なのではないか、ということだ。自分よりあまりにも語彙量が少なかったり、多かったりすると、退屈すぎ、難し過ぎて一緒にいて不快適となる。

 

そして、相手は、持っている考えこそ違えど、世界観などが似通って、波長が合う、となる。波長が合えば、これも一緒にいるのである。

 

人間関係は相互作用である。相互に「あの人なら会ってもいい」というのがなければ、食事に行ったり、相談にのってもらったり、話を聞いてもらったり、という事は起こらない。

 

仮に自分がつまらない人間で、相手が尊敬できる人だったとしたら、釣り合いが取れていなければ、人間関係は起こらない。僕も時々思うことであるが、なんでこんな素晴らしい人が、自分みたいなつまらない人間と一緒にいてくれるのか、と卑下していても、人間関係が起こっていれば、多分心配する必要はないのだと思う。

 

短期的には不対照の関係は起こりうる。1回や2回どこかへ行くとか、その場にいるときは付き合うなどである。しかし、1年以上だったり、その強制の場を離れたりなど長期的に見れば、そのような関係は時間の淘汰にあってなくなっていく運命にある。

 

実際の人間関係はかなり選べる。強制的に一緒になる職場などでも、物理的に一緒にいる人、会話をする人は選べなくても、各人との距離の遠さ近さは、調節して選べる。現段階で強制的にいる人は運である。選べない。しかし、かなりの数の出会いをこなせば、近くしたいという人が稀に現れる。

 

一緒にいる人が原因で、ギャンブルにハマったり、借金を負わされたり、などは聞いたことがあると思う。そこまででなくても、一緒にいる人によって、思考、考え方は大きく影響されると思う。それは大人になっても、同じ気がする。なので、事実上、自分を映す鏡になっていく。

 

以上のことから、他人は自分を映す鏡である、というのはある程度真実で、誰と一緒にいるか、は、とても重要だ、と思う。数は全く問題ではない。誰と一緒にいるかが、人生を快適に幸福に過ごせるのにかなり関わっているんじゃないか、と最近思うのである。

 

 

 

30年前、HISのカウンターで働いていた時の話である。

 

今でもそうだが、当時も広告で「ソウル往復2万円」とか「ロンドン往復8万円」などのチラシを出す。すると、お客がカウンターに、この航空券が欲しいんですけど、と来ることになる。

 

当時インターネットはなかったから、全て店頭か電話での応対である。

 

で、調べるのだが、大概取れない。なぜ取れないのか、というとお客の日程の融通の効かなさにある。2月15日から行って18日に帰る、と決まっている人は大概取れない。で、諦めて帰るか、高い航空券を買って帰る。どれくらい?というと、最安値より1、5倍から2倍だから、結構旅費が膨らむ。

 

ところが、結構な割合で、行きと帰りの日程をずらせる人がいる。それも2、3日。そうすると、そんな航空券をゲットできる。

 

安いの欲しいなら日付ずらせよ、航空券に合わせろよ、それぐらい努力しろよ、と思っていたが、今考えると日程って大体決まっている。動かせないことが普通だ。そんなチラシに出る航空券って2、3ヶ月先でなく、せいぜいこれから1ヶ月以内の出発の喫緊の日付なのである。

 

複数人で行ったり、休暇をとってしまっていれば、日程変更など不可である。

 

今ほど簡単に休暇が取れる社会でもなかったし、不況でもあってなかなか労務管理はどの会社も厳しかったと思う。それなのに、客は不思議と日程もずらせれば、行程も長くて、1週間や2週間で行く人などザラであった。

 

HISは当時、格安航空券が売りの旅行会社だった。ケチの巣窟ではあったのだと思う。暇人とケチが集結する。だから、安い航空券のためならエンヤコラ、となったのだろうか?

 

学生だけでなく、年齢層は幅広く、年寄りまで、男女問わずである。

 

海外旅行なんて、してもしなくてもいいものの代表格だと思う。一体この人たちは、どんな仕事をして、どんな暮らしをしているのだろう?

 

その時は何も思わなかったけれど、いろんな暮らしをしている人がいるのかもしれない。

 

 

 

大人はよく子供達、学生に将来何をやりたいの?何になりたいの?と聞く。話すことがない時の常套句なような気もして、何も考えていない気もする。これ、日本の社会構造上意味があまりない気もする。

 

まずは、大人たちが子供の時にこのことを聞かれて、いい気分になった人っているのだろうか?少なくとも僕は嫌だった。なりたいもの?そんなのは知らない。どんな職業があるのかも知らない。しかし、大人がうるさく聞くから、面倒になってとりあえず「学校の先生」とか「看護師」とか答えるのである。子供のなりたい職業ランキングなどあまり意味ないかもしれない。適当に答えているだけ。

 

さらに、これがお金になること、職業でないと、この問いをした大人は引き下がってくれない。「世界一周」など答えると、いや、そういうことを聞いているのではなくて、という雰囲気を醸し出す。だって今、将来何をやりたいのか聞いたじゃないか、である。

 

もう一つ、今の職業についている大人たちのどれくらいの人が小さい頃からのなりたい事として思い描いていたのだろうか?たとえ思い描いていなくても、そこそこの満足の職業についていることが多い。そんなもので、人は結構な範囲で状況に合わせることができる。

 

更に、日本の大学では、学部ごとに試験があり、どの大学のどの学部が受かるかわからない。受かった大学、学部で、これは嫌だ、というのでない限り、そこに進む。大学内では、専門外でも一通りの分野の単位をこなす。特にやりたいことを決めていなくても問題はないのである。

 

就職でも、例えば法学部の人が会計士などざらにある。理屈的に考えればおかしいのだが、、、。専門外就職など普通である。会社内でも、一から教育するので、特に卓越した専門知識がなくてもいいのである。

 

なので、やりたいことなど、医者や先生以外はおいおい決めていけばいいし、決まらなくても、会社に入ってから方向変更すればいいのである。日本の社会構造上、やりたい事は決めていなくてもいい。決めていないほうがいいかもしれない。

 

では、なぜ「やりたいことを見つけろ」という節があるのだろう?ひとつは学校の先生が、やりたいこととしてついた職業だから、自分がやってきたから、それがいいと思っているポジショントークであるからかな?

 

アメリカなどは入学試験の方式が違い、学部を絞って応募をし、学部と就職先の関連性が強いのかな?とも思う。その影響で、やりたいことを見つけろ、という話になったのかな、と思う。

 

やりたい事やりたい事、と子供や学生に言うのは程々にしといたほうがいいかも。鬱陶しがられるか、そういうお前はそんなのあって今の仕事なのか、と心の中で思われるかもしれないけど。