時々、子供と話していてがっかりすることがある。行ったことを全く覚えていないのだ。それも赤ちゃんや幼稚園ならばともかく、小学生高学年でも覚えていない。

 

子供が小学生の時、西オーストラリアへ2週間行ったことがある。この時は、レンタカーを借りて、オーストラリアの砂漠などでキャンプもしている。こんなに長く、印象に残りそうなものだったのに、記憶はおぼろげか、全く無い。ガッカリというよりは、驚いてしまう。小学生の記憶ってこんなものなんだ、である。

 

当然海外の食べ物も合わない。子供達は食べたがらない、アジアなどでは、匂いも嫌だ。なので、マックへ行くことになる。

 

ところが長男が高校生になって初めて行った韓国から、

「絶対マックなどで食べない。現地の食べ物を食べる」と言い出して驚いた。小さい時、現地の食べ物を一番嫌っていたのが長男だったからである。

 

そして今回、娘が高校生になって、同じことを言った。現地の食べ物を食べる、と。もったいないからだそうだ。美味しいとわかっているものよりは、多少不味くても、今しか食べれない物、というわけである。

 

となると、高校生ぐらいにならないと、海外の良さ?というものがわからないのかもしれない。意思が強くなってくる、というわけである。

 

但し、いい点悪い点がある。中学生まではよくわかっていないから、親の思う通りの場所へ行ける。そこ行きたくない、とかはない。しかし、高校生となると、そうはいかない。そこなら嫌だから行かない、となる。

 

大学生であれば、それなら行かなくていい、家に置いていく、ということができるけど、高校生はそれが出来ない。

 

それだけ意思があるから、覚えているということにもなる。

 

ある人が、小学校時代、香港で5年ほど過ごしたとのこと。その時の記憶は?と聞いてみると、それだけしかないの、レベル。小学生ってそんなものなのかも。その中でも、嫌な先生とか記憶に残っているものもあるわけで、それはそれですごい。

 

どんな類のものが小学生などの記憶に残るのだろうか?

 

イギリス、アイルランドでの感想からの話である。イギリス、アイルランドは、タバコが一箱3千円と高い割に、街全体が喫煙所で、人がそこらじゅうでタバコを吸っている、ということを書いた。街の通りには、たくさんのゴミ箱があって、ゴミ箱のてっぺんが灰皿になっている。

 

そんなこんなで、人の喫煙風景をたくさん目にするようになったわけだが、僕が結構目についたのが女性の喫煙だった。かなり女性の喫煙姿を見かける。

 

日本の喫煙所では、とても男性優位。8割がたは男性なんじゃないかと思う。女性の喫煙者は珍しい。

 

そして、日本の男性で、どんな女性がいいという時、喫煙しない人とあげる人も多い。自分が喫煙するくせにそう言う人もいて、何なのかとは思う。

 

男性が女性の喫煙を嫌がるもっともらしい理由はある。妊娠した時のどうのこうのである。それも一理あるんだろうが、この男性に比べ、女性の喫煙者に対する目の厳しさと男女平等は関係あるんじゃないかとも思う。

 

欧米の方が、日本よりも男女平等という概念が進んでいるのだとしたら、本来ならば、このような喫煙に対する見方も男女平等であっていいとは思う。健康に悪いのは男性も女性も一緒。

 

女性の喫煙者が少ないのは、女性はこうあるべき、という姿からくるもので、女性喫煙が好ましくないという理由は後付けの気もしてくるのである。女たるもの、こうあるべき、という姿が喫煙者の姿に現れているかもしれない。

 

僕は、亀の餌のために時々近くの池へザリガニ釣りへ一人で行く。ある女性から言われたけれど、男性はいいね、そういって自由に行動できて。もし女性が一人でザリガニ釣りへ行ったら、どんな変な目で見られるかわからない。それなので、ザリガニ釣りに行きたくても女性は行けないのだ、と言っていた。確かに一理ある。

 

これも女性はこうあるべき、という世の中の考えの中の一つにあるから、こうなのだろうか?

 

となると、多分欧米式の男女平等の実現は、いいか悪いか、やった方がいいか、やらない方がいいかは別にして、とても難しいのではないかと思う。何かこの社会の根本的な考え方を考えなければいけなそうだからだ。

 

根本的な考えとは、女性の喫煙に対するものとか、ザリガニ釣りをすることに対する見方である。男性と同等にしなきゃいけないんじゃないかと思う。しかし、この見方は、何か感覚的なものから来ていそうで、深く根差していそうだからだ。しなきゃいけないといって変わるものでもないんじゃないかと思う。

 

でもこんな考えが自分たちの生活の中にたくさん散りばめられているような気もする。そうしたら、欧米式男女平等、自分たちの文化にあってないのかもしれない。

 

 

アイルランド、イギリス、物価が高かった。それに、美味しい食べ物も多くなく、早速日本食が恋しくなった。それに、安い飛行機で行ったから、乗り換え時間も含めれば二十数時間かかった。長かった。それなのに、また行きたいと思う。自分は海外に何を求めているのだろうか?

 

一般的に言えば、同じものを買うのなら安いものがいいに決まっている。特にケチ度が高い自分はそうである。ヨーロッパは、なんでも倍額だ。コーラは500円。バスや鉄道の初乗りは400円。マックのチーズバーガーセットは1300円、100円ライターは500円。なんでも高かった。

 

ヨーロッパの人たちは、ご飯を食べない。ハンバーガーやサンドイッチである。なのですぐにご飯が恋しくなる。ハンバーガーやサンドイッチって、自分にとって大した位置になく、仕方ないから、これしかないから食べるか、ぐらいのもので、それに千円も出したくはないのである。

 

国内の旅だと必ず食べ物の話が出てくる。ここの美味いものは、海産物、などなど。海外には日本より美味しいものはまずは存在しないと思う。

 

そして困る事も多い。言葉、習慣の違い。ぼったくりにも警戒しなければいけない。安全な事ってすごく大事なはずである。不便な事も多い。

 

高くてまずくて危なくて不便な海外。それなのにまた行きたくなる理由ってなんだろうか?実は、安いこと、美味しいこと、安全、便利なことってさほど大事じゃないんだろうか?

 

新しいこと、見たことないこと?ではどんな新しいこと、見たことない事があったのか、と聞かれると何か心許ない。あったようなないような、である。

 

特に自分は名所ってあまり好きじゃない。ならばどうやって旅の時間を過ごすのか、というとただ街を歩く。同じところを何回もだったりもする。一日中2万歩は歩く。ケチなので、あまりバスや電車に乗りたくない、というのもある。なので、名所を見てみたい、という事もない。

 

それにも関わらず、海外はいい。なぜなのか?

 

現実逃避、かもしれない。国内も現実逃避かもしれない。というか、国内もよくわかっていないが、海外はより現実がよくわからない。この目の前で行き交う人たちが、どんな暮らし、スタイルなのか、何をいいと思い、何を嫌だと思うのか、それが海外はよくわからない。

 

国内だと、あってないかもしれないけれどなんとなく想像はつく。自分は東京でサラリーマンをしている。京都の人、札幌の人がどういうスタイルで生活しているのか、なんとなくわかってしまう。

 

しかし、海外の人の暮らしはよくわからない。だから、それを見て考えたいのかな?どうなっているのか想像する。

 

そして、大いに困りたい、というのもある。国内は慣れすぎていて、特に不便もなく、つつがなく事が進む。それが物足りなさを感じてしまうのかなぁ、と思う。

 

かなり海外好きというのはマゾ的な側面もあるのかもしれない。

 

アイルランドへ行った帰り、いろんな事情があって首都ダブリンから、トルコのイスタンブール経由で帰ってきた。トルコ航空である。

 

イスタンブールからの成田行き。旅行中ほとんど見なかった日本人なのだが、夏休み中、人気のトルコ、さぞや日本人がいっぱい乗っているだろうと思いきや、成田行き搭乗口に並ぶのは、ほとんど日本人以外。いろんな人種が混じっていて、これ本当に成田行き?アメリカ行きなんじゃないの、と思うくらいだった。

 

日本人は、300人乗りの飛行機がほぼ満席で30人いるかどうか。これをどう解釈していいのだろうか?

 

成田についてから、飛行機乗り継ぎの搭乗口に向かった人はほとんどいなかったので、ほぼ全員が日本が目的地だった。この中で、トルコ人もほとんどないいなそう。となれば、僕らのように、日本に行くために安いからトルコ航空で、世界のどこかからイスタンブールへ来て、乗り換えて日本へ来たのだろう。

 

どの人もさまざまな言葉を話していて、バカンス風。みんな日本訪問をウキウキしているようで、今や日本はフランスやタイに劣らず大人気の国である。これはアイルランドでも、本屋へ行けばたくさんの日本のガイドブックが売られているのを見てもよくわかる。これを見ると、自分はすごい国の国民なんだ、と思う。

 

アイルランド、イギリスを旅して、いやー物価が高い。ほぼ2倍だ。なんでも、高いなぁと感じる。バカ高い。となると、日本へ来れば彼らにとって半額となるわけだ。それに見どころが多い。それはそれは彼らにとって魅力的な目的地になるわけである。この航空機の270人は日本へ来て、歓喜してお金を使うだろうと思う。

 

30年前、自分が旅した時は1ドル80円から100円の時代。どこへ行っても日本と同じか、バカ安。その分、日本へ来る外国人はごくわずか。日本行きの飛行機などは、乗客ほとんどが日本人。ごく少ない外国人はビジネスマン風のみ。これを見て、自分の国はそんなに人気がないのかなぁ、とちょっと悲しくもなった。

 

30年前、日本へ来るトルコ航空は週5本のみ。HISで働いていたとき、トルコ航空の日本事務所に用があって電話すると、いつも多分同じおばさんが「トルコ航空ですー」と電話出ていた。そんなのどかなものだったが、今やトルコ航空、東京へは毎日3便が来ている。それだけ多くの人が日本に来るようになった。

 

それはそれは、日本は観光で儲かっているのだろう。今の人不足も、インバウンドの影響もかなり大きいと思う。30年前は、景気が悪かった。日本人も国内は高いから海外を旅行してしまう。外国人は来ない。それは人だけじゃなく、輸出入も同じことだとは思う。日本のものはかなり安いから輸出が大きく増えているのかな?

 

日本人が海外へ行かなくなった。日本円が弱くて海外へ行けなくなった、という解釈もできるし、日本が魅力的なのに気付いたから、海外へ行く必要がなくなったという解釈もできる。

 

この日本人客は1割をどう解釈したらいいのかなぁ、と思う。日本が魅力的すぎる国なのか、日本人が外へ出られなくなったのか、その両方なのかである。

 

先日、北アイルランドのジャイアントコーズウェイという岬へ行ってきた。普通の場所では25度と丁度よかったのだが、ここはとても寒かった。Tシャツとちょっと上羽織るものだけで行ってしまった。風が強くて、体感温度は5度くらい。小雨も混じっていたため余計にそう感じた。

 

本来ならば、岬というのは風が強いところである。両側から風がぶつかる所。日本の岬でも、風がなかった所なんてあったかな?である。なので、そんな事は予想して、服装を考えなきゃ行けなかったのに、考えもしなかった。装備は二の次、三の次になってしまう。

 

それはなぜか?というと、外国人の事情がある。まずは、その国の人間でないから、交通の勉強を短時間にしなければいけない。そこまでは、どうやって行くのか?個人か、ツアーか?電車かバスか?予約が必要か、不要か?どこのターミナルから出るか?どれくらい本数があるのか?往復で買うと安いのかどうか?などなど。

 

こんなことを外国語で格闘していると、服装の事は忘れてしまうのである。

 

よく、外国人が軽装での富士登山が問題になっていた。僕は、外国人が舐めている、としか思ってなかったのだが、多分外国人は、舐めているわけじゃなく、そこまで頭が回っていない。

 

普通に考えれば富士山へTシャツで行くことなどあり得ないと思う。しかし、それは全てを知り尽くした自国人の余裕である。富士山まではどんな交通機関があって、JRであれば、どこで切符を買って、どれくらい時間がかかって、など大体は行くことが決まる前に大体知っている。しかも母国語で出来る。その余裕があるから服装まで注意できる。

 

外国人は、数ある行き先があるので、一つ一つは来る前は丹念に調べない。大体こんな感じ、くらいなのである。着いてから猛烈に勉強だ。翻訳機があるとは言え、相手は外国語である。遠さでさえピンと来ていない。

 

ただ、不適切な服装で来てしまったら、風邪ひくくらいならばいいのだけれど、命取りにもなる。富士山が、不適切な服装をする人は登らせない、とあるがこうするしかないと思う。いずれにしても外国人は、他にも注意する所があり過ぎるから、知らない人は無くせないのだと思う。

 

外国人でも本当にそこに行きたければ、丹念に調べて、装備もきちんとしてくるだろう。そんな人だけが、富士山に登ればいいとは思う。

 

外国にいると、いろいろなことに注意をしなくちゃならなくて、頭が回らない。そんなことを感じた。

今、僕は10日ほどアイルランドとイギリスの北アイルランド地方を旅行中なのだが、免税店でタバコを買いそびれたため、期せずして禁煙することになってしまい、禁煙4日目である。

 

なんでこんなことになってしまったのか?ヨーロッパやアメリカなどタバコが高いに決まっている。短期の旅行であれば免税で持ち込める1カートンで十分に乗り切れる。なので、現地のタバコがいくらするか?などは短期の旅行では気にしたことなどない。

 

今回のアイルランドへの航空券は、中国の上海経由だった。成田からの出発の時、バタバタしていた事もある。それに、日本で売っている免税品のタバコってそんなに安いと感じない。1カートン4千円は下回らないのである。せいぜい3割引くらいかな。途中経由地の中国は安いタバコがいっぱいあるだろうから、そこで買おうと思っていた。

 

ところが、上海の空港の免税店にはタバコが一切置いていなかった。うそだ、あのタバコ好きな中国人が、、。まるで、タバコなど元から存在しない、何それ的な雰囲気も空港から感じる。習近平がタバコ嫌いなのかな?ああ、日本で買っておけばよかった、など時遅しである。

 

こんなわけで、タバコを切らしたまま、ヨーロッパに入ってしまった。仕方ない、一箱千円くらいなら我慢しよう、と思ったけれど、なんと3千円。流石に馬鹿らしい。急遽禁煙になってしまった。

 

こんなにタバコが高いのに、現地の人は皆んなよく吸っている。若い人も、女性も、ビジネスマンも、白人も黒人もありとあらゆる人がタバコを吸う。よく負担できるなぁと思う。日本のように喫煙場所があるわけでもなく、屋外ならば街全体が喫煙所のような感じ。日本の方が喫煙場所ははるかに厳しい印象がある。

 

なにか、欧米では、タバコ吸う人は自己管理ができなくて、喫煙者だと採用しない会社もある、とか喫煙者は敗残兵みたいな扱いなのを聞いた事もあるけれど、本当なのかな、と思う。

 

東京オリンピック開催が決まった時に、タバコがどこでも吸える遅れた日本を、欧米各国のお客様に知られてはいけない、などと屋内を急に禁煙にしたりしてたけど、よほどイギリスの方がどこでもタバコ吸えるよなぁ。

 

日本はタバコに関して、喫煙する場所はとても厳しいと思う。しかし、値段はめちゃくちゃ優しい。600円なんてものすごく安い。この経済力で、この値段の国は、世界探してもどこにもないんじゃないかと思う。

 

一箱3千円だと3つで1万円だよ。日本の2倍の物価の国。給料も2倍だろうけれど、タバコだけは5倍。だから現地の人も結構堪えるだろうに、すごいなぁ、と思う。

「断る勇気よりも断られる勇気の方が大事かもしれない」という文章を読んだ。どちらも大事なのであるけれど、よく、断る勇気を力という話は聞くけれど、断られる力を持とう、というのは聞いたことはない。これはなぜなのだろうか?

 

自分は、断るよりも、断られる方が多くパワーを使うと思う。使うパワーは両方とも違うのだと思うけれど、断る、断られるの前の状態に戻すのに、どちらが大きな力が必要か、という点で、断られる方が大きいのではないかと思っていた。

 

事務的なものを含んだどんなお願いものであれ、断られるというには、自己否定の意味を感じ取ってしまうからである。当然の如く、断るときに、相手のことの否定が全部の意味は占めないことが多い。忙しい、用事がある、そのような気分じゃない、などなど。

 

しかし、否定の意味が含まれるときがない事もないがゆえに、断られた時に、自分の否定が含まれている、と感じ取ってしまうのもやむを得ないとは思う。

 

周囲の人に、どちらが大きなパワーがいるか、と聞いてみたが、5人ほど、異口同音に断る方がパワーがいる、と言っていた。なぜか?

 

それは断られるのは、相手が主体だけれども、断るのは自分がしゅたいで、主体であるのが嫌である、という事。そして、断られるのも嫌だけれど、断るのは、その気分が分かる上に、何かが加わってより大きなパワーがいる、とのことであった。なるほどね。

 

自分的には、断ることよりも、断られることの方が多い。自分が断らずになんでも受けているというわけでもなく、なるべく断る状況に陥らないようにしているかもしれない。例えば、自分はこういうキャラなので、誘われないようにするとか。誘うがない分、自分から誘わなきゃいけなくなって、必然的に断られることの方が多くなるのかな。何度断られても、慣れはしない。

 

しかし、断るパワーの方がより大きなパワーが必要だとしたら、自分が断る役でなく、断られる役を引き受けていることになり、相手に負担を負わせていることになり、なんだか申しわけなくなってきた。

 

断る勇気が必要とはよく言われるのに、断られる勇気は言われないのは、断る方がより大きなパワーがいるからかな?断る力さえ持てば、断られる力も同時につくのかな?

 

世の中の提案ごとの成立率なんて、そんなに高くないと思う。半分くらいしかOKにならないのかも。それならば、何でも断る、断られるが挟まっているわけで、それにしてはどちらもパワーが結構必要である。厄介なものだと思う。

 

 

この人間関係の基準とここでいうのは、誰を自分のテリトリーに入れるか、どの人とこの後人生をかかわっていくか、であり、人間関係の基準が高いということは、自分を高く売っている、という意味ではない。

 

この基準は各人それぞれで何がいいということはなくて、特定のものなのだが、この基準が低いと、自分のテリトリーに入れる人が多くなる。一般的に言えば、これを多分友達の多い人、と呼ぶことになる。そして高ければテリトリーに入れる人がとても少なくなり、友達が少ない人となる。

これは表面的に多くの人とうまくやる、ということとは全く関係がないと思う。

 

多分、この基準、低い方がテリトリーに入ってくる人が多くなり、良さそうには見える。しかしながら、これはお互いにとって、お互いが替えのきく存在、すぐに代わりが見つかる存在になってしまう可能性が高くなってしまうのではないか、と思う。

 

なぜか?まずは分母が大きくなるので、人数が多くなる。そうすると、必然とどこでもいる人に近い感覚になってくる。すぐに同程度の関係が見つかるので、関係が消耗品に近くなってしまう。何か衝突なすれ違いがあった時に、修復しようというよりは、別のを見つけよう、という気になってしまう。一つ一つの関係を丁寧に育てようという気が起きなくなる。

 

次に、基準が高ければ気付けていた、本来テリトリーへ入れるべき人の微妙な仕草や発言から見える独特さに、気がつかなくなってしまう。なぜなら多くの人と関わるために、その一人ひとりに十分な注意や時間を割けないためである。そして、話などが低い基準になってしまうためである。

 

低い基準は、ある意味で優しいし、誰にでも合わせられる。それ自体はいいことだとは思う。高い基準とは、尖っているものである。しかし、この尖った基準は引き寄せる人は引き寄せる。

 

自分が友達が多いと自分が思っている人と惹かれるものはなく、一緒にいると、居心地が悪い。ある程度の年にもなって、友達10人いる、などという人は信用できないと思っている。初めは、自分が友達が少ないから嫉妬かなぁ、と思っていたが、そうでもなさそう。

 

基準が低いために、どこにでもいるため、さほどまで魅力を自分にとって感じないと思うことと、この人と人間関係を持っても、自分が代わりがきく存在になってしまう、と思うからなのではないか、とも思う。

 

自分の基準ってどこにあるんだろう?何かディープな趣味があって一緒にやりたい、というのはない。なので、趣味が合う合わないは、全く関係がない

 

ぼくは、その人の脳みその中に興味がある。いろんなことを知っている、とか頭がいいというではない。その人が、世間に流布するものでなく、自分の頭でどれだけ深く物事を考えているのか?周りがどうしているかよりは、自分がどうしたいか、を考えられる人。言葉と行動が伴っている人。そんな人に稀に会うととても嬉しくなる。それらは、自分がこうなりたいという姿でもある。

 

自分は大した人間でもないのに、自分の基準ってすごく高いよなぁ、とは前々から思っていた。なかなか人をテリトリーに入れないし、他人のテリトリーにもなかなか入っていかない内向性を強く持っている。

 

それぞれ各人は自分なりの基準があるとは思う。人間関係の基準を低くすると、相手を誰でもいい存在として扱ってしまうのではないか?という話である。

お酒が飲めない若い人が、お酒が飲めないって損してますよね、と言ってきた。お酒が飲めない自分も若い頃、そう思っていた。

 

損している、というのは、お酒が飲めないから、多くの飲み会がそんなに楽しくない。飲めないからシラフに近いのに、周りのノリについていけない、お酒もそんなにおいしくない、その割に割高である。人間関係形成に差が出る。ノリは悪い人となる。このために自分は損していると思っていた。

 

自分は今は全くそうは思わなくなった。考えが変わったのは30代を過ぎた頃かと思う。これは、お酒を飲んでのトラブルを多く目にするようになったからかと思う。

 

それに、飲み会での話、関係性は、竜宮城のような感じで、シラフの世界では通用性が薄い。嘘か本当だか定かでない。責任や覚悟を持った発言なのかも定かでない。飲み会でできた人間関係が素晴らしくて、今まで長く続いた例はないから、そう思わなくなったのだと思う。これはあくまで自分個人の感想で、他人の楽しみどうのこうのの問題ではない。

 

お酒を飲んでシラフに近い人に対する発言は、相手に対していい事であれば、酔っ払っているからという理由でその言ったいいことの半分も気持ちが伝わらない割に、相手に対して悪い事であれば、その悪い意味が増幅して伝わるような効果もありそう。

 

40を過ぎると健康にも差がつく。健康のために好きなものを我慢するという考えは好きではないが、飲まないで楽しめたらそれはお得である。

 

お酒飲める飲めないはいい点悪い点がある。どちらがいいと言えない。なので、優劣の関係ではないっぽく、並列の関係のようだが、そう感じてしまう。

 

これは、可能形、不可能形を使っているからかと思う。この形を使っていれば、可能の方が優となるので優劣ができる。自分も若い頃は、この可能形が適当かと思っていた。

 

しかし、よく周りを見てみると、お酒を飲める人のうち、仕事をしている時間以外で人と会う時は、お酒を外せない人がかなりいる人がいることに気づく。飲まないと話せない人、となってしまっている。

 

これはお酒が飲める人が、お酒がないと親しい人の前でも心のガードを外せないというのがあるのかな。なのでお酒がないと話ができない人となる。飲めない人は、元からガードなどそんなにない気がする。

 

この飲む人と飲まない人は、楽しみ方はもとより、人間関係形成の仕方も違う気がする。これはディズニーへ行くか行かないかのような、ただ楽しむ方式の違いではないかとも思う。なのになぜ、飲む、飲まないではなく可能形を使うのだろうか?

 

これは、成人してからの男性の交流形態のテンプレートが、女性と異なり、飲み会一辺倒、飲み会ありき、となっているからか。飲み会の雰囲気は飲める人が先導していくから、飲めない人は不利な立場となる。

 

女性は、コーヒーやランチやデザートで人と楽しむことができる。逆に男性と違い、女性でアルコールがないとダメという人ならば、すぐさまアル中のレッテルを貼られそうだ。

 

大部分の人は飲める。これが多数派となって有利な考えを作る。これが故に優劣っぽい関係になっているのかな。やっぱり、自分のことは正当化したいからね。これは意識してやってはいないと思う。しかし、意識していないから始末が悪くなるかもしれない。

 

自分も若い頃は、お酒を飲めば、飲める体質になる、なのでどんどん飲むべきだ、の理論をいっぱい言われた。優劣である。今頃これをいった人は、アル中か、健康害しているか、酒癖悪くて誰からも誘いの声かからないか、少なくとも酒がないと人と話せない人になっているかと思う。適当なことを言っていたものだ。まともに聞かなくてよかった。

 

この多数派だから、本来は並列の関係にあるのに、優劣の関係っぽいもの、結構あるかな。結婚している、していないもこの類かと思う。

 

この優劣関係が逆転した例が喫煙かな。昔なら、喫煙するが優劣の優だったかもしれない。今は、喫煙しないが優。健康などの理論もあるけれど、数が逆転して、非喫煙者が多くなったからではないのかな?そんなに健康優先ならお酒だって、劣にすればいいのに。数の理屈でしかないのかも。

 

自分も、どこかの分野では多数派となり、どこかの分野では少数派となる。自分が多数派になった時に、自分の立場を有利にするために、優劣論理を持ち込まないようにしたいと思う。

 

それと、他人のアドバイスも結構適当である。ただの受け売りだったりもする。なので、参考程度に留めておいて、自分でなんでも決めるのがいいと思う。いい面、悪い面も自分の選択の結果として受け入れれるから、スッキリしていいと思う。

 

人と人との相性とは何か?なぜ、ある特定の少ない人間関係だけが、長く、深く続いて、それ以外の関係はある程度で止まってしまうのか?これらの違いはなんなのか?

 

ダンパー数という人間の脳から、ヒトが管理できる人間関係の数には限りがある。自分に一番近いテリトリーに入れる人は、パートナーを含めても5人しかいない。

 

簡単に言えば、相性なのだろうけれど、相性とは何か?前回のアイデンティティと、価値観の話でも通じるものであるが、もうちょっと深ぼってみたい。

 

人間とは、よく見ると、3つの層から成り立っているらしい。これで少し相性というものが説明できるかもしれない。

 

一番外側のレイヤーが、属性である。前回のアイデンティティのところで書いたもの。人種、出身地、年齢、職業、旅人である、などなどである。

 

中間のレイヤーは、ライフスタイル。休日の過ごし方、行動パターン、趣味。そして、核の中心となるのが、価値観で、これには倫理観、思考の深さ、他者へのレスペクトである。

 

外側のレイヤーが同じであれば、出会いの瞬間、入り口はとてもスムーズである。すぐ打ち解けたように見える。しかし、ここが同じだと、分かり合えるはずだ、という錯覚が起こりやすく、その後、核のレイヤーが違っていたりと、ギャップを起こしやすいような気がする。

 

しかし、長く深い関係を築くためには、核のレイヤーが同じである必要があると思う。この同じというのは、同じ意見を持っているという意味ではない。

 

この核のレイヤーが同じであれば、外側や中間のレイヤーが違っても、深く長く続く関係になると思う。なぜ年齢も趣味も全く違うのに、物凄く気が合う、相性がいい、となるのは、この核のレイヤーが同じなのだと思う。

 

逆に、まぁまぁ話は合うけれど、なかなか深まらない関係というのがある。これは中間や外側のレイヤーは合ってたりするのだけれど、最後の核のレイヤーが微妙にずれているからだと思う。

 

外側だけ合っている人は、初対面近くではすごく盛り上がるが、もう尻すぼみとなる。

 

人には、それぞれ親密度の上限度があるのではないかと思う。ある人とどこまで親密になれるか、である。相性とも言うかもしれない。核のレイヤーが合っている人であれば、親密の上限はないか、すごい大きい数。仮に親密度の上限200だとするとまだ50までしか来てないから、会えば会うほど、どんどん深まっていく。

 

しかし、中間のレイヤーが合っている人の親密度の上限は30だとして、もうその数に達してしまっている。このため、これから何度会っても親密度は深まっていかない。

 

これは相手が悪いの問題ではなくて、相性の問題である。

 

この外側、中間、核、どれも相互に作用しあっているようで、そうでもなさそう。外側と中間が合っていれば、核があっている可能性が高くなるのか?というとそうとも言えなそう、というのが僕の感覚である。

 

自分のこの人といると本当に楽しいし、楽だなぁ、という人は核のレイヤーしか同じじゃない。中間は同じではない。

 

となると、本音を言える人間関係を作りたい、となると、趣味のサークルに入るというのが定番であるが、これだと中間レイヤーになってしまうから、一般の世界と変わらない、とは思う。