最近、4泊5日で沖縄へ行った友人が、1日を除いて、全部天気が悪くて参った、と言っていた。そして、今度は直前まで一切の予約をせず、天気が良かったら行く、という方法を取りたい、とのことだった。

 

本で読んだが、遠くニューカレドニアまで年末年始に行って、天気が良かったのは1週間のうち、わずか1日。あとは雨で一切海に入れなかったとのこと。大枚をはたいたであろうに、悲惨なことである。

 

だから、天気が良かったら行きたい、というのは痛いほどわかるのだが、天気がよければ行く、というのは、日帰りや1泊程度だったり、一人で行く場合には、そんな事もできるだろう。しかし、実際それをやっている人は、複数人で行く場合で2泊以上だと、聞いたことがない。

 

では、直前に行くかどうか決める、というのはどんな問題点があるのだろうか?

 

まずは、いくら精度が上がったから、と言っても天気予報って結構当てにならない。2週間前から予報も出るが、途中でコロコロ変わる。見るサイトによっても違う。それだけ当てにならない。なので、元からそんなことを読むのは難しいと思ったほうがいいかも。

 

日本は、温帯に属していて世界でも有数の雨が降りやすい国である。雨はこの国に生まれた使命として諦めるしかないのかも。その分、晴れた日が嬉しいというのもある。

 

さらに、コロコロ変わることのよって、同行者の行くという決意やらワクワクやらが揺らいでくる。一人旅でない限り、天気が良ければ行くだと、メンバーの行くという決意が無くなってきちゃいそう。面倒臭いからやめよう、となりかねない。

 

2週間前に予報でも見て、天気悪そうだから、別の予定入れるか、となって、おじゃん。結局、天気はさほど悪くなかったなんてことが起こりそう。

 

2泊以上だと、ある程度遠隔地になるから、飛行機や新幹線、パスポート、宿泊予約などの準備をするだろう。それをすることによって、行くんだぞ、という気になってくる。それが無くなってしまうのだ。旅行前のワクワクの気持ちの期間がない、というのは勿体無いことだと思う。

 

この天気が悪い問題にはどう対処するんだろう?身も蓋もない話だけれど、日程をできるだけ長くするしかないのかもしれない。

 

日程が長くなれば、ほぼ天気が悪い日といい日が混じるようになる。いい天気を確実に過ごしたいのなら、それしかない気がする。その分、悪い天気の日も確実に経験するわけである。

 

それができれば苦労しないという声が聞こえてきそう。しかし、他は、悪天候を避けたければ、どこにも行かないという選択しかなさそう。

 

お金をいっぱい払ったから、天気が悪くて悔しいという気持ちはよくわかる。しかし天気は本質的によくわからないもの。

 

旅行は、日常的な他の予定を全て排除して、非日常の中で同行者と一緒に時間を過ごすためのもの。時間の共有相手のない一人旅とは意味合いが違う。となれば、雨の日も、いずれいい思い出になる。これを受け入れるしかない、と思う。

 

 

 

言ったもん勝ちだよなぁ、というのはよく批判的に使われる言葉である。大きくはパワハラやセクハラから始まり、様々なことで使われる。

 

言ったもん勝ちとは「自分の意見や要望を先に主張した人が、発言しない人よりも有利な状況になったり得をしたりする状態」である。ではこれは、そこまで実質的に批判的に見られることなのだろうか、と思う。

 

多分、この中には、みんな今まで我慢しているのに、なんでお前だけ主張するのか、というニュアンスが含まれていると思う。

 

この我慢というのは、なんだかちょっと美徳とされがちで、特に管理する側の立場からは我慢させるには便利な状態でもある。しかし、この我慢には、本来、本人が努力すればなんとかなることなのに、あるいは耐えるべきことでもないのに、それに耐えるという意味が含まれていて、あまり良くないことなのではないか、とも思う。

 

それに、相手は、あなたが何を考えているのかはわからない。それが受け入れられるかどうかは別として、言わないと考えていることは伝わらない。

 

自分たちのことをわかってくれているだろう、というのは、ごく親しい間柄のみに通じるものである。親しい間柄には、言ったもの勝ち、という言葉が存在しないのもわかる通り。他人、会社、社会など距離のあるものに対しては、こうしたい、これは嫌だ、というのは言わないとわからない。

 

なので、言ったもん勝ち、というのはそこまで批判的に見られる筋合いのものでもないと思う。

 

こういう事を、言って、自分の考えを通そうと努力するか、波風立てるのを恐れて、呑み込むか、これは各個人の生存戦略の気がする。どちらが自分にフィットするか、馴染むか、で分かれている。

 

この生存戦略が違うから、批判したくなる、ということかと思う。

 

自分の意見を発言する人が、発言しない人より有利になる、とはいうけれど、なかなか発言するのも、手間や勇気がかかることであり、なんだアイツ、と思われるリスクを引き受けることでもある。なので、全体的に見て本人にとって有利になるかどうかは微妙なところだ。

 

まぁ、ここは生存戦略の違いということで、相手は言わないとわからないので、言ったもん勝ちでも構わないのかもしれない。

 

 

僕は駅員として働いている。その働き方についての話である。よく、普通の9時5時で働いている人から、どんな風な時間で働いているのか、質問が来る。

 

駅員は、電車が朝早くから夜遅くまで動いていて、その世話をするわけなので、朝から晩まで働くことになる。基本は朝8時から翌日8時までの仕事で、それで2日分となる。

 

自分が思うトンチンカンだなぁと思う質問は、え、職場に泊まるの?である。当然である。終電や始発を世話するのだから、どこに住んでいたって、車通勤でない限りは帰れない。

 

それに職場にシャワーがある事が驚かれる。僕からすれば、そりゃそうでしょう、と思う。

 

しかし、この自分がトンチンカンだと思うことが、相手がどんな風な働き方をしているのを知らないか、想像できないから、そう思うのだろうなぁ、と思う。もし、想像できていたら、もっと上手く自分の働き方を表現できるだろう、と思う。

 

今まで、旅行会社でのカウンターと、ホテルのフロントマンとして働いてきた。ホテルのフロントマンは駅員ときわめて勤務が似ていて、泊まりがある。

 

旅行会社のカウンターは日勤なので、一般の9時5時の人に近いけれど、お店は土日もやっているし、もっと夜遅くまで開いているから、9時5時ではない。早番、遅番と分かれている。

 

いずれの仕事も9時5時と違って、シフト制である。シフト制とは「従業員が交代で勤務する働き方。出勤する曜日や時間帯が固定されておらず、週や月ごとに作成される勤務シフト表(スケジュール)に沿って勤務する 」

 

仕事は朝早くから、夜遅くまで実際に稼働しているから、一人の勤務時間には収まらないので、代わりが必要だ、ということか。

 

シフト制だと、どういうことが起こるか、というと、土日休みとは限らなくなる、毎日、一緒に働く人が違う、上司もその日ごとに違う、となる。一斉に働くわけでないから、同僚やらと、全員で集うことはできない。

 

このシフト制でしか働いたことがないため、一般の人がどんな感覚で働いているのか、ちょっと想像できない。

 

毎日同じ人と同じ上司。一斉に昼休みや退勤、そして、毎月固定した休みだから、先が読みやすく、予定が立てやすい。シフト制だと、シフト発表まで、勤務が確定しない。それが1週間前とかである。用があるときは前もって言うこともできるけれど、頻繁にはやりにくい。

 

特に泊まり勤務だと、週に何日かは、夜でも必ず空けられない日が出てくる。なので、予定が間近まで確定しない。

 

妹は、普通の勤務をしているから、土日は、本人さえ用を入れなければ、空けられるでしょう、みたいな感じだから、腹が立つ事がある。

 

この相手の働き方を知らないから、どんなことが不思議なのかわからない。だから、トンチンカンだと感じることになる、ってことだと、自分も想像力が足りないなぁ、と思う。

 

ただ、電車が平日は混んでいて、土日ガラガラのところを見ると、世の中は9時5時が大勢なのかな、と思う。この9時5時の働き方の感覚、もっと知らなきゃ、と思う。

 

どんな質問をすれば、相手の仕事をイメージしやすいんだろう?今度は自分がトンチンカンな質問をする場面になるんだろう。毎日、同じ人と働くのか?など。イメージするって簡単じゃないかもしれない。

娘が高校へ入学したが、附属中学から上がってきた同級生を見て、「内部進学生って、体育できないなぁ」と驚いていた。

 

これを見て、私立と公立中学の違いを考えてみたい。

 

娘が公立中学1年の時に、入部したバスケ部が合わずに、一悶着あったことを書いた。結局辞めたのだが、その時の顧問が、3年間世話ができず無念ぐらいの表情をしていて、温度差にびっくりしたのだった。

 

僕は、部活動は、学校の課外、余暇活動であって、やりたければやれば良い。合わなければやめれば良い、という考えで、何を部活を辞めるで、そんな深刻に、ぐらいに考えていた。

 

しかし、先生はもちろん、保護者の多くも部活動は入るべきもの、入ったら3年間続けるもの、そして入るのは運動部、と考えている事もわかった。

 

では、僕の部活に対する考えはどこからきているか、というと私立中学に入ったからかもしれないのだ。部活も盛んだったのだろうけれど、それはやりたい人、得意な人だけがやるもの、という雰囲気だった。やらねばならぬ、しかも運動部、という雰囲気はなかった。そして自分は文化部に入る。

 

それは体育に関しても同じ。体育は多くの科目の中の一つという認識しかない。特に重要ではない。それよりは、英語、数学、国語である。自分個人の見方というよりは、学校全体の見方だと思う。

 

それに関連して、体育祭。体育祭も何をやったか全く記憶に残っていない。あったっけ?ぐらいだ。親は見に来ていたっけ?

 

公立中学のような、さぁ、白組一丸となって応援しろーなどということは全くなかった。多分友達と端っこで関係ないことをしていたと思う。なので、練習も含めて、全く覚えていない。

 

体育なのか、体を動かすことなのかであるが、それに対する考え方が、公立中学と私立では違うのではないか、と思う。これもどちらがいいという問題ではない。どっちにも理がありそうだ。

 

内部進学生が体育ができないのは、中学で体育を全く重視していないからである。形上やっているだけである。得意な人だけがやっているのである。

 

部活や体育に関する考えが、自分の元からのものなのか、それとも環境からのものなのか、どちらなのだろうか?

 

日頃から、自分は感謝が足りないなぁ、と思っている。感謝が多ければ、幸福な人生につながる事も知っている。

 

今度の題材は会社が行う「健康診断」についてだ。現職でこの健康診断は、勤務時間外に受けている。つまり、自分の自由時間を使って受けている。前の2つの会社は、勤務時間内に受けていた。

 

なんで自分の時間を使わなきゃいけないの?とぼやいたら、ある人が「でも会社が自分たちの健康の面倒を見てくれていんだから、感謝しないと」、と言っていて、自分は感謝が足りないのかなぁ、と思った。

 

しかし、どう考えても、この考えにはならなそうだ。この健康診断、多分法律でやらなければいけない、と規定されているものだと思う。それに受けなかったり、結果次第では勤務に就けなくなる。なのでもろに業務に関係している。

 

ならば健康診断の時間は給料を出さなければいけないはずと思う。移動時間を含めれば、2時間も吹っ飛んでしまう。

 

確かに、この健康診断によって不調が見つかり、より健康になって助かった人もいるだろう。自分にも役には立っているかもしれない。しかし、健康診断して欲しい、と自分は会社に頼んだわけでもなく、受ける受けないの選択肢が自分にあるわけでもない。

 

この状況で、どうやってやって感謝、という気になれというのだろうか。

 

受けたくても、無料で受けれない人がいる、という理屈もちょっとずれている。なぜなら、自分が望んでないものだからである。

 

僕の親友が、高校時代、沖縄への修学旅行へ行かないと、学校側と揉めたことがある。行かせたい学校側の理屈としては、行きたくても行けない人がいる、という。しかし、やりたくても出来ない人がいることと、本人が望んでいないことをさせることは、違う次元の話だと思う。

 

だから何か?なぜ自分がやらなければいけないのか?という説明にはなっていないと思う。

 

この感謝が多い人と、自分のような感謝が少ない人は、考えの構造が根本から違っているのかもしれない。

 

自分が求めているのかどうか、そして、行動の選択肢があるのかどうか、というのを自分は土台に考えてしまっている。自分の都合が最優先、っていうことなのだろうか?

 

感謝が多ければ、僕のようにイライラする事も少なくなろうと思う。しかし、本来なら自分がやらなくてもいい事、やる必要のない事も感謝しながらやるようにはなって、時間のない苦労が多い人生にもなりそう。お互いの暮らしを見ないからそれでもいいのだろうけれど。

 

これだけ考え方が隔ったっていると、そのような人とは、他のいろんな面でも、あれっと思うことがいっぱい出てくるんだろうなぁ、と思う。他の価値観を学ぶのは大切だけれど、衝突を避けるために、当たり障りのない話でもするか、とも思ったのだった。

 

情報弱者とは、「インターネットやデジタル機器の利用環境が乏しかったり、情報を収集・活用するスキルが不足していたりする理由で、必要な情報にアクセスできず社会的に不利な立場に置かれがちな人々」ということらしい。

 

情報弱者という言葉なのだけれど、本質的に情報弱者などいるのか?あるいは、皆が情報弱者ではないか、と思う時がある。

 

なぜなら、情報を収集、活用するスキルが不足している、とあるけれど、これは相対的なものであるし、何を持って、自分はそれを活用しているスキルがあるとするのか、実はよくわからない。多分、活用できていない人よりは、活用できていそうだ、のような根拠のない自信からしか、きていないんじゃないか、と思う。

 

この必要な情報にアクセスできない、というのも必要な情報とは何か?である。人によって違うはずで、情報に出所が信用できるかどうかも、何をもって信用か、何をもって正しい情報というのか、ーというとこれも心許ない。

 

今や、情報が溢れかえっていて、情報を持っていることが情報弱者ではない、というのも明らかである。処理しきれない。これなら情報など全くない方がいいんじゃないかと思う時でさえある。情報があるが故に、自分で考えることができなくなって、判断できなくなってしまいそうだ。

 

情報に振り回されないように、とあるけれど、自分が振り回されていないという根拠なんてあるのかな?と思う。

 

何かを知らないがために、損をしたり、得できないことはあると思う。しかし、その得をするためだったりに使っている時間やエネルギーを考えると、本当に損をしていないのかわからない。損をしていないと思われる人は、その特定の損を避けるための情報だけでなく、あらゆるものを集めているだろうから、である。

 

それに、得だと思われるものをゲットできたとしても、それが大していらないものだったりした経験はあると思う。得でなければ、こんなものに手を出さなかったのに、である。その情報があることによって、余計なことをした事もあるだろう。

 

となると、本質的に、情報弱者など誰もいない、あるいは皆が情報弱者が合っているのかもしれない、とも思う。

つい便利で、僕もいろんなところで使ってしまいそうになるのだけれど、なるべく使わないほうがいいし、使うならもっと絞って使ったほうがいいと思う言葉がある。

 

それは、才能や、相性などの言葉である。なぜ彼はあんなにも何かができるのだ?という答えで才能と使う。なぜ、彼らはあんなに仲がいいのか、という答えで、相性と答える。

 

これって何かを答えているようでいて、全く答えていない。説明や、考えを放棄したような感じがある。自分は全く考えてません、といっているのにも等しいんじゃないかと思う。

 

才能やら相性などは、とても複雑で、各個人によって解釈の違う言葉だと思う。あなたの思う才能やら相性とはどんなことを言うのか?をある程度輪郭して出せば、これらの言葉は生きてくる事もあると思う。

 

相性や才能などと簡単に片付けないで、もうちょっと掘り下げて説明して欲しかったなぁ、と思う。

 

あまり軽々しく使って欲しくないなぁ、とこれに似た言葉は結構ある。コミュニケーションやパワハラなどもそれにあたると思う。

 

部内での意思伝達を良くするためにはどうすればいいか、その答えがコミニュケーションを取る、のように使われる。この言い方はパワハラだ、などである。

 

コミニュケーションを取れれば苦労はしない。あなたの思うコミニュケーションとは、どの程度の深さのことを言うのか、なぜそれが今実現できていないのだろうか?をある程度突き詰めれば、その言葉も生きてくると思う。

 

パワハラについても同じだ。あなたが思う相手のどういった言動が、なぜ不適切だと思うのか、というのをパワハラという言葉を使わずに説明できれば、パワハラという言葉も生きてこようというものだと思う。

 

なんだか、こういった言葉を気軽に使われると、何かこの人は原因を解明したような立派な顔をしているけれど、何も考えていないじゃないか、と思ってしまい、これ以上、その人の話を聞いていられなくなってしまう。

 

幼稚園生には失礼だけれど、俺たち幼稚園生じゃないんだからさぁ、もうちっと解明してくれよ、と思ってしまうのは、性格の悪い自分だからだろうか?

お恥ずかしい話の告白なのだが、今、親しく付き合っている人として、会社員になってからの人はいるが、学生時代の人はいない。これはなぜなのだろうか?考えてみる。

 

とは言え、学生時代が暗黒だった、とは全く思っていない。多分多くに人と同じようにそれなりに楽しんできた。しかし、学生時代の友は一生の友、という言葉に、そうだろうか?と思ってしまう。

 

よくある話で、小学校ー大学時代までが、友達ができやすい時期だとされている。時間があり、自我が確立していなくて、などなど。何度も出す話だが、友人ができるまで100時間、親友になるまで200時間かかる、という研究結果もある。これが容易に達成できるのは、学生時代しかない。

 

今付き合っている人は、どの時代の人かを聞いてみる。小中学時代、高校時代、大学時代のどれか?となると、多くの人は、どこか特定の時代の人だけと付き合っていることが多い。つまり、小中学時代だけの人、とか大学時代だけ、である。

 

大学で地方から東京へ出てきている場合。高校時代までの友人と付き合いが深い場合は、頻繁に里帰りし、将来は地方に戻りたいと考えている。大学時代の人と付き合いが深い場合は、里帰りも最小限、もう東京で暮らすことを決意しているような感じだ。

 

大学時代のみの人と付き合いがある、と答えた人の中には、大学に入って自分が変わってしまったから、と答えた人がいた。

 

この特定時代だけの友人がつながっているというのも不思議な話だ。各時代、時間はたっぷりあり、それなりに仲の良い人はいたはずである。共通の話題もそれなりにあるはずである。それなのに、ある特定時代だけの人と今現在繋がっている。

 

これは、各時代ごとの自分の姿は、それぞれ違う。違っているから、違う種類の人と親しくなっている。その各時代のそれぞれ違った姿と、現在の自分の姿との整合性によって、一緒にいて心地いいかどうかが決まって、付き合いが続いていくにだろうか?

 

僕は、大学を出てから、2年の長旅をしてしまった。大きくレールを外れた。この間に、自分の中の何かが大きく変わってしまった可能性がある。自我が変わったのかな?

 

学生時代までの自分と整合性が取れなくなってしまったがゆえに、学生時代の友人が今はほとんどいないのではないか、と妄想する。いまいち一緒にいても、しっくりこない、という感じになってしまったのかな、と思う。

 

一般的には、学生終わって、すぐに会社員となるから自我が作り終わっているのかもしれないが、これが後ろにずれてしまった。

 

さらに、何か変な自我となってしまい、会社員となる。この自分の変な自我は隠す事もできないほど変だから、逆に会社員になって親しくなれる人ができる、ということなのだろうか?

 

この大きくレールを外れる経験は、自分にどれだけの影響があったのだろうか?外れている場合と、外れていない場合の検証が同一人物では不可能だから、わかりようがない。

 

 

 

僕は、音声配信のVOICYを聴いたり、noteを読んだりしている。聴いたり、読んだりしたものの中で、なるほどなぁ、と思って自分のブログに書こうかな、と思う事も多々ある。

 

しかしながら、これで書き始めたとしたら、原作者が言っているのと同じような内容のことを書くことになる。

 

我ながら、人の考えに影響されやすいと少々残念にも思う。もし、同じような内容であれば、その原作者のものを聴いたり読んだ方がよほど内容も濃くて、「これを聴いてなるほどと思った」などと自分が書く意味がない。

 

ならば、どういう時に書こうと思うのか、というと、誰かとそのことについて話をして、新しい見方、視点が加わった時、深められた時、あるいは自分の中でその考えが発酵、書きたい、と思った時なのかな、と思う。

 

だいたい、読んだだけ、聴いただけでなるほどと思ったものは、大部分は忘れてしまう。しかし、忘れていても、何かの拍子で意識に上って話に出す。そうしたら、自分も含めた相手の体験や話がその話題に乗っかる。

 

インターネットで公開されている音声や文などは、URLさえ教えれば、誰でもアクセスできる。しかし、目の前の人の口から出た話は、聞いた人しか聞けないものである。それであれば、書く価値が十分ある。

 

どう思う?と何かを聞くと、大体の人は「個人的な意見だけれど」という前置きが来る。いや、個人的な意見が聞きたいから、それが貴重なんですよ、と思う。僕も、どう思うか?聞かれたら、個人的な意見だけど、という前置きを置いてしまう。

 

こんな、正しくはないかもしれないけれど、個人的な感想だったりが、書く意味のあるものかな、と思う。

なぜ大学へ行くのか?をよく考えてはいる。大学など行かなくたって、今はインターネットで仕事ができるし、などなどもっともな話がある。これに似たような話は、自分の若い頃もあった。「大学に行かなくたって、起業すればいい」などなど。

 

つまり、いつの時代にも「大学など行かなくたって、〇〇○である」という話はあるので、今現在に限ったことではない。

 

可能性を広げる、といってもそうかなぁ、と思う。なぜなら、いい大学へ入ったが故に、選ぶのが難しくなる職業も出てくる。例えば、現場仕事のようなものである。それに、選択肢が多いと、人は決められなくなるものでもある。20個の中から選べ、というより、5個の中から選べ、という方が選びやすい。

 

では、一体大学へ行く意味とは?いくつもあるのだろうが、自分と合う人が見つけやすい環境で、18歳から22歳まで過ごすため、っていうのもあるのかな、と思った。

 

それを感じたのは、同僚のお子さんが、東大に行っている、という話を聞いたからなのである。へぇー、とどんなお子さんでした?と俄然興味を持って聞いてみる。

 

とすると、発達障害で、多動児だったらしい。しかし、特に大学での友達は変に思ってないみたいだけどね、と付け加えていた。

 

東大は極端にしても、勉強ができるという事もできない人と同じく、ある意味発達障害である。それが問題というよりは、標準から外れているからだと思う。例え問題行動も、標準になれば、問題でなくなる。

 

この発達障害というものも、普通になれ、普通の行動が素晴らしい、みたいな考えが含まれていそうで、あまり好きではないのだが、とにかく、普通とは違う行動だったらしい。

 

この話から、自分に合う人、考えていることを同じレベルで話したり、異常に見られたりすることなく、家庭環境も近く、まぁまぁ快適に過ごせる空間。これの一つが大学という場所なのかな、と思う。大学でなくてもそんな場所もたくさんあるのだが、一つ、わかりやすい場所だ。

 

仕事をしてみて、世の中にこんな人いたんだ、と常識やら環境やら、行動仕様に驚く事も多いが、学生までいかに似た環境の人、合う人たちの中で暮らしていたことの裏返しであると思う。

 

その分、多くの価値観に出会えないのかもしれない。それは、欠点であるけれど、あまりにも違うと人生が不快適になる。話がすれ違い、孤独感を感じる。そんな環境で、若い時過ごすのもあまりいいことではない。そんなのは会社に入ってからいくらでも経験できる。

 

なぜ、それが学力という一つのふるいで、ある程度区分けできるのか?というのはまた別に考えていかなければいけない話ではあると思う。