親友とパートナー、かなり似通った性格があるとは思う。一緒にいて楽、楽しい、お互いのことをよく知っている、などであるができるまでの時間が相当差がある。

 

パートナーが欲しいと思ったら、大人でも3ヶ月でできる例は少なくない。それなのに、親友が欲しいと思っても、できる可能性はかなり低いし、出来るとしても数年の大事業である。これはなぜなのだろうか?

 

まず一つ目は、パートナーの場合は宣言をしてから関係を作り始めることができることか。合うかどうかわからないけど、付き合いましょうと、どちらかが宣言をし、片方が受け入れて関係を作り始める。

 

これが、親友の場合は取れない。ある程度、その人の親友候補になるまで数ヶ月から数年かかり、さらにそこから実際の親友になるまで数年である。宣言をしないから、急に距離を詰める事もできず、手探りでの判断となるから、時間がかかるのか。

 

そして、セックスがあるかないかである。セックスがあると急にお互いの距離を縮める効果がある。これによって、関係の近さで何年もの時間を飛び越えることができる。

 

セックスをすれば、していない相手の欠点なども目をつぶりやすくなるかも。その代わり、セックスに飽きれば、セックスレスになれば、その欠点がより大きく見えてしまうかもしれない。親友の場合は、そんなセックスによる優先権で、関係を結んでいるわけはない。良いも悪いも含んだ相手である。ちょっとやそっとでは壊れない。

 

異性の親友と、セックスをして、パートナーとならない場合、親友から転落して、セックスフレンドになってしまうのではないか、と思う。セックスフレンドは、フレンドの意味はほとんどなくなる。セックスは諸刃の剣だと思う。

 

法的にパートナーは守られる、というのもある。大した関係になっていなくとも、法的に守られてしまえば、それを破るのは面倒臭い。それに一人しかパートナーになれない。それゆえに、短期間でパートナーとなることができる。責任も伴ってくる。

 

これに引き換え、親友には、法的拘束力は全くない。なので、親友となるには、真の何がしかの共有体験のようなものが必要である。この共有体験を積むのに、大変な時間が必要である。責任もなく、完全な自由意志である。

 

そして、多くの人の場合、パートナーは作らなきゃいけないもの、であるのに対して、親友はなくてもいいものと捉えられている。本当は、両方なければいけないかもしれないし、両方なくてもいいかもしれない。ただ、そういう意識があるが故に、パートナーはすぐにできる。

 

セックス、法律、必要性、どれも無しで、唯一無二の関係を作るには、時間をかけた共有体験による人間性の判断しかないから、ものすごく時間がかかる。

 

当たり前だが、両方の性質が、全く違う。それが故にわずか数年でパートナー関係が破綻したり、何十年も続く親友関係ができたりしていく。いがみ合っていても夫婦関係というのが出てくる。

 

親友に、いがみ合ってもというのはない。関係を解消すればいいし、長期にわたって作ったものだから、破綻可能性も夫婦関係よりはかなり小さくなる。

 

一般的には、ロマンチックな関係が、プラトニックな関係の親友より関係的に上位に来る、という意識があるが、これも変な話で並列な関係、比較不可能ではある。

 

モテるけど、友達いない人がいるのも、両者は似ているけれども、モテるための行動と、友達になるための行動が全然違うというのがあるのかも。

 

アプリでパートナーを探すのはうまく行く場合もあるけれど、アプリで親友を探すのはほぼ不可能そうではある。これもそんな性質の違いがあるのだろうと思う。似ているけど違う両者である。

 

 

愚痴を聞いた。うちの職場での偉い人が、会社内のもっと偉い人と私的にゴルフへ行ってきたそうだ。あーつまんなかった。本当に気を遣って嫌だ。偉い人に媚びへつらう姿を見るのも嫌だ。よっぽど気のあった奴と行く方がいい。なんで、こんなゴルフコンペみたいなものがあるんだろう、と言っていた。

 

この人も前の職場では「ゴマスリの〇〇(その人の名前)」と呼ばれていたことを知っていたので、心の中で笑ってはしまった。ゴマスリの能力で負けたか?僻み、嫉妬も入っているだろう。

 

いわゆる接待ゴルフ、こんな思いで参加している人がいるのも事実で、なんでこんな行事が存在するのだろうか?

 

多分、偉い人はつまらない気持ちで参加している人がいるとは想像していないか、関係ないと思っていると思う。僕だったら嫌だけどなぁ。

 

多分、行事を企画する人は、偉い人ではなく、中間ぐらいの人だと思う。企画して、まずは本当に来て欲しい人、そして偉い人に声をかける。

 

なぜ偉い人に声をかけるか?その人によく思われたいというのもあるのだろうけれど、もっと大きいのは偉い人ほど声をかけられないとヘソを曲げるというのがあると思う。ちょっと子供っぽいけど、偉くなればなるほど、歳を取れば取るほど、自分が外されたと感じるようになる。

 

しかし、よく考えれば、偉くなれば、自分が行ったら気を遣って嫌だろう、それに会社の仲だし、誘われないからって、人気と結びつけるにも短絡的だとは思う。声がかからないのは自然っぽい気もするが、とにかく機嫌を損ねるので、呼ばざるを得ない。これは平社員の感覚と大いに違う。

 

それに偉い人には取り巻きがいる。なんでもその通りと言ってくれる。他の人がどんな思いかというのを知るのが難しい。普通の人には、そこまで取り巻きがいないので、別の考えがあることを知れる。偉くなると、かえって全体を見渡せなくなるかもしれない。

 

その愚痴を言っていた人だって、それなりに偉い。そんな思いを他の人にさせる行事をしてきただろう。そんな噂も聞いている。本人に全く自覚がないから、本当に人ってのは自分のやっている事はよくわかっていない。

 

人類学者の中根千枝氏が書いていた本の中に、それなりに社会的に地位についている人は、一見視野が広いように見えるけれど、取り巻きに囲まれるからかえって視野が狭くなる事もある、と書いてあって、そんな考えもあるのか、と目から鱗の思いだった。

 

地位が上がったり、歳をとると、経験は増えるけれど、見えないものも増える。エコチェンバーの最たるものだ。こうなるには絶対嫌なので、どうやったらエコチェンバーを避けれるだろう、といつも考えている。

 

フィリピンを特集していたテレビを見ていた。フィリピン人の暮らしを写したもので、結構珍し、なかなか面白かった。その中で、フィリピン人がお金の貸し借りを気軽にしているのが映されていた。

 

フィリピンは、とても家族や地域のつながりが強い印象がある。隣近所の親戚でない人が死んだりしても、会社を早退して総出で手伝うらしい。それはいいのだが、お金の貸し借りもするらしい。

 

少なくとも僕は、お金の貸し借りは絶対にするな、という事をいつの間にか刷り込まれた。貸すならあげたと思え。友人間の貸し借りも友情が壊れる原因だから、絶対にやめろ、なので基本的にはするな、である。でこれは僕は無条件に正しいことだとも思っていた。でもそうでもないのかも。

 

今は、生活保護や消費者金融を含めて、制度、会社が整備されて、お金が足りなければ、彼ら、行政や業者がなんとかするものという思いもある。フィリピンと日本では、このような制度の整備具合が全く違う、とも思う。まだそんなに発展していないフィリピンのことだから、である。

 

しかし、日本がまだ、フィリピンぐらいの発展度合いだった時、お金の貸し借りを個人間で気軽にしていたのだろうか?という疑問も湧く。いつ頃から、お金など絶対に貸すな、というような思想ができたのだろうか?

 

少なくとも江戸時代ぐらいは貸し借りをしていそう。僕の親世代、今の80歳前後の人たちが若い時、つまり60年前ぐらいもお金の貸し借りはしてなさそう。60年前の日本よりは今にフィリピンの方が発展してそう。となると、お金の貸し借りは、発展度合とは関係ないかも。

 

となると、宗教が関係しているのか?フィリピンはキリスト教だ。どうだろう?

 

共同体がまだ残っている社会は、お互い助け合う。お金の問題は大きな部分を占めると思う。お金に困る、である。それを助け合わない、っていうのも助け合い精神からしたら何か変な気もする。フィリピンのやり方こそ、正統なのかもしれない。

 

とは言え、僕はお金の貸し借りは受け入れられはしない。そんなことしたら、いつまで経っても、お金にだらしない人は直らないから、という考えである。とんでもないことにも巻き込まれる。

 

自分が若い頃、同僚のお父さんが連帯保証人になって、自殺してしまっている件もある。助け合ったからこうなったのか、助け合わなかったからこうなったのか?

 

このお金の貸し借りは絶対ダメ、というのは、いつからなのか?それとも、僕の周りだけなのか?先進国では皆そうなのか?これから聞いていきたいと思う。

 

 

伝えられるように書けるかわからないが、書いてみたいと思う。

 

仕事上、多くの人が思うのは、損な役回りをしたくない、上手く立ち回りたい、ということだと思う。僕もそうは思っている。

 

これで、どういう事が起こるかというと、少ない労力で周りの評価を得ることがしたい、やったら損なことをやらない、メリット、デメリットを考えてメリットを取るという事である。で、多くの人はこの信条に基づいて行動する。一見合理的ではある。しかし、これって計算通りにいかない気がする。

 

なぜか、というと多くの人は同じように考え、行動しようとするが故に、そういった行動をしてる人の心が読めてしまうからである。

 

あ、お前今、少ない労力で評価を得ようとしてやっているな、これはお前がやってもいいことなのに、損したくないから逃げているな、という事が周りの人に心が読まれてしまう。

 

そうすると、本来であれば、周囲からの評価を受けるべきものが受けなくなってくる。これだけならいいのであるが、逆に、そんな思いをして評価をとりに行っている狡っからい奴だ、というマイナスの評価となる。

 

となると、これをやったら得なのか損なのか、という計算をしても無駄な気がする。損得で考えるのではなく、自分の何がしかの基準をもとに、やるやらないの判断をした方がいいように思う。

 

周囲からの評価など取りに行ったら、その意図などとっくに見透かされて、評価どころか、そんな心情を見透かされてマイナスである。あいつは信用おけない、自分たちを売るかもしれないと、警戒される。

 

損得を考えた行動、うまく立ち回る、という事。それを自分だけが、その計算ができてやっていれば、実際に得になるし、うまく立ち回っていることになると思う。しかし、多くの場合は、みんな同じ脳内計算機を使って損得を弾いていそうだから、みんなが考える損得行動は同一である。

 

この同一の行動をやろうとすると、競争相手が増えて、意外と得にならなかったり、その得を取ろうという魂胆を見透かされる。

 

得てして仕事というのは相対評価で、あなたが得をすれば、相手が損をすることになる。相手が警戒をして得を渡さなくなる。

 

なのであまり損得勘定って当てにならないものだとは思う。そんなのじゃなくて、できるだけ信念に沿ってやればいいんじゃないかと思う。それか、損だと思う方をやれば意外といいかもしれない。なかなか神様は損をさせてくれないらしいから。

 

もし、脳内計算機が、他の人と違うものを持っていたとしたら、これなら最高である。この唯一の脳内計算機を使って、メリットデメリットを弾き出して、メリットをとればいいと思う。それなら競争相手もいない。

 

つい考えてしまうが、損得など考えても意味がない、とは感じる。

 

 

 

 

あまり、あるいは全然気乗りのしない集まりや行事に、場の雰囲気や流れで、行くと返事をしてしまった。

 

しかし、よく考えるまでもなく、行きたくない、やりたくない。例えば乗り気はしないけど、役割として必要な冠婚葬祭の親族だったりする場合を除き、行くといった手前のみ、行くという行為をする場合、その義理と、自分の感情、どちらを優先するのか?

 

これはいい悪いの問題では、義理を優先するのはいいことだと思う。自分の感情の優先は、悪いとまではいかないけれど、あまり良くはない。しかし、義理をそこまで優先するべきものだろうか?

 

僕は、気品は自分の感情優先である。そして、付き合っていきたいと思い人も、感情を優先する人だ。それは、義理を優先する人は何を考えているかわからないからである。

 

自分が誘った。相手はOKを出した。義理堅い人であれば、来るであろう。しかし、本当に来たくて来ているのか、義理で来ているのかが分からない。感情を優先する人であれば、あいつは嫌なこと我慢する人じゃないから、来たくて来ていると、わかりやすい。

 

ある意味では、感情を出す人は、なんとか避ける方法を探して、行かない事に結局するだろう。それも次回に誘いに繋がらない形で。これは一時的には相手を傷つけるとは思う。

 

しかし、行きたくなくて、義理で行った場合、そんな状態で来たことがわかったほうが、より深く相手を傷つけるだろうと思う。いずれそのことをわかってもらわないと、何度も同じことが起こってしまう。

 

前にも書いたが、こんなことがあった。学生時代のバイト。上司から何だか気に入られたらしく、家へ食事へ来なさいと言われた。流れで、是非とは言ったものの、全く気乗りはしない。バイトのシフトを把握しているから、忙しくて、の理由もいつまでも通用せず、結局日程決められて、OKを出してしまった。

 

多分、お家では奥さんが手料理を作って待っていることだろう。ああ、行きたくない。日が近づくほど、どんどん気が重くなる。結局は、前日ドタキャンである。

 

数日前に無難な理由で断ると、日程は再設定されてしまう。では無難じゃない理由って?正直に、お家まで行く間柄じゃないって言うのか?ドタキャンしか選択肢は無かったんじゃないかと思う。それ以来、この人は必要なこと以外話しかけてこなくなった。

 

これは当然信用をなくす行為である。しかし、自分の感情が勝ってしまった。もう信用などどうでもいい。それに、こういった形でないと、相手に行きたくないという意思表示はできなかったと思う。

 

これを行っていたら、また次もあったかも知れず、それを防ぐためも荒治療は必要だったかも。しかし、自分が相手の立場だったら、ドタキャンもショックだけれど、嫌なのだけれど、来られることの方がよっぽどショックである。

 

流れでOKを出さざるを得ない状況っていっぱいあるとは思う。このような事情で出した判断を、自分の気持ちを押し殺して守り通ること、これも立派なことではあろうけれど、そうじゃなくてもいいのではないか、とも思う。

 

僕もそうさせるのは絶対に嫌だである。義理堅い人はそういう意味で何考えているのかわからない、と自分の目には映る。また、義理堅い人は、〇〇するべき論をいっぱい持っていそうで、苦手である。来たくてきているのか、義理で来ているのか。これからもつきあっていく人は、義理よりも自分の気持ちを優先する人と一緒にいたいと思う。

これだけ生きてくると、初めて経験することが少なくなる。世の中、たくさんのやったことないことはあるのだが、今まで生きてきて、存在も知っててやったことがないことは、大概全く興味のないこと、それ以外は、存在を忘れてることだったりする。なので、日々、やったことある事ばかりする。

 

先日、友人に連れられて、裁判の傍聴へ行ってきた。傍聴ができることは、学生時代から知っていて、面白そうだと思ってはいたのだが、今まで行った事はなかった。よく知っている人に連れて行ってもらわないと、ハードルが高い。

 

裁判の傍聴は無料である。言い方は悪いが、とても安い社会勉強だ。

 

傍聴するには、地裁がいいらしい。高裁以上だと、事件の審理がある程度進んでいるからよくわからないのだという。家裁だと家庭問題ばかり。

 

どんな裁判があるのかは、当日地裁に行かないとわからないのだという。当然予約もできない。平日の昼間のみ。よほど暇人向けとも言えるかもしれない。自分は暇人である。

 

裁判室は、刑事物ドラマの通りだった。よく再現している。傍聴席は20席ほど。入ったら、すでに弁護士、検事、そして被告人が座っていた。とても近い。こんな間近で犯罪者を見るなんて生まれて初めての経験で、震えてしまう。まず日常で、犯罪者のこと見るなんてない。

 

その後、裁判官が登場し、質問が始まる。傍聴していれば、犯罪者の氏名、住所など事細かに知れる。25歳の横浜に住む男性会社員。これも新鮮だ。

 

検事が事件の概要を読み上げて、罪状がわかってくる。この人はスピード違反で、事故は起こしていないらしい。なんだ、そんなもんかであるが、60キロ制限の首都高を150キロで、走っててカメラに撮られて捕まったらしい。そりゃあ、出し過ぎだ。

 

横浜で退勤後、下北沢での推しライブのため、スピードを出していたらしい。ただし、初犯でなく3回目のスピード違反。それに加えて2回の侵入禁止区域へ入っている人だ。

 

検事が「今まで何回スピード違反しました?」の問いに

「捕まった3回だけです。」などといっていたが、

「あなたさっき60キロ制限の高速で、自動運転の速度設定を100キロに設定していたと言っていましたけど、それも速度違反なんじゃないんですか?」と矛盾をつかれていて、しどろもどろ。

 

結局、判決は30分で出て、禁錮刑3ヶ月、執行猶予2年。もうしませんなどと言っていたけれど、多分聞いていた全員は、あ、またこいつやるな、としか思ってなかったとは思う。刑務所に入らなければ、出社できるため捕まったことは会社にバレないらしく、とりあえず2年大人しくしてよう、といったところ。

 

本当に反省しているなぁ、という弁ってどんなところから感じるにだろうか?

 

友人からはもう一つ見る?と聞かれたが、初めての経験だし、大いに感情が動いたし、話したいことがいっぱい出てきたのでかなり疲れた。コーヒー飲んで話そう、とカフェへと行った。

 

これは、かなり軽い案件で、殺人などは見ちゃいられないのだという。なら見なければいいのだが、そうだろうと思う。

 

スピード違反は誰でもやるのだろうが、限度を越している。お前やり過ぎだ、である。

 

被告になる人たちは、大部分は普段の社会生活で接点のない人たちだろうから、こんな常識持ってんだ、とびっくりする事もあるだろうと思う。

 

大いに疲れたのだけれど、面白かった。面白かったという表現はいろいろあって、面白かった、楽しかったけど、もう行きたくない、というのもあるがそれではない。また行きたいと思う。

 

 

 

 

 

楽して稼ぎたい、とはよく聞く言葉である。そう思ってない人は、聞いてもスルーするだけか適当に相槌を打っているだけだから目立たないのだろうけど、結構多くの人が思っているし、僕も思っていた。しかし、これは本当にそんなにいいことなのだろうか?

 

1年ほど前、小さな職場に移動した。仕事は大きな職場より遥かに少ない。しかし給料は同じ。ということは、楽して稼ぐの一つの形だとは思う。これが素晴らしかったか、というと全然そうでもなかった。

 

やる事がなくて、ずーっと座っているだけ。頭では、いることが仕事で、というのはわかっていて、それは事実なのだけれど、体感は何のためにいるのかわからなくなってくる。たまに忙しいと、ちょっと忙しいだけでも不平不満が出てくる。

 

もっと悪いことは、その想いをどこにも持っていきようがないことだ。忙しいところならば、不平不満も慰めてくれるし、暇なところへ行けばこの思いは解決する幻想がある。しかし、暇で不満だと、何がお前は不満なのだ、恵まれてると思え、などと人でなし扱いである。

 

オンライン英会話で、各国の外人に聞いてみたことがある。仕事は暇、人間関係悪くない、給料も忙しいところと同じ、暇な時間はある程度何していてもいい、客や職員同士のトラブルもない、しかし退屈で、人生の時間の無駄な気がする、この状況をどう解釈すればいい?

 

ほぼ全員が、世界中には明日食うものに困る人、戦争、そしてストレスまみれで働いている人がいるのだから、それは恵まれている、と答えた。やっぱりそうだよね、である。

 

幸いその状況は1年で終わり、また忙しいところへ行った。そうしたら、その忙しさの解釈も違うものになった。まぁ、この忙しさがないと何かと人生退屈だからね、である。

 

次に、働かなくても食べていけるなんていいなぁ、について。自分は東京の郊外に住んでいるので、ところどころに地主の家がある。多分、土地貸したりして優雅?に暮らしてるんだろう。こんな人たちへの羨みだ。

 

負け惜しみもあるんだろうけれど、こういった人たちは、必死に働くという機会を致命的に削がれている。仕事の意味は、金銭だけでなく、世の中に必要とされている存在であるという、自分の存在意義にもあると思う。この意義を簡単に与えてくれるところが、仕事場だと思う。それ以外だと、親友ぐらいか。でも、これ作るのものすごく大変だ。

 

仕事場だと、お客がいて、サービスに意義がある。それに同僚からも業務上ではあるが必要とされる。何かをして感謝される。そして何かを頼んで感謝する。こんな贈与のループがある。

 

これは、働かなければならないという下にしか、出来ないんじゃないか、と思う。働かなくていいお金があれば、その良さをわかる前にアホらしくて辞めてしまうかもしれない。

 

最後に、自由に、責任もなく、やるべき事もないこと。これは旅人の中で感じたことだ。

 

物価の安い国へ行くと、庶民でも遊んで2年、3年と過ごすことができる。何か自分で作った目的のある人はそうならないが、ただ、仕事が嫌になってとか遊びたいから先進国を飛び出してきた人たち。なんだか顔が死んでいた。

 

 

有り余る自由、時間を持て余してしまっている。途中でいったい自分は何をしているんだろう、と気づき、現地の学校で語学だったり、ウクレレだったりを学び始めたりする。遊んで?なくなる。そうでない人はクスリ漬けである。こんな生活したくて、飛び出してきたのかな?

 

幸い自分は自転車旅だったから、目標が立てやすかった。目標を決めてそこまで数ヶ月かけて走る。着いたらまた次の目標を決めて走る。さらに1日単位のここまで行くぞという目標もある。

 

バンコクまで行くぞと決めて、着いたら、よし次はシンガポールを目指す、といった具合だ。これがなかったら、2年なんて精神的に持たなかったと思う。

 

というわけで、こうだったらいいなぁ、って事、あんまり良くないかもよってことを書いてみた。

 

 

色々、大人になってからの友達問題について考えてみたが、この友達や友人って言葉もちょっとしっくりきてない人もいるかもしれない。何か、学生時代で賞味期限が切れたような感じがする言葉だ。

 

大人になってから、親しくなる人を友達と呼ぶにはちょっと子供すぎるかもしれない。うまい名詞がみあたらない。近そうなのは親密さなのか。どれくらい親密かどうか。この項では親密という言葉を使って書いてみたい。

 

②の項では、友達になろうとして、それを第一意義として何かやろうとすると、友達作りはうまく行かなそうなことは書いた。友達を作るためにテニスをやる、みたいなことだ。これを言い換えると、誰かと親密になるためテニスをする、ということか。

 

親密さというのは、何かをした結果としてできてきたもので、親密になるために、というわけではない。順序が逆である。

 

テニスをしたくて、何かのグループに入った。テニスをしているうちに、たまたま考え方が面白い人、何か興味を引く人がいた。もっと話がしたくなって話を聞いたら、ますますその人に引き込まれて話が聞きたくなった。

 

何度か話しているうちに、親密になっていった。結果として親密さがついてきた、こんな形しか友達ってなれないんじゃないかと思う。

 

親密さが先に来てしまうと、どうしても前のめりになってしまう。自分に興味もありそうもないのにないのに、自分じゃなくてもできる話なのに、やたら近寄ってくる、ということになってしまう。親密になるために飲み会をする。20代前半までならいいが、それ以降は、趣味や考えの分岐が多すぎて難しそう。

 

だから、友達を作ろうっていうのも、塩梅がいる。もっと親密になるために何か一緒にすることはあるのだけれど、それには、ある一定以上の基盤の親密さがいるとは思う。

 

人間関係には、親密度の上限値というものがありそう。何度会っても、ある人とはどんどん親密さが深まっていく人がいる一方で、ある人とはいつまで経っても同じ地点のままの親密さ、距離が縮まらない人がいる。この人のことを好きなのだが、深まらない。

 

これはその個人が悪いのではなく、相性かと思う。たくさんの時間を使っても関係が深まらない人の親密度は30だとすると、もうすでに上限に達している。これ以上関係は深まらない。これが普通の友達。

 

どんどん深まる人は200ぐらいが上限で、まだ80の親密度までしか来てないから、まだまだ深まっていく。こんな親密度上限値の高い人を親友と呼ぶのだと思う。

 

知り合いよりはよく話すのだが、友達ではない普通の仲間であればw、親密度gz5ぐらいで、すぐに上限となる。

 

親友になるためには200時間以上は必要だけれど、上限値の低い人には200時間かけても、親友になれなそう。そもそも200時間かけようという気にはならないだろうけれど、親密になろうとしてかけていたら、これぞ無駄な努力だ。

 

この中高年友達いない問題で、友達が欲しいと番組内で言っている人たちは、多分この上限値の高い人が欲しいのだと思う。

 

仲が良かったとしても、深まる人と、それ以上いかない人がいる。同じように時間かけても、同じように関係の深まりを期待しても無理がある。この見極めも大事かと思う。

 

何で30以降にもこの問題が起こるかについて。若い頃は、学生時代の友人も多かっただろう。他にやる事もあった。しかし、30も過ぎてくるとそれも減ってくる。

 

減ってくるのは自然で悪いことではない。しかし、後半になると、人間関係の価値が人生の中で大きくなってくるのかもしれない。高い地位に上り詰めたとて、お金をいっぱい稼いだとて、もわかってしまう。

 

若い頃のような、友達や親密さは数ではなく、質がとても大事になってくる。浅いレイヤーの人では難しい。深いレイヤーをほんの少しだけ。信頼出来る人なんて、人生の中で出会える人はとても限られる事もわかってしまう。そこまででもない人間関係もいっぱいあるのが見えてしまう。人間関係を広げたとて、である。

 

歳をとってから、いっぱい友達がいる、などといっている人を見るとお金をいっぱい持っている、偉いなど言っているのと同じように痛々しく見えてしまうのも、そこにあるのかな、と思う。そんな事したとて、である。

 

これがまた60以降になると別の景色になっていくのかもしれない。

友達ができないのは、友達を作るにはそんなに難しくないと思っているからだとも思う。学校時代は、なんとなく出来ちゃったから、或いは今も仲間がいるから、だと思う。それか、今まで家族がいるからいいや、と思っていたか。

 

実際は結構難しいと思う。簡単だといっている人は、多分寂しいと思っている人と友達の概念が違うだろうから、違う世界に住む人と思って、なんで自分にはいないのだろう、と思う必要はないと思う。

 

友達を作るためには、かなりの時間がかかる、ということ。明日明後日にできないどころの話ではなくて、数年後には友達になっているかも、という感覚だと思う。

 

友達になるまで強制的にいる場所、教室だったり、仕事場だったりの受動的に会っている時間を除いての時間で、100時間もかかるのである。1回あたり3時間としても30回である。月一回としても2年半かかる。親友に至ってはその倍の時間がかかるらしい。

 

この番組で、友達が欲しいといっている人の、その友達の意味は、親友とまではいかなくても、深いレイヤーのことを言っていそうで、かなりの時間がかかると思う。作ろうと思って作れるものでもない。

 

大人になると、なぜか自分たちの優先順位は、仕事や家庭が友人の上に来る。この順位だと、そこまで友人まで時間やパワーが回らなくなってくる。時々、この優先順位を入れ替えて、友達を上にする必要はあると思う。

 

この寂しい問題は、家族がいればいい、という問題とはまた別でないと思う。家族がいても、寂しいことは寂しいのである。

 

次に、大人になると、学生よりも拒絶に弱くなってしまう。それに忙しいかもと、相手への配慮、遠慮が加わる。これが故に、自分で場を作っていこうという気が起きにくいかと思う。

 

特に仲間作りと違って、友達作りは個人対個人であるから、よりそんな傾向が強くなる。なので、場が作りにくくなる。

 

番組では、まずは仲間などの弱い繋がり、弱いレイヤーから始めて、とありその通りで、それしかないかもしれない。色々なグループに所属するといい、とも専門家は言っている。

 

しかし、人は繋がりの中途半端な人たちばかりの囲まれると、かえって一人より寂しさが増しそう。多ければ多いほど孤独感が増す傾向にあるそうだ。

 

深くない友人が多いことによる、関係の不安定さが問題らしい。人間関係の出入りが多くなる、ずーっとこの人というのが、人間関係の中にいない。特定の少数の人を人生の中に留めておかないと、安定しないのだろう。

 

ここにジレンマがあると思う。深いレイヤーに行ける人を探すために、浅い繋がりを増やすと、もっと孤独に陥る。

 

もう一つのジレンマが、お見合いなどと違って、友達作ろうサークルみたいな目的ズバリなものから友達って立ち上がりにくそうなところである。

 

お見合いであれば、結婚したいという人が集まって、お互い接してみて、合いそうだったら結婚するという形となる。

 

これを友達に入れ替えてみると、友達欲しい人が集まって、接してみて、合いそうだったら友達になる。良さそうだけど、こんな不自然な形で、友達ってなれないんじゃないかと思う。

 

一時的にはうまくいくかもしれない。しかし、結婚と違って拘束力や責任がないから、長く続かなそうである。

 

仕事だったり、全然友達作りとは関係ないことをやって,一定の時間を共有しているうちに、自然と出来上がってくるものなんじゃないか、と思う。

 

何かごちゃごちゃしているうちに、長い時間一緒に何かしてきたねぇ、となって友達になっていくものなのか、とも思う。共有体験が必要だから、どうしても時間が必要になってしまう。マッチングアプリのような紐付けが難しい。

 

いつの間にかできる、と言いながら、学生と違い、大人になったら意識的に時間を作って取り組まなければできない。ジレンマとその塩梅。

 

こう書いてみると、本当に友達作るのって難しいし、大袈裟ではなくて、奇跡のようなところもあると思う。なのになぜ、仕事や家族より優先順位が下なのだろうか?

 

ネット番組で「中高年友達いない問題」について取り上げていた。なんか書きたいなぁと思っていたが、何となくまとまってきたので書いてみたいと思う。

 

30ー50代の人が、友達ができなくて寂しいと孤独を少々抱えて、それにスタジオの人が答えるという形。

 

番組では、仲間と友達を定義して区別して、そしてどうやって友達へと繋げていくか、みたいなことが言われていた。仲間とは目的を一緒にしている人たちのこと、仕事仲間、飲み仲間、趣味仲間などである。そして友達とは、その人自体と何かすることである。目的がなくても会えるってことか。

 

飲み仲間は基本的に飲みにしか一緒に行かないが、友達はその人と何かするであるから、飲み行ったり旅行もする、会えればなんでもいいといった感じである。

 

この区別って、重要だと思う。なぜなら、この会場に友達がいなくて寂しいといっている人たちは、会社やら、趣味サークルやらに所属しているから仲間はそれなりにいるのである。話す人がいなくて、一緒に何かしてくれる人がいなくて寂しい、というわけではないのである。

 

ここにポイントがあるのかなぁ、とも思う。仲間は生きていくために必要である。一人では何も出来ないからだ。仕事も一人では出来ない。趣味も一人では出来ないかもしれない。とても重要だ。しかし、生きていくために必要であるものは、心理的な面までカバーはしない。

 

それに、生きていくために必要であるがゆえに、仲間はよほど難がなければ、誰にとってもできるように設計されているんじゃないか思う。会社に入れば、バイトすれば、趣味の会に参加すれば、というわけである。明日からすぐに仲間、というわけではないけれど、数ヶ月後には仲間になっている。

 

会社を興すとか、ヒマラヤへ登るなど、大きな苦労を必要としたり、長い期間やるものでなければ、仲間を作るのはそこまで難易度は高くないかと思う。

 

しかし、その分仲間は数人以上の多めの人数になって、パーソナルというよりは、パブリックな雰囲気になりがち。自分の地の姿を出すのは難しそう。それがあるゆえに、自分が他人と取り換え可能な存在となりがち。なので、これだけだと寂しさを感じるだろうと思う。

 

番組では、一足跳びに友達なんてできないから、まずは仲間からスタートして、ということで、その通りではある。この仲間の中から自分と合いそうな人を見つけろ、ということだ。

 

仲間までは、自分で呼びかける以外は、ある程度場が用意されているのでそれに乗ればいいが、そこから友達を作る、となると自分と相手が合意してその場を作っていく必要がある。

 

友達ができないのは、友達を作るにはそんなに難しくないと思っているからだとも思う。学校時代は、なんとなく出来ちゃったから、或いは今も仲間がいるから、だと思う。

 

続く