ジャスティン・コーヒー
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第十話

霧の晴れた僕の前には、制服を着た女の子が立っていた。

「あ…ごほっ、りがと…ごめ…なさい。あの赤い…マフラー。あなたのですよね‥線路に…」

だめだ、私利滅劣で。こんなんじゃ伝わんないよな。

一息ついて顔を上げた僕は、命の恩人をまじまじと見た。
僕と同じ高校の制服を着ている。
まさか同じ高校とは驚きだ。

よかった。

同じ学校なら、連絡先を聞き出す手間もかからないし、マフラーの弁償も簡単に渡せそうだ。

「あ、同じ学校…?ですか。よかった。俺マフラー弁償…」

マフラー弁償しますよ
僕が言いかけたところで、それまで黙ったまま白い顔で立ちすくんでいた女の子が、急にぱかっと口を開いた。
その様子はどこか、親鳥に餌をねだる孵化したての雛に似ていた。

そして彼女は僕のイメージ通り、孵化したての雛同様、口を開いた途端、震える大きな声で留めどなくしゃべりだした。

「あ、あ、あのあの、だ、だ、だっ、大丈夫だった?!?!わ、わ、わたし、わた――」

ものすごい早口のせいでろれつが回っておらす、白黒した目を一杯に開いている。
そのときはまだ僕も、恐怖の余韻のせいで心臓を踊らせていたのだが、彼女のパニックぶりを見ていると、却って落ち着いてくる。

「あ、うん。大丈夫です。本当にありがとうございました」

僕は丁寧に頭を下げた。
心のほうは落ち着いたものの、未だに息苦しさを感じ、見てみると、彼女はまだ僕のマフラーを掴んだままである。

「あの、もう大丈夫だから…」(マフラーを離してくれ)

しかし、僕が言っても彼女はその意味を認識しておらず…
というよりも、僕の話など、彼女の耳には全く入っていないようで、何度も何度も僕のマフラーを引っ張っては、激しくどもりながら僕に問いただしてくる。

「ほ、ほ、ほ、本当に大丈夫?ねねね、ね、ね、大丈夫?大丈夫、大丈夫?!」

「え…あの、いや。本当に大丈夫ですから」

「いいい、いやいや、いやって?ど、ど、ど、どこかけ、け、けがとか??」

「してませんよ。大丈夫です。」

「うう、ウソウソ、ホント?!ま、まって、た、大変。か、か顔色が…」

もちろん睡眠時間が短い僕の顔色が悪いのは今に始まったことではないし、多少、いや、かなり、彼女が僕の首を絞めていることが影響しているのだが。

こいつ、わざとやってんのか?

全く成立しない目の前の会話に僕はだんだん苛立ち始め、とにかく黙らせようと思い、少し大きな声を出した。

「本当に、大丈夫ですから!」

しかし、彼女のパニックは収まらなかった。
より混乱が増しただけだった。
マフラーをしっかりと掴んだまま、少女は慌てふためいている。

「ごご、ごめんなさ‥ち、ちょっとちょっと待ってね!き、きゅうきゅうきゅう、救急車!!」

救急車?

このとき、僕は理解した。

この子はわざとやってるんじゃない。
この子の慌てぶりは、女の子特有の、あのわざとらしい大袈裟なリアクションとは違う。
この子は僕の話を聞いていないんじゃない。
僕の声が
聞こえていない
のだ。
僕の言葉は、彼女にとってはただの音としてしか聞こえていないに違いない。
マフラー掴んでるのは、おそらく混乱のあまり、無意識のうちにしがみついてるんだ。
溺れるなんとかは藁をも掴むってやつだ。きっと。

だって、いくらなんだって、冗談で救急車は呼べないだろ。
マンガみたいだ。
こんな人いたんだ。

それがわかった瞬間、僕の苛立ちはどこかへ行ってしまった。
むしろ、彼女に対して申し訳ないと思った。
だって、彼女をこんなにも慌てさせる原因を作ったのは、他ならぬ僕なのだ。
きっとすごく恐かったのだろう。
仮にも命の恩人なのだ。
どうして僕に彼女を怒鳴る権利がある?
そう考えると、苦しいのも我慢できる。
僕は今にも金切り声を上げだしそうな彼女の目を、しっかりと覗き込んだ。


「落ち着いて」

第九話

そのとき彼女が僕のマフラーをしっかりと掴んでくれていなかったら。
そして僕が咄嗟に彼女の赤いマフラーを掴んでいなかったら、僕は一体どうなっていただろう?

きっと、また、多くの誰かに代償を払わせていたに違いない。

死は平等だから。

そう。
バランスを崩した僕は、咄嗟に、目の前に飛び出てきた、赤い何かを掴んだ。

そのときはそれが何かわからなかったが、それは赤いマフラーだった。

そして彼女の方は(これは後から聞いた話だが。)、人ごみに押されて今にもバランスを崩しそうだった少年をよく見ると、それがクラスメイトだということに気付いた。(これは驚くべき事実だか、進級三日目にして、彼女はクラス全員の名前と顔を覚えていたのだ。)
心配になって声をかけようとしたが、そのとき、彼の体がふらりと大きく線路側に傾いた。
とっさに体を捕まえようと、彼女の伸ばした手が掴んだのが、僕のマフラーだった、というわけだ。

つまり僕は初対面のクラスメイトに(クラスメイトなのに初対面というのも妙な話だが)命を救われたのだ。
その光景は、旗から見ればきっと、滑稽なディズニー・アニメのように見えた違いない。
何しろそのときの僕等は、線路ギリギリのホームの端で、まるでダンスでも踊っているかのように互いに互いの首を絞め、体を支え合っていたのだから。

しかしそれもほんの少しの間のことだった。
彼女のマフラーは、僕に引っ張られると実にあっさりとほどけてしまい、すぐ下の線路に舞い降りた。


霧の中でただ一つの目印だった赤い何かが、手をかけた途端にひらりと飛んで行ってしまう。

あぁ…行ってしまう…
僕の赤い…


首が絞まったと同時に、僕の周りに取り巻いていた白い霧はさっと晴れた。

その直後、まさに取り計らったかのように、電車がホームに滑り込んできた。

本当に取り計らったかのように。

僕は正気を取り戻し、咳き込み、喘ぎながら顔を上げた。

第八話

次々と降りてくる彼らの頭から、おびただしい量の湯気が立ち上っていたのだ。

湯気は開かれたドアからももうもうと這い出ては、ホームに立ち込める。
途端に視界が悪くなり、僕は吐き気を堪えながら、むっとする生温かい湯気を吸い込まないよう、硬く手で口を覆った。

人の頭から立ちのぼった湯気なんか、冗談じゃない。

このときの僕はまだ、落ち着いていた方だ。
雨が降っているし、湿気の関係で起こる自然現象か何かだろうと高をくくって、別段気に留めていなかった。
しかし、湯気はみるみる濃さを増していく。
あっという間にホームは360度、真っ白になってしまい、すぐ隣に立っていた人の顔すらおぼろげにしか見えない。

おかしいな。

僕は慌てて耳を済ませた。
しかし、悲鳴やパニックに陥った人間の叫び声は聞こえない。
誰もが押し黙って、ぞろぞろと歩いている。
確かに大勢の人間がそこにいる気配は感じるのに。

誰も気がついてないのか?

そう思い至ったところで、ようやく、僕の頭も高速で回転し始めた。

おかしいだろ?

いくら自然現象だからといって、湯気が散ることなく、いつまでも…こんなにも長い間大気中に留まっているはずがない。
それに、ここには大勢の人間がいるのだ。
誰一人として騒ぎ出さないなんて、ちょっと考えられない。
いよいよ恐ろしくなってきた。
僕は指が冷たくなるほど鞄の柄を握り締め、これから自分が飲み込まれてしまうであろうパニックの大津波に備えて、大きく息を吸い込んだ。

……。

………。

と、突然、それまで真っ白だった目の前に、何か赤いものが飛び出してきた。

その出現の仕方があまりにも唐突だったので、僕は大きく後ろに仰け反ってしまい、バランスを崩した。
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