第七話
「品川駅で人身事故が発生したため、上下線の運行を見合わせております……」
もうずっと長い間、カズは僕の顔を見ようとしない。
線路は細かい雨に塗らされててらてらと光り、朝だと言うのに薄暗く、灰色をした横浜駅のホームは陰気な匂いが立ち込めていた。
不敵に光る線路の下を雨宿りしながら、突然ぶり返した寒さに震える溝鼠が、足早に走り抜けて行くのが見える。
雨の日の横浜駅は、僕に現代社会の縮図のようなものを連想させた。
こことは別のところで起こった事故も人の死も、必ず全部ここに集まってくる。
毎日遠くで誰かが線路に身を投げては、残された多くの人間が少しずつその代償を払う。
それでもしばらくするとまた電車は流れ出し、また誰かが線路に身を投げる。
そんな風にして動き続ける。
誰も電車を永遠に止めてしまおうとは思わない。
巨大で危険な可動物を捨てようとはしない。
代償はあまりにも多くの人々に分散されてしまい、我々はその小さな代償のために痛みを感じることすらないからだ。
でも代償は払われている。
間違いなく僕たちの人生に影響を及ぼしている。
どんなに離れていても死の匂いはここに運ばれてくる。
その匂いは少しずつホームのコンクリートに染みこみ、僕たちはそれを少しずつ吸い込む。
そして撒き散らしながらそれぞれの目的地に到着し、何も知らずに平凡な生活を送る。
そうやって代償を負っている。
横浜駅のホームは墓場だ。
呪いめいたものが染み付いている。
不快だった。
この世の全てが不快でたまらなく、
かといってこの状況をどうすることもできない僕に向かって、
世界は黄ばんだ歯を剥き出しにして微笑んでいた。
かまうもんか。
僕は思った。
かまうもんか。
その吐気がするような醜いお前の笑顔と、僕は一生ずっとだってにらめっこし続けてやる。
ゆっくりと電車がホームに滑り込む。
ドアが開き、すし詰めにされた乗客の群れが我先にと飛び出してくる。
もみくちゃにされる不快感に耐えようと身を硬くしていると、僕は奇妙な光景を目にした。
もうずっと長い間、カズは僕の顔を見ようとしない。
線路は細かい雨に塗らされててらてらと光り、朝だと言うのに薄暗く、灰色をした横浜駅のホームは陰気な匂いが立ち込めていた。
不敵に光る線路の下を雨宿りしながら、突然ぶり返した寒さに震える溝鼠が、足早に走り抜けて行くのが見える。
雨の日の横浜駅は、僕に現代社会の縮図のようなものを連想させた。
こことは別のところで起こった事故も人の死も、必ず全部ここに集まってくる。
毎日遠くで誰かが線路に身を投げては、残された多くの人間が少しずつその代償を払う。
それでもしばらくするとまた電車は流れ出し、また誰かが線路に身を投げる。
そんな風にして動き続ける。
誰も電車を永遠に止めてしまおうとは思わない。
巨大で危険な可動物を捨てようとはしない。
代償はあまりにも多くの人々に分散されてしまい、我々はその小さな代償のために痛みを感じることすらないからだ。
でも代償は払われている。
間違いなく僕たちの人生に影響を及ぼしている。
どんなに離れていても死の匂いはここに運ばれてくる。
その匂いは少しずつホームのコンクリートに染みこみ、僕たちはそれを少しずつ吸い込む。
そして撒き散らしながらそれぞれの目的地に到着し、何も知らずに平凡な生活を送る。
そうやって代償を負っている。
横浜駅のホームは墓場だ。
呪いめいたものが染み付いている。
不快だった。
この世の全てが不快でたまらなく、
かといってこの状況をどうすることもできない僕に向かって、
世界は黄ばんだ歯を剥き出しにして微笑んでいた。
かまうもんか。
僕は思った。
かまうもんか。
その吐気がするような醜いお前の笑顔と、僕は一生ずっとだってにらめっこし続けてやる。
ゆっくりと電車がホームに滑り込む。
ドアが開き、すし詰めにされた乗客の群れが我先にと飛び出してくる。
もみくちゃにされる不快感に耐えようと身を硬くしていると、僕は奇妙な光景を目にした。
第六話
「お前、ガキだな」
カズは僕の方を向きもせず、せせら笑うような口ぶりで言った。
薄暗い部屋の中では、テレビ画面の青白い光だけが異様に輝いている。
僕はカズの言葉にむっとしたものの、それには答えずに話題を変えた。
カズもタカダアユムも、本質はほとんど同じタイプの人間なのだ。
タカダアユムの奇妙さをカズに話したところで、結局何も伝わるわけがなかった。
「…タチとは会ってるのかよ」
「……。」
「やべっ!」
大袈裟な叫び声を上げ、カズはコントローラーのボタンを信じられない速さで連打しだした。
何となくわざとらしい。
僕の質問には答えないつもりなのかと思ったが、しばらくして落ち着くと、カズは
「う~ん…」
といううなり声と共に、意外なことを言った。
「…そういや…この前、ケンカした」
「え?ケンカ?」
「ん~…たぶん。ケンカ。かな」
他人事のような、確認しているみたいなカズの言い方に、僕はため息を吐いた。
「喧嘩じゃなくて、どうせカズが一方的にキレたんだろ?」
タチが怒っているところなんて、僕は今まで一度も見たことがない。
カズと僕がケンカをすることならよくあった。
…そんなときのタチの役目は、背中を付き合わせたままの僕らの間に立って、僕らを放っておく代わりに、憩と楽しそうにおしゃべりすることなのだ。
僕とカズはいつもそれに我慢できなくなって結局二人の会話に加わってしまい、いつの間にかケンカをしていたことなど忘れてしまっていたのだ。
憩はもういないけど。
でもタチの性格は変わっていない。
本当に年頃の少年かと疑ってしまうくらいの温厚さで、争いというものを起こすことも、加わることも一切好まないタイプの人間なのだ。
そんなタチがケンカなんて、僕にはちょっと考えられない。
でもカズの言い分は逆だった。
「キレたのはあいつだよ」
キレる??タチが??
「なんで?」
僕が寝そべっている場所からは、カズの表情は見えない。
僕は小刻みに振動しているカズの背中に、疑いの視線を投げた。
どうせまたカズが、いつもみたいに行き過ぎたことを言ったに違いない。
基本的に、カズは無神経なのだ。
いくらタチが温厚だからと言って、さすがに度を越えたことを言われれば、たまには怒ることだってあるに決っている。
「別に」
カズの声には、ふてくされているのとも少し違った、冷たい響きが含まれていた。
「別に?…タチがキレるなんて、よっぽどのことだろ?」
「別に…ただ俺は本当のことを言っただけ」
相変わらず、カズの声音に変化はない。
だが、しきりに首を傾げている。
何かを隠しているときのカズの癖だ。
伊達に3年も付き合っているわけではない。
僕等が互いの嘘を見抜くのが朝飯前なことくらい、カズだって十分わかってるはずだ。
僕の体内にほんのわずかだけ残っている愚鈍な好奇心が、このとき初めて頭をもたげた。
カズは何かを隠してる。
「本当のことって?」
「……」
カズは答えない。
やけに陽気な電子音と、コントローラーのカチカチいう音だけが聞こえる。
「おい」
「………」
沈黙。
カズはあくまで黙殺するつもりらしい。
きっと教えたくないことなんだ。
僕には。
僕は立ち上がって、腹立ち紛れに勢いよく部屋の窓を開けた。
一気に冷たい風が吹き込んでくる。
「さみぃよ」
カズが文句を言った。
確かに、放課後校舎を出たときよりも、ぐっと気温が下がっている。
が、そんなこと知るもんか。
僕はカズの背中に冷ややかな視線を投げた。
「俺は人の煙は嫌いなんだよ」
「…ふん、ガキ。」
「…っ」
僕は開きかけた口をつぐんだ。
またガキと言われてしまうからだ。
「俺帰るよ」
「だったらわざわざ窓開けることなかっただろ?」
ぶちぶち文句を垂れるカズに追い討ちをかけるため、わざと蛍光灯のスイッチを入れると、光を受けたカズの金色の髪が、部屋の中でパッと輝く。
「う~…まぶしい」
「やっぱそれ、頭悪く見えるぞ」
「どうもありがとう」
「ふん」
ふてぶてしいカズの態度に、僕は鼻を鳴らした。
屈んで床に転がった鞄を拾うと、埃まみれになっている。
僕は顔をしかめて、無造作に鞄から埃を払った。
「カズ」
「なぁ、サッカー。しないのか」
「………」
「あんまりタチを困らせるなよな」
「………」
「じゃあな」
青白い顔は画面に釘付けのまま、カズは片手を上げて僕に別れを告げた。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……
背後から聞こえてくるコントローラーの音に追われるようにして、僕は足早に階段を下りた。
カズは僕の方を向きもせず、せせら笑うような口ぶりで言った。
薄暗い部屋の中では、テレビ画面の青白い光だけが異様に輝いている。
僕はカズの言葉にむっとしたものの、それには答えずに話題を変えた。
カズもタカダアユムも、本質はほとんど同じタイプの人間なのだ。
タカダアユムの奇妙さをカズに話したところで、結局何も伝わるわけがなかった。
「…タチとは会ってるのかよ」
「……。」
「やべっ!」
大袈裟な叫び声を上げ、カズはコントローラーのボタンを信じられない速さで連打しだした。
何となくわざとらしい。
僕の質問には答えないつもりなのかと思ったが、しばらくして落ち着くと、カズは
「う~ん…」
といううなり声と共に、意外なことを言った。
「…そういや…この前、ケンカした」
「え?ケンカ?」
「ん~…たぶん。ケンカ。かな」
他人事のような、確認しているみたいなカズの言い方に、僕はため息を吐いた。
「喧嘩じゃなくて、どうせカズが一方的にキレたんだろ?」
タチが怒っているところなんて、僕は今まで一度も見たことがない。
カズと僕がケンカをすることならよくあった。
…そんなときのタチの役目は、背中を付き合わせたままの僕らの間に立って、僕らを放っておく代わりに、憩と楽しそうにおしゃべりすることなのだ。
僕とカズはいつもそれに我慢できなくなって結局二人の会話に加わってしまい、いつの間にかケンカをしていたことなど忘れてしまっていたのだ。
憩はもういないけど。
でもタチの性格は変わっていない。
本当に年頃の少年かと疑ってしまうくらいの温厚さで、争いというものを起こすことも、加わることも一切好まないタイプの人間なのだ。
そんなタチがケンカなんて、僕にはちょっと考えられない。
でもカズの言い分は逆だった。
「キレたのはあいつだよ」
キレる??タチが??
「なんで?」
僕が寝そべっている場所からは、カズの表情は見えない。
僕は小刻みに振動しているカズの背中に、疑いの視線を投げた。
どうせまたカズが、いつもみたいに行き過ぎたことを言ったに違いない。
基本的に、カズは無神経なのだ。
いくらタチが温厚だからと言って、さすがに度を越えたことを言われれば、たまには怒ることだってあるに決っている。
「別に」
カズの声には、ふてくされているのとも少し違った、冷たい響きが含まれていた。
「別に?…タチがキレるなんて、よっぽどのことだろ?」
「別に…ただ俺は本当のことを言っただけ」
相変わらず、カズの声音に変化はない。
だが、しきりに首を傾げている。
何かを隠しているときのカズの癖だ。
伊達に3年も付き合っているわけではない。
僕等が互いの嘘を見抜くのが朝飯前なことくらい、カズだって十分わかってるはずだ。
僕の体内にほんのわずかだけ残っている愚鈍な好奇心が、このとき初めて頭をもたげた。
カズは何かを隠してる。
「本当のことって?」
「……」
カズは答えない。
やけに陽気な電子音と、コントローラーのカチカチいう音だけが聞こえる。
「おい」
「………」
沈黙。
カズはあくまで黙殺するつもりらしい。
きっと教えたくないことなんだ。
僕には。
僕は立ち上がって、腹立ち紛れに勢いよく部屋の窓を開けた。
一気に冷たい風が吹き込んでくる。
「さみぃよ」
カズが文句を言った。
確かに、放課後校舎を出たときよりも、ぐっと気温が下がっている。
が、そんなこと知るもんか。
僕はカズの背中に冷ややかな視線を投げた。
「俺は人の煙は嫌いなんだよ」
「…ふん、ガキ。」
「…っ」
僕は開きかけた口をつぐんだ。
またガキと言われてしまうからだ。
「俺帰るよ」
「だったらわざわざ窓開けることなかっただろ?」
ぶちぶち文句を垂れるカズに追い討ちをかけるため、わざと蛍光灯のスイッチを入れると、光を受けたカズの金色の髪が、部屋の中でパッと輝く。
「う~…まぶしい」
「やっぱそれ、頭悪く見えるぞ」
「どうもありがとう」
「ふん」
ふてぶてしいカズの態度に、僕は鼻を鳴らした。
屈んで床に転がった鞄を拾うと、埃まみれになっている。
僕は顔をしかめて、無造作に鞄から埃を払った。
「カズ」
「なぁ、サッカー。しないのか」
「………」
「あんまりタチを困らせるなよな」
「………」
「じゃあな」
青白い顔は画面に釘付けのまま、カズは片手を上げて僕に別れを告げた。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……
背後から聞こえてくるコントローラーの音に追われるようにして、僕は足早に階段を下りた。
第五話
新学期
廊下の窓からはこぼれんばかりに咲き誇る桜の花がのぞいていた。
そのうちの何枚かの花びらは、開かれた窓から廊下へと迷い込む。
その日から2年生に進級することとなった僕は、初々しい気持ちと少しの不安を胸に
掲示板の前に立って、張り出されたクラス替えの表から
自分と憩の名前を探し出そうと、神妙な面持ちで掲示板を睨んでいた。
僕等の通っていた公立の中学校は、生徒数が多かった。
6つもあるクラスの中から自分の名前を見つけ出すのは骨の折れる作業だ。
浮かれてはしゃぐ同級生の歓声と落胆の叫び声
そんな声たちに集中力を削がれまいと、必死で耳を閉ざそうと苦心していると、いきなり何者かが僕の肩を強く掴んだ。
あまりにも唐突で、しかもかなり熱のこもった、力強い掴み方だった。
驚いて振り向くと、僕の後には、人懐こそうな笑顔の、見るからに
“やんちゃです”
といった感じの、一人の少年が立っていた。
「―え?」
少年を見て、僕は思わず眉をひそめた。
少年の顔に見覚えがなかったからだ。
一瞬、人違いをされたのかとも思ったが、まともに正面から僕の顔を見ても、少年の表情に落胆の色は見えない。
それどころか、少年の僕を見つめる目は、やんちゃなきらめきに満ち満ちている。
そのきらめきに不信感を抱きつつも、僕はなんとなく、自分がこの見知らぬ少年に対して、好感のようなものを感じていることに気がついた。
…なんというか、すごく、ピンときたのだ。
そうだ…友達だ――
僕たちはずっと前から友達だったんじゃなかったっけ?
ただ、今日まで知り合う機会がなかっただけで……。
僕の視線を捉えた途端、僕が用を尋ねる暇もなく、少年は目をきらきらさせながら、ものすごい勢いでいきいきとしゃべりだした。
初めて耳にする、かすれたようなハスキーボイスを聞いているうちに、僕はすっかり彼が好きになっていった。
「なぁなぁ、お前にそっくりな女の子いるだろ?
あの子お前の親戚?
隠しても無駄だよ、そっくりだもん。
憩ちゃんて言うんだろ?
知ってるよ。
お前、サッカー上手いだろ。
俺と友達になんない?
お前の名前だって調べてあんだぜ!
残念ながら、お前は俺と同じクラス!
お前の名前は ――」
「里見、葉」
「え?」
僕はいつのまにか、タカダアユムに向かって自分から名を名乗り、無意識のうちに微笑んでいた。
タカダアユムの顔が嬉しそうに輝きだす。
しまった。
嫌悪感と罪悪感が一緒くたになって沸きあがり、胃に鈍い吐き気の予感を感じた。
もう手遅れなことくらいわかっていたけど、僕は無理矢理笑顔を引っ込めた。
無駄だろうが手遅れだろうが、なんだってかまわないから抵抗を示したかったのだ。
「サトミ、ヨウ?」
「いや。ちが ――」
否定しようとする僕の言葉を、タカダアユムは両手を振って遮った。
「もう遅いぜ、里見。
へっへ。実は俺、お前の名前知ってたんだ。
座席表で確認済み。
一応聞いただけ。
あ、そうだ!俺のことはアユムって呼んで!
アユでもいいけど!」
タカダアユムは馴れ馴れしく僕を呼び捨てにすると、当たり前のように椅子を引いて、隣の席にどっかと腰を下ろした。
「で、今日、空いてる?」
「は?」
「予定ないんだったらカラオケ行かない?女の子誘って!」
「行かない。」
馴れ馴れしい…
急に、この教室の何よりもタカダアユムの存在が疎ましくなった。
カズに似てる??
こいつが??
カズにだと????
こいつが隣に座っていることが、不愉快でたまらない。
「えぇ?じゃあさ、誰誘う?新学期だし、クラスの子が誘いやすいよな、やっぱ!」
タカダアユムには僕の言葉が聞こえないらしい。
僕はそれ以上の抵抗を諦めて、閉じかけた本を再び開いた。
無視するのが、一番手っ取り早い方法なのだ。
最近は、こうすることが多くなった。
最後の手段。
こうしてしまえば、不快な世界を遠ざけて、どこか見えないところへ追いやることができる。
タカダアユムの話し声も、教室の騒ぎも、徐所に僕から遠ざかってゆく。
でも
猫が耳元で囁く。
でも、ごらんよ。
ニタニタ笑いながら、どぎついピンク色の尻尾で、僕の首筋を撫でる。
皮膚が粟立った。
ねぇ
遠ざかっていくのは、どっち?
僕は固く目を閉じて、呼吸を止めた。
廊下の窓からはこぼれんばかりに咲き誇る桜の花がのぞいていた。
そのうちの何枚かの花びらは、開かれた窓から廊下へと迷い込む。
その日から2年生に進級することとなった僕は、初々しい気持ちと少しの不安を胸に
掲示板の前に立って、張り出されたクラス替えの表から
自分と憩の名前を探し出そうと、神妙な面持ちで掲示板を睨んでいた。
僕等の通っていた公立の中学校は、生徒数が多かった。
6つもあるクラスの中から自分の名前を見つけ出すのは骨の折れる作業だ。
浮かれてはしゃぐ同級生の歓声と落胆の叫び声
そんな声たちに集中力を削がれまいと、必死で耳を閉ざそうと苦心していると、いきなり何者かが僕の肩を強く掴んだ。
あまりにも唐突で、しかもかなり熱のこもった、力強い掴み方だった。
驚いて振り向くと、僕の後には、人懐こそうな笑顔の、見るからに
“やんちゃです”
といった感じの、一人の少年が立っていた。
「―え?」
少年を見て、僕は思わず眉をひそめた。
少年の顔に見覚えがなかったからだ。
一瞬、人違いをされたのかとも思ったが、まともに正面から僕の顔を見ても、少年の表情に落胆の色は見えない。
それどころか、少年の僕を見つめる目は、やんちゃなきらめきに満ち満ちている。
そのきらめきに不信感を抱きつつも、僕はなんとなく、自分がこの見知らぬ少年に対して、好感のようなものを感じていることに気がついた。
…なんというか、すごく、ピンときたのだ。
そうだ…友達だ――
僕たちはずっと前から友達だったんじゃなかったっけ?
ただ、今日まで知り合う機会がなかっただけで……。
僕の視線を捉えた途端、僕が用を尋ねる暇もなく、少年は目をきらきらさせながら、ものすごい勢いでいきいきとしゃべりだした。
初めて耳にする、かすれたようなハスキーボイスを聞いているうちに、僕はすっかり彼が好きになっていった。
「なぁなぁ、お前にそっくりな女の子いるだろ?
あの子お前の親戚?
隠しても無駄だよ、そっくりだもん。
憩ちゃんて言うんだろ?
知ってるよ。
お前、サッカー上手いだろ。
俺と友達になんない?
お前の名前だって調べてあんだぜ!
残念ながら、お前は俺と同じクラス!
お前の名前は ――」
「里見、葉」
「え?」
僕はいつのまにか、タカダアユムに向かって自分から名を名乗り、無意識のうちに微笑んでいた。
タカダアユムの顔が嬉しそうに輝きだす。
しまった。
嫌悪感と罪悪感が一緒くたになって沸きあがり、胃に鈍い吐き気の予感を感じた。
もう手遅れなことくらいわかっていたけど、僕は無理矢理笑顔を引っ込めた。
無駄だろうが手遅れだろうが、なんだってかまわないから抵抗を示したかったのだ。
「サトミ、ヨウ?」
「いや。ちが ――」
否定しようとする僕の言葉を、タカダアユムは両手を振って遮った。
「もう遅いぜ、里見。
へっへ。実は俺、お前の名前知ってたんだ。
座席表で確認済み。
一応聞いただけ。
あ、そうだ!俺のことはアユムって呼んで!
アユでもいいけど!」
タカダアユムは馴れ馴れしく僕を呼び捨てにすると、当たり前のように椅子を引いて、隣の席にどっかと腰を下ろした。
「で、今日、空いてる?」
「は?」
「予定ないんだったらカラオケ行かない?女の子誘って!」
「行かない。」
馴れ馴れしい…
急に、この教室の何よりもタカダアユムの存在が疎ましくなった。
カズに似てる??
こいつが??
カズにだと????
こいつが隣に座っていることが、不愉快でたまらない。
「えぇ?じゃあさ、誰誘う?新学期だし、クラスの子が誘いやすいよな、やっぱ!」
タカダアユムには僕の言葉が聞こえないらしい。
僕はそれ以上の抵抗を諦めて、閉じかけた本を再び開いた。
無視するのが、一番手っ取り早い方法なのだ。
最近は、こうすることが多くなった。
最後の手段。
こうしてしまえば、不快な世界を遠ざけて、どこか見えないところへ追いやることができる。
タカダアユムの話し声も、教室の騒ぎも、徐所に僕から遠ざかってゆく。
でも
猫が耳元で囁く。
でも、ごらんよ。
ニタニタ笑いながら、どぎついピンク色の尻尾で、僕の首筋を撫でる。
皮膚が粟立った。
ねぇ
遠ざかっていくのは、どっち?
僕は固く目を閉じて、呼吸を止めた。