楕円球空間 -17ページ目

早明戦

これまた論評しにくい結果に・・(早稲田17-7明治)。

 

最初と2回目のスクラム、開始5分の石田のトライで「こりゃ明治の圧勝だ」と思った人が観客+テレビ観戦者の90%だったはず。もちろん自分もそう思ったわけなんだが・・・。冷静にコメントすると、早稲田はスクラムで圧倒されることを織り込んで練習したのであろうダイレクトフッキングにさっさと切り替えて(それでも何度も捲られたが)FWの負担を最小化したこと、あとはとにかく愚直に真面目にディフェンスしたことが勝因。一方で、明治は(これが今季の明治を見る初戦だったわけなんだが)驚くほど攻め手が少ないことに愕然。帝京戦7点だった理由がわかった気が・・・。2-3年前(選手権優勝、対抗戦優勝のこと)の凄みのある鮮やかなBKは何処へ行ったのか?メンバー的にさほど落ちているとは思わないんだが・・・。これは指導者の責任大かなぁ。順目で単純に縦に突っ込むだけでは早稲田はある意味ラクだったはず。凝ったサインプレーも出ないし・・。ハーフ団含めたBK陣の技巧不足が敗因か。

 

まぁもう少し彫り込んだ?コメントをすると、明治はレフリングとも合わなかったのが敗因のもう1つ。正直主審は下手だったんじゃないの・・・?でなければ昔懐かしい○○○寄りの笛ってやつ・・・?後半の早稲田ゴール前でのラインアウトのオブストラクション、同じくゴール前でのラックからモールへの切り替えでのオブストラクション、この2つは全然わからなかった。特にモールへの切り替えのところは、あれがオブストラクションだともうどうやればいいのか全然わからない。前半の早稲田ゴール前でのノックオンも映像ではわからなかったかなぁ(ボールキャリアがあまり意外そうでもなかったので落としてたのかもしれないけど)。一方で宮尾の明らかなスローフォワードは2回は見逃してたなぁ。立ち位置で見えなかったのかもしれないけど。早稲田はシャローなオフェンスで意図的にギリギリ(婉曲的に言えば)のタイミングでパスしてくるんだから、ここをルーズにジャッジするとなんでもありになっちゃう。

 

ということで明治にスキルと工夫がないので負けたことはその通りなんだが、レフリングももうちょっとなんとかしてほしい。

早慶戦

すっかり旧聞に属しているし、明日は優勝が決まるかもマッチ&明後日は早明戦なので手短に。

 

40-33とはいえ前半は早稲田33-5、後半は慶應28-5、でまるで違う試合が2試合あったようなもの。評価は難しい。過去の戦績が70勝20敗8分け、ということは才能もスキルも基本早稲田が上なわけで、慶應が勝つにはそれを超越するもの、逸材が複数名いて個の力で打破するか、21世紀には死語となった精神力しかない。現役大学生を知る身としては後者に過剰な期待はできないわけで、いくら下馬評が当たらない早慶戦とはいえ普通にやれば早稲田が勝つはず。慶應が勝つには一にも二にもタックル。

 

前半から慶應ディフェンスが甘くて大差の予感。で的中。このまま70-10くらいいくのか、と思ったら長田主将が交代、SO伊藤が負傷交代、となった途端に早稲田の組織力が消滅して愚直すぎる慶應FWにやられ放題。助かったのは慶應のNZ留学生がチームスタイルにマッチしていなくて一番大事なところ個人プレーに走ってくれたこと。33-19のところで4番?が外に完全に余ってたBKにパス放ればトライ確実というところで突っ込んでチャンスを潰してくれたのがキーな気が。正直慶應に先はなさそう。早稲田も早明戦で長田欠場らしく、長引くと伸びしろが消滅しそう。

 

早稲田はBKが主将だと優勝できないジンクス(勝手に命名、でも結構確率的にそうだと思う)があって、しかもアウトサイドセンターの主将なんて記憶にないくらいで、今季を不安視していたんだが、長田は結構いい主将だ、という印象。でも監督交代のせいもあるのか吉村がリザーブにも入らず(相手にすると実に嫌らしいプレーヤーだと思うんだが、久冨だと随分ラク)、大崎が2本目の主将と聞いて、チームマネージどうなっているんだろうか、と。まずは真価が問われる明治戦。メンバー的には明治有利なんじゃないかな・・・。

最近読んだ本

「真説 日本左翼史」(佐藤優・池上彰)

スピノザ絡みで國分功一郎、マルクス絡みで白井聡、と来て、この鬱屈してどん詰まり感のある日本を変えられるのはこの辺の思想(共産主義ではなくて)かな、と思う今日このごろ。ということで左翼って何という1つのまとめを佐藤優に期待して購入。佐藤さんもそういう意識でこの本(続編もあるらしい)を企画したらしく、タイミング的にもよい感じ。

 

それにしても佐藤優の博覧強記ぶりには驚く。同時に池上彰の薄っぺらさにも・・・(一応フォローもしておくと佐藤優と対談する時点で誰でも分が悪い)。対談形式といいつつ、ほとんど池上がインタビューして佐藤が滔々と語っている、と言っていいんじゃないかな。ところどころ取ってつけたように「ここは俺にしゃべらせろ」的に語るんだけど、深みも複眼性もなく・・・。正直佐藤優1人で書いたほうがいい、という印象なんだが、執筆だと大変だから対談という体にして編集者にかなり投げたんだろうね。続編もあるなら量も膨大だし。内容的には戦前から左翼運動の軌跡をあくまで客観的かつコンパクトにまとめていて一読の価値はある。まぁこれでも客観的じゃないという人も左右両派にいると思うけど。

 

「古くて素敵なクラシックレコードたち」(村上春樹)

村上春樹はこういうエッセイというかテーマを決めて好きに語るのが一番いいんじゃないかな、と思う。以前「ウィスキー・・・」のときにも思った。今回は膨大なレコードコレクションから約500枚(約100曲)選んでコンサイスに演奏や録音を評論しているんだけど、言葉の選び方が自然かつ的確で、聴いたことないレコードでも(指揮者や曲は知っているので)「あぁそうそう!」「きっとそんな感じなんだろうなぁ」と首肯できる。それにしても村上も述べているように、LPレコードのジャケットで味があってキレイだね。CDになってそういうのが減った感じがする。すでにCDすら購入しない(音楽はダウンロード派)という人が多いと思うので、どんどんそういうゆとりとか味わいが減って無味乾燥なつまんねー社会になりそうですね。

「キオスク」「僕の大統領は黒人だった」

最近読んだ2点。

 

「キオスク」(ローベルト・ゼーターラー)は第二次大戦直前のナチス台頭期のウィーンを舞台に、ジークムント・フロイトの離墺、という歴史的事実に、ザルツカンマーグートから「上京」した少年の成長(またもやBildungs Romanですな)を絡めて、オーストリアが民主制を失った昏い時代を切り取った小説。ゼーターラーの小説が概ねどれも平易な筆致ながら、どこか人生の儚さや寂しさ、一方で無名の人の息吹、といったものをコンパクトに切り取る小説で、これもそういう中に位置づけできる。特に傑作というわけではないが、駄作というわけではない、独特な立ち位置かな。

 

「僕の・・・」(タナハシ・コーツ)はリンカーン以来、合衆国最高の大統領の統治した8年間に著した雑誌記事をまとめたもの。当初、アフリカ系アメリカ人からみたアフリカ系アメリカ人の治世の評価・賛辞、と思って読みだしたら全く違った。極めて綿密な文献調査と統計調査に基づいた、上品な筆致ながら激烈なアメリカ合衆国批判の書。「賠償請求訴訟」が巨大なインパクトを与えたのがよく理解できる。現在の世界に覇を唱えるアメリカ合衆国の繁栄が、以下にアフリカ系アメリカ人を始めとするcoloredを組織的・政治的に迫害し続けたことに起因するのかを、縦横無尽かつ徹底的に明らかにして、絶対にこの問題をなかったことにしない!という極めて強い信念に溢れている。当然あの第45代大統領がその文脈で登場してしまったか、という冷静な分析と強烈な批判も盛り込まれている。静かに始まるが、読後感はすごく重い。皆に薦めるわけじゃないが、アメリカという国、アメリカ史、アメリカ政治に興味がある人は必読。

「実力も運のうち」「数学に魅せられて科学を見失う」

最近読んだ2冊。

 

前者はマイケル・サンデルの新著。うまくいった人は能力・努力だけでうまくいったんじゃなくて、環境とか遺伝子とか運の要素が相当にあるんだけど、最近の能力主義(プロテスタンティズム・ピューリタニズムからくる努力至上主義・真面目至上主義の極北の地)では機会の平等を保証すれば能力と努力に見合った結果が得られる、ってことになってしまって、たまたまうまく行かなかった人を不必要に侮蔑することになる、っていう、僕にとっては極めて自然な結論を丁寧に、様々な文献や歴史から論証した本。

 

これは全く100%同意で、研究でもうまくいった人がみんな天才で努力家ってわけじゃないし、うまくいかなかった人がみんな能力不足で怠け者だったわけじゃない、っていうことをずっと実感している。得意冷然失意泰然。これ大事。痛いのは、リベラル系がこの文脈を広めちゃったところで、片棒担いたことになるんだろうなぁ。オバマ大統領もこの点についてはしっかり批判されてる。

 

後者はSabine Hossenfelderという理論物理学者(素粒子論)の著書で、要するにここ30年の素粒子論・宇宙論は実験で検証できない「高み」(mojorityの当事者)or「遊離」(minorityの当事者と部外者)に到達してしまっていて、理論の正しさをサポートするのは理論の数学的美しさに全面的に依拠しているんだけど、どーよ?という問題提起。ちょうど自分が素粒子論をやっていたのが30年前くらいで、トップが見つかってヒッグスはもうちょっとで見つかりそう!、と素粒子論業界が盛り上がる最期の時代。もちろん今もある意味盛り上がっているだけど、多宇宙だのAdG/CFT対応(ホログラフィー理論)だのM理論だの、自分がやっていた超対称性すら検証できそうな雰囲気ないのに、もうどうなってるの?という感じ。今にして思えば素粒子論で博士課程行かなくてよかったけど(って行っても殲滅されるだけだったのでその意味でもよかったけど)。

 

まぁそういう背景があるんで、書評をまとめにくい。正直今でも憧れがあるので、対称性の美しさを信じて邁進することを支持したい気持ちもあるし(なので著者の問題提起に何らかの反発を感じるのも事実。文句言うならなにか研究しろよ、

とか)、一方で物性物理の人間としてはあまりに現実から遊離しているので著者の問題提起を当然のことと思う気持ちもある。最期まで読むと著者もやはりそういうアンビバレントな感情に引き裂かれている感じはして、気の毒になっちゃうんだけど。とにかくあの分野に行くなら見渡す限りで自分が一番ダントツに数学できなきゃだめ、ってことは確か。

やれやれ

傲慢と虚飾と虚偽にまみれた、貪欲で騒々しくて恥ずべき運動会が終わってせいせいする。

「はじめてのスピノザ」「コペンハーゲン日記」

今日でワクチン2回目。反応が早いし、だるいに眠いしあちこち痛い。

 

そういえば「はじめてのスピノザ」(國分功一郎)と「コペンハーゲン日記」(坂田昌一)をメモしてなかった。スピノザの汎神論に興味があって、ちょうと「暇と退屈の・・」の著者、國分功一郎さんがスピノザ研究で有名、ということで買って読んだんだった。

 

読後の感想としては、これこそ僕の「宗教〜キリスト教」「倫理」像!って感じ。神は人を個別に創造したんじゃなくて、この世界全体がシーツのシワのように遍く神の創造物として作って、人間はそのシワ1個1個(だからみんな違うし、でもすべて神の御業の中にある=だから個性も違いもある)、っていうのがしっくりきた。あと、個別に善悪があるんじゃなくて全体のバランスやコンテクストで決まる、ってのも。自由な意思は存在しない、1人1人の自由が社会の安定、などなど素晴らしい思想のオンパレードで、いつかエチカも読まないとな、と思う。しばらくして再読もしたい(というかしないと)。

 

もう1冊は坂田昌一先生がニールス・ボーア研究所に長期滞在した際の日記をまとめた「コペンハーゲン日記」。当時の日本の学術がいかに戦後の混乱期にあって、でも基礎学術がいかに尊重されていたか、垣間見える記録。日記、なので研究の詳細は記載がなくて、せいぜい、議論した、とか、セミナーに出た、とかなんだけど(むしろ旅行した、とか、買い物した、とか○○[この○○が大物ばっかりでびっくりするんだけど]の家に食事に招かれた、が中心)、こういう現在では忌避されるゆとりから、あの超弩級の坂田モデルが生まれるんだな、と。同時に周囲の大物理学者の皆さんも、あのゆとりの中から巨人思想が出るんだな、と。現代は大変な時代である。自分は坂田一門の孫弟子にあたるので、おじいちゃんの記録を知ることができてよかった。

「物理村の風景」

安野光雅の表紙が好印象の、物理学者によるエッセイ(亀淵迪著)。

 

著者は名大・坂田昌一研出身の素粒子物理学者で、自分が学部生時代に読まされた論文の著者の1人。師匠も坂田研出身(亀淵先生の4つ下なのでもちろん知り合いだったはず)なので、畢竟、学生に読ませる論文も坂田研のものが多くなるわけだ(と想像)。ボーア研に2年、ロンドン大に3年、と海外も長く、ボーアやサラムといった巨星と一緒に研究して、おまけに文章はとても上手く(薫るような品のいい文体でさすが戦前・旧制高校教育の賜物)、趣味はよくて(落語とクラシック)、語学も達者(英語・ドイツ語)、と素敵なお爺さんである。金沢とコペンハーゲンが自分の2つの故郷だ、とかグッと来るよね。佳作である。

"Die Tote Stadt"

コルンゴルトが23歳(!)のときに書いたオペラ。存在は知っていたけど、BSでバイエルン国立歌劇場の公演が放送されたのでもちろん視聴。それは指揮がペトレンコで主演がカウフマンだから。

 

コルンゴルトのヒーローはシュトラウスとプッチーニだったようなので、全編大オーケストラの咆哮とプッチーニ風の甘い旋律で構成。ストーリーには底本があって「死都ブルージュ」。妻に先立たれた夫の狂気が中心なんだけど、最後にすごいカタルシスがあって、薔薇の騎士ほどの脚本の深みはないけど万人が一定の共感できる話。まぁ洒落た音楽をつけたセカチューみたいな感じ?(厳しすぎ?)

 

で、ペトレンコの音楽作りはいつもどおり楽譜を読み込んだ隅々まで行き届いた演奏に結実。カウフマンと相手役のマルリス・ペーターゼン(第二の故郷Stuttgartの出身で年も一緒)は演技まで素晴らしく、もちろん歌もずば抜けてすごい。あの難しい高音だらけの楽譜をよくあそこまで音楽的にできるもんだ・・・。

 

ということでぜひ実演を見てみたい!と思った次第。来シーズンもバイエルンであるんだけど、VogtとE. Gusevaという人が主演なので、だいぶん力は落ちちゃうのかなぁ(Vogt好きなんだけど、死の都にはあわないかなぁ)。

「暇と退屈の倫理学」

語学の達人、國分功一郎著。

 

白井聡の「・・・資本論」でも簡単に紹介されていたし、以前から興味あったので購入。國分功一郎は哲学者なんだけど、この本は社会学というか経済思想学というか、もちろん哲学要素も多いんだけど。

 

ハイデガーの退屈の3分類を中心にして、それにマルクスやアーレントなどを混ぜながら、何故退屈するのか、どう退屈から逃れられるのか、を論じている。アーレントのマルクスの解釈、ハイデガーの退屈の第3形態の解釈は完全に同意はできないけど、なかなかに面白い本だった。あとでもうちょっと加筆して補充したいなぁ。

 

〜6/25 加筆〜

アーレントはマルクス(と他の哲学者)が「労働」と「仕事」を区別していないので矛盾が生じた、労働は忌避されるものは仕事は創造的で楽しいもの、と主張した部分、これは自分も同感で、マルクスは創造的活動について論じていないので、話題は「労働」に限られていると思う。この部分の國分さんの論だてはやや強引にアーレント批判に持ち込んでいて違和感がある。

 

あと退屈の第3形態では、自分で自分に何かを課して第3形態から逃れるけど、それは第1形態に戻るだけだ、という部分は、第1形態の例示がよくないのかもしれないけど、「なんとなく退屈だ」という中で自分が楽しいと思えるものを見つけて熱中できることはありえて、それは仕事や課題に追われるのと違う形を取りうると思うので、やや議論が乱暴に思える。

 

とはいえ、それ以外はよくできた論考じゃないかな。