長野氏の系図・五輪塔の部位の名称は末尾の資料を参照してください。
長年寺(高崎市中室田町)の長野氏の墓には、7基の五輪塔がまつられています。
いつの頃かわかりませんが、この場所に集め並べられたのだと思います。
右から4番目の中央は業尚(なりひさ)の墓。生年不明~1503年(箕輪城と上州戦国史より) 業政(業正)の祖父にあたります。
慶岩長善庵主。
「庵主(あんじゅ)」という位号を初めて目にしました。きっと長年寺を開いて、背後の鷹留城主だったのでこの位号になったのだと愚考します。この墓のみ地輪の下に台石があるのは長年寺にとって最大の貢献者ということなのでしょう。
右から3番目は憲業(のりなり)の墓。生年不明~1514年(ウィキペディアより) 業政の父。
南方長宗庵主。憲業も「庵主」の位号です。
右から2番目は業氏(なりうじ)の墓。業政の兄。
以山長伝居士。
右から5番目は業政(業正:なりまさ)の墓。1491~1561年(ウィキペディアより)。
箕輪城主として武田信玄の侵攻を6度にわたって防ぎました。2万の軍勢を動かす力があったそうです。
業尚(長年寺を創建。鷹留城主)の墓より小さく他の長野一族と同じ扱いです。また、他の6基と違い風輪が空輪より小さくなっているのですが、なぜなのでしょう?
一清長純居士。
右から6番目は業固(なりもと?)の墓。長年寺の系図では業政の甥になっています。
傑山長寅居士。
右端は業茂(なりしげ)の墓。業政の又甥。
一渓長派居士。
業続(なりつぐ、と読むのでしょうか?)の墓。長年寺の系図には載っていない人物。きっと過去帳だけに記載された人物なのでしょう。
笠(火輪)の形が他の五輪塔とかなり違います。年代的なものかたまたまなのか?
安山長康居士。
長年寺長野氏の墓で愚考したこと
鎌倉時代までは法名(新田義貞の祖父は沙弥道義)で、院殿号の最初は足利尊氏の「等持院殿仁山妙義大居士」だそうです。戦国時代になっても長野氏レベルの地方豪族では「院殿号」や「大居士」はつけられなかったたのかも知れません。
資料
(三谷石材工業HPよりお借りしました)