鶴岡八幡宮の神主大伴家の墓が浄明光寺(鎌倉市)のやぐらにあります。
大伴神主家は鎌倉幕府が開かれるとほぼ同時の1191(建久2)年に大伴清元(-1225:忠国とも)が神主となって以降1868(明治元)年の神仏分離令まで25代にわたり神主(※1)を世襲しました。
浄光明寺には15代清道(1610-1669)以降の墓があります。その墓を年代順に並べてみました。
平場左右に石塔が立ち、鎌倉周辺に特有なやぐらの中にも石塔が立っています。
① 15代清道(1610-1669)の墓。
図書頭清道神霊
② 16代好時(1629-1693)の墓。
元禄六癸酉年(1693年)
大伴志摩守南慶道至秋
十一月十一日
基台と塔身は別物かも知れません。
③ 17代貞清(1666-1687)と妻の墓。1687(貞享4)年に建てられています。
大伴主殿助定清窓白神霊
本性院円成明融大姉墓
大伴主殿助定清窓白神霊・本性院円成明融大姉墓と神主は神葬(窓白と戒名っぽい部分もある)、妻が仏式なのは神長官守矢家の墓と同じです。
④ 19代時芳(1698-1782)の墓
大伴時芳
⑤ 20代忠男(1754-1816)の墓。
大伴忠雄墓。
⑥ 23代清芳(1792-1847)の墓。
1847(弘化4)年
大伴左エ門清芳〇(墓?)
⑦ 別格。
904(延喜4)〇
従三位下大伴主〇○○○
延喜4年に造られたとは到底思えず、伝説上の先祖大伴主〇○○○のために江戸時代後半に造られた祖塔と思われます。
左17代貞清墓、中央19代時芳墓、右延喜四(904年)銘を持つ墓
まとめ
保科正之の墓・会津藩松平家の墓の大名墓を除けば、神葬の墓石が登場するのは江戸時代後半、神長官守矢家の墓「1817年造立神長官守矢氏神朝臣實綿霊神之墓」が自験例では最古でした。
大伴神主家の15代清道の墓はそれより150年近く前に立てられた神葬墓と言えます。
大伴神主家の墓石では15代清道(1610-1669)の笠塔婆は笠塔婆ながらすでに神号図書頭清道神霊が彫られています。以後、日本仏教で定型の戒名ではなく、仏塔に神号、仏塔に実名を彫る等の形式が試みられています。
19代時芳碑と延喜四の杓形碑は形式が同じで、延喜4年(904年)造立の可能性は限りなく低く、形式が同じ19代時芳碑と前後して造立された、祖塔に位置付けられる碑と考えられます。
したがって、16代好時碑が1693年頃立てられ、19代時芳碑がその90年後頃立てられたが、この3基以外は無く、この形式は必ずしも大伴神主家内で支持された訳では無かったのかも知れません。或いは浄光明寺側の意向があったのかも知れません。
以後、20代忠男(1754-1816)、23代清芳(1792-1847)のような、同時代頃の仏塔で一般的な円頂方柱墓に石碑の形状は集約され、戒名はつけず、神号もつけず、実名を彫るという形式になったと考えます。








