長年寺長野氏の墓を見学して、
・長年寺を開いた長野業尚(なりひさ)、最盛時の長野業政(業正)でも「大居士」ではなく「居士」。
・同様に「院号」「院殿号」もついていない。
・長年寺長野氏の墓7基は全て五輪塔。
という事が分かりました。
当時群馬県一の勢力を誇り武田信玄の侵攻を6度破った箕輪城主業政(表正:なりまさ)が病没(1561年・永禄4年)すると業盛(なりもり)が跡を継ぎます。しかし5年後に箕輪城は落城、業盛は自刃しました。亡骸はこの地に葬られました。
伝長野業盛の墓
業盛の墓は中央の廟墓ラントウではなく、左側の五輪塔らしきものが業盛の墓だと「長野業盛の墓~お墓の疑問116~」で推測した訳ですが、長年寺長野氏の墓を見学して、以下の墓石と戒名の2点でより強くそう思うようになりました。
墓石について
次の点で業盛の墓が廟墓ラントウであることは疑問です。
・来迎寺長野氏累代の墓は30数基のうち2基の廟墓ラントウを除き、五輪塔か宝篋印塔であった事。
・長年寺長野氏の墓7基はすべて五輪塔で、長野業政(業正:なりまさ=業盛の父)も五輪塔である事。
また、没年が業正1561年、業盛1566年と近いので同形式の墓石になりそうに思われる事。
戒名について
業盛の戒名は「弘稱院殿箕山法輪大居士」とされています。
「院殿」や「大居士」が業盛につけられるのかが問題です。
・1561年に病没した長野業政は「一清長純居士」です。院殿号ついていません。長年寺長野氏の墓(業盛墓含む)7基はいずれも院殿号・院号は無く、位号は居士です。
のめしこきの愚考
業盛自刃の後小さな五輪塔を建てて供養されていたが地輪水輪にあたる部分が無くなっていたのを、江戸時代(或いはそれ以降)「この廟墓ラントウの方がでっけえから、こっちを墓にすべえや」「どうせ供養すんなら戒名も必要だんべ。それもお殿様らしく院殿を付けてやるべえや」と意見が一致したのではないかと推測します。
(三谷石材工業HPよりお借りしました)