名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~
城跡だけじゃない、仏像だけじゃない、建築だって、遺跡だって、化石だって大好き!
日本の長い歴史の中で生まれたさまざまな『文化財』が大好きなんです。日本の文化財を見れば、日本ってすごい!と強く感じます。文化財のここがおもしろい、すごい、好き、をうまく紹介できればいいな、って思ってます。どうぞご覧になってください
  • 25Jul
    • 世界で唯一の自生地となってしまった…   宝蔵寺沼ムジナモ自生地を訪ねるの画像

      世界で唯一の自生地となってしまった…   宝蔵寺沼ムジナモ自生地を訪ねる

      皆さんは、ムジナモをご存知ですか?水生の植物ですが、主に水中のボウフラやミジンコを捕らえて栄養にする、食虫植物の一種です。昔は世界各地に分布していたそうですが、環境の悪化ですべて絶滅してしまいました。今では日本にしか自生していないそうです。しかも一か所だけとか。その、世界で唯一となった埼玉県羽生市の宝蔵寺沼ムジナモ自生地を訪ねました。宝蔵寺沼実は、宝蔵寺沼の周辺は「羽生水郷公園」として整備されていて、公園内には「さいたま水族館」があります。「海のない埼玉県に、水族館とは珍しい…」そう思われる方も多いでしょう。こちらは、「海はなくても川がある」埼玉県が造った、淡水生の生物を紹介している結構ユニークな水族館なんです。よく、小さかった息子を連れて遊びに行きました。それに、さいたま水族館は施設の取り組みとして、ムジナモの増繁殖にも取り組んでいて「ムジナモを育ててみよう」というプロジェクトなども行なっているのです。「わが家にも天然記念物が来るなら!」っていうんで、一時期そのプロジェクトに参加していました。まあ結果は散々だったのですが…上手な人は、いっぱい増やしてましたね。奥さんと息子は水生動物に触れるコーナーで遊んだり、チョウザメ(キャビアが取れる、あのチョウザメを飼育しています。)のエサやりをしたりして楽しんでいました。父ちゃん(私ですが)は、天然記念物のムジナモとかミヤコタナゴとかムサシトミヨを見て喜んでいました。そんなわけで、ここには家族でしばらく通っていたのです。ところで、その宝蔵寺沼ムジナモ自生地について。宝蔵寺沼は沼なのですが、ここがムジナモ自生地ではありません。ムジナモ自生地 指定地域(宝蔵寺沼は右手の方)ムジナモが自生するのは沼の方ではなく、沼の隣にあった「堀上田」と呼ばれた泥湿地です。ムジナモも今は、自生しているとは、およそいい難い現状です。やはり環境の悪化が大きな理由だそうですが、コイ、アメリカザリガニ、ウシガエルのオタマジャクシなどムジナモを捕食する生物が入り込み、世界唯一の自生地でもムジナモはほぼ絶滅状態になったそうです。こういった動物の侵入はほとんど、人の手によるものだと考えられるそうです。それでも今では、そうした動物の駆除事業も行っていて、だいぶ減ってはいるそうです。ムジナモ さいたま水族館で展示しているもの自生地は今、立ち入り禁止となっています。「ムジナモを育ててみよう」プロジェクトに参加すれば、放流のため年に一度、自生地に入ることができます。ムジナモは捕食者から保護するため、金網のカゴの中に放流されています。実はムジナモ保護の事業が始まって、既に40年以上が経っているそうです。最盛期のような、水面を覆いつくすほどのムジナモが見られるのは根気がいるほどの長い年月が必要だと感じました。この話を読んでムジナモに興味を持ち、訪ねてみようと思った人でも、保護のため普段は自生地に立ち入るようなことはしないでほしいと思います。ムジナモ 捕虫器さて、さいたま水族館では埼玉県内に生息する水生生物をたくさん見ることができます。利根川で、産卵期になると水面で飛び跳ねる様子が壮観で有名になったハクレンも、ここで見られます。巨大な魚で、大きな水槽を所狭しと泳ぎ回っています。その様子は、その巨大な目玉も相まってなかなか不気味です。小さな子がその恐しい姿に驚いて、ハクレンの水槽前で泣いているのを見たことがあります。ここではそのような魚は紹介せず、天然記念物の2種類の魚を紹介します。まず、ミヤコタナゴ。ミヤコタナゴ産卵期にオスは「婚姻色」といわれる鮮やかな赤橙色に染まることで知られています。たまたま産卵期に訪ねることができたため、その婚姻色のオスを撮影できました。ミヤコタナゴ 婚姻色のオスそして、ムサシトミヨ。埼玉県内に唯一の生息地(熊谷市久下)があります。市街地にあるので環境悪化が懸念されているそうで、既に人の手なくしては環境を維持できる状態ではありません。ムサシトミヨ生息地は埼玉県指定天然記念物に指定されています。--------宝蔵寺沼ムジナモ自生地(昭和41年5月・国指定天然記念物 埼玉県羽生市三田ヶ谷)ムジナモはモウセンゴケ科ムジナモ属に属する食虫植物で、被子植物ですが根がなく、水面を漂うように繁殖します。あまり花が咲かず、種もできるのですが発芽しません。ほとんど株分け、すなわちクローン増殖で増えるため、遺伝的に弱いと考えられています。宝蔵寺沼は埼玉県羽生市の東方にある、利根川沿いの低湿地に位置します。ムジナモはかつて世界中に自生地がありましたが、水害や除草剤散布、水質悪化などの影響でことごとく絶滅状態にあり、今では宝蔵寺沼が世界唯一の自生地となりました。宝蔵寺沼でも昭和41年に台風の影響で残っていた株が流失したため、一時絶滅状態になりました。しかし、以前から繁殖方法を研究していた地元の愛好者が株を保護していたため、これらが自生地に戻されて絶滅を免れたという経緯があります。現在でも保護活動は続けられていて、捕食動物の駆除や水質改善の試み、株の増殖プロジェクトなどが進められています。ミヤコタナゴ(昭和49年6月・国指定天然記念物 地域を定めず指定)ミヤコタナゴはコイ科タナゴ亜科に属する日本特産の淡水魚です。淡水魚ではイタセンパラとともに初めて種での指定を受けました。全長35~50㎜ほどの小魚で産卵期の4月下旬から7月上旬にはオスが婚姻色と呼ばれる鮮やかな色に変わります。タナゴの仲間は生きた二枚貝類のエラに産卵しますが、ミヤコタナゴは主にマツカサガイに産卵します。その名の通り東京都内で初めて発見され、関東地方の茨城県以外の1都5県で生息が確認されていました。しかし自然環境の変化による環境悪化、それに伴うマツカサガイの減少によって個体数が激減しています。現在では埼玉県や栃木県のごく一部でのみ生息が確認され、保護施設などが建設されて保護増殖の取り組みが行われています。元荒川ムサシトミヨ生息地(平成3年・埼玉県指定天然記念物 埼玉県熊谷市久下)ムサシトミヨはトゲウオ科トミヨ属の淡水魚です。全長は35~60㎜程度の小魚で、背びれ、腹びれ、尻びれにトゲがあります。体色は緑がかった暗褐色をしています。かつては関東各地で生息地が確認されましたが、現在では埼玉県熊谷市の元荒川源流域でのみ確認されています。埼玉県の「県の魚」として、埼玉県を代表する魚に認定されています。やはり環境の悪化が影響して生息地が減少しており、熊谷市では「ムサシトミヨ保護センター」を中心としてムサシトミヨの保護、繁殖に力を入れています。参考文献:『日本の天然記念物』 講談社(1995)参考HP:熊谷市ホームページ『熊谷市ムサシトミヨ保護センター』 http://www.city.kumagaya.lg.jp/smph/shisetsu/bunka/tomiyo.htmlブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 07Jul
    • 古墳時代はいつ始まった?   弘法山古墳を訪ねるの画像

      古墳時代はいつ始まった?   弘法山古墳を訪ねる

      長野県松本市の文化財訪問、今回の最後は弘法山古墳です。松本市内には他にも様々な文化財がありますが、まだ訪ねることができていないので、今回はここまでとなります。さて、この弘法山古墳、家族旅行で訪ねたのではありません。仕事で松本に行った際に訪問しました。そもそも、家族旅行でこんなところへ来れば、妻と息子からは大ヒンシュクでしょう。しかし、この古墳は日本の考古学においては非常に重要なポイントを占めた古墳だと思います。ですから、私としてはぜひ訪ねたい文化財でした。というわけで松本城と同じくらい、あるいはそれ以上に魅惑的な弘法山古墳、早速ご案内いたしましょう。そもそも弘法山古墳、何がそんなに魅力的なのでしょうか?それは、古墳時代初期の古墳の可能性がある古墳だからです。一説には3世紀後半にまで遡る可能性もあるとか。そうなると奈良県桜井市にある、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳とほぼ同時期の古墳ではありませんか。弘法山古墳遠景(中山丘陵を西から)弘法山古墳は、上の写真のような丘陵(中山丘陵)突端部の頂上に、その自然地形を利用して築かれています。3世紀後半に築かれたとなると、様々な議論が沸き起こることになります。まず、東日本の中央高地に古式古墳が発生したということ。卑弥呼の時代と同時期の墓がここにあるという事実がとても重要になります。しかしその前に、これは古墳と呼んでいいのだろうか、という問題も発生します。そもそも古墳時代以前にも、いわゆる高塚式のお墓は存在します。これらは古墳と区別され、弥生時代に属する「墳丘墓」という専門用語で語られます。墳丘墓が古墳ではない根拠は何でしょうか?それはおそらく、築かれた時期と墳形や主体部の構造などでしょう。古墳とはなにか?それは前方後円墳が登場してから築かれた墳丘墓と考えます。すなわち中央集権的な国家が築かれつつあった時代に、中央政権に協力する地方の有力者だけが築かれることを許された特殊な形状の墳丘墓。それが前方後円墳であり、それと同時期に築かれた墳丘墓が古墳と定義する考え方があります。私もそれを支持しています。弘法山古墳(後方部)その時代に平行する古墳、あるいは墳丘墓である弘法山古墳は前方後円墳ではありません。前方後方墳(墳丘墓)です。面倒くさいので、以降は古墳、そして前方後方墳と記述することにします。前方後方墳といえば、卑弥呼と対立していた狗奴国の墓制、という説があります。狗奴国は尾張地方周辺を中心として東日本に勢力を張っていたとされています。前方後円墳の登場は、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳が築かれた頃。そうなるとこれを古墳と呼んでいいのか。地域的にもここは畿内でなく、中央高地であると。弥生時代終末期の前方後方型墳丘墓と呼ぶ方が相応しい(ふさわしい)のではないか、なんて議論も当然巻き起こります。そんな議論の中心となる古墳、見たくなるではありませんか。弘法山古墳の竪穴式石室 位置表示主体部は竪穴石室様の礫槨でした。河原石のような丸い石を積み上げて築かれていました。今では埋め戻し保存されているため現物は見られず、それっぽい石で位置表示のみされています。報告書では竪穴式石室と記載されていますが、礫槨のようだとも書かれてました。それは遺体周辺のみ壁のように大きな石を積んで遺体安置の空間を作っており、大石の隙間は粘土を詰めてその周囲には比較的小さな石を裏込めのように入れているからです。中央には土が入っていました。ちなみに、未盗掘だったそうです。すごいですね。報告書を読んでいても、編者の斉藤忠先生の興奮が伝わってくるようでした。後方部から前方部を望む墳丘は整備されていて、前方後方形がよくわかります。しかし、ここには戦時中、西側斜面に対空機関銃座が3ヶ所も置かれていました。明治時代には桑畑にされていたとか。裾部には近世の猪垣跡もあったそうです。それでも発掘調査に当たって測量した際に前方後方形ではないかと指摘されました。報告書の測量図を見ても、前方後方形に見えます。土地利用が激しかったにもかかわらず、よくぞまあ無事に残ってくれたもんだ。当時、というか今でも有力な説ですが、前方後方墳は初期の古墳の可能性が高いことから、急に保存が決まったそうです。弘法山古墳から望む北アルプス連峰訪問時は空気が澄んでいる時期で、雪に覆われた北アルプス連峰がその雄大さを現していて、絶景でした。弘法山古墳が被葬者の威厳を知らしめるのにふさわしく、高所に築かれていることがよくわかります。前方部から見た後方部前方部と後方部の高低差も、これだけ大きいです。古式な特徴が強く表れています。弘法山古墳全景(北東から)下方から眺めても、前方後方墳の形状がハッキリわかります。ただ、先にも述べたように、前方後方墳だと分かったのは発掘調査時の測量によるものでした。それ以前には前方後円墳だとも言われていたのです。しかも報告書には、元の丘陵と古墳の境目がハッキリしなかったともあるのに…。整備に当たって、余りに前方後方形を強調し過ぎではないですかね?そういうところは日本における史跡整備の問題点でもあると思うんです。だって、もしかしたらその当時のこの古墳を見て、「いやこれは前方後円墳だ!」っていう人だっているかもしれないじゃないですか。それで学説やら議論やら何やらが築かれていくと思うのに、これでは議論の誘導になってませんか?報告書の測量平面図を見ても、ここまでくっきりとした前方後方形ではなかったようです。弘法山古墳から見た松本市街地(南方)そんなところに不満を感じながらも、景色の良さに不満も消し飛んでしまい、清々しさすら感じながら気持ちよく古墳を後にしたのでした。--------弘法山古墳(昭和51年2月・国指定史跡 長野県松本市並柳2丁目)松本平の南東に位置する中山丘陵の突端頂上部に築かれた、古墳時代初期を代表する前方後方墳です。もともとは地元の学校法人、松商学園の学校用地で開発に当たり発掘調査が行われました。その結果、前方後方墳であることが明らかになった上に未盗掘の主体部が検出され、貴重な遺物が原位置を保って多数出土しました。その遺物の年代観が3世紀後半にまで遡る可能性が指摘され、その墳形とも合わせて重要性が認められ、国指定史跡となって保存されました。現在ではその年代は4世紀中葉まで下るとの説もあり、必ずしも初源期の古墳というわけでもない可能性も指摘されていますが重要性には変わりなく、古墳の魅力は全く損なわれていません。参考文献:『弘法山古墳』長野県松本市 弘法山古墳調査報告、斉藤忠・編 松本市教育委員会(1978)『古墳の語る古代史』岩波現代文庫 白石太一郎、岩波書店(2000)参考HP:『弘法山古墳』松本市ホームページ https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/shiseki/koubouyamakohun.htmlブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 01Jul
    • 国宝指定の天守はやはり違う   松本城天守を訪ねるの画像

      国宝指定の天守はやはり違う   松本城天守を訪ねる

      前回の投稿からだいぶ時間が経ってしまいました。仕事の都合で1ヶ月も留守にしてしまいまして、やっと帰ってきました。今回、紹介するのは松本城の天守(渡櫓・乾小天守・辰巳附櫓・月見櫓)です。松本城天守は日本に残る12件の城郭天守でも、特に国宝に指定された5件のうちの一件です。松本城天守 大天守、渡櫓、乾小天守(西から)黒い姿が印象的…「どーだ、息子よ。国宝の天守を見に来たんだぜ!」「うん、カッコいい!」そうだろ、そうだろう。「父ちゃん、黒い天守って古いんだろ?」「おう、よく言われるな。黒いのは黒漆を塗っていて、木造なんだって。関ケ原以前に建てられたって説が強いな。必ずしもそうでないとも言われているらしいが。」「ふーん…。」なんて会話をしながら黒門から本丸内へ…。松本城天守 大天守、渡櫓、乾小天守、辰巳附櫓、月見櫓(本丸内から)本丸から見る天守は、小天守や櫓群も見渡せてカッコいいです。渡櫓や乾小天守は大天守と同時に建てられたようですが、辰巳附櫓と月見櫓は後から増築されたそうです。平和な時代が来て、気持ちに余裕ができた象徴ということなのでしょう。大天守の真下まで来ると、どっしり構えた豪壮さに感嘆の息が出ます。松本城天守 大天守 そして渡櫓と乾小天守。こちらは普段、立ち入ることができません。残念。外から見る渡櫓と乾小天守だけでご容赦ください。渡櫓と乾小天守(西から)乾小天守(本丸内から)天守入口からは大天守下の石垣と石落としを間近から見ることができます。石垣は勾配が急ではありませんが、野面積みが見事です。大天守下の石垣と石落としそして、石落とし。「息子よ、あれが石落としだ。あそこから石垣を登ってくる敵に石や鉄砲を浴びせるんだぜ。」「知ってるよ、姫路城で見たもん。蓋があるんだよね。」ぐっ……。そうだった、妻と息子は二人で私を差し置いて姫路城を見ているんだった!(私は姫路城と縁が薄く、仕事などで近くへ行くことはあっても未だに城へ行ったことはないんです。)「フッ、姫路城よりこっちの方が古いんだぜ。」「あっそう…。」ぐっ………………。古さに価値を見出さないのか、我が息子は。そうこう言っているうちに、天守の中へ。大天守2階は展示室になっていました。大天守2階の梁、貫と肘木展示もいいのですが、天井の巨大な梁や肘木に驚きながら進んでいきました。(父)「おい見ろよ、息子よ。でっかい組み物じゃねえか。大きな天守を支えるには、こんなデカい木が必要なんだな。」(息子)「すごいねぇ~。」(父)「あそこの木(貫)に、チマチマと削ったような跡があるだろ?あれ、なんでか知ってるか?」(息子)「なんで?」(父)「昔は材木の仕上げに、今の平鉋(かんな)とは違う道具で削ってたんだ。」(息子)「へぇー。」(父)「槍鉋っつってな、槍の先のような道具で削ってたんだ。それと手斧とかさ。古い建物の証拠さ。」(息子)「ふーん、そうなんだ。」……実際には、あまり関心がなさそうです。続いて3階へ。大天守3階3階は急に柱が細くなります。なんでも、この階は表からは見えないように造られた隠し階だそう。万が一、敵に攻められた際に味方の兵を隠しておくための部屋になっているんでしょうか。細い柱を多数建て、空間を広くとっているところに実戦的なモノを感じます。大天守4階天守4階は「御座所」とありました。緊急時、城主が滞在できるようにした部屋のようです。そのため、梁や長押が平鉋で丁寧に仕上げられています。そして5階。大天守5階通風や採光に工夫が見られます。重臣たちの居所となる部屋のようです。千鳥破風の下に窓があったりします。大天守5階の千鳥破風内そしていよいよ、最上階の6階へ。大天守6階の屋根裏大天守6階は梁や垂木がよく観察できます。よく見ると屋根裏に神棚がありました。これも古い天守の特徴なんだとか。大天守6階からの眺望眺めも抜群で、遠く北アルプスまでも見えます。ただし、上の写真は北アルプスとは逆方向を見ていて、本丸内の様子を映しています。高みから下界を眺めて戦国武将の気分を十分に味わったら、一旦下層へ降りてきます。続いては辰巳附櫓と月見櫓へ。辰巳附櫓(右)と月見櫓外観は上の写真のようになります。後から増築されたといいますが、見事に大天守、小天守と調和して見えます。これらの建物は大坂の陣以降、寛永年間(1624~1644)に建てられたとされています。なので、武骨な大天守・小天守と違い、風流を取り入れた風雅な雰囲気を漂わせる建物になっています。そこを調和させてしまうのが、日本建築のすばらしさだと思います。辰巳附櫓の天井辰巳附櫓の花頭窓(父)「花頭窓があるよ。大天守とはだいぶ趣が違うね。」(息子)「そうだね。」(父)「大天守とこっち、どっちがいい?」(息子)「うーん、どっちも!」(父)「そうかそうか、お父さんもだよ。」(息子)「どっちもカッコいい!」月見櫓の内部月見櫓は開放的な造りになってまして、接待などに使うためともいわれているようです。一通り、古い国宝の天守を堪能しまして、私たちは松本城を後にしたのでした。--------松本城天守 渡櫓 乾小天守 辰巳附櫓 月見櫓(昭和27年3月・国宝指定 長野県松本市丸の内)松本城天守は大天守だけでなく、渡櫓や乾小天守、辰巳附櫓、月見櫓などが一括して遺存しています。大天守・渡櫓・乾小天守は文禄3(1594)年頃着手、慶長年間(1596~16159初期に竣工、辰巳附櫓と月見櫓については寛永年間(1624~44)に建てられたというのが有力です。一見して黒い建物であることが目立ちますが、これは木造の外壁に防腐目的の黒漆が塗られているためであり、ほかにも五層六階建てであるなど全体に古式な部分があります。そのため、よく言われる「望楼式天守」と「層塔式天守」の両方の特徴を備えているとされ、城郭建築の発展過程を研究する上でも貴重とされています。参考文献:『日本の国宝』週刊朝日百科 85巻、朝日新聞社(1998)『日本の名城・古城事典』南條範夫、奈良本辰也 監修、TBSブリタニカ(1989)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 04Jun
    • 松本のシンボル   松本城跡を訪ねるの画像

      松本のシンボル   松本城跡を訪ねる

      私も最近はコロナ禍の影響で、仕事以外ではほぼ外出してません。もっとも、博物館や美術館はもちろん、お目当ての場所はどこも閉鎖していてつまらないので、出かけるような場所もないですが。さて、今回訪ねたのは松本城跡です。もちろん、新型コロナが騒がれる前のことでして、やっとブログにupしました。松本城天守今年小6になった息子も、城が好きなんです。ただ、父は土塁のある山城が大好き。息子は、復元でも復興でも天守閣があるお城でないとイヤ!とかいう子でして。現存天守が見たい、と言い出しました。関東近県で現存天守があるところと云ったら…そう。ここ、松本城しかないじゃないですか。天守下の石垣というわけで、松本城まで行ってきました。しかし、息子よりマニア歴の長い父ちゃんが一緒じゃ、一筋縄では行きません。天守へ向かおうとする妻と息子をよそに、到着するなり父ちゃんは「天守もいいが、石垣もいい味出してんじゃん!」と言いながら、ちっとも前へ進みません。埋門野面積みの石垣は、なんかマニア心をくすぐります。この埋門なんか、まだまだ戦国期の影響を感じさせるではありませんか。「父ちゃん早く〜!」はい、いつものことですが、妻と息子は呆れ顔で先に行ってます。天守(南から)本丸石垣本丸石垣(西から)呼ばれたって父ちゃんは先にはナカナカ進もうとしません。だって見どころいっぱいなんだもの。この石垣の折れなんて、必ず押さえておくポイントだろ。せっかく来たんだから見ないと損だろ?早く天守に行きたい妻と息子は父ちゃんを置いて行ってしまいました。で、やっと入場口の黒門に到着。黒門一ノ門黒門ニノ門この門は復元なんですね。ただ、石垣は修復こそあれ、ほぼ当時のもの。大きな石を表に向けて壮大さを演出しているのも、近世のお城ならでは。本丸へ入って来ました。本丸から見た天守おお〜やっぱりカッコイイね。黒く聳える天守と、控える小天守や付櫓の絶妙な配置。この方向から見る松本城天守が一番イイ!天守最上階から(南方を見る)本丸御殿は位置表示されていました。次回に続きます。天守については、次回に。--------松本城跡(昭和5年11月・国指定史跡 長野県松本市丸の内)松本市は、長野県の中央に位置する、松本平といわれる盆地の中央に位置します。古くは「深志」と呼ばれ、水利の良さから古くから信濃の国の中心として栄えていました。松本城は信濃守護・小笠原貞宗によって築かれた「深志城」が始まりとされています。その後、武田信玄の品の進出時に拡張されています。現在の松本城の原形は豊臣氏が天下統一した後に入封した石川数正と、その嫡男の康長が築きました。今回は家族旅行だったこともあって、城跡の遺構をすべて見られたわけではありません。そのため、息子や妻との掛け合いを主にした文章となってしまいました。いずれ、外堀跡や総堀などの遺構を見た時に再レポートします。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキンお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 21May
    • 近代学校建築の嚆矢   旧開智学校校舎を訪ねるの画像

      近代学校建築の嚆矢   旧開智学校校舎を訪ねる

      擬洋風建築といわれる建物をご存知でしょうか?西洋風のデザインを取り入れたように見えるけど、実は和風建築の技術で建てられている建物のことで、明治の初め頃に盛んに立てられました。その実は明治日本の近代化の流れの中で、寺社や住宅の建築を担っていた日本の在地の大工棟梁が西洋の意匠を見よう見まねで取り入れていった中で生まれた建築なのです。「西洋の物まね建築」と見られてやや低く評価されていた時代もありましたが、今は西洋風を積極的に取り込もうとした日本人の意欲の高さを評価する流れにあり、ついに擬洋風建築の中から国宝が指定されました。その国宝に指定された建物が、この旧開智学校校舎です。訪ねたのは昨年ですが、今回はこちらの建物を紹介します。旧開智学校(正面から)歴史の教科書などで写真をご覧になったことがある方も多いことと思います。白亜の壁と中央にそびえるライトブルーの八角尖塔が印象的です。明治維新から10年もたたないうちに西洋風の意匠を取り入れて建てられたこの建物、近代学校建築としても最初期のもので、まさに“近代学校建築の嚆矢”だと思います。 外観(左側面から)その塔と建物四隅や腰壁の角石積風に仕上げられたデザインなどから、洋風な印象を受けます。しかし屋根が瓦葺きなことや、正面のテラスの軒先が唐破風づくりなこと、そして壁は漆喰塗であるなど、和風の要素も各所に見られます。そして小屋組はクイーンポストトラスを模したとされていますが、和風小屋組みも使用されているそうです。建築の技術は寺社建築の延長なんです。八角尖塔(太鼓楼)この建物を建てた棟梁、立石清重さんは、東京で当時の西洋風の建築をスケッチしたり日誌に残したりしていたそうです。非常に熱心にこの建物に取り組んだんですね。それら建築時の記録が大量に残されている点も、今回の国宝指定につながったようです。「開智学校」の校名額上の写真の校名額、有名な話ですが、当時の東京日日新聞の表紙がモチーフとなっているそうです。正面のベランダベランダがあるところなどは洋風ですが、手すりに雲の彫刻があったり、ベランダの下に龍の彫刻があったりするところは和風ですね。階段この建物はその建設費の約7割を松本全住民からの寄付で賄ったそうです。当時の松本住民が学校に掛ける期待の高さがうかがえます。教室の扉階段や教室の扉は洋風に仕上げられています。ただ、扉の木目、すごくくっきりとしているんです。当時の木がこれほどいい状態で残っているなんて…と思ったら、実はペンキを重ね塗りして描かれているものなんだそうです。それは漆喰塗の技術を応用したんだとか。教室の扉教室の扉にも翼のある竜の彫刻が。近くの寺院が解体された時に出たものを転用しているとか。教室教室の風景は現代と似ているように思います。それもそのはず、この建物、この当時すでに科目ごとの教室があり、児童が教室移動して各授業を受ける形をとっていたそうです。教室も、廊下を中央にして左右に配置され、児童の動線を意識していました。講堂2階には講堂があります。照明がシャンデリアで、柱や手すりもモダンな感じです。講堂のシャンデリアと彫刻講堂の窓講堂の窓も色ガラスが填められています。おっしゃれ~~~!!で、荘厳な感じです。建物裏の扉近代化の最初からこんなにモダンで、かつ機能的な学校建築を建てた松本の風土、尊敬に値します。--------旧開智学校校舎(令和元年9月・国宝指定 長野県松本市開智2)明治9(1876)年、松本市の中央部を流れる女鳥羽川沿いに建てられた学校建築。和風建築に西洋風のモチーフを取り入れた擬洋風建築の代表的な建物とされています。中央の風見鶏がついた八角尖塔(太鼓楼)やベランダ、天使や雲をモチーフとして取り入れた彫刻など一見、西洋風です。しかし、瓦葺の屋根や軒蛇腹、漆喰の壁など和風の技術もあちこちに見られます。特に屋根の軒に見られる軒蛇腹や、外壁の腰回りや隅の石積み風に造られたデザインは西洋的でありながら、実は漆喰で作られています。このように旧開智学校校舎は擬洋風建築の特徴をよく備えているうえ、学校校舎としても完成度が高く、それが現在まで保存されてきたこと、建築当初の図面や資料もよく保存されていることから国宝に指定されました。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 10May
    • 古代しもつけ国の巨大古墳(3)   牛塚古墳、車塚古墳、丸塚古墳を訪ねるの画像

      古代しもつけ国の巨大古墳(3)   牛塚古墳、車塚古墳、丸塚古墳を訪ねる

      前回、壬生町の巨大古墳を紹介した際、「下野型」古墳は定義化されていない旨についてお話ししました。その理由が、今回紹介する3つの古墳に関係すると私は考えています。その3古墳が牛塚、車塚、丸塚の各古墳です。これらの古墳は、第一段目のテラスが広いのですが、前方後円墳ではないのです。これが、「下野型」の定義化を難しくしている理由の一つではないでしょうか。牛塚古墳および車塚古墳は、壬生町市街地の北方にあります。細い道をはさんだ両側に、それぞれの古墳がありました。駐車場はないので、古墳近くの空いた場所に車を止めました。まず、牛塚古墳に向かいました。牛塚古墳(北西から)牛塚古墳は帆立貝式と呼ばれる、前方部の短い前方後円墳です。私はむしろ、帆立貝式古墳は造り出しのついた円墳と考えているので、前方後円墳と見ることは疑問に思っています。上の写真を見ていただいてもわかるように、第1段目が広いテラスになっています。堀は埋まっています。それでも痕跡がわかる程度に残っていました。周溝と周堤帯前方部から後円部を眺めてみました。結構な高低差があります。前方部から後円部を見る築造年代は、おそらく6世紀後半、それも末期に近い古墳と見ています。石室や埴輪の出土がなさそうで、広い第1段目テラスが見られることなどが理由です。発掘などは行われていないようなので、私の推測です。後円部から前方部を見る帆立貝式古墳を前方後円墳としない理由。それがこの高低差の大きさです。前方後円墳ならば、この時代には前方部(あえて前方部といいますが)と後円部の高低差はほとんどなくなります。帆立貝式古墳では、そのような例をあまり聞いたことがありません。また、牛塚古墳では見られないそうですが、帆立貝式古墳では前方部から形象埴輪列がよく出土します。祭祀の場所として利用されていたのではないでしょうか。それなら、やはり造り出しと見る方がよくないですか?南東から牛塚古墳は前方後円墳ではないが、第1段目のテラスが広い古墳の例として挙げられると思います。続いて、車塚古墳を訪ねました。牛塚古墳のすぐ東側にあります。こちらは円墳です。車塚古墳車塚古墳の見どころは、切石積の横穴式石室でしょう。しかし、大きな周溝や周堤帯も十分見ごたえあります。車塚古墳の周溝車塚古墳の周堤帯そして、やはり第1段目のテラスが広く造られています。円墳としては、かなりの規模です。車塚古墳の第1段テラス第2段目の墳丘に、凝灰岩の切石を組んで造られた、見事な横穴式石室がありました。横穴式石室羨道玄門の上部の石には、π字型に溝が彫られていました。木の板で上屋が造られたりしていたのでしょうか?玄門玄門にも切り欠いた部分が造られています。閉塞石を入れた痕跡でしょうか。足元にはそれらしい巨石が転倒して置かれています。横穴式石室の奥壁奥壁は巨大な一枚岩です。このような石室が造られるようになるのは7世紀に入ってからでしょう。見事な技術です。石室内から見た玄門玄門を石室内から見たところ、屋根状に削り込んだ痕跡も見つけました。どんな目的だったのか、ちょっと想像つきませんでした。このように、古代下野国ではかなり遅い時期まで、第1段テラスが広い古墳が造られていました。ただ、前方後円墳以外でも広いテラスが見られることから、どのような系譜でこういう古墳が造られたのか、今後の議論が待たれます。最後に訪ねたのは、丸塚古墳です。ここは吾妻古墳よりさらに南の方にありました。壬生町内ではなく下野市(旧国分寺町)内になります。二段築盛の円墳で、車塚古墳と同じ、切石積の横穴式石室を持っていました。しかも、第1段目のテラスが広い円墳の一つです。丸塚古墳そしてやはり、第1段目が広く造られています。丸塚古墳のテラス周溝や周堤帯もあり、保存状態が良い古墳です。横穴式石室の形態から、築造時期は7世紀になるとみています。横穴式石室羨道車塚古墳と近い時期に築かれたと考えられますが、どちらが早いかまでは推測できません。石室内ていねいに表面が成形されて、なかなか見事な石室ではありませんか。鉄柵があって入れないのが残念です。今回訪ねた古墳は以上になります。ただ、ほかにも下野型の形態を持った古墳は残っているそうです。それらの古墳についても、別の機会に訪問したいです。あと、「下野型」の定義化に関しても興味が湧きました。古代しもつけ国の古墳について何か良い資料はないものでしょうか。どなたか紹介してください。--------牛塚古墳(大正15年2月・国指定史跡 栃木県下都賀郡壬生町壬生甲)車塚古墳(大正15年2月・国指定史跡 栃木県下都賀郡壬生町壬生甲)丸塚古墳(昭和53年6月・栃木県指定史跡 栃木県下野市国分寺)牛塚古墳は栃木県下都賀郡壬生町のほぼ中央、黒川左岸の台地上にある帆立貝式古墳です。墳長は約60m、墳丘高さは約5mあります。発掘調査が行われていないため、主体部などは見つかっていませんが、築造時期は6世紀末と見られています。車塚古墳は牛塚古墳のすぐ東側にある円墳です。墳丘径は約82m、墳丘高さは約11m、南に開口する横穴式石室が残っています。古くから開口していたらしく、副葬品などは見つかっていません。第1段目が広くテラスに造られているのが特徴です。横穴式石室の形態などから、7世紀初頭の築造と見られています。丸塚古墳は下野市内に所在します。吾妻古墳の南方にあり、第1段目を広く造った二段築盛の円墳です。墳丘径は約66m、墳丘高さは約6.5m、南に開口した横穴式石室が残っています。横穴式石室が車塚古墳と同じ凝灰岩の切石積みであり、やはり7世紀初頭の築造と考えられています。石室前庭部は発掘調査され、約70点のガラス小玉が出土しました。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 06May
    • 古代しもつけ国の巨大古墳(2)   愛宕塚古墳、吾妻古墳を訪ねるの画像

      古代しもつけ国の巨大古墳(2)   愛宕塚古墳、吾妻古墳を訪ねる

      琵琶塚古墳、摩利支天塚古墳に続いて、栃木県壬生町内にある「下野型」古墳、愛宕塚古墳、吾妻古墳を訪ねました。ただ、この「下野型」という語、今のところ明確に定義できているわけではないようです。類型は多いが、きちんとした体系化ができていない、というところでしょうか。この町には古墳時代後期に築かれたいくつもの古墳があるのです。国指定史跡となっている古墳だけでも5件もあります。その他にも日光西街道(壬生通り)が通っていた関係で壬生一里塚なども残っていて、見どころの多い町です。それらについては別の機会に紹介します。まず訪ねたのは愛宕塚古墳です。壬生町市街地の北東、黒川の左岸台地上にあります。街道から一歩奥へ入ると大きな森が見えてきました。入口には鳥居があります。愛宕塚古墳の上に祀られている愛宕神社の鳥居でした。愛宕塚古墳神社の参道は古墳の堀をまたいでいるので、一旦下がっています。堀は意外と深く感じます。 愛宕神社参道と愛宕塚古墳前方部そして、下の写真が愛宕塚古墳の周溝です。古墳の巨大さが伝わるでしょうか。愛宕塚古墳の周溝(南東から)愛宕神社は前方部墳頂に祀られています。愛宕神社ここから後円部を望むことができました。雑木が少なくて墳形をよく見渡せます。前方部から後円部を見るそして、後円部側へ回ってみました。第1段テラスが広いので二段築造の様子がハッキリしています。ただ、この後訪ねた吾妻古墳を見るまでは、“広い”といっても段がハッキリわかるくらい、に思ってました。充分広いですけどね。周溝の対岸から見た後円部愛宕塚古墳を後にして、続いて吾妻古墳を訪ねました。この古墳、周辺は産廃業の工場が多く、こんなところに古墳が残ってるのか?と思うような場所です。大きな雑木林が見えてくると、そこに『国指定史跡 吾妻古墳』の看板がありました。駐車場はないので、空き地を見つけて車を止め、歩きました。巨大な濠が見えてくると、本当に古墳があるんだと、安堵しました。堀の畔に解説板があります。そして下の写真、吾妻古墳の標柱があるのですが、ここは古墳の墳丘下、ではありません。左に写っているのは間違いなく墳丘なのですが、さて、どこでしょう?吾妻古墳 標柱実は、ここが第1段目テラスの上なのです。テラス、広すぎませんか?時期が下って「下野型」古墳が大成してきたのが、吾妻古墳という感じです。第一段目テラスが広くなってくる、といいますが、古墳を造るための台部が設けられて、その上に前方後円墳が乗っている、といった方がピッタリです。吾妻古墳の後円部を堀底から見たのが下の写真です。後円部墳頂にも登ってみました。テラスが広すぎて、裾部がはるか遠くに見えます。後円部墳頂から前方部を見る主体部は前方部前面にあった横穴式石室でした。この石室、江戸時代に壬生城主が庭石用に掘り去ってしまい、今は見られません。前方部の石室跡ただ、近年発掘調査が行われ、石室の基底部が残っていることがわかりました。そして下の写真が、堀底から第2段目を見上げたところです。第1段目が、まるで古墳が築かれた地面のように見えませんか。吾妻古墳第2段目そして、その周溝です。ここを掘った土を古墳に盛り上げたのだろう、と思うのですが、土の量が多過ぎじゃない?余ったんじゃないの?という大きさではありませんか。吾妻古墳周溝壬生町の市街地に残る壬生城址には、吾妻古墳の石室石材が残っています。城内に残されているのが玄門石でした。凝灰岩製です。見事な切り石です。吾妻古墳石室部材 玄門石城址入口には天井石も残されています。吾妻古墳石室石材 天井石この石材、玄門石だけ凝灰岩製で、天井石が硬質の火成岩なので、吾妻古墳から持ち出された石室石材なのか疑わしいとされていました。しかし、発掘調査で石室基底部が発見され、同じ石材だったため吾妻古墳から持ち出されたものと確認されたのでした。--------愛宕塚古墳(大正15年2月・国指定史跡 栃木県下都賀郡壬生町壬生甲)吾妻古墳(昭和45年7月・国指定史跡 栃木県下都賀郡壬生町藤井・栃木市大光寺町、石室部材は栃木県指定文化財)愛宕塚古墳は栃木県下都賀郡壬生町のほぼ中央、黒川左岸の台地上にある前方後円墳です。墳長が約82m、後円部は高さ約5.5m、前方部は高さ約6.5mあります。表面には葺石が確認されています。栃木県央部で多く見られる第1段テラスが広く造られる特徴が見られます。墳丘には円筒埴輪列が、周溝外側の周堤帯上、第1段テラス面、墳頂部の3列見つかっています。これらの円筒埴輪は墳丘上と周堤で規格が違うのが特徴です。吾妻古墳は愛宕塚古墳の南方にある、栃木県下最大の前方後円墳です。墳丘長は約127m。前方部前面に横穴式石室があったことがわかっており、そこから運び出された石材が壬生城址公園内に残されています。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 24Apr
    • 古代しもつけ国の巨大古墳(1)   琵琶塚・摩利支天塚古墳を訪ねるの画像

      古代しもつけ国の巨大古墳(1)   琵琶塚・摩利支天塚古墳を訪ねる

      栃木県の南部に位置する小山市から壬生町にかけての地域には、いろいろな遺跡が集まっていて古代下野国の中心地だったようです。今回は琵琶塚古墳および摩利支天塚古墳を紹介します。琵琶塚古墳は6世紀前葉、摩利支天塚古墳は5世紀末に築造されたと考えられています。この付近には他にも下野国分寺・国分尼寺跡や機織りをする埴輪が出土した甲塚古墳が集中しており、それらもいずれ紹介したいと思います。この2古墳は資料館が併設されていて、古墳の発掘調査を基にした展示解説があります。資料館を見てから古墳を巡ることをお勧めします。車は資料館駐車場に止められます。資料館の駐車場から西に見えるのが、琵琶塚古墳です。まずはこちらから訪ねました。琵琶塚古墳(資料館駐車場から)前方部と後円部の高さにあまり差がないようです。古墳時代後期の特徴ですね。南側にまわると前方部の前にたどり着きました。この古墳には内堀と中堤が良く残っており、この辺りが一番はっきりとしています。琵琶塚古墳の内堀と中堤(南側)琵琶塚古墳(南西から)前方部には墳頂にある祠への参道として、木製の階段が設けられていました。ここから墳丘へ登ります。前方部頂上へ着きました。前方部から後円部を望むここからは後方部の周堀や中堤までよく見通せます。改めて、相当な規模の古墳だと実感しました。後方部側に残る周堀や中堤帯続いて後円部にも登りました。墳頂には石の祠がありました。古墳には付き物ですね。琵琶塚古墳は表土が鹿沼パミス層の土、いわゆる鹿沼土で覆われていたそうです。鹿沼土は現地を数十cm掘ったら露出するようです。堀を掘った時に出たものを使ったのでしょう後円部頂上では、表面を覆っていた、その鹿沼土が露出していました。琵琶塚古墳の後円部頂上(黄色く見えるのが鹿沼土)古墳が築かれた当時は、墳丘全体がまるで金色に輝くように見えたことでしょう。後円部から前方部を見ました。前方部の方がやや低いです。後円部から前方部を望むなお写真ではわかりにくいですが、発掘調査では琵琶塚古墳の第1段に広いテラスが検出されています。この地方の前方後円墳には第1段目に広いテラスを設ける例が多く、「下野型」といってもいいくらいだそうです。この後に訪ねた壬生町の愛宕塚古墳や吾妻古墳にも第1段テラスが見られました。琵琶塚古墳はその「下野型」の初見とされています。またその第1段テラスからは埴輪列が見つかっています。出土した円筒埴輪は資料館に展示されています。続いて、摩利支天塚古墳に向かいました。摩利支天塚古墳は琵琶塚古墳の南に隣接してます。摩利支天塚古墳(南西から)摩利支天塚古墳(南から)墳頂には摩利支天尊が祀られています。麓には摩利支天尊の鳥居があります。ここから墳丘に登ることができます。墳丘に登る前に、古墳の周囲を回ってみました。摩利支天塚古墳(北東から)摩利支天塚古墳では、ちょうど発掘調査を行ってました。現場をちょっと見せてもらったのですが、報告書が出るまで写真は控えた方が良いと思い、現場の撮影はしていません。今回の発掘は主体部の検出も一つの目標のようです。横穴式石室と推測されているそうです。この時には、まだ検出されていないようでした。さらに回り込むと北東側には明瞭に内堀と中堤が残ってました。摩利支天塚古墳の内堀と中堤再び摩利支天尊の鳥居まで戻って、今度は墳頂へ向かいました。後円部頂上にある摩利支天尊結構大きな社殿が建てられていて、篤く信仰されていることが伺えます。ただ、建物によって墳頂は破壊されています。マニアとしては残念です。後円部から前方部を望む琵琶塚古墳に比べると、前方部と後円部の高低差は大きいようです。摩利支天塚古墳の方が琵琶塚古墳より古式な形状をしているのですね。資料館には、それぞれの古墳から出土した円筒埴輪も展示されていました。下の写真は琵琶塚古墳から出土した円筒埴輪です。琵琶塚古墳出土の円筒埴輪四条突帯で口縁の反りはあまり強くない、突帯同士の間隔は比較的狭いものの、幅がそろっています。続いて、摩利支天塚古墳から出土したものです。摩利支天塚古墳出土の円筒埴輪四条突帯ですが間隔は一定していません。器壁も斜めに立ち上がっています。口縁も縁近くで急に反り返っています。両古墳から出土した円筒埴輪を見比べると、そんな特徴が見て取れます。円筒埴輪も摩利支天塚古墳のものの方が古い特徴を持っているそうで、両古墳の築造時期を決める根拠の一つとなっています。ちなみに、琵琶塚古墳の墳丘は榛名山二ツ岳テフラ(6世紀初頭)の降下後に築かれたことがわかっているそうです。そのことから琵琶塚古墳の築造時期は6世紀第1四半期とみられています。いずれも相当に大きな古墳で、それがおよそ50年ほどの間に立て続けに築かれたというだけで十分驚く話ですが、ここから北に位置する壬生町にはさらに大きな古墳がいくつも築かれて残されていました。次回はその話をしたいと思います。--------琵琶塚古墳(大正15年2月・国指定史跡 栃木県小山市飯塚)摩利支天塚古墳(昭和53年7月・国指定史跡 栃木県小山市飯塚)この二つの古墳は栃木県小山市の北部、東に姿川、西に思川が流れる間にある細長い台地の上にあります。琵琶塚古墳は全長が約123m、後円部径が約74m、高さ約12m、前方部幅は約51m、高さ約9mあります。摩利支天塚古墳は全長が約117m、後円部径が約70m、高さ約10m、前方部幅は約75m、高さが約7mあります。いずれも大規模な前方後円墳です。摩利支天塚古墳は琵琶塚古墳の南方に隣接しており、摩利支天塚古墳の方が時期的にやや先行しているとされ5世紀第4四半期、琵琶塚古墳は6世紀第1四半期に位置付けられています。ここから下野市、壬生町に至る思川、黒川流域には「下野型」とも呼べる、墳丘の第一段目に広いテラスを作る大規模前方後円墳が多数存在しており、特に琵琶塚古墳はその初見と見られています。その特徴的な規模や携帯から、地域の歴史的動向を考えるうえで重要なことから、いずれも国指定史跡となっています。参考文献『国史跡 琵琶塚古墳 発掘調査概報Ⅰ』 栃木県小山市教育委員会(2016)『国史跡 琵琶塚古墳 発掘調査概報Ⅱ』 栃木県小山市教育委員会(2015)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 15Apr
    • 群馬の山奥に訪ねた土木遺産   丸沼堰堤(丸沼ダム)を訪ねるの画像

      群馬の山奥に訪ねた土木遺産   丸沼堰堤(丸沼ダム)を訪ねる

      金精峠といえば、群馬県片品村から栃木県日光市へ抜ける国道120号線の最高所です。眺望が良く、ヘアピンカーブの続くワインディングロードで有名なのでドライブコースとしても人気あります。片品側には丸沼高原や武尊山などスキー場で有名なところもあるので、訪れたことがある方もいらっしゃるかもしれません。その登り口のところに丸沼、大尻沼、菅沼といった小さな湖があります。そのうち丸沼と、隣の大尻沼を結ぶ水路の中間にあるのがこの丸沼堰堤(丸沼ダム)です。昭和時代に築かれた建築物が重要文化財に指定されるようになったのはごく最近のことです。特に土木建築物であるダムが指定されていると知って、山奥に残るそのダムを訪ねてみました。湖には春から秋頃なら釣りやキャンプのため大勢の人が訪れるようです。しかし私が訪ねた時は初夏で、まだ訪れる人も少なく静かでした。ちなみに、通常は“丸沼ダム”と呼ばれているようですが、指定名称は“丸沼堰堤”だそうです。丸沼堰堤さらに、指定名称が“旧”丸沼堰堤でないのは、このダムが現役で活躍しているためなんです。今でも水力発電のために利用されています。発電専用のダムというのは珍しいです。しかも、現在も活用されている建造物が指定されるのも珍しいです。それだけ、所有者(東京電力)のご理解があったのですね。現役のダムが文化財に指定されるには、やはりそれなりの理由があります。丸沼堰堤は、日本では変わった形式の、レアリティの高いダムなのです。“レア”なことだらけのダムですね。「丸沼堰堤」の標識に従って国道から脇道に入ると、ちょっと車が止められるスペースがあります。ここに車を止めて丸沼・大尻沼を巡る散策コースを歩いていきます。ちょっとっ進んでから右手の急な斜面を下るとダムの下流側に出られます。急斜面は踏み跡がハッキリせず足元が悪いので、訪れる場合は十分ご注意ください。丸沼堰堤(下流側正面から)どうですか?変わったダムだとわかりますか?普通、ダムといわれて思い浮かべるのは↓こんなダムではないでしょうか?重力式コンクリートダム(宮ケ瀬ダム・神奈川県)それらはアーチ式あるいは重力式コンクリートダムといわれる形式のダムです。他にもロックフィルとかアースフィルと呼ばれる形式のダムがあります。丸沼堰堤はそのいずれでもありません。このような形式を“バットレスダム”といいます。丸沼堰堤のバットレス構造バットレス……聞いたことがありますか?私は丸沼堰堤を調べていて、初めて知りました。日本では8基築かれ、現存しているのは6基だけ、しかも当時の景観が残っているのは丸沼堰堤のみとか。貯水池の水を遮水板で受け、その水圧を遮水板に垂直に築かれた鉄筋コンクリートの板壁(扶壁=バットレス)で受けているので“バットレス”ダムというそうです。バットレスダム解説ダムは稼働しているので立入禁止部分が多く、上流の丸沼側から遮水板を見ることができませんでした。解説に掲載されていた下の写真でご勘弁ください。遮水板内部の機械室とかも見られたらよかったのですが、なんせ現役の発電用ダムとあって立入禁止部分が多く、見学可能な部分は限られていました。あとは最後に、ダムの天端の写真をご覧ください。丸沼堰堤の天端それでも、日本でとてもレアな形式のダム“バットレスダム”を見ることができて、満足で胸いっぱいになりました。せっかく空気の爽やかな高原に来たので、近くの日光白根山ロープウェイで日光白根山に登りました。日光白根山ロープウェイ山頂には高山植物のコマクサが咲いていました。コマクサ--------丸沼堰堤(平成15年12月・国指定重要文化財 群馬県利根郡片品村東小川)丸沼堰堤は利根川水系小川の上流域で連珠湖をなす、丸沼と大尻沼を結んだ狭窄部に築造された水力発電用貯水池堰堤です。昭和3(1923)年、上毛電力株式会社により、内務省土木試験所長・物部長穂の設計に基づいて着工し、昭和6(1926)年に竣工しました。丸沼堰堤の型式はバットレス式鉄筋コンクリート造堰堤といいます。コンクリートは建設当時、高価だったため使用量が少なくて済むバットレス式ダムは注目されました。日本では8基建造されましたが、当時の外観を保って現存しているバットレス式ダムは丸沼堰堤が唯一となっており、その規模の大きさからも貴重とされ重要文化財に指定されました。堤頂長は88.2m、堤高は32.1mあります。大規模かつ技術的完成度の高い構造物で、近代鉄筋コンクリート造河川構造物の一つの技術的到達点を示すものとしても重要です。参考:文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149021ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキン

  • 13Apr
    • 小山市にはこれだけの観光資源があると思うのですが…   千駄塚古墳・桃塚古墳石棺を訪ねるの画像

      小山市にはこれだけの観光資源があると思うのですが…   千駄塚古墳・桃塚古墳石棺を訪ねる

      小山市内には史跡が多いんです。小山氏城跡を訪ねるにあたって、先に小山市立博物館に寄ったら、その隣には下野薬師寺の瓦を焼いた瓦窯跡(乙女不動原瓦窯跡)があるし、小山氏城跡もあるし、縄文時代の環状盛土遺構が日本で初めて調査された寺野東遺跡も小山市内にあります。さらに琵琶塚、摩利支天塚といった巨大古墳があるし、群集墳もあります。小山市にこれだけの史跡が残っていることは、もっと誇っていいと思うのです。しかし私が見る限り、小山市はそのことを十分宣伝しているように見えませんし、観光資源に生かし切れていないようにも感じます。もう少しその辺りに力を入れたら、もっと街に活気が呼べるような気がします。それはさておいて、今回は小山氏城跡を訪ねた際に立ち寄った、千駄塚古墳を紹介します。詳しいことを知らずに訪ねたら墳丘の形態や周濠跡の残存状況がとっても良好で、思わずため息が出ました。千駄塚古墳(東南側、浅間神社参道から)古墳に祀られた神社が「浅間神社」ということは、冨士講が盛んになった江戸時代に、古墳が富士山に見立てられたものと考えられます。そうすると、横穴式石室を「お胎内」として利用している古墳があるんです。もしかしたら横穴式石室が見られるかも…解説を読むと、6世紀頃の築造と見られ、しかも2段築成の円墳とのこと。さっそく鳥居をくぐって登っていきました。富士登山もこれだけ楽ならいいんだけど。あっという間に五合目に到着です。本物の富士山にはここに御中道という、富士山を回ることができる道があります。千駄塚古墳にもやはり同じ位置に道があるのですが、そこには段差が!ここは2段目だ!千駄塚古墳中腹やはり、古墳が江戸時代になって、富士山に見立てられたのですね。江戸時代には冨士講が盛んになったので、富士山に登れない人のために富士塚を築いたり、古墳を富士山に見立てたりする例はよく見られます。千駄塚古墳は2段築成になっていて、中腹に段がありました。なおさら、富士山に見立て易かったんですね。墳丘の残存状況は良好です。古墳の墳頂付近墳頂には、浅間神社の本殿がありました。昨年(2019年)の台風の被害で、屋根の補修が間に合っていないようでした。そして残念ながら、横穴式石室はありませんでした。江戸時代には開口していたのかもしれません。今後の調査の進展が期待されますね。古墳を降りて、周囲を回ってみました。墳丘(南西から)南西から見ると、墳丘が木々に覆われて、ハッキリ円墳らしく見えます。周濠(墳丘南西側)さらに、周濠の痕跡が畑となって残っているではありませんか!周濠がここまで明瞭に残る古墳は珍しい。滅多に無いですよ!周濠(墳丘北東側)古墳の北東側では周濠の跡が、周囲の住宅より一段低くなってる様子が見られました。良く残ってるなぁ!!!もっと驚いたのが、近くの古墳から出土してここへ持ってきたという家形石棺です。近くの桃塚古墳から、ここへ運んできたんだそうです。桃塚古墳は、その際の土取りで消滅してしまったとのことです。石棺以外にも、何のため使われたのか、謎の石材が千駄塚古墳の脇に置かれていました。桃塚古墳から運ばれたものでしょうか?横穴式石室の石材でしょうか?用途不明の石材そして、下の写真が桃塚古墳出土の家形石棺です。桃塚古墳出土の家形石棺家形石棺自体、東日本ではあまり見られないですね。さらに、棺の内法が高々109㎝程度しかないとか。大変小さいですね。当時の成人の身長の平均は、おおよそ150~160㎝くらいではなかったでしょうか。だから、葬られたのは子供ではないか、とされています。石棺子どもを石棺で葬ることができる有力者。どれだけの権力を持っていた一族だったんでしょうね。家形石棺蓋と、議論されていますが、これは定説ではありません。元の古墳がどんな古墳だったかわからない以上、滅多なことは言えません。ただ、、こんな小さな石棺が他に見当たらないのは確かなこと。しかも、地元で産出する凝灰岩を使った家形石棺はレアリティ高いです。ちょっと興奮しました。ゴツイ縄掛突起にソソられるわ。--------千駄塚古墳(昭和32年8月・栃木県指定史跡 栃木県小山市千駄塚)墳頂に浅間神社を祭っているため、「浅間山古墳」とも称されます。墳丘高さはおよそ10m、直径約70mの円墳で、はっきりとした2段築盛の様子が見られます。周囲には約15~20m幅の周濠が残っていて、関東でも屈指の規模の円墳です。古墳の主体部については未調査のため不明ですが、およそ6世紀頃の古墳と見られています。周囲には多くの古墳があったとされ、千駄塚古墳はその古墳群の中心を成したと考えられます。石棺 (桃塚古墳出土)(昭和32年6月・栃木県指定有形文化財 栃木県小山市千駄塚)千駄塚古墳の北側にある家形石棺は、明治34年に近くにあった桃塚古墳から出土し、大正4年に現在地に移されました。蓋石と棺は凝灰岩製です。この他にも石材が置かれています。これらは私の見立てでは安山岩と見ています。いずれも地元で産出します。石棺の規模から、当時の有力者の小児を葬ったものと考えられていて、古墳時代の貴重な遺物として重要であります。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 06Apr
    • 謎多き小城   中久喜城を訪ねる(小山氏城跡 その3)の画像

      謎多き小城   中久喜城を訪ねる(小山氏城跡 その3)

      小山氏城跡、最後に訪ねるのは中久喜城跡です。このお城は思川沿いに展開している他の小山氏の城跡と違って、もっと結城市寄りの小河川沿いに所在していました。ガイドブックやネットでもあまり紹介されておらず、どんなお城なのか行ってみるまでわかりませんでした。古文書にも詳細な記述は少なく、遺構も一部消滅していたり、十分調査が進んでいないお城のようです。文献で中久喜城が登場するのは16世紀の終わり、天正18(1590)年に結城晴朝がここに隠居した、という記事だそうです。ただし、それ以前から城自体は存在したとされ、小山義政の乱の際に義政が拠点としていた5ヶ所の城のうち、中久喜城は「岩壺」城に比定されています。小山義政の乱から結城晴朝が隠居するまでの間、中久喜城がどのようになっていたのかは全く明らかでありません。謎多きお城です。城跡の入り口は小山と結城を結ぶ県道(旧結城道)沿いにあり、標識も出ていたのですぐにわかりました。ただし、駐車場はありません。中久喜城跡平面図(上が北方)平面図には土塁や堀跡が示されていますが、土塁は消滅しているところが多く、堀跡はほとんど田んぼになっていて実際にはそれほど明瞭ではありません。曲輪は3つに分けられるそうですが、それぞれに特に名前があるわけではないようです。曲輪1は主郭(本丸)と見られ遺構の残存状況がいいですが、曲輪2は集落に、曲輪3は遺構もなく一面の畑になっています。道も生活道路なのでとても狭かったです。まずは曲輪1とされた場所に到着しました。城跡は中央をJR水戸線が横切っていて、曲輪1は南北に分断されていました。この曲輪が中久喜城の本丸に当たるとみられています。中久喜城跡標柱(曲輪1の場所)標柱があるところは曲輪1のうち、JR水戸線で分断された北側、土塁や堀の外周にあたる場所になります。この辺りは遺構が一番良好に残ってました。曲輪1の土塁(JR水戸線の北側・上から)ここから左に回って曲輪1の南側にある虎口まで向かいました。曲輪1の横矢掛東側には上の写真のような横矢掛が見られたり、高い土塁が見通せたりするところもありました。ただし、とにかく森や藪がひどい状態で、荒れています。横矢掛も、現地ではもう少し形状がわかるのですが、写真にしてしまうと藪ばかりで土塁の立ち上がりがわかる程度になってしまってます。さらに南へ回ると、虎口が現れました。虎口付近の土塁と堀この辺りはやや見通しが良くて、堀も土塁もよく見通せました。この土塁、もう少し西側の方まで伸びていました。このあたり、田んぼも堀跡らしさが見られます。曲輪1の西側の土塁(右)と堀跡(左、虎口の辺りから)そして、虎口に到着しました。藪に覆われていますが、土塁が切れて本丸へ導かれます。曲輪1の虎口いざ、本丸へ!と、進んでいこうとしたら、曲輪1の内部は下の写真の有様でした…曲輪1の内部(JR水戸線の南側)藪・藪・藪…草丈は1mを優に超えています。ヌルデやクズといった数多の低木や蔓草に覆われて、とても先に進めません。以前はここで耕作が行われていたそうですが、まったく荒れるに任された状態です。小山市さん、もう少し見学に供せるように中久喜城跡を管理していただけませんでしょうか…そのような嘆願が、ちょっと心の中を過りました。あまりに藪がひどいので、曲輪1の探索はこの程度にして、続いて曲輪3のあたりへ向いました。曲輪3字「万年寺」の地名が残るそうです。ところで、祇園城隣にある天翁院は寺名を「万年寺」というそうです。ハッキリしないようですが、天翁院は一時期、この地にあった可能性があるとのこと。中久喜城と小山氏の関係が伺われます。ちなみに、今は一面の畑になっていて、遺構はありません。ただ、地形は往時の面影が見られ、東に緩やかに傾斜していて、城の一部だった雰囲気があります。そして、最後に向かったのは曲輪2です。現在では曲輪の中心を貫く道が城跡への進入路となっています。曲輪2どうですか?この街並み。この街路は当時からのものを踏襲しているとか。左右の家並みも当時からの町割りを残している可能性があるそうで、当時は家臣の屋敷地だったかもしれないとのことです。言われてみると一直線の街路の左右に規則正しく家々が並んでいます。そんなところにも当時の面影が残っているものなんですね。中久喜城跡は小さな城跡で、遺構も破壊されている部分がありますが、知見と心の目をもってすれば当時の面影が蘇ってきます。ちょっと上級編の城跡探索になりますが、一度訪れてみることをお勧めします。--------小山氏城跡(鷲城、祇園城、中久喜城)(平成3年3月・国指定史跡 栃木県小山市)小山氏城跡は、中世の下野国において権勢を振るった小山氏の城跡として保存状態の良い3つの城を史跡指定したものです。中久喜城跡(栃木県小山市中久喜)中久喜城は小山氏城跡として指定された3城(鷲城、祇園城、中久喜城)の一つです。文献では天正18(1590)年、結城晴朝が徳川家康の子、秀康を養子に迎えたのちに隠居した際の城として「中久喜栃井城」が登場するのが最も確実な最初の例です(『結城御代記』)。この頃は「栃井城」と呼ばれていたことがわかります。今見られる町割りや土塁、堀などはこの頃に整備されたものでしょう。注目されるのは本文でも書きました「字・万年寺」で、同じ名前のお寺(天翁院)が祇園城内にもあることから、この城が小山氏と密接な関係があったことが想定されます。現在は城跡を東西にJR水戸線が横切っており、それによる遺構の破壊が大きいですが、本丸と見られている曲輪1や曲輪2の町割りなど、往時の面影が見られる遺構は多く残されています。参考文献『中久喜城跡』 小山市文化財調査報告 第32集、 栃木県小山市教育委員会(1994)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 02Apr
    • 近世の小山氏城跡を訪ねて   祇園城を訪ねる(小山氏城跡 その2)の画像

      近世の小山氏城跡を訪ねて   祇園城を訪ねる(小山氏城跡 その2)

      小山氏城跡、鷲城に続いて祇園城を訪ねました。長いこと「小山城址」と呼ばれ、公園として整備されてしまったことは知ってたので、あまり期待せずに訪ねました。到着してみたら思ったより堀や土塁が残っていて、いい意味での期待外れでテンションが上がりました。祇園城は鷲城の北約2km、思川に沿って展開していました。思川右岸から見た祇園城上の写真で、段丘が割れたように見えるのがお分かりでしょうか?後で分かったのですが、割れた部分は祇園城の堀跡でした。小山と結城を結ぶ街道(結城道)として使われた時代があるそうで、思川の渡し場へ出るところで大きく堀切になってました。祇園城跡平面図(上が北方)四阿やトイレ、遊具もあり、城山公園として綺麗に整備されています。南側が公園の入り口になってたので、そちらからアプローチしました。二の丸調査報告書によると、曲輪の名称は絵図面によって違うそうです。ここでは本丸と二の丸は報告書と同様に示しました。最初に踏み入れた曲輪は二の丸に当たるそうです。また報告書にはありませんでしたが、現地の案内では二の丸の北半分を三の丸としていたので、そのように表記しています。最初に見た感じでは、芝生広場などもあったので「遺構は破壊されてるかな?」と思ってました。ところがそうでもありません。本丸本丸には忠魂碑のよう紀念碑が建てられたりしており、古くから市民広場として開放されていたようです。しかし石碑の裏側に回ると、上の写真のような土塁が残っていました。本丸の土塁絵図面では、本丸と二の丸、三の丸を隔てる堀があったようですが現在は見られません。地続きになってました。三の丸三の丸には四阿がありました。この四阿を建設する際に発掘調査が行われていました。今回の参考文献は、この時の調査の報告書です。また思川に面しており、西方の展望が開けてます。天気が良かったのでバツグンの眺望です。三の丸から見た展望そして、先ほど思川の対岸から見た祇園城の段丘が割れたように見えた部分が下の写真の堀でした。よく掘ったな。深すぎるよ。三の丸北側の堀(旧結城道)ところで私は、小山氏城跡とは、小山氏が長期に渡って支配していたため、中世の古い城から戦国期の新しい城まで残った城館群なんだと思ってました。そのうえで祇園城(以前は小山城)は最も新しいお城なんだろうと思ってました。しかしよくよく調べてみたら祇園城は小山義政の乱のとき、鷲城以外に「祇園・新城・岩壺・宿城」の5ヶ所を構えた、とされる城の一つだったのです。今見られる遺構は戦国時代の小田原北条氏が小山を攻略し、その後の北条氏の普請によるもののようです。どうりで、鷲城に比べて曲輪が堀や土塁できっちりと区分されているし、土塁も堀も曲輪ごとにしっかりと築かれている。新しい時代の匂いがするわけです。しかし、そこは古文書にも登場する祇園城跡。もしかしたら中世初期の城の名残がどこかに見られるかもしれません。今後の調査に期待したいです。そして三の丸から中曲輪へ。ここは馬出のようですね。中曲輪跡中曲輪には堀跡も残されていました。中曲輪から見た上段曲輪側の堀そして上段曲輪へ。ここには遊具が置かれ、植樹もいっぱいありました。遺構の破壊がありそうで、残念です。上段曲輪それでも、土塁があって面影は残っていました。塚田曲輪は上段曲輪の堀跡を越えた先にありました。土塁は残っていますが、曲輪の中央は芝生広場となっていて、四阿もあります。城跡らしさは失われています。塚田曲輪城跡らしさは失われているのに、皮肉なことに築城当時からあると思われる公孫樹(イチョウ・現地の説明では「こうそんじゅ」)の木がここに残されていて、落城にまつわる伝説を伝えています。公孫樹(城山公園の公孫樹)さらに塚田曲輪から本祇園曲輪へ。城山公園の一番北にある本祇園曲輪は、最も城跡らしさが見られました。本祇園曲輪本祇園曲輪からは下の堀跡へ降りることができました。堀底から上を見上げると、堀が驚くほどの深さであることを実感できます。本祇園曲輪の堀跡ここからさらに北には、小山氏の菩提寺である天翁院があります。その境内にも祇園城の遺構が残っていました。本祇園曲輪と天翁院の間の堀跡天翁院(本堂)天翁院境内の墓地内には小山氏一族の墓地とされる五輪塔群が残されていました。小さな墓地で、一時期は下野国の覇権を握っていた一族の凋落ぶりを感じました。 小山氏一族の墓地天翁院境内の裏手には祇園城の遺構もあります。本堂裏手の土塁実は、帰ってきてから発掘調査報告書を読んだのですが、城山公園入口の南側、道を挟んだ反対側や天翁院北側にも遺構が残っているそうです。特に、城山公園の南側は江戸初期、徳川家が日光へ社参する際の休憩所として設けられた「小山御殿」の跡地でもあり、その時代の遺構も見つかっているそうです。今回、それらについては全く知らなかったので見ることもなく帰ってきてしまいました。下調べが不充分だったのは残念です。鷲城も外城西側の土塁が残っているそうで、住宅街だったため充分に見てきませんでした。次に紹介する中久喜城も、見残した部分がありました。さらに、鷲城跡近くには、小山氏の「宿城」に比定され、鎌倉時代に遡る可能性がある神鳥谷曲輪跡も未整備ながら残されているそうです。ここはいずれ、小山氏城跡に含めて国指定されるのではないかと私は踏んでいます。しかも鎌倉時代に遡る、古い城館跡なのです。そんなわけで、小山氏城跡はいずれ再度訪問します。次回は、十分にみてきたわけではありませんが、小山氏城跡の残りの城跡、中久喜城を紹介します。--------小山氏城跡(鷲城、祇園城、中久喜城)(平成3年3月・国指定史跡 栃木県小山市)小山氏城跡は、中世の下野国において権勢を振るった小山氏の城跡として保存状態の良い3つの城を史跡指定したものです。祇園城跡(栃木県小山市中央町・城山町・本郷町)祇園城は小山氏城跡として指定された3城(鷲城、祇園城、中久喜城)の中でも、最も古く文献に登場する城の一つです。ただ、現在見られる遺構は新しいものではないでしょうか。小田原の北条氏政の弟、氏照が天正5年(1577)から普請を行っており、その時のものと思われます。発掘調査では北側の複数の曲輪には0.4~1.4m程度の盛土が確認されていて、かさ上げされていたことがわかっています。小山氏最後の城になります。明治時代以降には実業家の別荘や市民公園として整備・利用されたため、城跡としての遺構は堀と土塁が見られる程度です。ただ、曲輪の配置などは旧態をよく留めています。参考文献『小山氏城跡範囲確認調査報告書1』 小山市文化財調査報告 第52集、 小山市教育委員会(2001)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 22Mar
    • 南北朝時代の城跡が見たい!   鷲城跡を訪ねる(小山氏城跡 その1)の画像

      南北朝時代の城跡が見たい!   鷲城跡を訪ねる(小山氏城跡 その1)

      今回は古いお城跡を訪ねるため、栃木県小山市に行きました。小山市内には、「小山氏城跡(鷲城、祇園城、中久喜城)」として3つの城跡が史跡指定されています。いずれも中世の北関東で権勢を振るった小山氏の城として築かれました。その中でも鷲城は、南北朝時代にまで遡る城跡として有名です。以前、那須神田城跡の訪問時にも書きましたが、私は古いお城に憧れがありまして、できるだけ古い城館跡を訪ね歩いています。↓こちらも見てください。完全に当時のままではないのでしょうが、南北朝期にまで遡る城館跡の遺構は全国的にも珍しいので、今回初めて訪問しました。鷲城跡は栃木県を代表する河川、思川のほとりにありました。思川の対岸から見た鷲城跡小山氏は、中世の関東で勢力を持っていた一族で、14世紀には関東で最大の内乱「小山義政・若犬丸の乱」を起こしています。その内乱の文書史料は豊富で、それらの文献で当時の鷲城の構造が推測できるほど、だそうです。しかも城内の大まかな地割はほぼ南北朝期のまま。ワクワクしてきますね。鷲城跡の碑と鷲神社到着しました。ここは外城と内城に分けられる鷲城のうち、内城にあたります。城内には鷲神社が祀られています。鷲城は鷲神社を中心に、拡張されるようにお城が築かれたと考えられているそうです。櫓台と見られる土塁鷲神社から北東方向に向かった思川の河川敷に面したところ、櫓台とされる土塁が残されていました。私有地にあり、木が鬱蒼と茂っていて写真では何が写っているかわかりにくいです。ごめんなさい。現地では土の高まりが見られました。神社に戻って、参道を進みました。参道の途中、ちょうど参道の中ほどで低い土塁と浅い堀跡が見られました。参道途中の土塁やはり林の中で、写真ではわかりにくいですが現地では高まりと窪みがわかります。内城をさらに区分する土塁と見られています。内城参道の途中から見た内城です。畑になっていますが、畑を囲うように繁る林は土塁です。畑に段になっているところがあって、そこは先ほどの低い土塁の延長にあたります。元は土塁が続いていて、内城を区画していたのでしょう。鷲神社内城内にある鷲神社まで来ました。ここから南西のほうに向かうと、畑の向こうに見えた土塁があります。まずはお参りを済ませ、神社の裏手に回ってみました。そちらは思川に面した断崖となっており、天然の要害になっている様子がわかります。逆のほうに向かうと、先ほど畑の向こうに見えた土塁があります。鷲城の虎口はこちらにありました。虎口城跡らしい雰囲気が漂ってきました。虎口土塁が二重に巡っており、通路が喰い違いに造られていました。ただ、この構造は南北朝期より後で造られたもののようです。さらに進みます。堀跡内城と外城を隔てる堀跡です。やはり木が鬱蒼としており、写真ではわかりにくいのが申し訳ないです。しかしここは深い堀と高い土塁が築かれていて、ビックリするくらい見上げるような急斜面になっています。この斜面を見れば攻め手側の兵は城攻めを躊躇うに違いありません。外城側から見た堀跡しかし、現状では深い濠の様子を見通せる場所はすべて私有地で、しかも藪が深い。写真を撮っても藪しか写りませんでした。皆さんにはこの大規模な土塁と堀をぜひ、現地で確認してほしいです。そして内城から外城を見て回ります。外城南側の堀外城はほとんど集落になってしまい、郭内は写真でお見せできません。これもぜひ、現地を歩いて郭の広さを実感することをお勧めします。外城の南側には堀と土塁が残っています。外城で中世の遺構を見られる唯一の場所です。鷲神社の入り口からここまで結構距離があり、鷲城の大きさを実感しました。鷲城跡は古いだけあって、土地利用が進んでしまい、写真で遺構の風景を切り取ってしまうとお城の素晴らしさが伝わらず残念です。地形や各部の遺構はとてもよく残されていて、現地を歩いて城の縄張りや構造を実感する方がお勧めです。鷲城跡を歩いて分かったのは、明らかに自然の河川や谷を利用して縄張りを組んでいることです。やはり土塁で方形単郭型に郭を囲繞するようになるのはもっと後の時代だったんじゃないかな?となるとやはり、那須神田城跡の遺構はもっと後の時代だったんじゃないかな。恐らくそういうことだろうな、と思いつつ、次は祇園城へ向かいました。--------小山氏城跡(鷲城、祇園城、中久喜城)(平成3年3月・国指定史跡 栃木県小山市)小山氏城跡は、中世の下野国において権勢を振るった小山氏の城跡として保存状態の良い3つの城を史跡指定したものです。鷲城跡(栃木県小山市外城・神鳥谷)鷲城が築かれた時期はハッキリしていませんが、文献上の初見は小山義政の乱に関連する文書に祇園城と共に登場します。一部が発掘調査されていて、堀や土塁の跡が発見されてます。ごく一部だけの発掘にとどまっていて遺物はほとんど見つかっていません。今後の調査が期待されます。参考文献『鷲城跡』 小山市文化財調査報告 第25集、 小山市教育委員会(1991)『小山氏城跡範囲確認調査報告書1』 小山市文化財調査報告 第52集、 小山市教育委員会(2001)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 17Mar
    • 天然記念物の巨樹を訪ねて(1)   清田の大クス、来宮神社の大クス、城願寺のビャクシンを訪ねるの画像

      天然記念物の巨樹を訪ねて(1)   清田の大クス、来宮神社の大クス、城願寺のビャクシンを訪ねる

      天然記念物を訪ね歩いていますと、時々、いわゆる「巨樹」といわれる木に出会うことがあります。たいがい数百年~千年以上の樹齢があります。このような巨樹に出会うとその神々しさに、世俗に塗れた自分の穢れが洗い流されるような気がします。最近はやりの、いわゆる「パワースポット」のようなものなのでしょうか。今回は、最近訪ねた天然記念物の巨樹を3か所紹介します。1.清田の大クス最初に紹介しますのは、愛知県蒲郡市にある清田の大クスです。先に紹介した竹島八百富神社社叢とは、割と近い距離にあります。清田の大クス遠くからでも、その威容を見晴らすことができます。クスノキは巨樹になりやすい樹種です。日本一の巨樹とされる木もクスノキです。清田の大クス(天然記念物の標柱)どうですか?大きな木だと思いませんか?日本一には及ばないのでしょうが、大樹と呼ぶに相応しいではないですか。クスノキは暖帯性の常緑広葉樹で、防虫剤の樟脳の原料となることで有名です。清田の大クスの主幹主幹も1000年の年月を経て、いびつな形に膨らんで神秘性を増しています。大きく張り出した枝そしてこの枝振り。クスノキは年月を経ると大きく枝を張り出すことが多いそうです。一本の木なのに、まるで森のようです。清田の大クス(北から)この辺りは、明治時代にはこのような大きなクスノキが鬱蒼とした森を成していたといいます。開発が進んで伐採され、最後に残った木なのだとか。これからも大事にしたい木です。2.阿豆佐和気神社の大クス(来宮神社の大クス)またもクスノキです。やはりクスノキは大樹になりやすいようです。このクスノキは静岡県熱海市の古社、来宮神社の境内にありました。来宮神社この拝殿から本殿の裏へ、向かって左に回り込むと件の巨樹は空へ向かって高くそびえていました。神社のご神木でした。地元での表記は、案内板などもすべて「来宮神社の大クス」なのですが、この木を紹介している本などによると正式な指定名称は「阿豆佐和気神社の大クス」のようです。阿豆佐和気神社の大クス(来宮神社の大クス)向かって左側(南側)の分幹が失われています。昭和49(1974)年に台風で失われたようで、もとは今より広く巨枝を広げていたようです。そのせいで威容が損なわれているのが残念です。来宮神社の大クス 主幹それでもこの太い幹!ご神木と云われるに相応しい木です。来宮神社の大クス(西から)さらに西側からの眺めは、かつての威容を彷彿とさせます。来宮神社の大クス 洞(うろ)そして北側には、大きな洞がありました。人が軽く2~3人は入れるほどの大きな洞です。神社の一の鳥居のところには、次世代(?)の大クスが育っていました。次世代(?)の大クス3.城願寺のビャクシン今回の最後に紹介するのは、神奈川県湯河原町にある城願寺のビャクシンです。城願寺城願寺はJR湯河原駅から程近く、歩いても10分程度の距離です。こんな町中にそんな巨樹があるとは想像できませんでした。お寺までの道は、自動車ではやや狭い、いわゆる生活道路です。お寺の駐車場はありますが、観光地でもないので車での来訪は控えた方が良かったかもしれないと思いました。城願寺のビャクシンその巨樹は、参道の急な石段の先に突然現れました。あまりの大きさに参道の途中から見上げても見上げ切れません。城願寺のビャクシン 幹幹が捻じれたように、というか捻じれて伸びあがっています。まるで絞った雑巾のようです。ビャクシンは寺社の参道の並木や民家の庭木としてよく植えられていて、樹自体はよく見かけます。ところがこの木は、樹齢を重ねると幹が捻じれたようになるのが特徴なのです。したがって、捻じれた幹は古木の証です。城願寺のビャクシン 本堂側から空高く異様な姿を見せる城願寺のビャクシンですが、その姿には重ねた年月の重みを感じさせます。ここ数年で、枯死したために天然記念物指定を解除された巨樹の情報をよく聞くようになった気がします。ここ100年ほどで気候や環境は明らかに変化しており、数百年以上を経てきた巨樹たちにとっては耐えられない急激な変化なのかもしれません。--------清田の大クス(昭和4年12月・国指定天然記念物 愛知県蒲郡市清田町下新屋)中部地方におけるクスノキの代表的巨木。根回り約13.6m、目通り幹囲約11.7m、根元からの枝張りは東へ約15m、西へ約9mにも及びます。樹齢は不明ですが1000年を超えるともいわれます。周辺にはクスノキの森があったとも伝えられ、八幡太郎義家の東征記念の記念樹という伝承もあって大事にされてきたようです。阿豆佐和気神社の大クス(昭和8年2月・国指定天然記念物 静岡県熱海市西山町)この木はJR来宮駅の北側にある来宮神社境内の奥にあり、ご神木とされてます。幹は大きく2つに分かれていましたが、南側の幹は地上約5m位から折れて失われています。北側の幹は目通り幹囲約12.5m、高さは約20mに達します。城願寺のビャクシン(昭和14年9月・国指定天然記念物 神奈川県足柄下郡湯河原町城堀)樹高18m、目通り幹囲6.3m。城願寺は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時に功績があった土岐実平が開いたとされています。ビャクシンはそのとき植えられたものが成長したと伝えられ、樹齢は約800年とされています。参考文献 『日本の天然記念物』 講談社(1995)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 27Feb
    • 福島県郡山市まで仕事で行って   如宝寺石造笠塔婆・板石塔婆を訪ねるの画像

      福島県郡山市まで仕事で行って   如宝寺石造笠塔婆・板石塔婆を訪ねる

      先日、仕事の都合で福島県郡山市に行きました。仕事が早く終わって時間ができたので、JR郡山駅から比較的近かった文化財を訪ねました。それが如宝寺 石造笠塔婆・板石塔婆です。石造物は時代ごとの特徴がハッキリと表れるので、見ていておもしろいので大好きなんです。・・・たいてい墓石なんですけどね。車で行ったので距離感はよくわかりません。郡山駅西口から歩くと20分ぐらいでしょうか、大きなお寺があります。こちらが真言宗 高嶽山 如宝寺です。高嶽山 如宝寺境内はかなり広いです。歴史ある寺院らしく、古い寺宝がたくさんあります。件の石造物は境内にあるコンクリート造りの「国宝堂」に並んで建てられていました。まずは石造笠塔婆から。石造笠塔婆かなり大きな笠塔婆です。龕に仏像が浮彫りされているのが印象的です。凝灰岩製で、柔らかい石材なので破損や風化が激しいのが残念です。だからなおさら、よく今まで保存されたものだと感心します。現在は鉄筋コンクリートの建物内に保存されますが、これ以上の劣化を防ぐためでしょう。ただ、前面はガラス張りでいつでも見学できるようになっているので、私のような趣味の人間にはありがたいです。笠塔婆のような石造物は、時代の特徴が出やすいのが屋蓋(笠)ですね。石造笠塔婆 屋蓋笠の軒端は厚く、角は滑らかな曲線を描いて下り降り、先端で撥ねるように反っています。この曲線と撥ねの具合が、見事にマッチしているのが平安時代から鎌倉時代の石造物なんです。鎌倉時代の五輪塔なども見ていてウットリします。墓石がほとんどですが。石造笠塔婆 龕そしてこの龕に掘られた半肉彫りの仏像。阿弥陀如来だそうです。これも彫刻として出来がいいですよね。石造笠塔婆 下部写真でははっきり見えませんが、ここに銘があり、「承元二(1208)年」と造立の主旨が刻まれています。そして台石には角穴があります。木製の柱があったのではないかとのことです。笠の下部にも角穴があるので、笠を支えるように2本の柱を立てていたんでしょう。そして角度的に見えませんが、右側面に梵字一字と造立主旨の銘文、背後には梵字で胎蔵界曼荼羅が描かれているそうです。一番気になったのは、解説に「この塔の構造は、餓鬼草子に見られる笠塔婆の系統に属し、この形式での追善供養塔としてはわが国最初のもの」であるとあったので、「餓鬼草子の笠塔婆ってどんなの?」と思った点です。『餓鬼草子』は東京国立博物館(東博)で所蔵していて、前に東博で撮影した記憶があったのです。帰ってきて探したら、ありました。ちょうどその場面の写真が。それがこちらです。餓鬼草子(旧河本家本 東京国立博物館)の笠塔婆の絵(赤丸の中)こちらは平安時代末の成立とされていますから、時期的には近いです。屋根は宝珠を乗せた宝形造、龕の部分は厨子になっています。うーん、似てはいますが同じ形、ではないんですね。前面に柱があったわけだし、踏襲しているといえるのかな?でも、この石造笠塔婆の造形はきれいです。時代が古いものは作り方が丁寧で、とても美しいと感じます。こういう傾向はどの建造物や彫刻にもありますね。分かりやすいところでは、古墳に建てられていたとされる円筒埴輪。円筒埴輪の原型は吉備地方で作られていた「特殊器台型土器」とされています。これが大和地方で採用されて円筒埴輪になっていき、特殊器台型土器にあった直弧文が簡略化されて円筒埴輪の横に開けられている穴になったと考えられています。特殊器台型土器の本物を見たことはありませんが、ぜひ一度、岡山まで見に行きたいです。話は変わって、続いては隣に立っている板石塔婆へ。板石塔婆一見しただけではなぜ指定されたのかわかりませんでした。このような形式の板石塔婆は、この地方では当たり前ですから。しかしよく見ると、変わった図像が描かれていることがわかりました。凝灰岩製のため、風化が進んで表面が荒れ、判別が難しいです。板石塔婆 上部辛うじてうっすらと何かが描かれているのがわかると思いますが、これが方円で三重の区画に分けられ梵字で描かれた阿弥陀曼荼羅なんだそうです。これが指定理由なのでしょう。曼荼羅を描いているところが、これを所蔵する寺院が真言宗に属していることと関係するのかな?と思いました。板石塔婆 下部曼荼羅の右側に「建治二(1276)年」とあり、造立年代がわかります。下部には造立主旨の銘文が刻まれています。他にも、この建物内には別の板石塔婆と銅鐘が置かれていました。これはその板石塔婆です。板石塔婆(釜堂の碑)いわゆる画像板碑ですが、画像が半肉彫りにされているところが見事です。この仏像は阿弥陀三尊と地蔵菩薩、閻魔王、邪鬼だそうです。上半分が全く失われているのはとても残念です。それでも、郡山市指定文化財です。出来がいいのがわかりますもんね。そしてこちらが銅鐘です。如宝寺 銅鐘(龍頭が正面に見える方向から)この銅鐘は、本来たくさん突起がついている、いわゆる「乳の間」の部分に梵字が陽鋳されているのが珍しいです。イボのあるはずの所にイボがないので、「イボナシの鐘」と呼ばれています。国の文化財の銅鐘としては時代が比較的新しく、江戸時代の鋳造になります。如宝寺 銅鐘(撞座の方向から)この時代の銅鐘はスタイルが筒のようにストンとしていて、面白みがないので私はあまり好きではありません。半鐘などはこんなスタイルです。まあ、こちらの銅鐘はデザインが奇抜で確かに見ていておもしろいですが。如宝寺は特に全国的に有名なわけではなく、観光地でもありませんが、拝観した文化財はいずれも珍しい意匠や造形で見ていて飽きませんでした。おもしろいものを見ることができて、満悦して帰途につきました。--------如宝寺 石造笠塔婆(昭和11年5月・国指定重要文化財 福島県郡山市堂前町4)塔身の高さ68cm、幅59cm、厚さ30cm、凝灰岩製の石造卒塔婆です。塔身上部の龕には半跏趺座の阿弥陀如来が半肉に彫られ、その下側には3行の銘があります。銘文の中央には「承元二年 大才戊辰 八月十一日」、左右には「右志者為慈父也」、「施主華慶造立」と書かれ、造立年代が承元2(1208)年とわかります。塔身上部には宝形の屋根と宝珠が、下部には角穴が彫られた2重の台石があります。宝珠の下には露盤があったはずですが今はありません。また、背面には梵字で胎蔵界曼荼羅が、側面には梵字と「一持秘密呪 生々而加護 千万及讃花 微少捨護仏」と銘があります。この種字曼荼羅は石に彫ったものとしては最古に属します。 「この塔の構造は、餓鬼草子に見られる笠塔婆の系統に属し、この形式での追善供養塔としては我が国最初のもの」とされていますが、私はちょっと疑問に思ってます。如宝寺 板石塔婆(昭和11年5月・国指定重要文化財)刀身の高さは159cm、幅68cm、厚さ21cmの塔婆で、上部は屋根状に三角形に造り、その下に2本の線が、さらにその下に額が造ってあります。この部分と下部は碑面に対して大きく張り出しています。関東に住んでいる私は、いわゆる秩父青石で作られた「板碑」を見ることが多いですが、形が違うだけでこれらは同じ目的で作られたものです。碑面上部には四角と丸の3重の輪郭を彫り、17文字の梵字で阿弥陀曼荼羅が描かれています。その左右には造立年代「建治二年丙子」「三月六日」と刻まれ、造立は建治2(1276)年とわかります。下部には「夫以卒塔婆者三 世諸仏内証切 徳得道群類口 抜苦指南幽礼 離三悪造立生 九品仍当悲母 三七日所立如件 孝子 敬白」と願文が刻まれています。この意匠と保存の良さが、文化財指定を受けている理由と思われます。如宝寺 板石塔婆(釜堂の碑)(昭和33年5月・郡山市指定重要文化財)この板碑は表面に阿弥陀三尊や地蔵菩薩など7体の仏像を半肉彫りに浮き彫りし、阿弥陀如来の下品下生の地獄相と極楽相を表しています。絵巻物や図絵曼荼羅に多く見られる図ですが、石造物に彫刻されているのは珍しいものです。上部が大きく欠損していますが、ここに「建保七年己卯天二月日」と刻まれていたといわれているそうです。そうすると造立年代は1219年ということになります。二本松藩領内の史料を収集した『松藩捜古』によれば、この碑は「御釜堂」と呼ばれた堂内に安置され、ニワトリ石と呼ばれていたそうです。子供が百日咳にかかった時、削って飲むと治るという俗信があったそうです。如宝寺 銅鐘(昭和18年10月・国認定重要美術品)「寛延四年五月十七日」の鋳造年月日名を持つため、寛延4(1751)年に鋳造されたことがわかります。口径は83.5cm、高さ112cmで、乳の間に梵字が陽鋳されていることから“イボナシの鐘”と呼ばれています。四方の撞座の上にも梵字があり、これは金剛界四仏を表しています。また池の間には檀家や世話人、鐘の鋳造に関する銘文が刻まれています。※解説の文章は現地の解説板の内容を参考にしています。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 16Feb
    • 印西市内に残る古建築たち    宝珠院観音堂、泉福寺薬師堂、栄福寺薬師堂を訪ねるの画像

      印西市内に残る古建築たち    宝珠院観音堂、泉福寺薬師堂、栄福寺薬師堂を訪ねる

      前回、木下貝層を紹介しました。木下貝層のある印西市内には古い建築物も残されています。宝珠院観音堂、泉福寺薬師堂、そして栄福寺薬師堂です。これらの古建築も、木下貝層と合わせて見てきました。木下貝層を見た後、まずは宝珠院観音堂へ向かいました。木下貝層から車で20分ほど西へ行ったところにあります。印西市内にはまだまだ、日本の原風景的な田園と集落が残されています。宝珠院観音堂はそんな集落の中にありました。ちなみに、お寺の周囲に車を止める場所はありません。少し離れた場所に路肩の広い所を見つけて車を止め、歩きました。宝珠院観音堂深い森の中に茅葺の小堂、という風景。ノスタルジックな感じです。。宝珠院観音堂(西側から)寄棟造り茅葺、方三間、。前方は三間とも桟唐戸になって外陣へ出入りできます。軒下の組物この桟唐戸、粽柱(ちまきばしら)や頭貫の台輪が禅宗様の影響を示しています。全体に装飾は簡素で古式を表し、室町後期ごろの建築の特徴がよく見られます。本当は内陣も見たいのですが、信仰の対象でもありますから、許可なく見ません。桟のすき間から覗くだけ…でも暗くて見えませんでした。残念…。続いては泉福寺薬師堂に向かいました。周辺は宝珠院観音堂より街中な感じで賑やかです。泉福寺の門前に駐車場があり、そこに車を止められます。お堂は参道の左手にある高台に建っていました。泉福寺薬師堂こちらも寄棟造り茅葺、方三間、正面三間が桟唐戸の小堂です。縁台が正面と左右の一部のみしかない点を除いては、規模や意匠が宝珠院観音堂によく似ていますね。泉福寺薬師堂(南東側から)細かい部分もよく似ていますが、貫の木鼻に装飾がありません。泉福寺薬師堂の軒下やはり、堂内を見ることができません。禅宗様が基調ではありますが、内陣には天井があるそうなのです。もっとも、屋根の垂木は平行な疎垂木でして、これも禅宗様ではありません。あくまで禅宗様が基調になっているということなのです。う~ん、やはり本当は内陣も確認したい…最後に向かったのは栄福寺薬師堂です。ここは静かな集落の中にあり、普段から人通りがあまり無さそうな場所です。隣には神社があり、神仏習合の名残を留めています。駐車場がないので門前の広い場所に車を止めました。栄福寺薬師堂全体が朱塗りでかなり目立つお堂です。永福寺薬師堂の軒下やはり寄棟造り茅葺、方三間、正面三間が桟唐戸の小堂です。こちらのお堂は棟札が残されていて、建築年代がハッキリしています。それによるとこのお堂は「寛正7(1466)年」に「柱立」し、「応永3(1469)年」に上棟、「文明4(1472)年」に「成就(完成)」したようです。栄福寺薬師堂の正面ただし、正面の向拝は江戸時代に増築されたもののようです。たしかによく見ますと、虹梁や蟇股に施された彫刻は新しい時代の意匠に感じられます。栄福寺薬師堂の向拝貫の木鼻に装飾がない点は泉福寺薬師堂と同じで、それぞれ比較的近い時期に建てられたのかもしれません。建立年代が明らかな建築物としては千葉県内最古だそうです。こちらも内陣は見られませんでした。解説によると極彩色の天井絵や須弥壇があるらしいのです。くぅ~、見られないのが本当に残念。この3棟のお堂は、外からしか見てないので詳しいことはわかりませんが、建築の構造や意匠から室町中期から後期にかけて建てられたものであることがわかります。建てられた地域から見ても同じ大工集団によって建てられたのではないでしょうか。このような地域的な文化集団の動きを想像するのが、とても楽しいです。それが時代によって、また地域によっても広がり方も動向も違うので、また別の場所ではどうだろう、と興味が湧きます。--------宝珠院観音堂(昭和9年1月・国指定重要文化財 千葉県印西市小倉)宝珠院観音堂は千葉県印西市小倉に所在する小堂で、寄棟造り茅葺、方三間。正面三間は桟唐戸とし、各所に禅宗様の特徴が見られる室町後期の建築です。泉福寺薬師堂(昭和52年6月・国指定重要文化財 千葉県印西市岩戸)泉福寺薬師堂は千葉県印西市岩戸に所在する小堂で、寄棟造り茅葺、方三間。正面三間は桟唐戸とし、各所に禅宗様の特徴が見られます。泉福寺は弘治2(1556)年に焼失しており、薬師堂はその後再建されたものと考えられています。栄福寺薬師堂(昭和29年9月・国指定重要文化財 千葉県印西市角田)栄福寺薬師堂は千葉県印西市角田に所在します。寄棟造り茅葺、方三間。正面三間は桟唐戸とし、やはり各所に禅宗様の特徴が見られます。正面の向拝は江戸時代中期に増築されています。棟札が残り、建築年代が明らかなことは本文にも記載した通りです。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 04Feb
    • 関東の地質学が発展した現場   木下貝層を訪ねるの画像

      関東の地質学が発展した現場   木下貝層を訪ねる

      千葉県下総地方は今では開発が進んでしまって地層を観察できる露頭はほとんど削平されてしまいました。しかし今から20数年ほど前には、車で走っていると白っぽい貝がびっしりと詰まった崖があちこちに見られたものでした。その頃は、簡単に化石が取れる崖があちこちにあったので、地質学を勉強する人は一度は千葉県を訪れたそうです。古き良き時代でした。時は流れ、平成14(2002)年に「木下(きおろし)貝層」が国の天然記念物に指定されたとのニュースが流れました。木下貝層は千葉県印西市にある、約45万~8万年前に海底に堆積した、貝化石を大量に含む地層です。私は大学生の時、現在の印西市まで通学していた時期があり、木下貝層という地層が大学の近所にあることは知っていました。その頃はまだ、千葉県指定の天然記念物だったのですが、天然記念物に指定された崖からは化石を掘るわけにもいかないので、興味はあったのですが実際に行ったことはありませんでした。大学を卒業して20数年、木下貝層が国指定となって、公園として整備されたと聞いて、母校があった懐かしさも手伝って木下貝層を訪ねてみたくなりました。あわよくば化石を掘ることができないかな、と思い、指定地以外で化石を掘ることができそうな露頭を探して、出かけてみました。木下貝層遠景(南側から)ネットで調べてみると、昔の下総地方はあちこちで化石が掘れたそうなのですが、今では開発が進んでしまってそれらの崖(露頭)は宅地開発されてしまったそうなのです。地質学の本でも紹介されて有名だった露頭も消滅したと聞いて、もう化石を掘ることはほとんどできないと知りました。それでもあきらめきれず、現地で探せば化石を掘ってもいい露頭があるだろうと、埼玉から下道で3時間、車をひたすら走らせて木下地区まで来ました。すると、いきなり目の前に立派な露頭が現れたではありませんか。「探せばあるじゃないか。」と思ったのも束の間。その露頭こそ、天然記念物になった木下貝層の崖だったのです。「そういうオチかい。」というわけで、化石が掘れる露頭は開発によって大部分が失われたそうです。しかしそのような状況で、木下貝層は数少ない化石を産出する露頭なのです。国指定天然記念物として保存しなければ、こんな小山は簡単に開発で消滅してしまう時代です。そう思うと大事にしないといけない露頭ですね。木下貝層は基本、海底に蓄積していた砂と貝から成る地層です。なので、山砂として利用価値があり、周辺の山々は東京湾の埋め立てなどに使うため削られてしまいました。しかし下部の層は長年の風雨の影響で、化石の貝殻から溶け出したカルシウムが再結晶化し、堅い岩のようになっています。これはすなわち、方解石が主成分の岩ということで、地元ではこれを石材として利用しました。公園のネームプレートは、公園整備の際に出たこの岩を利用してました。公園のネームプレート貝層のある小丘陵は『木下万葉公園』として整備されていました。ココには以前、千葉県立印旛高校があり、露頭は「印旛高校脇の露頭」として有名でした。公園一帯が天然記念物の指定範囲です。露頭は公園の南側と西側で見られます。公園南側の木下貝層露頭南側の露頭は駐車場から見上げることができますが、遠すぎて貝層を観察できません。それでも、露頭の下の方は貝殻がびっしり詰まった、というよりほとんど貝殻だけの層が見られます。そこから東へ回ったところでは、岩のように固くなった地層を見ることができました。堅い岩のようになった貝層貝殻以外の部分は海岸で見られるような砂なのですが、これが固まっているのがわかります。運がいいと、貝殻と貝殻の間にある空洞に方解石の結晶が見られることもあるそうです。今度は西側へ回り込んでみました。すると南側よりさらに貝層を間近に観察できる露頭がありました。というより、観察しやすいように整備されたようです。木下万葉公園西側の露頭露頭に近づくと、貝殻(貝の化石なのですが)がびっしり詰まった様子がよくわかりました。やっぱりほとんど貝殻です。木下貝層は地層に含まれる砂の粒度や貝の種類などから、細かく4つの帯に分けられるそうです。木下貝層の細分石材として利用される固い層は、カシパンウニ帯より下層の部分でした。逆に、上の方のキタノフキアゲアサリ帯は、海岸で貝が砂に埋まった状態がそのまま地上に現れたような感じでして、簡単に砂を掘ることができます。これは要するに、この辺りの地盤は地質学的には新しく、充分に固まっていないということなのです。バカガイ帯カシパンウニ帯方解石でできたこの石材は古代から利用されていて、古墳の石室にも利用されていました。万葉公園内にある『木下交流の杜歴史資料センター』敷地内には木下層の石材で作られた古墳の石室(松山2号墳の石室)が移設されていました。6世紀後半のものだそうです。松山2号墳の石室松山2号墳石室の石材ただ、石材の粒度や色合いから、石はまた別の場所から採掘されたものと見られるそうです。他にも、印西市内の上宿古墳、龍角寺古墳群の岩屋古墳(国指定史跡)の石室も、この岩で作られているんだとか。この日は天然記念物の露頭だけを見て帰ることになりましたが、化石採取は諦めきれませんでした。その後さらに調べたところ、木下層の化石を今も採取できるところがあることがわかりました。後日、その場所で採取した化石がこちらです。決して天然記念物の貝層から採取したものではありません。また、採取地は地層の保護のため、明らかにできません。あしからず。(紙片はおよそ2㎝。)ハスノハカシパンウチムラサキサルボウエゾタマキガイアカニシこんな種類の貝化石が採取できました。時代が比較的新しいせいか、現生種と同じですね。特に目立ったのはハスノハカシパンの化石でした。ちょっと変わった名前で有名ですね。ウニの仲間です。地層としては新しいとはいえ、下総地方では海底で形成された典型的な地層が見られ、化石も掘りやすいため地質学の良い教材でした。それが次々と失われているのは本当に残念です。もう天然記念物に指定しないと保存もされない時代になってしまい、悲しい限りです。--------木下貝層(きおろしかいそう・平成14年2月・国指定天然記念物 千葉県印西市木下)木下貝層は千葉県印西市にある、およそ14万年前~8万年前に海底に堆積した地層です。千葉県の北部に分布するこの時代の地層は、以前は成田層と呼ばれていました。現在は下位から清川層、木下層、関東ローム層と名付けられ、「下総層群」と言われています。木下貝層は、この木下層の模式地がとなっています。下総層群が堆積した時期、“古東京湾”という内海が関東一帯に広がっていて、その東部は砂浜が外海と湾を隔てていました。木下貝層はその砂浜の一部が途切れて塩が流れ込んでいた場所に堆積したため、貝やウニの殻が集中して溜まったと考えられています。参考文献:印西市教育委員会 『木下貝層 -印西の貝化石図集-  第5版』 印西市教育委員会(2019)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 22Jan
    • 正月は博物館から…   松林図屏風と高御座、御帳台を訪ねるの画像

      正月は博物館から…   松林図屏風と高御座、御帳台を訪ねる

      小正月が過ぎ、1月もすでに下旬になってしまいました。お屠蘇気分はすっかり抜け、皆さんも通常の生活に戻られたことと思います。しかし、この正月にはもう一か所、文化財を訪ねました。それを紹介します。東京国立博物館は正月も開館して、正月にちなんだ収蔵品を展示しています。今年は長谷川等伯の松林図(屏風)を展示してました。以前から正月の展示に足を運びたかったのですが、親戚付き合いの行事やら仕事やらが重なり、なかなか訪れることができませんでした。が、今年は正月休みが長く取れました。そのお陰で念願の正月展示に行くことができました。松林図 左隻この松林図、私が初めて本物を自分の目で見たのはもう20年以上前になります。あの頃はまだ学生でした。『日本国宝展』が開催されて、そこで目にしたのが最初です。国立博物館の所有物ですので、その後も何度か展示されたようなんですが、なかなかそのタイミングで見に来ることはできず、この年になってしまいました。しかも撮影Okとなったとあれば、ここで紹介せずにはいられません。先を割った刷毛で勢いよく松葉を描いているそうです。藁で作った「藁筆」で描いたともいわれています。この筆致の勢いが気持ちいいと思いませんか?また、墨の濃淡だけで霧に霞む松林を表現しています。その心は禅の境地に通じていると思うんです。本当に素晴らしい!松林図 右隻この松葉の大胆な表現!刷毛が紙にあたる音が聞こえてきそうではありませんか!松林図 部分この日は同時に、天皇陛下即位の礼で使われた「高御座、御帳台」も展示されてました。実物ですよ。高御座大嘗宮を見に行くことができなかったので、高御座だけでも見られただけよかったです。御帳台国立博物館は、国宝や重要文化財を数多く所有しているのでいつ来ても飽きません。良いものはここに来ればある、という感じです。しかもほとんどカメラでの撮影が可能なので、毎回数百枚もの写真を撮影して帰ります。私が得意な考古学関係の資料だけでも、例えば銅鐸、銅矛、銅戈など、西日本の博物館ではよく展示されています。しかし東日本ではまず出土しないので、県や市町村立博物館ではほとんど展示されてません。教科書で写真を見ることはあっても、東日本で本物は、まず見られません。しかし国立博物館なら、本物が見られます。国立博物館の収蔵品もいずれ紹介したいのですが、数が多いので今回見ることができた収蔵品のうち、ここで私のお気に入りの展示物を一部紹介します。まずは国宝の銅鐸です。外縁付鈕2式銅鐸 前面外縁付鈕2式銅鐸 反対面国宝の袈裟襷文銅鐸です。香川県で出土したとされています。銅鐸は紐を通したと考えられている鈕の断面で編年されます。「外縁付鈕2式」は鈕の断面で分類した場合の、編年の形式です。この銅鐸はおよそ2,200年ほど前のものと見られます。この後、銅鐸は叩いて鳴らす道具から大型化し、「近畿式」といわれる巨大な、見て祀る祭器に変化すると考えられています。考古学の本を見ると必ず写真入りで紹介されているこの銅鐸、どこがお気に入りなのかというと、表面に描かれた絵の内容がおもしろいのです。明らかに当時の稲作の様子や農耕に関する思想を示しているのです。弥生時代の遺跡に行くと、今や当たり前のように高床式倉庫の復元建物が建てられています。その復元のもとになった一つの例がこれです。貴重だと感じますよね。高床式倉庫また脱穀についても、臼や竪杵を用いていたと分かったのもこの銅鐸がきっかけになりました。高校の日本史の教科書で見たことがある絵ではないでしょうか。脱穀する人々トカゲとスッポンこの絵は初め、トカゲとカメを表しているとされてました。長いことカメだと言われていましたが、最近ではスッポンではないかと言われています。なぜトカゲとスッポンなのでしょう。中国思想の影響だろうといわれています。トカゲはイネの害虫を食べて退治してくれるから?スッポンは水の神だから、だそうです。あと、カメではないのは甲羅が丸く描かれているから、だそうです考古学では有名な学説のきっかけになった銅鐸の、しかも本物が見られるのが国立博物館のすごいところです。だから国立博物館はいつ来ても楽しいです。もう一つ、小治田安萬侶墓誌を紹介します。これも、教科書などでよく見かける逸品です。小治田安萬侶墓誌どこがお気に入りかというと、日本の考古学では文献の内容と出土品が一致した例はほとんどないのです。小治田安萬侶に関しては、『続日本紀』にその経歴の記述があります。明治44(1911)年、奈良県山辺郡都祁村甲岡(現・奈良市)の丘の中腹で墓誌や木櫃が発見されました。昭和26(1951)年、その付近の発掘調査が行われ、古代の火葬墓であることが明らかにされました。しかも墓誌の内容から、ここが小治田安萬侶の墓であることがハッキリしたのです。遺物の内容と『続日本紀』の記述が一致したのです。そこがすごいでしょう?他にもいっぱいお気に入りの展示品があるのですが、なんせ多過ぎます。SNSでの紹介もOKだそうですので、おいおい紹介していきたいと思っています。ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 15Jan
    • 岐阜城人気に埋もれて目立たないですが…   加納城跡を訪ねるの画像

      岐阜城人気に埋もれて目立たないですが…   加納城跡を訪ねる

      岐阜市内には、岐阜城の人気に隠れて目立ちませんが、もう一か所、大きな城跡があります。年末に家族旅行で岐阜城を訪問した後、そのお城にも行きました。それが加納城です。かくいう私も4年前に仕事の関係で岐阜に来るまでは知りませんでした。しかし、仕事の後にちょっと訪ねてみようと立ち寄ったとき、その石垣の大きさや野面積みの豪快さに圧倒され、「こんな立派な城が知られてないなんて…」と、本当に驚きました。そのときはカメラを持ち合わせておらず、忸怩たる思いで城跡を去りました。再訪を誓いながら…今回、その念願が叶って再訪することができました。岐阜城から向かうと、最初に見えてくるのは加納城の本丸北側石垣でした。加納城跡(本丸北側)どうですか、この野面積みの石垣の豪胆さ。本丸とその周辺の堀跡、二の丸と三の丸の間の石垣が残されている程度ですが、見ごたえ十分ではないですか。加納城跡平面図(現地の解説から)ちなみに、妻と息子は「天守閣の建物がなけりゃ、イヤ!」と、車から降りようともせず、近くのコンビニで待機しているといって行ってしまいました。本丸北東隅の石垣石垣の四隅は自然の石を算木積みにしてます。石質は金華山の岩盤を形成しているチャートです。この近くでは結構産出するようですね。本丸北西隅(天守台)本丸北西隅には天守台と呼ばれる高台が残されていました。石垣の内部(裏込め石)ちょっと石垣の状態が悪い部分もありました。そのおかげで石垣の構造が観察できます。ケガの功名といいますか?裏込め石が見えますね。危ないので近づきませんでしたが。本丸南西隅の石垣本丸南側の石垣野面積みの石垣の城は旧美濃国ではあまり残されていないそうです。その数少ない貴重な石垣をじっくりと堪能できます。本丸「臆病門」跡こちらが本丸「臆病門」の跡です。本丸の東側には出枡形が造られていました。本丸南東隅と出枡形の石垣本丸出枡形の北東隅出枡形の北東隅は崩壊が著しいです。このままでいいんでしょうか!?早急に対策してほしいです。本丸の外周を一周して、本丸内に入ってみました。公園として整備されてました。石垣の内側は土塁になってました。本丸内部本丸内部(西側の土塁)そして、出枡形「鐡門」跡へ。ココが本来の本丸入り口だったところです。本丸出枡形(東側から)ココには櫓門があったはずですね。櫓門跡から高麗門だっただろう門跡を見てみました。本丸出枡形(西側から)土塁があって、枡形の状態が良く残っていますね。本丸を十分に見て回ったら、やや離れたところに残っている二の丸と三の丸の間の石垣を見に行きました。二の丸と三の丸の間の石垣(東から)ここは岐阜地方気象台の基礎になって残されていました。本丸同様、野面積みの立派な石垣です。やや石が小さいですね。二の丸と三の丸の間の石垣(西から)小学校の校庭の片隅でもあるので、見学には許可をもらってください。私の場合、年末だったためか校庭が解放されていました。加納城は岐阜城の陰に埋もれて目立たない感じですが、たまらない魅力を持っています。日本100名城とか続100名城には入っていないようですが、城好きな方にはぜひ一度訪れてもらいたい、おススメのお城です。--------加納城跡(昭和58年10月・国指定史跡 岐阜県岐阜市加納丸之内)加納城は慶長6(1601)年、大坂方への備えのために徳川家康が自ら実地検分し、翌年から築城が開始されました。近世初期の野面積みの石垣を持つ城跡として貴重で、国指定史跡となっています。初代城主は家康の娘婿・奥平信昌。以降、奥平氏、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏など譜代大名が歴代城主を務めました。城内には本丸北西角に天守台が備えられていますが、天守はなかったようです。二の丸北東角(岐阜地方気象台のところ)には岐阜城の天守を移したとされた隅櫓があったそうですが、火災で焼失しています。明治時代に入り建物はすべて壊されてしまい、堀も埋まっていったようです。昭和に入って本丸内には旧陸軍が駐屯し、戦後には自衛隊が使用していたそうですが、その後公園となり、史跡に指定されて保存されています。 参考文献:岐阜市教育委員会 『史跡 加納城跡2』 (公財)岐阜市教育文化振興事業団(2010)ブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング

  • 13Jan
    • 新発見が相次いで、2020年の大河ドラマで盛り上がって…    岐阜城跡を訪ねるの画像

      新発見が相次いで、2020年の大河ドラマで盛り上がって…    岐阜城跡を訪ねる

      大晦日の12月31日、岐阜城を訪ねました。近年、織田信長の居館跡が大規模に調査され、大発見が相次いてますね。本年の大河ドラマ“麒麟がくる”でも話題になってます。どんな発見があったのか実際に見てみたいと思っていたところ、最近になってお城の天守閣に目覚めた息子が「岐阜城に行ってみたい。」といい出しました。ネットで調べると、年末も登城できるそうではありませんか。それならばと、年末旅行の行き先は岐阜城登城で決まりました。大晦日の早朝に埼玉を車で出発して6時間、岐阜市内に入りました。市内ではどこからでも山上の天守が見えました。それが岐阜城のある金華山でした。市内から見えた金華山岐阜公園の駐車場に車を止めると、山上に目指す天守が。金華山と岐阜城天守本当なら中腹にある郭跡などを見ながら歩いて山頂に向かいたいところなのですが、家族旅行なので奥さんと息子に従ってロープウェイで山頂へ直行です。しかし、城マニアの父(私のこと)は見逃しませんでした。ロープウェイが山麓駅を出るとすぐ、眼下に広がる大きな発掘現場を見つけました。信長居館跡の調査現場でした。ロープウェイから見えた信長公居館跡下山したらじっくり探索することとして、まずは山頂へ。山頂駅からはコンクリート敷きの遊歩道が天守へ続いていました。遊歩道の両脇にはチャート質の岩盤が露出し、切通しになって続いています。しばらく歩くと一ノ門跡が現れました。巨石を積んで門の基礎とした跡が今も残っていました。一の門跡山の上だけに難攻不落な山城の雰囲気がタップリで、私は興奮気味に遺構へカメラを向けています。そんな私を後目に、奥さんと息子はサッサと天守閣へ行ってしまいました。もう構うことはない。じっくりと山城を堪能するぞ、とばかりに寄り道する私。こんな大きな堀切が残っていました。堀切跡山上は意外とあちこちに、明らかに戦国時代に積まれた石垣が見られました。戦国期の石垣石質は金華山のあちこちに露出していたチャートです。石材は現地調達されたんですね。平たく割れたチャートの長手を表に見せた野面積みですね。荒っぽい大胆さが感じられます。そこがまたいいですね。ニノ門跡二ノ門脇には一ノ門同様に巨石が積まれているのが見られました。岐阜城は巨石を建物の基礎とするのが特徴だったようです。ニノ門跡にある巨石でできた建物基礎ニノ門の先に見られた石垣も、チャート質の野面積みでした。ニノ門の先にあった石垣もっと進んでいくと、「戦国期の井戸跡」の標識が。標識に従って脇道に入ると、そこには岩盤を大きく穿って作ったという井戸跡が。もう井戸というより、貯水槽です。荒々しい所が戦国時代らしいです。戦国期の井戸跡そしてやっと見えてきた岐阜城天守。そこには痺れを切らして私を待つ奥さんと息子の姿が。ごめんなさい。でも、いつものことじゃない。許してください。岐阜城天守ちなみに、下の写真は天守登り口にある石垣ですが、この石垣も中世のものだそうです。岐阜城天守の登城口にある石垣天守の中では、岐阜城の概要について展示がありました。信長居館の復元3Dパネルも展示されていました。西本願寺の飛雲閣に似てますね。信長公居館の3D復元図懸崖造りの能舞台?もダイナミックな感じですね。織田信長公肖像画(レプリカ)レプリカですが、歴史の教科書でもよく見かける信長の肖像画もありました。濃尾平野と長良川を一望する天守の最上階からは濃尾平野を一望できます。気がデカくなります。天守閣の下にも石垣が。山上の城郭に残る石垣では最も大規模なものではないでしょうか。天守下の土橋の石垣ちなみに、年始に発表があった天守西側の「信長時代の石垣」は、発表前だったこともあって全く知らなかったし、気に留めてませんでした。さて山麓に戻ってきて、織田信長公居館跡の標柱一番見たかった信長居館跡の調査区域にやってきました。奥さんと息子は全く興味を示しません。「ロープウェイ駅で土産物を見ているから勝手に見てくれば」って。信長公居館へ通じる通路両側に巨石を立て並べている通路。屈曲しながら居館へ入ってきます。並べられた巨石が豪壮というか、何というか。歩いているだけで圧倒されたことでしょう。信長居館は迎賓館の役割も持っていたそうですが、入り口からして来客に対する信長独特の演出が見られます。斎藤氏時代の遺構居館跡の下からは信長以前の斎藤道三・義龍・龍興の時代の遺構も見つかってるのだそうです。へぇ~っ。信長公居館跡の庭園跡のひとつこれは庭園の跡のひとつです。庭園の跡が、狭い範囲から3か所も見つかっているとか。右手の巨大な岩が、いかにも枯山水の山や滝の石組だったよう。調査後には復元整備が計画されているそうです。早く復元されないかな。居館跡にある小滝この滝も庭園跡の一部だったようです。小さな渓谷を居館内に造っていたようで、そこで四季折々の風景で来客をもてなしていたとか。贅沢ですねぇ。信長時代の水路跡滝の下流には中世の水路跡が。信長公居館跡の石垣そしてこの石垣。とても戦国時代らしい、荒々しい感じがいいですね。この野面積みの大胆さが大好きです。信長居館跡はまだ調査途中のため、あちこちシートで覆われたままでした。それが残念です。大河ドラマで盛り上がる岐阜城ですが、調査が進展して最近は新発見のニュースも多く、とても興味深いです。駆け足で回るなんてもったいない。今度はじっくり、一日かけて全山回りたいです。--------岐阜城跡(平成23年2月・国指定史跡 岐阜県岐阜市)岐阜市内のどこからでも眺められ、市のシンボルともなっている金華山は、古くは稲葉山と呼ばれていました。ここに城が築かれたのはいつ頃かはわかっていません。現在では“美濃のマムシ”と呼ばれた斎藤道三が美濃の支配拠点として稲葉山にあった城(稲葉山城)を整備した後の歴史が有名です。永禄10(1567)年には織田信長が斎藤龍興を追放して稲葉山城を落とし、居城を小牧山から移しました。このとき、城下町の名前が「井ノ口」から「岐阜」と改められ、城も岐阜城と呼ばれるようになりました。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城するまで存続したそうです。参考文献:岐阜市教育委員会 『岐阜城跡 -史跡整備に伴う発掘調査-』 (公財)岐阜市教育文化振興事業団(2015)参考HP:織田信長公居館跡発掘調査ホームページ 『史跡岐阜城跡』岐阜市ホームページブログが気に入ったらクリックをお願いしますお城・史跡人気ブログランキング B級スポット・珍スポット人気ブログランキング