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今回は下野国分尼寺跡を紹介します。
あまり知られていないことですが、旧国において国分寺跡は結構見つかっていますが、国分尼寺跡はほとんど見つかっていません。
そんな中で、下野国では国分尼寺跡が見つかっています。
三河国でも見つかっていました。実はこういった旧国は珍しいんです。
もっとも研究は進んでいて、国分尼寺跡も徐々に見つかりつつあります。
さて、下野国分尼寺跡は下野国分寺跡の東側、約900mほど離れたところにあります。
主軸の方向が国分寺とほぼ揃っていて、伽藍配置も国分尼寺のそれです。
早くから整備されていたため、先進的な史跡整備方法をとった遺跡として注目を集めました。
現状はどうなっているのでしょうか。それでは訪ねてみましょう。
下野国分尼寺跡を訪ねる
国分尼寺というと、伽藍配置は東大寺式の塔がないパターン、というのがほとんどです。
要は伽藍が南北に、南大門から中門、金堂、講堂、尼坊が一直線に並び、中門の両脇から延びる回廊が金堂に取り付く形なのです。
下野国分尼寺も例外ではありません。ちなみに、先に紹介した三河国分尼寺もこのパターンでした。
下野国分尼寺跡 史跡南端の標柱
こちらは遺構と礎石や柱穴の位置だけ示して、建物の復元までは行なっていません。
史跡の整備において、建物まで復元する方法を「立体復元」といいますが、
立体復元は見学した人に「古代の建物はこうだった」と固定観念を植え付けかねないので好きじゃありません。
だから復元方法としては下野国分尼寺跡のほうが好感が持てます。
ここも「しもつけ風土記の丘」の一角で、駐車場のすぐ北東側に標柱がありました。
ここから北に下野国分尼寺跡が広がっています。
南大門跡を見て、このまま北へ歩を進めます。
やがて中門跡の土壇が見えてきました。
ここから、中門の左右に伸びる回廊跡とその先にある金堂跡が見通すことができました。
下野国分尼寺跡 中門跡から回廊跡とその先にある金堂跡を見通す
中門跡
中門跡から見た金堂跡
国分尼寺跡の各建物の基壇では土壇は残されていますが、地覆石などは見つかっていません。
礎石もほとんどは抜き取られていたそうで、礎石が置かれていた痕跡だけが見つかっています(裏込め石が見つかっています)。
建物基礎の地覆石や礎石は、国分寺跡では残っていることが多いのですが、国分尼寺跡だと残っているところが少ないです。
後世に石材や庭石として持ち出されてしまうことが多いのですが、国分寺のほうが上に見られた(仏教では比丘尼より比丘が上位に見なされる)ためか尼寺跡のものを先に持ち出した例が多いですね。
そのせいで尼寺跡は痕跡が残りにくいようです。下野国も例外ではありませんでした。
史跡整備にあたっては丸い大谷石を置いて柱の位置を示していました。
金堂跡
金堂跡の礎石(位置表示)
金堂跡から中門跡を見る
金堂跡の北側には講堂跡の基壇がありました。
やっぱり地覆石や礎石はなかったようです。
講堂跡
金堂跡と講堂跡の間、左右に分かれて経蔵跡(西側)と鐘楼跡(東側)とみられる基壇も見つかっています。
経蔵跡
鐘楼跡
そして、伽藍の最北端には「尼坊跡」の標柱がありました。
ここに尼坊があったのかな、と思ってしまいますが、実は尼坊跡は見つかっていません。
尼坊跡は推定された位置に表示だけ置かれたものです。
尼坊跡
ここまでで伽藍内のほぼすべての建物を見たのですが、史跡指定値はもっと広がっているんです。
例えば伽藍の北東方面、西方面が空き地になっています。これらも史跡指定地なので開発の手が入っていません。
尼寺の北東方面
尼寺から西方面(僧寺のある方向)を見る
大体こういった場所では、史跡に関連する遺構が見つかっているんです。
下野国分尼寺跡でも関連するとみられる竪穴住居址などが見つかっているといいます。
史跡整備が進めば、そのような遺構も復元されるかもしれません。
というわけで、下野国分尼寺跡を訪問しました。
この近所は国分寺や国分尼寺があり、巨大古墳も集中して見られることから古代下野国の中心地域だったと考えられています。
なので、ほかにも大きな遺跡がいっぱいあるんですよ。
次回からそれらを紹介しますね。それではまた。













