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名宝を訪ねる~日本の宝『文化財』~

国宝や史跡、天然記念物などの国指定文化財を巡り堪能し、その魅力を紹介するブログ

毎度、当ブログへお越しいただき、ありがとうございます。

 

今回から、興味ない人には地味でつまらないんだけど、私のようなマニアにはとても熱いという、山形県高畠町にある遺跡を4ヶ所、紹介します。

 

なにが熱いのかって!?


なんせこの4ヶ所は洞窟遺跡なのですが、この発見によって日本における縄文時代の始まりについて長年の議論に一定の見解を与えたからです。

 

 

縄文時代の始まり=土器の始まり、です。日本はもしかすると世界で最も古く土器の使用が始まった場所、ともされているのですから、この議論はとても熱いのです。

 

“縄文時代草創期”を設定するきっかけになった遺跡の一つ、ということなんです。

 

 

だから国指定史跡となっているのです。考古学ファンにとっては一度は訪ねてみたい遺跡なのです!?知らんけど。

 

もちろん、他にも縄文時代の始まりについて重要な知見をもたらした遺跡は新潟県や長野県にあるので、山形の遺跡だけで研究が進んだわけではありません。そこは誤解ないように。

 

しかし考古学研究史に重要な1ページを残した遺跡であることに変わりありません。今回はまず初めにその一つ、一の沢洞窟を訪ねます。

 

 

 

  一の沢洞窟への道

 

一の沢洞窟は高畠町の市街地から離れた、結構な山の奥にあります。縄文時代の頃は人も住んだでしょうが、今では滅多に人が寄り付かないような場所です。

 

こんな場所に、よく遺跡を見つけたよな。

 

一の沢洞窟がある山形県高畠町は先史時代の遺跡が多く集中する場所で、七ヶ宿街道と呼ばれる国道113号沿いには「山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」と歴史公園があるほどです。しかし今回はそれをスルーして、国道を東へ進みましょう。

 

途中、高畠町ではイチ押しの観光名所、「高畠石」の採石場だった跡地を公園に整備した瓜割石庭公園もありますが、それもスルーしてくささい。

 

ここは一旦、蛭沢湖という灌漑貯水池を目指します。一の沢洞窟は蛭沢湖に近い場所にあるのです。

 

 

 

やがて左手に蛭沢湖が見えてきます。

 

 

でも一の沢洞窟へは、それを左手に見ながら、さらに山の奥を目指します。蛭沢湖もスルーします。

 

さらに北に向かって行くとやがて下の写真のような分岐点に差し掛かります。

 

蛭沢湖東岸の「一の沢洞窟」入口(右手の林道) 標識が初めて現れる

 

ここに初めて「一の沢洞窟」への標識が現れます。

 

Y字路になっていて、本道は左へ向かっています。この本道を進むと他の3か所の洞窟遺跡に続いています。

 

ここは右へ分岐する林道を進みます。

 

やがて、また道が分岐しているのですが、これ以上は一般乗用車が進むのはためらわれるような整備状況です。1台分くらいの駐車スペースがあったので、ここに車を停めて歩くことにしました。

 

林道の分岐点 先客(この車の持ち主には結局、会えませんでした。)がいたが、もう一台駐車できるスペースがあったのでここに車を停めて歩くことにした

 

 

ここにも一の沢洞窟への標識があるので、それに従って右手の道を進みます。

 

砕石が敷かれていて、林道として整備されていました。

 

駐車スペースから、右手の山道をさらに進む

 

 

西の山には沈んでいく月を見ました。実は結構、早朝にここまで来ています。

 

どんだけ早朝に訪ねているんだか!?

 

(明るくなってからすぐに訪ねています)

 

西の山に沈みゆく月を見る(赤い矢印の先が月)

 

 

やがて少し開けた場所に出ます。ここに洞窟が!?

 

と色めき立ちましたが、解説があるだけでした。ここは洞窟のエントランスですね。

 

説明板もあって、山奥なのに一の沢洞窟のために結構きれいに整備されていました。

 

洞窟はさらに奥です。

 

一の沢洞窟 エントランス

 

 

さらに進むと、砕石敷きの道は左へ曲がっています。

 

ここにロープでバリケードがあるのですが、私が訪ねた際はこのバリケードが外されていて、私は間違って林道を進んでしまいました。20分くらい歩いたところでやっと気付いて戻ってきました。

 

ここには標識がありません。ロープは改めて張り直しておきました。

 

往復で40分も無駄な労力を掛けさせられたところなので、またバリケードが外されていて間違う人がいないように、注意を促すためにも、そのポイントの画像を載せておきます。

 

林道との分岐 左が林道で私が間違えて進んだ道 洞窟へは直進

 

 

正しい方向は短い坂道になっていて、坂を登った先は開けていて一の沢洞窟への標識があります。この標識は左手にある沢に降りる道を指しています。

 

やや開けた場所へ出る

 

標識は沢を渡る方向を示している

 

標識に従って沢に降り、渡ってください。

 

 

そうすると目の前の斜面に道が続いています。結構な急登ですが、このルートが正しい道です。進んでいきます。

 

この斜面を登る

 

 

登ってすぐに木々の間に、ほら穴というのがふさわしい洞窟が見えてきます。この洞窟こそ、一の沢洞窟です。

 

木々の間に岩肌が見えてきて、洞窟があるのがわかる

 

一の沢洞窟に到着びっくりマーク

 

 

  これが一の沢洞窟びっくりマーク

 

洞窟へは西側からアプローチすることになります。岩質は凝灰岩のようです。水流で削られやすい、やわらかい岩です。洞窟は河川による浸食や、風化によってできたように見えます。

 

 

これはこのあとの3洞窟を見るにあたって、なぜ遺跡が発見されたかに通じる重要なポイントです。

 

 

斜面途中に口を開けている洞窟なので、木々が邪魔して全体像を見ることはできませんでした。

 

洞窟は第1~第3からなる3つの洞窟と、一番西側にある岩陰遺跡から成立していて、遺跡自体は縄文時代から古墳時代までの遺物が見つかっているそうです。

 

注目されるのはその、一番西側にある岩陰遺跡で、堆積した4つの層が検出されました。特に第3層と第4層から出土した縄文草創期の遺物が注目されました。

 

一番注目される、一の沢第一岩陰(右手は第1洞窟)

 

ここからは縄文時代草創期の土器である隆起線文土器と多縄文土器が、層位的に発見されたのです。これによって草創期の土器は隆起線文土器⇒多縄文土器へと移っていったことが明らかになったのでした。

 

学史的なメルクマールとなった遺跡とわかり、感慨深いものがありました。

 

 

 

その隣にある第1洞窟。こういった洞窟には当然、土層はないのでここから貴重な発見があるとはちょっと考えにくいですが、当時の生活にはやはり何らかの関わりがあったことでしょう。

 

第1洞窟

 

 

そして、とても小さな洞窟、第2洞窟。

 

第2洞窟

 

 

小さいから、ここで生活したりとかはなかったと思われます。ただ、遺跡の記録上、ここは第2洞窟と認識されているようです。

 

だから押さえておきます。

 

 

そして、第3洞窟。

 

各所の解説では第1洞窟が一番大きいとされています。しかし現地で見る限り、こちらの洞窟の方がはるかに巨大です。

 

第3洞窟

 

第1洞窟を第1岩陰と同じに捉え、遺跡としての規模なら、ということでしょうかはてなマーク調査報告書が見られなかったのでわかりませんが、現地ではこちらの方が大きく見えます。

 

ところで、生活の痕跡は第1岩陰遺跡にあったわけですが、実際の生活場所はここだったんじゃないでしょうか。広いし、雨も避けられるし。

 

現在、ここへ登るのはなかなか大変です。かつてはハシゴが掛けられていたようですが、木製だったために腐って無くなってしまったようで、今はありません。

 

第3洞窟の内部

 

手摺りとしてのロープがあるので、一応登ってもいいようです。

 

しかし、木の根元に縛り付けられていて、いつ切れてしまうかわからないような劣化したロープでした。岩の表面も滑りやすくて危なっかしいです。

 

そんな状態だったので、くれぐれも登るのは自己責任でお願いします。

 

 

 

ちなみに私はこの程度の危険レベルなら、なるべく登ります。自己責任で。

 

第3洞窟へ登り、その奥もしっかりと見てきました。奥の方は下の画像のようになっていました。

 

第3洞窟 奥部

 

第3洞窟の最奥壁

 

 

…地味でしょ、わざわざ埼玉から山形を訪ねた目的地としては。

 

でも、満足ですよ、私としては。

 

改めて言いますが、学界で縄文草創期を設定するきっかけになった遺跡ですから、考古学ファンには熱い遺跡です。

 

 

で、次に訪ねるのは付近のその他3洞窟遺跡を訪ねます。そのうちの1ヶ所はこれらの洞窟遺跡が集中して発見されたきっかけになった遺跡です。

 

いずれも縄文草創期に関する議論のきっかけになった遺跡ですからね、熱いですよ。私的には。