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城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

月刊アーマーモデリング誌上で私の連載が始まります。

連載名は

〝城郭模型紀行〟

思えば、今まで模型誌で城郭模型専門のコーナーが定期的に連載されたことがあったでしょうか??
お城プラモデルがこの世に出て58年。やっと。やっとお城のコーナーが出来ました!!
小さい頃思い描いた、「こんなコーナーがあったらいいな」「こんな模型を見てみたいな」を実現したいと思います。

アーマーモデリング誌では、今までも「戦国ダイオラマ絵巻」のコーナーでたびたび掲載の機会を頂きました。編集の金子辰也先生が引き立てて下さり、7作品をつくりました。

その金子先生が昨年、アーマーモデリング編集部を卒業されました。急な知らせに驚きました。そして今後「戦国ダイオラマ絵巻」のコーナーはどうなるのか??という不安があったのも正直なところです。

そして…

新体制の編集部の皆さんが、お城のコーナーは続けようという決断をして下さいました。しかも私のお城のコーナーにしようと。こんな有り難い仕合わせが有るとは…

つい先日、今後の展開を話し合いに編集部まで行ってきましたが…

好きにさせてもらいます!!
暴走するかもしれません!!

プラキットにこだわらなくていい、なんでもあり、という寛大な方針を立ててもらっています。
今年の内容はほぼ決まりましたが、キットはもちろん、木製、フルスクラッチ、内容も情景、復元、古写真などなど。題材も天守に留まらず、櫓、門、石垣、などなど、無制限でやっていきたいと思います。一度リセットしたつもりで、戦国ダイオラマ絵巻の時とはまた違った路線でやっていきます。



第一回は松江城!
私が撮った写真ですが
じゃーん

昨年の静岡ホビーショーの時に金子先生と話し合って雪の松江城作りましょう、と決まっていました。それが新連載の第一回作品になりました。

「城郭模型紀行」、とっても力が入ったコーナーになっています。撮影は野外です。文章も私の駄文ではありません。東郷隆先生の解説文も入っています。


新連載の第一回松江城掲載のアーマーモデリング2月号は今日発売です!!
ぜひぜひお近くの書店で!!

連載は隔月、奇数月発売号です!

皆さま、「城郭模型紀行」を何とぞよろしくお願いいたします
m(_ _)m


次回は天鏡閣と書きましたがその前に。

金閣が洛中洛外図の中でどのように描かれているか一挙に並べてみます。

洛中洛外図についてはここでは詳しい説明は省きますが、京都の名所を描いた屏風で、16世紀はじめ頃、戦国時代から幕末まで描かれました。
都市景観と風俗を描いているため、美術史にとどまらず、建築史、風俗史、芸能史、文学史などあらゆる分野で重要な史料となっており、さまざまな角度から研究されています。

金閣も必ずと言っていいほど姿を現します。

歴博甲本(町田本)
現存する中で景観年代、制作年代ともに最古のもので天文年間頃のようすです。金閣は雪の景色として描かれています。建物の姿は現在の金閣とほぼ同じです。南からの眺めですが、金閣の東側(右側)に橋か道のようなものが描かれ人が歩いています。池が金閣の後ろ側まで回り込んでいて、池中に突き出した岬のような部分に金閣が建っているように描かれます。

東博模本
模本ではありますが、原図が狩野永徳筆と伝えられる貴重なものです。景観年代が歴博甲本と上杉本の中間に位置するものとして重要視されています。
金閣は漱清が奥に描かれていて南東からの姿。建姿は金閣の姿をよく写しています。一階は木部のみの描写に見え、二階と三階、縁の腰組に白壁の表現があります。池の中島には桜が咲いています。

歴博乙本
景観年代は上杉本の少し前と言われます。金雲の表現が固定的な感じがあることが指摘されています。
金閣は上層が金雲から覗いています。三階が金色の表現になっています。屋上の鳳凰を象徴的に大きく描いています。周辺は雪の景色です。

上杉本
上杉家に伝えられたもので狩野永徳筆として大変有名な屏風です。信長が謙信に贈ったもので景観年代は天文年間後半とされます。
金閣は手前に漱清の屋根が見えており南西からの眺め。屋根には雪。三階の壁面のみ金で、3階の高欄、腰組、二階は柱が朱に描かれます。1階、2階、3階高欄の腰組には白壁が見えます。
前回の記事で書きました「真塗」とは黒漆塗りを表す言葉ですが朱漆だったのでしょうか??さすが永徳、卓越した画力です。
ここまでの4作がいわゆる初期洛中洛外図で、戦国時代までの景観を描いています。


文化庁本
慶長12年以降の景観。
金閣は二階建てに描かれます。漱清が唐破風になっているなど建物の形は正確ではありません。金色の表現は最上階のみです。腰組は白壁。

勝興寺本
景観年代は慶長17年以降。文化庁本と町筋に至るまで一致し、文化庁本の失われた右隻の図様を想像できる重要な屏風です。
金閣の姿は文化庁本と大変似ています。南西からの眺めとも見えますが、漱清が奥にあるようにも見え、南東からの眺めとも取れます。金閣に至る橋が描かれています。

出光美術館本
元和9年以前の景観。金閣は二階建てに描かれています。漱清の反対側にも同じような付属建物が描かれます。柱と腰組が朱塗り、腰組と下階に白壁。金塗りは上階の外壁のみです。

堺市博物館本
金閣は二階建てに描かれます。池に立つ縁束を懸造のように大げさに描きます。金塗りは上階のみのように見え、腰組と下階は白壁があります。

大阪市立美術館本
豊臣家滅亡以降の景観かと考えられています。
金閣は二階建てに描かれます。上層のみ金色です。漱清の反対側にも同じような付属建物があります。下階は開放的で奥の景色が透けています。

萬野A本
寛永2年以降の景観。
金閣は屋根が三層に描かれます。一階は白木に白壁、二階と腰組、三階は柱が黒漆塗り、壁が金に描かれます。

神戸市立博物館本
元和期の狩野派周辺の絵師の筆か。
金閣は三層に描かれ、漱清はありません。1階から3階まで白木で白壁に描かれます。鳳凰の台座が銅の表現になっています。

池田本
岡山藩池田家に伝来したもので元和年間初頭の景観。
二階建てのように描かれます。金色は上階のみ、腰組と下階は白木に白壁。3階の縁を黒く表現しています。

京都個人本
池田本と同工房の作とされる屏風です。建築の細部に異常な集中力を示すことが指摘されています。
金閣は三層に描かれます。2階の縁下にも腰組を描くなど、建物の形は正確ではありません。
2階と3階の外壁を金に、腰組は白木に白壁となっています。

萬野B本
池田本、京都個人本と同系列で景観年代は寛永以降。
金閣は二層二階建てに描かれます。上階壁面が金色、下階と腰組が白木白壁です。漱清の屋根は瓦葺きに表現されています。

サントリー美術館本
寛永3年の後水尾天皇による二条城行幸を描いた屏風です。これ以降の洛中洛外図屏風には制作時期に関わらず後水尾天皇行幸が描かれるようになります。
金閣は二層に描かれます。全体が白木白壁のようにも見えます。上階の縁側を黒っぽく表現します。漱清の屋根は瓦葺きの表現になっています。

歴博C本
金閣は上階壁面が金色、腰組と下階は白壁に白木の柱です。高欄が黒っぽく見えます。漱清の屋根を唐破風に描きます。

個人本
金閣は三層に描かれます。1階から3階まで壁面が黒く表現されます。漱清のみ白木で、屋根は瓦葺きです。金閣東側(手前)に橋が描かれます。

歴博D本
前の個人本と同じ粉本からの制作の屏風です。
描写もほぼ同じですが、2階と3階の柱が金色のようにも見えます。

個人本
17世紀最末期の制作。
金閣は2階建てに描かれますが壁面全体が真っ黒になっています。漱清のみ白木の描写です。

寂光院本
17世紀末頃。
金閣の姿はかなり忠実に描きます。壁面は全体に黒っぽく表現されており、漱清のみ白木で屋根は瓦葺きです。高欄が朱色に描写されます。

洛中洛外図扇面(東京芸大蔵)の金閣。
一階は白木、二階は白木に白壁、3階の高欄は赤黒く、3階の壁面と鳳凰が金色です。

洛中洛外図帖(奈良県立美術館)より
金閣は2階建ての表現、上階の壁面と高欄が金色、下階は白木に白壁で腰板障子が入っています。

以上、22点の金閣を見てきました。
模型では2階の全面と3階の腰組は真っ黒に塗装していましたが、白壁があるようですね。
塗り直しましょう。




前回の続き。
今回は金閣の色と舟入玄関の存在など。

おなじみの金閣寺です。
私も初めて訪ねた時はその金色まばゆい姿に思わず歎息しました。

現在の金閣は二階、三階が金箔押しで、二階、三階の回り縁の床面は黒漆塗りになっています。

以前作った模型でも

しかしながら、この金色の姿は、昭和の再建以降のもので、焼失前は東山の銀閣と同じように、簡素な素木の姿をしていました。
古写真から、現在は黄金一色の二階部分にも白壁があるのが分かります。

もともと金閣はどの部分に金箔が貼られていたのでしょうか。

『足利治乱記』に
金泥ヲ以テ悉クダミタレバ京童ドモ是ヲ金閣トゾ申シ奉ル
とあり、金で塗りあげた姿から、かなり早い段階で金閣の呼称があったことが分かります。

ルイス・フロイスも『日本史』のなかで
廻廊がついた上階はすべて鍍金されていた
と書いています。

金箔が押されていたことは間違いなく、焼失前の金閣にも金箔が残っていました。
しかしそれは3階のみで、2階には金箔のあとが全くありませんでした
紅葉山文庫の『仕様寸法付之帳』は3階について「内外共に惣金 但し、腰縁は真塗(漆塗り)」と記し、さらに腰組と高欄が真塗りであったことを重ねて記しています。

つまり、3階の外壁と内部が総金であって回り縁と高欄、腰組は漆塗りであったということで、これは実際の金箔の痕跡と一致しています。

金閣の焼失後、焼損材を細かく調査した村田治郎博士も「2階は内外ともに黒漆塗りであったことが明らかになった」とされているそうで、つまり、金箔が押されていたのは3階だけで、3階の回り縁とその腰組、2階は黒漆塗りであった、というのが事実のようです。

ではなぜ昭和の再建では2階まで金箔を押したかというと、ひとつの花器の存在がありました。
それは明治修理の際の隅木の古材を使った舟形の花生けで、それが金色だったのです。
この点について宮上氏は、「隅木はもっとも風化を受けやすいところであり、二階の内部にさえ残らなかった金箔が、隅木に残るなどということは、まずありえない。」とされ、その金色は花器にした際に施されたものとされます。また、この隅木が唐様であり、当初和様で統一されていたはずの創建時の2階の部材ではないと指摘されます。

(一枚板から造り出した火灯窓)

実際の建物でも、3階では壁面を一枚板で、火灯窓も造り出しで金箔押しに配慮してありますが、2階は羽目板を釘打ちにした外壁で、金箔仕上げ向きにもともとなっていない、という点も指摘されています。

二階三階ともに金色となったのは、あくまで昭和の再建以降のことです。

そしてもうひとつ。
今回の創建時の金閣の模型では、唐破風の舟入玄関が付属しています。

これは宮上氏の復原図にある通りなのですが、この部分の根拠は、現在も見ることができるこれです。

金閣脇に一直線、等間隔に並んだ石列。
夜泊石といって、池の中に一直線に並べる庭石をいいます。西芳寺や大覚寺の大沢池、積翠苑の夜泊石が有名です。

金閣脇のこの石列も、あくまで庭石であるという説明がされていますが、この間隔を測ってみると、6.5尺の等間隔で、梁間は13尺というキリのいい数字となっています。明らかにこれは礎石である、位置からして舟入玄関であろう、という見立てがされています。



93年には電気探査による地中の解析が行われ、金閣の東側は間違いなく池であったとされています。

金閣は池の中に浮かぶ姿であったのかもしれませんね。

ここで模型の製作過程をダイジェストで。
金閣はフジミの1/100キットの改造です。実測図を元に開発されたキットで完成度が高いので、2階の屋根を自作するだけで簡単に創建時の姿になります。

屋根を張り

妻面の木連格子。前包みが無く、屋根から直接格子が立ち上がる、室町期の形式です。木連格子は縦の材が手前になります。

破風板、登り裏甲、軒付を造形。
今回、キットの改造で行ったため、2階の軒裏は唐様のままです。また、一階の北面は創建時はすべて開口部であり蔀がはいっていたようなのですが、それも再現できていません。二階東西の窓も作っていませんので、厳密な復原模型にはなっていません。

舟入玄関の製作です。
こちらは透けた建物なので、実際の建物と同じ構造で作成しました。

柱を立て、貫でつなぎ、桁をのせ、虹梁を渡します。

束を立て棟木を渡します。

化粧垂木を並べていきます。

化粧裏板を張り、垂木の先に茅負を置きます。

野桁を置き、野垂木を並べます。野垂木は太い材で簡略化しています。軒先には裏甲を取り付けます。

裏甲の上に軒付を置き、屋根面を張ります。

蓑甲部分を整えて棟と獅子口を置いて造形完了。

本物と同じ構造なので、屋根の断面もこの通り。

塗装前の状態です。


さて次回は、もうひとつの重要な幻の建物、天鏡閣についてです。







前回の続きです。
幻の光景、天鏡閣と舎利殿(今の金閣)


ひとたび目にするとその美しさが目に焼きつく金閣ですが、よく見ると日本建築として不可解な点があります。

(焼失前の金閣 )

金閣の概要をまず。

金閣は3階建てで、一階が寝殿造、二階が和様の仏堂、三階が唐様の仏堂となっています。それぞれの階で建築様式が異なることはあまりにも有名です。これを義満の思想と繋げる向きもありますが、起源は西芳寺の「瑠璃殿」にあります。瑠璃殿は一階が座禅の床、二階が仏舎利を安置した唐様の仏堂となっていました。一階は四方が蔀であったことが分かっており、住宅の上に唐様の仏堂を載せる構成は同じです。
義満は、夢窓疎石が建築作庭した西芳寺を模して北山殿を整備したこともよく知られています。


規模は1階と2階が正面5間半、側面4間の同大で、通し柱を使った一体構造です。1階と2階は1間を7尺としています。

3階は1階と2階とは別構造で、3間四方。柱間は6尺となっており1階・2階とは異なります。

ここで金閣の建築として不自然な点をまとめてみましょう。

中心が中途半端な位置に来ている
3階は全体の中心に載っていますが、正面は5間半であるため、2.75間という中途半端な場所に中心軸が通ることになり、日本建築の中では異例の設計技法となっています。

東西の屋根勾配が緩すぎる
金閣は長方形の下層に正方形の上層を重ねています。それを寄棟の腰屋根でつないでいますので、四隅の棟が大変な振れ棟となり、東西の屋根勾配と南北の屋根勾配に極端な差がついています。
明治修理前までは3階縁下の腰組は東西では屋根に埋もれる形でしたが、修理でこの腰組を復原したため、さらに大きな振れ棟となり、東西の屋根勾配はわずか25パーセントしかなく、再建金閣ではこけら葺きの下に銅板を葺いて雨漏りを防いでいます。

観音像の上に人が乗ってしまう
2階の東室には、観音像が安置されていました。これは足利家の観音信仰にちなみます。現在の姿だと、3階の縁を歩く人は観音像の上に立つことになってしまいます。


西室の中央だけ柱間が1間半
1階と2階は東室と西室に分かれています。
このうち、2階の西室は観音堂となっていますが、その中央だけ柱間が1間半となっていて、中央が強調されています。

2階の軒裏が唐様
金閣はそれぞれの階で様式が異なっていますが、和様で統一されるはずの2階の軒裏が、3階と同じ唐様になっていてアンバランスな感じを受けます。高欄の様式までそれぞれの階で変えているのに…

これらの点から、宮上茂隆氏は、3階は西室中央ライン上にあったのでは、と仮説を立てられます。

そして明治の実測図から建物の構造を見てみると…

これは梁を矢印で示したものです。
一階にはすべての柱の上に梁が通っていますが、二階では西室にしか梁が入っていないことが分かります。

東室には、西室の梁と直角方向に小梁が入っているのですが(下図緑色矢印)、これは西室の大梁の側面に平ホゾ差しになっていて、上層が載るような大きな荷重を想定したつくりではないというのです。

上層は柱盤ごとのちに移動させた、という考察をされています。

そして導かれたのが、この姿です。

模型にすると



東側の舟入玄関、また色については、次回に続きます。



舎利殿(現在の金閣)と天鏡閣

水面をつくって庭を整えれば完成です。

これが金閣寺の創建時の姿!

あまりにも印象が違いすぎてどこから説明を始めるか…

おなじみの金閣です。大変整った、美しい姿で日本のトレードマークのひとつとも言えるシンボリックな建物です。
(拙作 フジミ1/100金閣寺使用)

ご存知の通り、現在の金閣は昭和の再建です。

昭和25年7月2日、青年僧の放火により金閣は炎に包まれました。小説の題材にもなった金閣寺放火事件です。

焼失前の写真がこちら。
ちなみにこれは明治修理の前の姿です。

金閣は都の名所として、古くからその名を馳せました。東山の銀閣と並べて金閣、銀閣と称するようになったのは江戸時代に入ってからですが、金閣の方はかなり早いうちから金閣の名で呼ばれていたようです。

現在、金閣の名を取って「金閣寺」と呼ばれますが、これは俗称で、正式には鹿苑寺(ろくおんじ)という寺の舎利殿です。鹿苑寺は足利義満の法号、「鹿苑院」に因みます。
義満の本邸であった北山殿を、義満の死後、菩提をとむらうため寺に改めたのでした。

金閣は北山殿唯一の遺構として、昭和の焼失まで存在しました。

ここで明治以降の金閣の姿の変遷を大雑把に見てみます。

金閣は明治の修理の際、実測図がつくられています。部材の実測図まで含まれた詳細なものです。

こちらが修理前。つまり江戸時代からの姿。

修理後

修理前と修理後の違いは、

・3階の回り縁の下の腰組を復原した
・軒の反りのラインが変わっている
・軒の下りを支えるつっかえ柱を全て取り除いた。

という点が挙げられます。

そして昭和焼失後の再建金閣、つまり現在の金閣です。

基本的には明治修理の後の状態を基にしていますが、相違点があります。

・二階の東西にあった窓を無くしたこと
・一階北側の戸口を壁にしたこと
・二階まで金箔を押したこと

現在の金色まばゆい姿は、実は昭和以降のものであること、これは金閣の姿を考える上で重要な点だと思います。

この金閣、焼失前も再建版も共にバランスが良く、美しく完成された姿をしていますが、よくよく見ると、建築として不思議な点がいくつもあるのです。

この点に注目して、創建時は今と全く違う姿だった、と考察された方が、そう、あの宮上茂隆氏です。


次回、その辺りの話を。