金閣寺驚きの創建時の姿② | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

前回の続きです。
幻の光景、天鏡閣と舎利殿(今の金閣)


ひとたび目にするとその美しさが目に焼きつく金閣ですが、よく見ると日本建築として不可解な点があります。

(焼失前の金閣 )

金閣の概要をまず。

金閣は3階建てで、一階が寝殿造、二階が和様の仏堂、三階が唐様の仏堂となっています。それぞれの階で建築様式が異なることはあまりにも有名です。これを義満の思想と繋げる向きもありますが、起源は西芳寺の「瑠璃殿」にあります。瑠璃殿は一階が座禅の床、二階が仏舎利を安置した唐様の仏堂となっていました。一階は四方が蔀であったことが分かっており、住宅の上に唐様の仏堂を載せる構成は同じです。
義満は、夢窓疎石が建築作庭した西芳寺を模して北山殿を整備したこともよく知られています。


規模は1階と2階が正面5間半、側面4間の同大で、通し柱を使った一体構造です。1階と2階は1間を7尺としています。

3階は1階と2階とは別構造で、3間四方。柱間は6尺となっており1階・2階とは異なります。

ここで金閣の建築として不自然な点をまとめてみましょう。

中心が中途半端な位置に来ている
3階は全体の中心に載っていますが、正面は5間半であるため、2.75間という中途半端な場所に中心軸が通ることになり、日本建築の中では異例の設計技法となっています。

東西の屋根勾配が緩すぎる
金閣は長方形の下層に正方形の上層を重ねています。それを寄棟の腰屋根でつないでいますので、四隅の棟が大変な振れ棟となり、東西の屋根勾配と南北の屋根勾配に極端な差がついています。
明治修理前までは3階縁下の腰組は東西では屋根に埋もれる形でしたが、修理でこの腰組を復原したため、さらに大きな振れ棟となり、東西の屋根勾配はわずか25パーセントしかなく、再建金閣ではこけら葺きの下に銅板を葺いて雨漏りを防いでいます。

観音像の上に人が乗ってしまう
2階の東室には、観音像が安置されていました。これは足利家の観音信仰にちなみます。現在の姿だと、3階の縁を歩く人は観音像の上に立つことになってしまいます。


西室の中央だけ柱間が1間半
1階と2階は東室と西室に分かれています。
このうち、2階の西室は観音堂となっていますが、その中央だけ柱間が1間半となっていて、中央が強調されています。

2階の軒裏が唐様
金閣はそれぞれの階で様式が異なっていますが、和様で統一されるはずの2階の軒裏が、3階と同じ唐様になっていてアンバランスな感じを受けます。高欄の様式までそれぞれの階で変えているのに…

これらの点から、宮上茂隆氏は、3階は西室中央ライン上にあったのでは、と仮説を立てられます。

そして明治の実測図から建物の構造を見てみると…

これは梁を矢印で示したものです。
一階にはすべての柱の上に梁が通っていますが、二階では西室にしか梁が入っていないことが分かります。

東室には、西室の梁と直角方向に小梁が入っているのですが(下図緑色矢印)、これは西室の大梁の側面に平ホゾ差しになっていて、上層が載るような大きな荷重を想定したつくりではないというのです。

上層は柱盤ごとのちに移動させた、という考察をされています。

そして導かれたのが、この姿です。

模型にすると



東側の舟入玄関、また色については、次回に続きます。