金閣寺驚きの創建時の姿 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

舎利殿(現在の金閣)と天鏡閣

水面をつくって庭を整えれば完成です。

これが金閣寺の創建時の姿!

あまりにも印象が違いすぎてどこから説明を始めるか…

おなじみの金閣です。大変整った、美しい姿で日本のトレードマークのひとつとも言えるシンボリックな建物です。
(拙作 フジミ1/100金閣寺使用)

ご存知の通り、現在の金閣は昭和の再建です。

昭和25年7月2日、青年僧の放火により金閣は炎に包まれました。小説の題材にもなった金閣寺放火事件です。

焼失前の写真がこちら。
ちなみにこれは明治修理の前の姿です。

金閣は都の名所として、古くからその名を馳せました。東山の銀閣と並べて金閣、銀閣と称するようになったのは江戸時代に入ってからですが、金閣の方はかなり早いうちから金閣の名で呼ばれていたようです。

現在、金閣の名を取って「金閣寺」と呼ばれますが、これは俗称で、正式には鹿苑寺(ろくおんじ)という寺の舎利殿です。鹿苑寺は足利義満の法号、「鹿苑院」に因みます。
義満の本邸であった北山殿を、義満の死後、菩提をとむらうため寺に改めたのでした。

金閣は北山殿唯一の遺構として、昭和の焼失まで存在しました。

ここで明治以降の金閣の姿の変遷を大雑把に見てみます。

金閣は明治の修理の際、実測図がつくられています。部材の実測図まで含まれた詳細なものです。

こちらが修理前。つまり江戸時代からの姿。

修理後

修理前と修理後の違いは、

・3階の回り縁の下の腰組を復原した
・軒の反りのラインが変わっている
・軒の下りを支えるつっかえ柱を全て取り除いた。

という点が挙げられます。

そして昭和焼失後の再建金閣、つまり現在の金閣です。

基本的には明治修理の後の状態を基にしていますが、相違点があります。

・二階の東西にあった窓を無くしたこと
・一階北側の戸口を壁にしたこと
・二階まで金箔を押したこと

現在の金色まばゆい姿は、実は昭和以降のものであること、これは金閣の姿を考える上で重要な点だと思います。

この金閣、焼失前も再建版も共にバランスが良く、美しく完成された姿をしていますが、よくよく見ると、建築として不思議な点がいくつもあるのです。

この点に注目して、創建時は今と全く違う姿だった、と考察された方が、そう、あの宮上茂隆氏です。


次回、その辺りの話を。