Oriento's Online Club

 この国には、価値観の共有を広める仕掛けが少ないことは大きな政治問題です。 その問題を科学することがこの企画です。 価値観の実態については、

 1. 政治・経済・社会 と、

 2. 芸術・音楽・文学

にて、取り上げます。 そこから、価値観を分類・整理する点は、

 3. 価値観の分析

にて取り上げます。  議論に参加して下さい。

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不幸を愛する精神(その3:尼崎の電車事故より)

 この国には、一種の悪魔信仰があるのかもしれないと思う事がある。


 JR西日本は、人間関係を「ゼロサム(自分が得するには相手は損しなきゃならない)」と考えているのではないか ?
 相手(部下)に、現実離れした課題を突きつけ、緊張を強いられて不幸な顔をしている時に、上は、「オレは良くやっている。」と感ずることができるようだ。
 相手(部下)の時間管理を厳しく行い、残業を重ねてもらい、余裕の無い生活にあけくれる時にだけ、上は、「オレはBESTをつくしている。」とほっする。


 「蟹工船」にも似た世界がそこにある。


 罪な事に、業界での競争相手に対する 「戦さ」 をどう進めるかは深くは考えもせずに、「社内の締めつけを強化するしかない」と自分を納得させる(騙す)こによって自分は救われ、相手には、できそうもない事に苦しむよう監視し続ける。 

 苦しんでいる(緊張している)のを見て安心するのである。


 但し、この場合には、「最終的に目標が達成されない(周りから評価を得ない)ように、わざわざと、難題を出しているという程までの悪意があった訳ではないようだ。


 60年以上昔のことで、私の知らない時代の事だか、この国の「戦さ」 にては、「歩兵とその上官の間の人間関係」には、どうようのゼロサムの感覚があったのかもしれないと想像する。 「歩兵」は、「上官」のいう無理難題に難題に対して、「自分は捨て駒かもしれないとの不安」にかられながら自分の仕事を続けるよう教育されていた。 下層民の悲劇がそこにある。 作戦本部での連中は、歩兵に対して、時には、ほとんど「死」を意味する様な命令を下す。
 悪魔のような命令を下すのも仕事だと考えられており、自分が悪魔になることで、幸福になるやつがいるのだとほっとしていた(そこの所で思考を停止させていた)のかもしれない。

 

 この国には、「共に、幸福になろう」という言葉を発する上下関係/人間関係は滅多にない。 
 デフレ期には、そうなる要因・誘惑は山ほどあるだろう。 経済状態は良くならないのだから、どっちかが責任を取らなければならない。


 否、これもまた、私は知らない時代の事だが、前後の復興インフレ期には、例外的に、「共に幸福になることを目指す」というのが在ったのかもしれない。 (但し、それを誓うのは男同士だけだったようであり、男女の間ではまずそういう会話は無かったようだ。  悪魔信仰とまではいわなくとも、少なくとも、不幸を愛する精神がやはりあったのではないだろうか?)


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不幸を愛する精神(その2:おおばともみつ氏のジョーク集より)

 日本の電気メーカーとアメリカのメーカーが、ミズーリ川で、10年に1度、ボートレースをする事にした。

 1980年の第1回対決では、日本艇が体勝した。 

 アメリカチームはその後、強化委員会を作って敗因と今後の対策を議論した。  結論は非常にはっきりしていた。  日本艇は、漕ぎ手8人で舵取りが1人であったのに、アメリカ艇では、漕ぎ手が1人で舵取りが8人もいたのだ。

 1990年の対戦でも日本チームが勝った。

 アメリカ側は、前回の敗戦に凝りて、普通の舵取り4人、ミズーリ川をよく知っている舵取り3人、双方の連絡役1人で戦った。 漕ぎ手は、依然として1人だったけれども、筋肉強化と報酬を高くすることで対応した。  しかし、またまけた。

 

 2000年の3度目の対決に向けて、日本艇は訓練を強化した。

 毎朝5時に起床し、練習に励んだ。  夜遅くまでボートを磨き上げ、その後は、カラオケ・レストランで合唱して結束を固めた。 寿司や酒を、食べたり飲んだりしたのは、勿論である。 

 アメリカ艇は、新しく生まれ変わった。 ハイテク・パドル・システム(櫂のシステム)を作り上げた。 このシステムを取れば、漕ぎ手は1人で十分である。

 これに対して日本艇は、漕ぎ手を増やさなければいけないと考え、たった1人の舵取りまで漕ぎ手に起用した。

 その挙げ句、進むべき方角を見失って大敗した。


           出典 : おおばともみつ著、 「世界ビジネスジョーク集」 、中公新書、中央口論新社発行 
 <追記>
 漕ぎ手は、ボートレースにおけるWorker/歩兵である。 練習、ボート磨き、カラオケ、宴会と私生活を犠牲にしてまでも、チームのために尽くす。 アメリカ社会では、漕ぎ手というジョブに対する愛情が乏しいが、一方、日本では漕ぎ手という苦しい仕事を愛する。
 愛するあまり、舵取りまで漕ぎ手になれというのである。 この時点で、チームには狂気が発生している。 
 ボートレースに勝利することよりも苦しい仕事を愛することに関心が映ってしまい、また、競争相手に注目するよりもチーム内での「不幸の蔓延」を、ただただ、追求する。

 その結果としてチームは大敗する。  

不幸を愛する精神(その1:ホリエモンShockとSCN-Shock) 

 4月26日、Sonyが、So-Netを事業展開する子会社(SCN)の普通株式の株式公開を検討していくことを発表した(注)が、これは、

   ①  Yahoo Shock

   ②  ホリエモンShock

に続く、第三のショックをIT業界のみならず多くの業界に影響を与えて行くだろうが、特に、電機業界に重大な「構造転換」のヒントを与えるだろう。 (注: Sonyは、SCN社に、ライブドア、もしくは、楽天風の錬金術を期待していると言われている。)


 電機、特に、情報通信業界では、過去、事業の分割と専業化が成功の秘訣であった時代が続いた。 

 有名な案件としては、以下のような事例があるだろう。


 ・ 北米IBM社が、ハードウエア価格とは別に、ソフトウエア価格を設定・要求することを決定した。

 ・ 北米IBM社が、パソコンビジネスを独立させた。

 ・ 台湾TSMC社が、ウエファー・ファウンドリ・サービスだけを行うビジネスを開始した。

 ・ NTTが、携帯電話ビジネスを切り離した。


 一方、

 ・ ケイタイ電話の本体価格の値下げ競争が激しく、1円やら、0円での販売が始まった。(ケイタイShock)

 ・ ゲーム業界では、ゲーム機本体の価格を低く押さえ、ソフトウエア販売や、ライセンス収入にて利益を上げるビジネスモデルが成功した。

 ・ YahooBBは、ADSLモデムを無料で配り、携帯電話業界(Docomo、au、ボーダフォン)同様のモデルをADSLビジネスに用いた。 


 など、ハードウエアでは儲けない、ソフトウエア販売や、ライセンス収入、通話料収入など、消費者が気がつきづらい所で課金するビジネスが成功を納めてきている。 今後、ICカードや、TAG-IDなどでも同様の成功が予想されている。 


 とすると、「事業の統合」が成功の秘訣となる新たな時代が始まっているのかもしれない。

 

  ケイタイShockは、「HardWare部門に 儲ける必要は無い (事業が成り立つ必要は無い) と言いながら、会社全体としては 利益を上げるようなマネジメントを行う」 というような「経営力」が今後の利益の源泉となることを示唆している。


 この所の「ホリエモンShock」は、また、別の予感を業界に与えている。

 「ホリエモン・ビジネス」の個々の単位は、さほど収益性の良い事業を営んでいない。 しかしながら、彼は、「業界と素人投資家に対する情報発信力」と「時代に対するリーダーシップ」によって、個々のビジネスの株価を引き上げ、資金調達を用意に行い、そして、ビジネスを拡大している。 (この点は、本ホームページの3月27日の記事「ステージは時間軸」にて説明している。)

 つまり、極端にいうと、彼は、個々の実ビジネスと投資による虚のビジネスを統合することにより、利益を上げるというビジネス・モデルを成功させつつある。 彼のビジネスの本質的なコンピテンシーは、「業界と素人投資家に対する情報発信力」 と 「時代に対するリーダーシップ」 と 「投資ビジネス」 のシナジー効果を上げるマネジメント能力にある。

 

 そして、Sonyは、その「時代の変化」に気がつき、SCNを普通株上場させるというのである。


 この変化は、社内に沢山の「不採算事業部」を抱える今日のこの国の大企業にマネジメントの根本的な変化を要求することだろう。 

 個々の事業部の損益は、大した問題ではないのである。 (そんなもの良くなりはしない。 にも関わらず、個々の事業の損益に責任を転化している経営者のなんと多いことか。。。。。)

 

 「個々の事業ユニットの利益などはどうでも良い。  企業に利益をもたらす本質的なコンピテンシーは、個々の事業ユニット間のシナジー効果を上げるトップ経営者の能力にある。」 と言える企業だけが儲かる (生き残れる) という時代が始まっているのかもしれない。 (少なくとも大企業にては。)   

  「事業部制」は、過去に成功したスキームである。  「専業化」も、すでには過去のスキームなのだろう。  新たな「統合」の時代が始まっている可能性がある。  そこにおけるキー要素は、


  ・ 投資 (財テク) 能力

  ・ 業界に対するリーダーシップ

  ・ 企業内のスキーム変更能力

  ・ 異業種の他社との連携能力

 ・ ビジネスインテグレーション能力


となるだろう。  改めていうと、個々の事業ユニットの利益などはほとんどどうでも良いのである。  そんなことを追求するなど、責任転嫁 (企業内いじめ) でしかない。   事業間を統合することで、社会と業界に対して牽引力を示し、その能力に対する投資家の投票(投資)を受けることによって事業を拡大するというマネジメント能力こそが利益の源泉な筈なのである。  利益は、IT技術によってインテグレーション(提供)されたビジネス/サービスに対して、消費者から見えづらい料金を課して積み上げる。

  企業内でいじめを行うことにより自らの無能をひた隠しにする経営者は、モザルハザードの罪で追放されるべきである。

 

(注) http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200504/05-023/  


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根本的な不理解(その1:イデオロギー/宗教/芸術/歴史と国際主義)

 テレビで放送されたフジTV関係者へのインタビュー(「ソフトバンク・インベストメントの有名CEO」が、ライブドアとの抗争に登場したことに対して)にて;
 「日本人としての価値観を共有できる人物が登場して良かった」
との趣旨の発言があった。

 発言者が、本当に「かの有名CEO」と価値観を共有しているのかは、疑わしくはあるが、一般論からすると、「基本的な価値観」の共有というのは、夫婦・家族のレベルであれ、また、地域/国家のレベルであれ、正確なコミュニケーションを行う上で決定的に重要な「前提」であることには異論がないだろう。
 「基本的な」という点が何を意味するかは、重要なポイントだろうが、先ずは、その点を不問にして論を進める。

 「基本的な価値観」を共有できない場合、コミュニケーション上、重要な単語の一つ一つの意味にズレが生ずる。 それは、「基本的な価値観」の共有が無い事自体が、互いのポジション(上下関係)に対する誤解を生むからである。

 <フジTV/ライブドアの場合> 
 フジTVは、ライブドアよりも、ソフトバンク・インベストメントの方が近かしい価値観を持っていると理解しているとする。 
 この場合、フジTVは、ライブドアを下手(基本的な価値観がなっていない相手)に見ており、ソフトバンク・インベストメントを同格(基本的な価値観が通じる相手)と見ていると言ってよい。 「基本的な価値観」が共有できない相手に対しては、「憎しみ」もしくは「妬み」に近い感情(反感)が生ずる。 

 これは、境界が定まっていない「家」が隣り合っている状態に似る。
 定まっていないのは、互いの間の「縄張り」だけではなく、公共の「道路」や「公園」と「隣家」の境目/ルールについても共有できていない。
 「価値観」の場合には、「言葉」に一定の縄張り/境界線を与えるルールが共有できていないことになる。

 大人と子供の間では、「価値観」を共有できない場合がある。
 大人同士からなる社会でのルールと、子供社会でのルールの隔たりが大きく、両者の間で共通価値観を作る努力の数年から十数年の努力と歴史がなくては、互いの言葉は通じない。 似た日本語を話していても、互いに別のボーダー・ラインを主張してしまうのである。

 言語や民族を越えて「価値観」の共有を得るために、歴史上、イデオロギーや宗教、芸術、そして、アカデミズムが開発されてきた。 イデオロギーや宗教、芸術、アカデミズムは、国際主義を目指した挑戦であった。 それらの挑戦が失敗した場合には、言語もしくは民族の面で共通のグループに属することに頼るしかないのかもしれない。

 日本は、イデオロギーにも、宗教にも、言語にも、民族にも頼らずに、他国とコミュニケーションを計ろうとしているかに見えるが、そんなことは可能なのだろうか? (ホリエモンを外国人になぞらえるには、「コミュニケーションの取れない相手だ」という意味にてそういうのだろうか?) 

 わざわざ、逆説的に言う必要はない。 イデオロギーや、宗教、芸術、もしくは、アカデミズムに対する他国を凌駕する貢献・自己主張なくしては、国際主義を標榜する事は不可能と知るべきである。 日本が唯一頼れるのは、先進国間にて、20世紀(前半)という不幸な「歴史」を共有している点だけだろうか? では、その「歴史」の正体を暴かなくてはいけない。 ここで言うのは、中国や韓国がいう「局所的な片面の歴史」などではなく、本物の歴史のことである。 
 ヨーロッパ、ロシアと、東南アジア、中近東には、共有できる歴史観があるかもしれない。 但し、それは、文章、そして、セオリーにされなくてはならない。 

 では、「価値観」のどういう部分が「基本的」と言えるんだろうか?
 
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根本的な不理解(その2:国際主義vs共生)

 「国際主義」とは、本質的に、「価値観の統一」を指向する。

 「共生」なる造語は、「多極主義」を意味しうるが、そもそも、「価値観の不統一」を目指すポリティックスなどありうるのだろうか?

 地政学的には、世界は、複数のハートランドからなる「多極社会」で有り続けるのかもしれないが、「価値観の不統一」を放置して、ハートランド内外のコミュニケーションなどあり得るのだろうか?

 ・ハートランド内には、共通のハートが必要。 ハートランド間にても、共通のハートが必要。
  (両者の「共通」のレベルは、多少、違うのかもしれないが。 これは、なにが「基本的」か? という問題。)
 ・ポリティックスはその本性からして統一を目指す。

 ヨーロッパの歴史がこの仮説を実証している。
 とすると、ハートランドは、分裂したままでは済まない。

 この国はどのような未来(世界統一)を目指すのだろうか?
 (これも、また、なにが「基本的」か? という問題。)

 「不心得者」は「勝ち馬に載りたい」などというかもしれないが、「勝ち馬」が「不心得者」を背中に載せて走るなどという表現が慣用句として存在しているという事態が、他者とのコミュニケーションを阻害している。
 自分が走るしかないのである。 そこに、根本的な不理解がある。

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