根本的な不理解(その1:イデオロギー/宗教/芸術/歴史と国際主義)
テレビで放送されたフジTV関係者へのインタビュー(「ソフトバンク・インベストメントの有名CEO」が、ライブドアとの抗争に登場したことに対して)にて;
「日本人としての価値観を共有できる人物が登場して良かった」
との趣旨の発言があった。
発言者が、本当に「かの有名CEO」と価値観を共有しているのかは、疑わしくはあるが、一般論からすると、「基本的な価値観」の共有というのは、夫婦・家族のレベルであれ、また、地域/国家のレベルであれ、正確なコミュニケーションを行う上で決定的に重要な「前提」であることには異論がないだろう。
「基本的な」という点が何を意味するかは、重要なポイントだろうが、先ずは、その点を不問にして論を進める。
「基本的な価値観」を共有できない場合、コミュニケーション上、重要な単語の一つ一つの意味にズレが生ずる。 それは、「基本的な価値観」の共有が無い事自体が、互いのポジション(上下関係)に対する誤解を生むからである。
<フジTV/ライブドアの場合>
フジTVは、ライブドアよりも、ソフトバンク・インベストメントの方が近かしい価値観を持っていると理解しているとする。
この場合、フジTVは、ライブドアを下手(基本的な価値観がなっていない相手)に見ており、ソフトバンク・インベストメントを同格(基本的な価値観が通じる相手)と見ていると言ってよい。 「基本的な価値観」が共有できない相手に対しては、「憎しみ」もしくは「妬み」に近い感情(反感)が生ずる。
これは、境界が定まっていない「家」が隣り合っている状態に似る。
定まっていないのは、互いの間の「縄張り」だけではなく、公共の「道路」や「公園」と「隣家」の境目/ルールについても共有できていない。
「価値観」の場合には、「言葉」に一定の縄張り/境界線を与えるルールが共有できていないことになる。
大人と子供の間では、「価値観」を共有できない場合がある。
大人同士からなる社会でのルールと、子供社会でのルールの隔たりが大きく、両者の間で共通価値観を作る努力の数年から十数年の努力と歴史がなくては、互いの言葉は通じない。 似た日本語を話していても、互いに別のボーダー・ラインを主張してしまうのである。
言語や民族を越えて「価値観」の共有を得るために、歴史上、イデオロギーや宗教、芸術、そして、アカデミズムが開発されてきた。 イデオロギーや宗教、芸術、アカデミズムは、国際主義を目指した挑戦であった。 それらの挑戦が失敗した場合には、言語もしくは民族の面で共通のグループに属することに頼るしかないのかもしれない。
日本は、イデオロギーにも、宗教にも、言語にも、民族にも頼らずに、他国とコミュニケーションを計ろうとしているかに見えるが、そんなことは可能なのだろうか? (ホリエモンを外国人になぞらえるには、「コミュニケーションの取れない相手だ」という意味にてそういうのだろうか?)
わざわざ、逆説的に言う必要はない。 イデオロギーや、宗教、芸術、もしくは、アカデミズムに対する他国を凌駕する貢献・自己主張なくしては、国際主義を標榜する事は不可能と知るべきである。 日本が唯一頼れるのは、先進国間にて、20世紀(前半)という不幸な「歴史」を共有している点だけだろうか? では、その「歴史」の正体を暴かなくてはいけない。 ここで言うのは、中国や韓国がいう「局所的な片面の歴史」などではなく、本物の歴史のことである。
ヨーロッパ、ロシアと、東南アジア、中近東には、共有できる歴史観があるかもしれない。 但し、それは、文章、そして、セオリーにされなくてはならない。
では、「価値観」のどういう部分が「基本的」と言えるんだろうか?
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