ある衝動のもと、突発的に漬けられた梅酒が、時間軸に左右されず生成された。スピリタスで飾られた土星のような軽い梅星が、金星のように比重を上げ、アルコールの池に沈みこむ。

それが出来たという合図なのか、完成された所作なのか、私には理解できない。ただ三ヶ月、面を合わせるかのように、一日も差をおかず最後の一個が沈み込んだのだ。

そもそも完成されたなどとはおこがましい、人の驕りに過ぎないのかもしれない。人は何かを造りだす過程の最終章で、完成されたという表現を使う。美しい風景や脅威的な自然、天才的な芸術や、愚才な建物、その他もろもろ一切合切に対して、その制作者の無為や有為に関係なく、完成されたものと捉える。

レオナルドがモナリザに後何回筆を付け加えようが、黄金率に彩られた、平衡感覚が旺盛な自然が、その外殻に意図しない誘惑を奏でようが、関係なく、完成されたものとして捉えるのだ。

ゆえに私はこの梅酒を、観念的には完成されたものとして愛でていきたいと思う。そして、この不文律的な観念の萌芽を、梅酒とともに放置していきたい。そこには物質的なものと精神的なものとの協和音が聞こえてくる
。是非に及ばず!と言ったところか
濁酒の生成の三年前、中学三年の時分、時節は高校受験を迎えた大晦日、我が悪友は我が親友で、悪友は鏡像で親友は偶像でもあった。彼は真っ直ぐ成長した悪ガキで、小学六年には百七十センチはあり、親の都合上二人で銭湯通いしていて、彼の中では(特に下)大人の兆候を存分に発揮していたが、中学三年になると、私は彼より十センチは空間ベクトルが広がっていた。

二人で新年の合格祈願のお参りに行く事になり、大晦日は適当に日本酒を飲み、ほろ酔いと友情を確認しつつ、盛岡のどっかの神社に、どうにかして辿り着き、なぜか人が群がっており、四列の陣形で整然と時間だけは刻んでいたのです。

左から、私がいて、彼がいて、その横に二十位の女の人が二人いて、この運命の黒い瞳と、日本酒の白々しい酔いと、私の信心が相俟って、事件は突発的に計画して起きた。

私の不浄なる右手は、私の意に即して、彼の腰を遥かに越し、彼の魅惑の右隣の美人?のお尻に到達していたのです。

彼女の感情は私を指名する事はなかった。彼女は彼を罵倒した。彼は誠実に呆然としているのが精一杯だったのです。私の単独の計画と実行と推論と結論が一致した瞬間、彼は私の高校受験は失敗する事を確信したらしい。勿論私は笑いながら謝り、酔いの逞しさに感服していたのだけれども。

愛すべき彼は意中の高校を落ち、泥酔した私は受かり、あのお参りの真の意味とは、人の集まるところに神様はいないということではないのだろうか。



飲みはじめ三日前、麹がかなり消化され、泡が神々しく立ち昇り、その液体は飲んでもいいよと囁き(泡の弾ける音)飲めない私は退屈凌ぎでビールを飲んだ。

一週間前、仕込みのまんまさして変化なし。酵母には確かスーパーで買ったイースト菌を使ったが、呼吸にも似た泡が、ぽつりぽつりと、至福の歩腹を始めていた。

その数時間前、米麹、水、酵母、米も買ったかは不明。まず米を透明感が出てくるまで蒸し、追記するなら、色白の餅肌になっていて、美味しく頂けた。

餅肌と戯れた童貞な私は、なにもかもその対極にあたる麹と出会わせ、水を入れ菌を一つまみ入れた、掻き混ぜて仕込み終了。

時間的概念の魔法の扉の向こうには、追憶の嵐が吹きすさぶ。酵母の集団のお陰で麹と蒸米は、発熱し分解され、アルコールが徐々に存在感を増し、圧倒的な母集団に環境は支配される。

造り始めて一週間(夏)から三日位が飲み応えがあり、その後は酒から酢へ、物質的変貌を遂げていきます。そして私もまた色々と、精神的変化を遂げ、環境を従属するエネルギーを蓄えていきました。とさ

私は自然が幸福でも不幸でもないように、幸福でも不幸でもない。快活でも憂鬱でもない。振る舞いが自然ならば、その密度は偏らない。
私は極自然に日本酒を造ることになる。
高校二年の頃である。

逆の時間ベクトルで生成の過程と、酔いの源流を配列してみる。

飲み始めて五日目、まず酸が強い、アルコール度数も上がってるようだ。流石に友達も辟易していた。私だけが愛おしむ。

三日目、ジャスト! これぞ我が炎、我が魂、我が隠し子。非凡な作品と平凡な日々の狭間が心地いい。甘味と程よい酸味。バランスなのか、その奥にあるスタンスなのか、スタイルは淑女的なのに、タイトルは中性的な黄色のリボンをつけた少年だ。なにが友達だという類いの人にもやや評判だった。

このさもしい経験は後に、大輪の花を咲かす。銀座で、手作りのどぶろくとして提供していたのだから。しかしその考えがなおの事さもしいものだが。

飲み始め。期待と不安と追跡と忌々しさと陰気な愛撫。創造主の苦悩と歓喜。まだわざとらしい旨味に焦点を絞れない。舞い上がる泡が愛しい。隠し子の生き様は巻雲のようだ。(続く)
精神の痛みが肉体へ転嫁したのか、歪曲した肉体の自傷行為なのか、潜在意識下の成就なのか、必然ならば産物は偶然ではない。無意味に無理矢理意味を探る。

それにしても肉体に移行した痛みは心地よく、精神を癒してくれる。次の日、分を弁えない私は、太陽が支配権を握る地平において、私と対峙する愛すべき方々に、妙な自爆の様相と、本日の禁酒を宣いながら、太陽がいつもの大事な役目を終えると、私の欲望の鎌首が擡げ、魅惑の日本酒に唇を合わせた。

登山と私の飲酒は酷似している。怪我を負った四十男には三合目は登れないのだ。耳さえ紫色に染まっていなかったら、耳さえ酒で発熱しなかったら、この日もいつもの渓谷までは辿り着けただろう。

とぼとぼと氷で耳を冷やしながら、二合目付近のつまらない景観を後にし、夜の帳が下りていく。
一つとして 「世に一つとして同じ酒はない」という言葉もない、と夢の愚を静かに思う。
酒づくりの必須な状態、確かに時代的背景も伴うが、「世に一つとして同じ酒はない」という、なんとも曖昧を含んだ真実に、私は目覚めて夢の愚を笑う。

三日前、果たして杞憂の器の空の部分には、私の戦の記念碑は魑魅の掌にあったのだろう。

秋田の芸術的な美しく綺麗な純米吟醸で覚醒された自身が、疎ましく醜い自身を自身が認識した時にそれは必然的に起こった。

丑三つ時、朦朧たる病んだ精神状態で片手に携帯、もう一つの反対側の手の平は自転車のハンドル、速度は遅すぎず、闇の中、車道を蹂躙無尽に走る私、中央車線付近で何故か横転、アスファルトからの殴打、脳震盪、闇のサラリーマンの大丈夫ですかという送信、大丈夫という反射的な私の返信、エラー、動けない身体、3メートル先のおもちゃのような携帯、走り去るはずの止まった車。

なんとか歩道まで自転車を従え這う、携帯を受け取る、電池は携帯に容れられない、脳の視覚野のせいで電池が膨らんでいた、苦笑して携帯と格闘、光のサラリーマンはいない、視覚野が治り、携帯は元に戻った。続く(笑)
日本酒に対する情熱の生成は、ご飯を追放した青年帰の(敢えて)無力にして合理性に位置付けられた粉飾決算の、内服の不合理に位置付けられる。

意識とは意識された存在以外の何物でも有り得ない。ある情熱はある情熱を追放する。しかし形態がどうであれ、地球の外に追われる情熱は存在しない。

例えば月の世界に住むことは、人の空想とはなりうるが、欲望にはなりえない。空を自由に扱うことを夢想しても、深海で呼吸する魔術の解析には
欲情すらしない。

なんらかの境界線が、彼岸が、対岸なのか、溌剌たる感受性の運動なのか、舟が波に掬われるように、私の嗜好の印象も三角関数のグラフのように浚われてしまう。

鎧というものは安全ではあろうが、とかく重いものであることは容易に想像できるが、人が危険を晒して鎧を脱ぎ去る選択と、若さで鎧を身に纏う逆説的彫塑の出現を、意匠できない今宵の満たされた月と、私の積極的陶酔の身体が、建設的であるか頽廃的であるか、だけが焦燥の夢を持とうと、緩慢に夢みようとしても、私の心臓は早くも遅くも鼓動しない。

時を味方に持つことが可能ならば、心を平静に保つこともまた可能なのではないか。平静な心の装いは、時を引き付ける。

解決の請求を余儀なくされると、人は焦り平静ではいられなくなる。時すら足りないと感じてしまう。その不足分を補うことは意思の決定力なのだが、それには平静な心が不可欠なのだ。ここに精神の尊さが潜む。瀞瀧(せいろう)将棋の羽生さんが好きな言葉だが漢字は不確か(笑)

「瀞瀧」 この漢字をよく見ると確かではないかという気がしてくる。水の中で龍が静かに彷徨する姿。

雲が雨を作り、雨が雲を作るように、環境は人を作り、人は環境を作る。
単純な真理は美しいが、この弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、時を味方に持つ人は可能な限り幸いである。

日本酒の持つ主調低音を聞くと、私の眩暈の騒然たる夢は去り、瀞瀧たる血の調べを擁して、その漠然とした形而上的断片を、不思議な角度から産み落とす。断片はもはや断片ではなくなり、拡大され縮小され、夢の中を彷徨する平静な一人となる。
ここ一ヶ月超、私の潜在意識の願望なのか、アルコールが堪えず私自身に忍び込む視線なのか、とかくこの二点間において、付随する禁忌の意識において、蚊が生死をかけ、底知れぬ技量で、次世代の愚かな蚊を生み出す為に吸血するかのように、私もまた昼間から日本酒を浴びた。

日本酒が私にとって持つ魅力というものは、汚れがなく若くて禁じられた、麹の美しさが透明だからではなく、与えられた小さなものと、約束された大きなものとの差を、どこまでも続く落日に、その信頼が埋める状況の鉄壁さにあると言っても構わないだろう。

この酔いの戯れの、量的な部分部分の質的な総和を、私と、共にある夢の崇拝者達の潜望鏡は、確かにイヴが肋骨である事を発見し、大はしゃぎするのです。

「喉仏滝」とはいかにも幽遠であり、イメージの産物としては適切かつ秀逸なネーミングをつけたものだと、一人感極まり、こうしてカッコというファーストクラスを寄与してしまった。

喉仏を叩きつける黄金の麦は、ほんの数秒芳しく
次に息苦しく、一秒鼻から肺に空気を送り、更に数秒苦々しく、鼻からの呼吸は繁茂になり、脈動が速まり、道半ばで鼻が優しく泡に侵され、リズミカルな鼓動と、ビール入場のテンポが一致した所が歓喜の港だ。

美味しいビールは息を止め一気に飲み干すと、これはいつもそうだが、息苦しさのあとに鼻から、まさに、馥郁たる薫りのようなものを感じる。ニリットルのピッチャーの最後も確かに感じた。

その後私は、事ある事、ピッチャーの一気飲みを三十路の風を聞くまで続け、二回程オカワリまでした。エセゲルマン人の私の若気の至りではあるが、今後死ぬ直前まではしないだろうと今思っている。だけではあるが、新しい挑戦を近々してみたいとも思っている。

ハイボールで!。