江戸時代の初頭は、各藩の主君の権威と権力は絶大なものであり、意思決定は主君が行っていたと言われています。家老など家臣たちは、諫言(かんげん)することによってのみ主君の命令の変更や再考を請願していました。

 

おそらく多くの方が、このような江戸時代のイメージを持っているのではないでしょうか。以前の私は、主君の言ったことは絶対で、諫言することさえもできないと思っていました。

 

その後に藩の政治体制が確立していくと、家老が政治を取り仕切るようになり、家老たちの合議によって政務を処理するようになっていきました。特に重要な事項に関しては、主君の裁決を仰ぐか、主君を交えた御前会議によって決定を行っていました。

 

更に主君の政治関与が小さくなっていくような藩政を行っていたところもあったようです。そして、藩の意思決定方式は、合議制が基本となっていきました。その合議の範囲は、家臣や重臣だけでなく、それより下位の役人にまで拡大されていました。

 

下位の役人にまで合議の範囲が拡大されたのには、必然的な理由がありました。複雑化・専門家した行政問題については、行政の実務に携わる役人の判断や見解に依存しなければならなかったので、行政の実務役人の見解が決定に大きな影響を与えていました。

 

実務役人が意思決定に関与する形態として「諮問-答申型」がありました。ある専門の実務的知識が必要な問題については、家老が担当の役人に諮問して、その答申に基づいて処理をするという形をとっていました。

 

 

また、実務役人が意思決定に参画する形態として稟議制もありました。


実務を処理していく上で、それを担当している末端の役人の一存では決裁ができないことが発生することも出てきます。実務役人だけで決裁ができない場合は、支配系統を順番に上って指図を仰いでいく稟議型の意思決定方式をとっていました。


単に指図を仰ぐのではなく、下位役人側で問題の処置についての判断を具体的に示し、その了承を求める形になっていました。上申を受けた上位の役人は、その内容を了承すればそのままの内容で上申し、疑義を感じれば修正した内容で上申するか、下位の役人に再考を促して再提出を求めるという形で修正して上申していました。

 

このような稟議型の意思決定は、幕府の官僚制でもよく見られたものでした。この稟議制の特徴は、末端の役人にまで意思決定への参画を求めていたということにあります。つまり、ボトムアップ型の意思決定方式ということになります。

 

江戸時代の官僚制は縦型組織でしたが、役職が上位のものから命令や指示を一方的に伝えるような上意下達(じょういかたつ)ではなく、組織末端の役人の意向を順次汲み上げていくような特性を持っていたようです。

 

日本の稟議制については、外国から批難されることがよくあります。特に欧米社会ではトップダウンで物事を決定するため、彼らからすると意思決定に時間がかかり過ぎると感じるようです。一方で、稟議制というのは、現場の人間に大きな役割を持たせるだけでなく彼らの判断を尊重するという仕組みでもあります。これは、日本社会が欧米社会よりも現場の人間の主体性と自立性を尊重しているとともに、現場に優秀な人材がいることを証明しているのだと思います。

 

そのような組織のあり方は江戸時代から受け継がれているものであり、現場に優秀な人材がいるというのも江戸時代から続く日本の組織の特徴ではないでしょうか。


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