江戸時代の年貢は、現在の税金にあたります。土地の広さや地味、日当たり、灌漑効率などについて田畑を調べ、そこでの収量を計算して決めていました。収量の調査は検地と言われ、歴史教科書にも載っていますので知っている人も多いかと思います。収量の4060%が年貢として納められていたようで、米ではなく通貨で納めることもできました。また、米の収穫量は天候に左右されますので、豊作の年もあれば凶作の年もあります。毎年一定というわけではなく、作柄に応じて年貢として納める割合を加減することもありました。

 

江戸時代に検地は頻繁に行われていたのではなく、主に江戸時代初期に実施され、最後に行われた全国統一検地は5代将軍徳川綱吉の政権下(16801709年)で実施された元禄検地です。大名領や天領で部分的に検地が行われることがありましたが、検地を実施したのはかなり少なかったようです。 

 

年貢として納める割合は、大名が一方的に決めていたのではありませんでした。年貢を決めるときには、農民は村の代表者を通じて、年貢を決めるときの協議や決定に参加する権利を持っていました。冷害、台風、病虫害、火山の噴火などにより不作が続いたときは、農民側の主張が通らないこともあったようです。そのようなときには農民は自分たちが食べる分を確保できなかったのですが、それ以上に町人たちは危機的な状況にあったので、年貢を取り立てることはしょうがないことでした。

 

また、全ての農地について年貢を取っていたのではありません。干拓や開墾などをした新田については、一定の期間(815年くらい)は年貢の対象にはなりませんでした。これにより、農民には新たな農地を得ようという意欲が高まり、全国で新たな農地が開拓されていきました。 

 

農民たちは、農業技術を向上させることによって農作物の収穫量を増やし、生産性が上がっていきました。綿、菜種、紅花など付加価値の高い作物を栽培したり、酒や味噌などを生産したりすることによっても、農民の収入は増えていきました。また、治水工事などの日雇い労働などの収入があり、地方のあちこちに手工業の工場ができてそこで働く農民も数多くいました。農業生産以外の収入はどんどん増えていき、農業以上の収入を得ていた農民も少なくなかったようです。

 

農地が広がり農業技術の向上で生産性も上がっていきましたが、江戸時代中期からは検地がほとんど実施されなかったので年貢の額はほとんど変わりませんでした。その結果、江戸末期には実質的な年貢率は1020%にまで下がっていたようです。


(日本人が知らない江戸時代)
○日本人が知らない江戸時代  
○大規模な治水工事が江戸時代に行われていた
○都市が発達し街道が整備された江戸時代
○江戸時代は法治社会だった

○江戸時代に整備された上水道


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