THOUSAND WINDS -203ページ目

答え出ませんけど

ハイデガーもいるな(忘れてた)。
池田晶子さんの本かつてかなり所持していたのを処分してしまい今3冊だけしかない。
今日最近に近い本を図書館で借りて来て読んでいた所。
2年前に逝去されてからしばらく、遺稿が小出しに出版されている。
未公開原稿の一部を今目の当たりにしている。
内容は個人でも様々であって
これが池田理論だみたいなものはなかなか見えない。
別にそんなことどうでも良くて
専門家はどうしても「分類」したがるから、
シュタイナーの思想に似てたとか解きたがる。
中のメッセージだけ確かに受け止めれば、いちいちわくにはめなくて結構。
その中でやはり意識するのは自分で問いを見つけ自分で考える

既製品の哲学に頼らずに自分の頭だけ使って考える。
人の意見をうのみにせずに考える。
正解なんざ誰にも出ないそれは分かってても、
自分だけの結論を出してみる。
専門家にすればそんな哲学を修めた事のない者の、
哲学ごっこなんざ、
何の価値も無いみたいに言うに違いない。
確かに他の人にとってほとんど意味がないかも、でも考えた本人にしたらとてもそれは意味がある。
むしろ
キリスト教について
哲学と同じかそれ以上に
自分で疑問を持ち自分で解決しようともがき
人の意見に振り回されずに
取り合えず自分の信仰を持つと
言う事が大切なんじゃないか
あまりにそれぞれの教派ごとに
教わった教義に自分をはめこもうと
し過ぎるように見えるのですが。

哲学を学んだとして

大学とかで哲学を学んだりと言うのを知らないから
勝手な事を書くかも知れない。
まず哲学における西洋史みたいなのを学ぶ。
哲学の始まり、古代ギリシャ哲学と来て、スコラ哲学や
キリスト教の神学による哲学となって、
近代に来てカントやデカルト、ヘーゲルと来て、
ニーチェとかショーペンハウアー、キェルケゴールとか、
さらに時代が進んでウィトゲンシュタインやらデリダやら色々。
それぞれの人の思想の内容を学び、まあそれについての感想とかも考えるんだろうと、
世界史の授業+αみたいなかんじだろうか。
確かにこれだけじゃただの暗記ものなんだが、
感想からさらに進んでそれらの哲学の思想を元にして、
現在の何か出来事とか風潮を分析してみるやら、
何か質疑応答やらとして
何が言いたいかと言うと
哲学者の論じた内容を理解し
それを利用出来るようにするみたいな事が
哲学の学びなんでしょうか。
同じ事は神学にも言える。
神学館の学園祭なるものに行って、中で勉学に励む彼らのプライベートな部屋をのぞかせていただいて
気付いたのは
やたらと一般人よりも沢山の
キリスト教の本が揃えられているけど、
恐らく卒業までにはそれらは間違いなく
完読されるのでしょうが、
私はそれでおしまい?て思う。
当然教会での実習もあるし、
信者さんとの交わりとかで得られる経験もありましょうが
言いたいのはいつ霊的な修行と言うか
修練、それはきっと毎日のお祈りの中とかで培われるものだと思うのですが、
どこか知識いっぺんとうな
牧師さんになってもらいたくなくて、
はたで司式を補佐するにしても
何か形式的に聖体を動かしてるだけ
みたいには
なって欲しくない。
うまく書けないけど

あせるな

バチカン・エクソシストの本を2時間で読み終えた。
解離性障害と言う訳の分からんものが載っていた。
つまり本人に自覚がない事を無意識のうちに行ってしまう病気みたいな事が書かれていた。
それとエクソシストの現場で、どうしても催眠術のような状況に陥る事は避けられないとも書いてあった。
悪魔払いの司祭が催眠術をかける?
そう言ったものでなくても患者の方が司祭の言葉などから
自己暗示にかかってしまい、
過去の事例である類似的な
つまり人から聞いた悪魔つきの症状を
自分にも起こっていると信じ込んでしまうあまりに
同じようなふるまいを行ってしまうとか。
医学的な見地から見てしまうと
悪魔憑きは精神病の一種であり、
的確な薬の服用とカウンセリングで治ってしまう
みたいに書かれていた。
まあそれ事態がこの本の主旨でない事は明らかであるが。
私みたいにリベラルでありながら霊の存在を信じる物にしてみれば、
うさんくさい話ではある。
悪魔がよりこうかつで、
治ったように見せかけたり、
解離性障害のようにふるまったりする事で、
悪魔払いを回避しようとする事は
十分あり得るからである。
またもっと気がかりなのは
これらの事例が大抵の場合
本人に自覚がある場合でしかなく、
本人にも自覚がなくて、
周りも感知出来ないような
悪魔による干渉があったとしても
専門家はどうしようもない事。
むしろそうした事が多いのではないか。
(タイトルって何?)

たとえばこんなこと

宗教的な正しさについては
私たちは判断出来る基準を持たない。
だからどの宗教が正しいのか
どこの宗派、どこの教派が正しいのかは
誰にも判断が出来ない。
世間一般的にカルトと称するキリスト教らしからぬ新興宗教と
昔ながらの在来宗教と呼ばれるキリスト教とでの
部外者からの評価はさほど違いがない。
よく仏教を信じていた人が
キリスト教に改宗したり
逆にキリスト教を信じていた人が
仏教に改宗して、それぞれの
受け入れ先の人間にしてみたら
自分たちの正しさが証明されたかのような
錯覚を引き起こす。
でもどちらの宗教の方がより正しいとか
どちらの宗教の方が「お得」か
みたいな比較は全く意味をなさない。
今何の宗教も信じてなくてそのまま死を迎える人、
日本じゃほぼ大半を占めるはず、
ただ親戚の墓が○○宗だからと言って、
その人がそれの信者とは限らない。
キリスト教的には洗礼を受けなかった者は救われないみたいな
考え方もいまだに残っている。
この洗礼の解釈にしろ、教派で扱いが異なるのだから、
救いの保証と見なすのは
それぞれの思い込みでしかあり得ない。
よくキリスト教に改心して入会したりすると
真理に目覚めたとか悟ったとか
神に選ばれたみたいな解釈をしたがるが
むしろキリスト教を選ばなくても
人として立派な生き方をしたような
過去の偉人は沢山いる。
キリスト教の信者じゃなかったから、
彼らは救われないのだろうか。
たとえ信者じゃなくても、キリスト教的にかなった生き方をすれば、
死後救われるみたいな解釈にゆるめた所で
当のキリスト教が必ず正しいと言う思い込みから発生するそれは
一般的と言えない。
キリスト教が正しいか正しくないか
信じるに値するかしないか
それは当人次第でしかなく
私にはそれを強要する事も出来ず
ただ色々なネタを提供する事しか出来ない

ペトロの否認じゃないけどさ

「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」
最近よくキリスト教関係のぐるっぽに関わり、
色んなクリスチャンの人のコメントやそれぞれのブログを拝見させてもらうけど、
よく分からないのが多い。
多分に私の知識と信仰の至らなさが原因なんだか、
クリスチャンじゃない人からは
「ハア?」てなるのは必須、
でもそれ前提で書かれてるからいいのか。
お互いに同じ教派同士で理解し合える暗号のような、専門用語もある。
クリスチャン同士なら特に解説しなくても、ツーカーとなるみたいな単語もあるみたい。
私はそんなの知らない、分からないと思うようなのも、
限定された人に分かれば済むみたいな前提あるから、
分からない人を考慮する事もない。
仏教の唯識もかなり難解で、今回ようやくまだかみ砕かれた入門書で、
何のこっちゃ輪郭はつかめたのだが、
日本人はどちらかと言うと仏教徒と答える人が多いらしいが、
果たして何人この唯識分かってるだろうか。
別に唯識に限らず、自分の宗派のお経の意味、ちゃんと理解して唱えてるか。
さすがにお坊さんなら大丈夫だと思ってるわけだが、
ただお経唱えるだけの坊さん、いないとも限らないしな。
まあそれは牧師さまにも言える事であって。