たとえばこんなこと
宗教的な正しさについては
私たちは判断出来る基準を持たない。
だからどの宗教が正しいのか
どこの宗派、どこの教派が正しいのかは
誰にも判断が出来ない。
世間一般的にカルトと称するキリスト教らしからぬ新興宗教と
昔ながらの在来宗教と呼ばれるキリスト教とでの
部外者からの評価はさほど違いがない。
よく仏教を信じていた人が
キリスト教に改宗したり
逆にキリスト教を信じていた人が
仏教に改宗して、それぞれの
受け入れ先の人間にしてみたら
自分たちの正しさが証明されたかのような
錯覚を引き起こす。
でもどちらの宗教の方がより正しいとか
どちらの宗教の方が「お得」か
みたいな比較は全く意味をなさない。
今何の宗教も信じてなくてそのまま死を迎える人、
日本じゃほぼ大半を占めるはず、
ただ親戚の墓が○○宗だからと言って、
その人がそれの信者とは限らない。
キリスト教的には洗礼を受けなかった者は救われないみたいな
考え方もいまだに残っている。
この洗礼の解釈にしろ、教派で扱いが異なるのだから、
救いの保証と見なすのは
それぞれの思い込みでしかあり得ない。
よくキリスト教に改心して入会したりすると
真理に目覚めたとか悟ったとか
神に選ばれたみたいな解釈をしたがるが
むしろキリスト教を選ばなくても
人として立派な生き方をしたような
過去の偉人は沢山いる。
キリスト教の信者じゃなかったから、
彼らは救われないのだろうか。
たとえ信者じゃなくても、キリスト教的にかなった生き方をすれば、
死後救われるみたいな解釈にゆるめた所で
当のキリスト教が必ず正しいと言う思い込みから発生するそれは
一般的と言えない。
キリスト教が正しいか正しくないか
信じるに値するかしないか
それは当人次第でしかなく
私にはそれを強要する事も出来ず
ただ色々なネタを提供する事しか出来ない
私たちは判断出来る基準を持たない。
だからどの宗教が正しいのか
どこの宗派、どこの教派が正しいのかは
誰にも判断が出来ない。
世間一般的にカルトと称するキリスト教らしからぬ新興宗教と
昔ながらの在来宗教と呼ばれるキリスト教とでの
部外者からの評価はさほど違いがない。
よく仏教を信じていた人が
キリスト教に改宗したり
逆にキリスト教を信じていた人が
仏教に改宗して、それぞれの
受け入れ先の人間にしてみたら
自分たちの正しさが証明されたかのような
錯覚を引き起こす。
でもどちらの宗教の方がより正しいとか
どちらの宗教の方が「お得」か
みたいな比較は全く意味をなさない。
今何の宗教も信じてなくてそのまま死を迎える人、
日本じゃほぼ大半を占めるはず、
ただ親戚の墓が○○宗だからと言って、
その人がそれの信者とは限らない。
キリスト教的には洗礼を受けなかった者は救われないみたいな
考え方もいまだに残っている。
この洗礼の解釈にしろ、教派で扱いが異なるのだから、
救いの保証と見なすのは
それぞれの思い込みでしかあり得ない。
よくキリスト教に改心して入会したりすると
真理に目覚めたとか悟ったとか
神に選ばれたみたいな解釈をしたがるが
むしろキリスト教を選ばなくても
人として立派な生き方をしたような
過去の偉人は沢山いる。
キリスト教の信者じゃなかったから、
彼らは救われないのだろうか。
たとえ信者じゃなくても、キリスト教的にかなった生き方をすれば、
死後救われるみたいな解釈にゆるめた所で
当のキリスト教が必ず正しいと言う思い込みから発生するそれは
一般的と言えない。
キリスト教が正しいか正しくないか
信じるに値するかしないか
それは当人次第でしかなく
私にはそれを強要する事も出来ず
ただ色々なネタを提供する事しか出来ない