THOUSAND WINDS -190ページ目

子供の祝福の礼拝

万事何事もなく明日を迎えられれば何ヵ月かぶりのサーバー、
しかも子供の祝福のイベントあり。
前をかすめ通り過ぎて行くだけの某有名な神社どころじゃ、
こないだまで七五三やってました、あれの教会版だろ。
神社あたりじゃ宮司さんと他に巫女さんの熊会わせもとい組み合わせですか(打ち間違えたけど面白いからそのままにした)

教会じゃむさいおっさんサーバーとスリムな司祭さまのペア、
子供泣きわめきそうだ。
(かつてサンタに化けた際に阿鼻叫喚な経験あり)
でも一応宗教団体、ちょくちょくその事実を忘れる、ちゃんと七五三に行けないお子さんの救済策も売ってるんだねえ。もとい、いやこれでいいのか、他意はないですから、いや献金とか、いやいや・・・
(すみませんm(_ _)m)

(また)作りました


いわゆる占い部屋です、ええ。
自分の小部屋で勝手に自分で占ってます。
お客さんは考慮していません。
あとつまらない占い情報とか毎度のブログで書いてるような
よた話を載せて
二ヶ月で沈没させる予定、ええ。
何か人のブログもきゅうくつで
もっと自由に言いたい事書きたいのに
それで作りました。
占いと言う限定されたテーマですが、一般公開します。
さながら街中で誰もお客さんが来ず、暇をもて余している辻占いのおっちゃんですよ、ええ。
一応紹介だけ、これ一体何やねんと言う疑い持たれんように。
当面私はルーン占いで始めまし

誰もが仏になってどうする

誰彼もがただ仏になる事を目指して、今生を捨てて一生修行に励んで逝ってしまうのか。
そもそも仏になってどうする。
仏教で言う仏は恐らくはキリスト教で言う所の神、
浄土と言う世界の創造主の事だろうから、
誰彼もがそんな神みたいな者にならなければならないのか。
スピリチュアルな考え方では、我々は元々神であり、ただ生まれて来る際にその事を忘れてしまってるとか。
だから悟りはその事を思い出す事であり、他からあえて学ぶ必要はないとか。
神でもないのに何か神みたいに拝み崇められても、迷惑なんだが、おっとと。
そんなに仏とかになりたいか。
それと誰でも仏になれるなどと言うのは、何かおこがましくないだろうか。
空想話の伝承ではあの堕天使ルシファーも、神になろうとしたとされているが、
そのお話自体が、人間の「神になりたい」願望の裏返しじゃないのか。
天使たる物が果たして神になろうとするだろうか。
自分で何か努力しさえすれば、
仏にすらなれる、みたいな考えが
人間の「罪」じゃないのかと
偉そうな事を言ってみたり。

私は教派の代表者じゃない

正しい信仰に立ち返らせると言っても一体何が正しいのかは私には皆目見当がつかない。
お祈りをすれば正しいかどうか分かるかと言うのも自信がない。
聖書から引っ張って来た言葉をあれこれ並べたてたからと言って、それで正しい事を述べた事にはならない。
どこかのお偉いさんがそう言ってたからと、頭ごなしに信じ込む気はない。
はなっから意見がかみあわないような論争に首を突っ込む気にもならない。
古ければいいのか新しいものは間違ってるのか、そんな事は分からない。
結局は自分とは違った思想を持つ者を、悪魔呼ばわりしたり、
魔女呼ばわりしたりするのは、
人間の歴史の暗黒の部分と同じで、
人間の本能みたいなものかも知れない。
生物のDNAが類似を好み、変化を嫌悪する傾向にあるのは、
自然界を見回っても同様の事例が見つかる。
基本的に生き物は、変わりたくない。
ただ環境の変化に適応して、生きてゆく為に、仕方なしに変わらざるを得ない。
将来サルが言葉を獲得したとしても、
人間みたいな醜いものには、
とてもなりそうにない。
我々は神の失敗作なんだろうか。
失敗の埋め合わせをする為、
十字架のあがないがあるとする
おこがましさすらも人間の業なれば・・・

宗教的な破壊の感触よりも

数百と言う教派に分裂しているプロテスタントにおけるささやかな願い、それと反抗心。
特定の人間だけに知識を独占させて、一般の信者層にはただ信じる事だけを強要して来た教会。
免罪符なるものまで配布させる事であたかも地上での神の代理人としてふるまった教会。
少なくとも初代の教会はそんな教会ではない。
聖書を誰にでも自由に見れるように、秘密を世にさらしてみれば、それは矛盾だらけの代物だった。
より多くの人間の目を通してそれを検討する事がかなった時、
それがあくまでもごく一部の人間の権威を保証するものではなかった事、
使徒継承を受けた者以外でも直接神の言葉を聞く権利が与えられている事を知る。
それぞれの一般信徒がそれぞれに聖書から受けた霊感に従って、
様々な解釈が生じ、古くからあった教会とは違う価値観をその中に見い出し、離脱して行った。
新たな信仰上の冒険、思考実験がそれぞれ分裂した小さくされた、人々によって行われて来た。
きっとそれは初代の教会へ戻る事を志向してはいない。
むしろ結局の所、何が正しかったのかを知り、あるべき教会の姿へと戻す為の
革命ではなかったかと思う。
古の教会との差異は様々あれど、
この新しく勃発した小集団が望んだのは、教会と言う神が立てたとされる、権力構造を黙認する事ではなくて、
エクレシアを、その権力の象徴とされる、荘厳な教会と言う建物よりも、
人と人との結び付き、交わりをより重視した。
迷信めいた事に理性での監査を行い、見た目は貧相な、「心の貧しさ」を象徴する
簡素な教会のたたずまいを求め、目に見える教会の建物ではなく、
目に見えないキリストをかなめ石とした霊的な教会を目指した。
誰にでも平等に直接神からのメッセージを受けられる事、
どのクリスチャンにおいても聖霊の導きが与えられている事を保証した。
かくして万民司祭、古のルールから脱却し、それぞれの責任において神を知る為のアプローチが今に至るまで続けられている。
ただそれ自体は西洋において弱体化しつつあり、
それは特定の教派だけに懸念される問題ではない。
ある意味資本主義や地上の富とはそれら小さな集会とは
無関係であって、
悪魔の策略とプロテスタンティズムとが結び付かない事を断言させてもらう