大鐘 稔彦のブログ -149ページ目

その199

文学に関する小論について色々なご意見を賜り厚く御礼申し上げます。

端的に言えば、文学とは人間の生き様、死に様を書くものです。どんな生き方、どんな死に方でも良いというものではなく、もし暗い淵に沈んでいる人がそれを読んだら勇を得てそこから這い上がってこれる、自死を思いとどまれる、そんな作品こそが真の文学であるといえるのです。

村上春樹の作品があれほど多くの人に読まれている理由をもう少し深く突き詰めてみるべきだ、とのご批判もありました。言われるまでもなく、ようく分かるのです。批判者も欠いておられたが、いまどきの若者の多くは生きる目標を見失って虚無感にさいなまれています。虚無に身を委ね、井戸の底に身を潜めて日長一日、いや何日も物思いに浸っている、それでも何とか食べるに困らないで生活できている[ねじまき鳥クロニクル]の主人公に、同じような虚無感に浸って悶々と日を送っている者は我が身を投影して救われる思いがするのでしょう。私も若き日にはそうでした。しかし、確実に言えることは、『ねじまきどり・・・』のような作品を読んでも私は虚無から脱却できなかっただろうという事です。

『ニヒリスト(虚無主義者)』と言う言葉をはじめて世に知らしめたのはドストエフスキー、トルストイと同時代の作家であるツルゲーネフの[父と子]です。主人公バザーロフは優秀な医学生ですが、『すべて形あるものは壊れる、恋愛もまた形態であり、いつか壊れる』などと嘯いて世の中のあらゆるものに価値を見出さない男です。しかし、不覚にも彼は美貌の寡婦オディンツオーブに心惹かれてしまうのです。「俺としたことが・・・」と、バザーロフは己を叱責し、いまいましく思いますが、燃え上がった恋情を抑制することは出来ません。

 虚無を描きながら、なぜかこの作品には救いがありました。文学の文学たる香りに酔いしれさせてくれたのです。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフも虚無感に閉ざされたナイーブな青年です。虚無から逃れでるために、彼は殺人を思いつくのです。身勝手な理屈で自らを納得させて。この点は、現代の虚無主義者が犯す無差別な殺人と何ら変わりはありません。しかし、『罪と罰』は、虚無に終わらないのです。ラスコーリニコフは、一人の薄幸な女性の献身的な愛によって改悛し、蘇生への道を歩みだすのです。

 人生はcriative(創造的)でなければなりません。無為な人生は生きるに値しないのです。


その198

文学論の締めくくりです。

『救い』の無い小説は真の文学とは認めない、と書いてきましたが、もう少し付け加えるなら、人間の欲望を丸出しにした『罪意識にかける』物は真の文学とは言えない、ということです。渡辺淳一の一連の『不倫物』がそれに相当します。不倫は言うまでもなく背徳です。これが野放しになったら社会の秩序は乱れる一方です。

渡辺氏の作品は心有る人たちの眉を顰めさせているはずです。登場人物たちはただただ愛欲に身をゆだね、あたかもそれだけが人生のすべてであるかのようです。現実には不倫は身の回りの人間を傷付け、苦しませます。それへの恐れ、罪の意識がなければもはや人間ではないでしょう。

何よりもやりきれなくおぞましい事件は、身も知らぬ男の劣情に身を汚される女性の悲哀です。つい最近も、同じマンションにすむ30台の男に襲われ、激しく抵抗しながら無残にころされた23歳の、人生これからという女性の悲劇がありました。たまたま新幹線で隣り合わせた男に威嚇され、トイレに連れ込まれて強姦された女性もいました。後者の場合、逮捕はされたものの、男は何年後かには世の中に出て来て、また同じ犯罪を起こすのが通例です。こういう男に一番良い刑罰は、ペニスを切り取ることです。

 『アベラールとエロイーズ』という、実在した男女の往復書簡集があります。何世紀も前の西洋の話です。この作品が素晴らしいのは、家庭教師に入ったアベラールが、無垢な少女エロイーズをかどわかして情欲のとりこにした、その事実を知って怒り狂った父親が無頼漢を頼んでアベラールのペニスを切り取らせた、『男』を失って嘆き苦しんだアベラールは、悔恨と絶望に駆られて修道院に入ってしまう、それを知ったエロイーズも後を追ってシスターとなる、そこからはじめて二人の本当の人生が始まり、エロスはアガペーへと昇華行く、その一点にあります。

 渡辺氏はそのエッセイ『男というもの』の中で書いています。「思春期は最も性欲の強い時期で、殊に男は然りである。そんな時期に受験が重なるから誠に理不尽である」と。そうではないのです。私も高校に入って二年目、隣のクラスの美少女に恋焦がれ悶々たる日々を送る羽目になりましたが、受験勉強がセーブを掛けてくれました。

翻って昨今の世の中を見ると、若者たちのフリーセックスが恐ろしい病態を生み出しています。性病の蔓延です。何の罪意識も無く奔放な情欲に身を委ねている結果です。そして、それを助長しているのが、罪意識を欠いた情痴小説なのです。かつては医者であった渡辺氏には、大いに反省と罪意識を喚起せずにはおれません。

 

その197

文学論をもう少し。

 村上春樹は日本の作家としては一番海外で読まれ、いずれノーベル賞を取るだろうとも言われているそうです。しかし、私が選考委員なら彼を押すことは絶対にないでしょう。その理由は前回述べたとうりですが、更に付け加えるなら、彼の作品では安易に人が死ぬからです。脇役ではない、物語の要になる人物をです。いっこの人間の死を軽軽しく扱うような作家は真の文学者とはいえないのです。それを言うならゲーテはどうなのだ、彼を世に有らしめた『若きウエルテルの悩み』の主人公はヒロイン・ロッテへの横恋慕の果てに安易な自死に自らを追いやっているではないか、この小説を読んだ若者たちが次々と自殺を図り、社会問題にまで発展し、ゲーテは非難轟々浴びたではないか、しかしゲーテは何人も認める文豪であり、世界的文学者に相違あるまい、と反論される方がおられるかもしれません。

 『若きウエルテル』はゲーテ自身の体験を小説にしたものです。ケストナーという立派な青年と婚約していたロッテに一目惚れし、何とか思いを遂げようとしますがロッテはなびきません。良いお友達でいましょうと繰り返すばかり。絶望に駆られたゲーテは、幾たびも短刀を取り出し我が胸に突きたてますが死に切れません。逃れる道はただ一つ、苦しい胸のうちを文字に託すことだけでした。そしてロッテへのあてつけから、己が分身であるウエルテルを自死させてしまいます。安易な結末です。私はだからこの作品を傑作とはみなせません。死を思いとどまって蘇生して行く過程を描いたら、真の文学、私の言う『救いのある』作品になったでしょうに、惜しまれます。

前述したように、 村上春樹の作品でも、実に安易に登場人物たちが死んでいきます。というより、死なせています。どんなことがあっても生き抜く、そういう気力は、残念ながら彼の作品からは沸いてこないのです。むしろ、いざとなれば死んじまえばいいんだ、それですべては解決する、といったネガティブで短絡的な発想に若者を追いやってしまいそうです。おまけに彼の作品では若者たちがこれまた安易にセックスをする。私の娘たちが村上作品にのめりこんでいると聞いて不安に駆られたのはこうした点です。幸いすぐに脱却してくれたからいいようなものの、危ない危ない、村上作品は若者を一種の中毒、麻薬症状に陥れるのです。

 そんな彼の作品にノーベル賞が与えられるとしたら、ノーベル賞も我が国の芥川賞や直木賞並みに地に落ちたと言わざるを得ません。そうなったら私こそ絶望に駆られて自死を遂げるかもしれません。