コミックス「メスよ輝け!!」再刊
「孤高のメス」の文庫化に続き、コミックス「メスよ輝け!!」が文庫版として本日再刊されました。2004年にREMIX版全4巻が刊行されて以来です。
「B・J(ビジネスジャンプ)」に連載が始まったのは平成元年ですから、実に20年の生命を保っていることになります。
文書版は全8巻で、毎月2巻ずつ出ます。
先頃、漫画家のやまだ哲太氏と発刊元集英社の大門千春編集長が来島してくれました。
哲太氏は、「メスよ輝け!!」の後「青ひげは行く」(全6巻)の漫画を描いて以来コミックスの仕事には携っておらず、デザイン関係の仕事で糊口の資を得ているということでした。
彼には、小学生の娘さんが一人います。「『メスよ輝け!!』は、お父さんはこんな仕事をしたんだよと子どもに胸を張って言える作品です。小説版『孤高のメス』の登場人物にも、自分が創作したキャラクターイメージがそのまま使われていて、それも誇りに思うし、娘にもいずれ知ってもらいたいことです」と子煩悩丸出しでした。
そんな職人肌の哲太氏と共同作業で生み出されたコミックス「メスを輝け!!」を「孤高のメス」と共にご愛読賜れば嬉しいです。
その192
書くということ、それも、一つの長い物語を紡ぎだすには、想像力、筆力がまず第一に問われますが、その前に、根気、体力が求められます。
かつて、21歳の頃、医学部の専門課程に進んだその年の暮れ、私はある衝動に突き上げられて休学届を学生課に届け出ると、その翌日から修学院の下宿に閉じこもって一日中原稿用紙に向かいだしました。朝日新聞が募集していた一千万円懸賞小説に応募するためです。無謀にも、当選を果たして一躍文壇に踊り出ようなどと考えたのです。仕送りを断たれたら干上がってしまうので、両親には内緒でした。若気の至りもいいとこです。
およそ3ヶ月で一千枚の小説を書き上げましたから、日に12、3枚は書いた計算になります。どんな内容のものだったか、もう忘れてしまいましたが、倦まずたゆまずそのノルマをこなしたこと、夕方、宝ヶ池に散歩に行くのが唯一息抜きのひとときであったことだけは鮮明に覚えています。
今の私には、とてもそれだけの根気力はありません。休日は私さえその気になれば一日机に向かっていることも出来なくはないのですが、とてもじゃないが体力が続かないのです。
当時に比べれば、語彙も豊富になり、筆力もはるかに上回っているはずで、当然書くスピードも速くなっているはずですが。
村上春樹のインタビュウ記事が神戸新聞に載っていて、そこで村上氏はしきりに、書くことの基本は体力であること、だからマラソンを始め、トライアスロンにまで挑戦しているのだと主張していました。そうして長い長い小説に今取り組んでいるのだと。彼は私より10歳ほど若いですし、私のように二足の草鞋を履いてもいない、文筆業一つに集中できる境涯にありながら、体力が続かず書けなくなることを案じているのです。
書くということは、ただ原稿用紙に向かっていればいいというものでもないのです。私が書いているのは今のところ医療小説です。「孤高のメス」の主人公は肝臓移植に挑みますし、「緋色のメス」のキーワードは「乳癌」と「再建術」です。医学的に誤ったことは書けませんから、かつては頭にインプットしていたものも、メスを置いてからかなり時日を経ているために、記憶があいまいになりかかっています。必然復習が必要となり、医学書や論文を紐解かなければなりません。これが又根気と体力を要するのです。二足の草鞋はあと5年で終えたいといった理由がその辺にあります。
余談ながら、私があさはかにも挑んだ懸賞小説の当選者は、今は亡き三浦綾子さんでした。彼女はその処女作「氷点」で世に出、亡くなるまで文筆家として生きられたのですから、私がそれにかけた思惑ばかりはまんざら見当違いのものでもなかったようです。ただただ才能がなかった、身のほど知らずであった、というだけでしょう。
その191
私の身分は公務員です。一般の公務員は58歳が停年と聞いていますが、診療所の医師は特例で65歳となっております。
この3月で私も停年を迎えました。しかし、条例で医師は3年間の延長を認める、となっており、先頃、その延長契約を交わし終えました。更に3年後については未定ですが、もう一回延長させてもらって、70歳で医者稼業に終止符を打てたらと念じております。
これからの5年間は従来通り二足の草鞋を履きつづけることになりますが、70歳以降は筆一本の生活に入りたいと思っています。というのも、医者とものがきの両立は体力的にだんだん厳しくなってくると思われるからです。96歳になっても見事に両立させているわが母校の先輩日野原重明先生のような方もいますが、あんな人は例外中の例外で、とても真似は出来ません。少し言い訳をさせてもらうと、日野原さんは内科医だったこと、聖路加病院と言う居心地の良い場所を見つけてそのままエリートコースを歩まれたことでさほどのストレスは覚えられなかったことで心身ともに健やかでおれたのではないか、と憶測する次第です。
片や私は、卒後十年目には母校の庇護を蹴って上京、聖路加とは天と地、月とすっぽんの違いがある、倒産寸前の小さな民間病院の責を担う道を選びました。おまけに外科医と言う最もストレスのかかる道を選んでいました。それも、大病院ならば親方日の丸で患者も「寄らば大樹の影」、たとえ失敗しても「あそこで駄目だったら仕方がない」と諦めてくれましょうが、名も無い70床そこそこの小さな病院でしくじったら何を言われるか分からない、新聞沙汰にでもなったら命取りになりかねないという、常に剣が峰に立った心境で手術をしていたわけで、大病院の外科医の3倍のストレスは負っていたと思います。そのくせ一方で日本の医療を変えて見せる、などといきがって「日本の医療を良くする会」なる勉強会を立ち上げたのですから、過剰なストレスに自らを追いやっていたようなものです。
しかし、この会に日野原先輩は来てくれ、50人は到底入りきれない狭いプレハブの会議室をものともせず熱弁を振るってくださいました。そうして「名誉顧問」も引き受けてくださり、そんなご縁から、その後著した小著2冊に推薦の辞も寄せてくれました。
「鶏頭となるも牛後となるなかれ」をモットーにそんな選択をした私のその後の人生は、所詮アウトサイダーの定めで波乱続き、心身ともに限界まで消耗してしまったようです。
10年前、メスを置いてここ淡路島へ来てから、徐々に徐々に、堆積した疲れが除かれていく手応えを覚えました。それかあらぬか、50キロしかなかった体重が増え始め、遂に、叶わぬ夢と諦めていた標準体重(63キロ)に達したのです。(つづく)