大鐘 稔彦のブログ -151ページ目

その193

今月始めに刊行なった「緋色のメス」の新聞広告に「ベストセラー『孤高のメス』で衝撃的デビューを果たした・・・」なるキャッチコピーを見出し、いささか面映いものを覚えています。芥川賞や直木賞の受賞者が最近は20歳前後の若い人たちに占められており、還暦を過ぎて多少とも世の中に作家として知られるということは遅咲きもいいところだからです。多少言い訳がましいですが、私のものがきとしてのデビューは本当は20年前にさかのぼります。コミックス「メスよ輝け!!」がそれですが、当時私は現役の外科医だったので本名で出すことを憚り、ペンネーム「高山路爛」を使いました。その後10年してメスを置き、ここ淡路島にきたのですが、私大鐘稔彦が「メスよ輝け!!」の作者だということをはじめて知ってくれた人たちに何人か出会いました。

 今回「メスよ・・・」が復刊されましたが、発行元は同じ集英社です。当然ペンネーム高山路爛が作者名になると思いきや、本名にさせてください、と言われました。「孤高のメス」の成功にあやかりたいから、と言うのです。「メスよ輝け!!」も、全く無名の新人作家としてデビューしたわけですが、それでも復刻版を含めて述べ80万部ほど出てベストセラーの末席につながりましたから、作者「高山路爛」を覚えていてくださる読者は少なくはないと思うのですが。

 ところで、「孤高のメス」を読んでくれた友人知人から、「作者名になるひことあるが、あれは出版社のミスですよね」とか、「本名はとしひこでなくってなるひこだったの?」という問い合わせがかなりありました。本名は勿論としひこです。しかしおおがねとしひこはもうひとつ作家らしくないのでなるひこと読ませたのです。「鐘が鳴る」に引っ掛けて、こちらの方が語呂が良いように思ったのですが、いかがなものでしょう?因みに私の父は息子の名を稔彦としたものの、なるひこと読ませるかとしひことするかだいぶ迷ったということです。私はそれを聞いて、なるひこでよかったのに、と悔しがったものです。というのも、母の父親は名古屋の田舎の人間で、私のことを「とっさ」とっさ」と呼び、子供ながらこれが厭で厭で仕方がなかったからです。「としちゃん」と呼ばれるのももう一つ好きになれませんでした。自分の名を漸く好きになったのは、大学時代、九最年長の恋人が「としひこさん」と呼んでくれた時からでした。いやはや、また脱線に終わりました。

本当は、二十歳そこそこの若者に文学と呼べるものが書けるのか、と言う話をしたかったのですが。

コミックス「メスよ輝け!!」再刊

「孤高のメス」の文庫化に続き、コミックス「メスよ輝け!!」が文庫版として本日再刊されました。2004年にREMIX版全4巻が刊行されて以来です。

BJ(ビジネスジャンプ)」に連載が始まったのは平成元年ですから、実に20年の生命を保っていることになります。

 文書版は全8巻で、毎月2巻ずつ出ます。

 先頃、漫画家のやまだ哲太氏と発刊元集英社の大門千春編集長が来島してくれました。

 哲太氏は、「メスよ輝け!!」の後「青ひげは行く」(全6巻)の漫画を描いて以来コミックスの仕事には携っておらず、デザイン関係の仕事で糊口の資を得ているということでした。

 彼には、小学生の娘さんが一人います。「『メスよ輝け!!』は、お父さんはこんな仕事をしたんだよと子どもに胸を張って言える作品です。小説版『孤高のメス』の登場人物にも、自分が創作したキャラクターイメージがそのまま使われていて、それも誇りに思うし、娘にもいずれ知ってもらいたいことです」と子煩悩丸出しでした。

そんな職人肌の哲太氏と共同作業で生み出されたコミックス「メスを輝け!!」を「孤高のメス」と共にご愛読賜れば嬉しいです。


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その192

書くということ、それも、一つの長い物語を紡ぎだすには、想像力、筆力がまず第一に問われますが、その前に、根気、体力が求められます。

 かつて、21歳の頃、医学部の専門課程に進んだその年の暮れ、私はある衝動に突き上げられて休学届を学生課に届け出ると、その翌日から修学院の下宿に閉じこもって一日中原稿用紙に向かいだしました。朝日新聞が募集していた一千万円懸賞小説に応募するためです。無謀にも、当選を果たして一躍文壇に踊り出ようなどと考えたのです。仕送りを断たれたら干上がってしまうので、両親には内緒でした。若気の至りもいいとこです。

 およそ3ヶ月で一千枚の小説を書き上げましたから、日に12、3枚は書いた計算になります。どんな内容のものだったか、もう忘れてしまいましたが、倦まずたゆまずそのノルマをこなしたこと、夕方、宝ヶ池に散歩に行くのが唯一息抜きのひとときであったことだけは鮮明に覚えています。

 今の私には、とてもそれだけの根気力はありません。休日は私さえその気になれば一日机に向かっていることも出来なくはないのですが、とてもじゃないが体力が続かないのです。

当時に比べれば、語彙も豊富になり、筆力もはるかに上回っているはずで、当然書くスピードも速くなっているはずですが。

 村上春樹のインタビュウ記事が神戸新聞に載っていて、そこで村上氏はしきりに、書くことの基本は体力であること、だからマラソンを始め、トライアスロンにまで挑戦しているのだと主張していました。そうして長い長い小説に今取り組んでいるのだと。彼は私より10歳ほど若いですし、私のように二足の草鞋を履いてもいない、文筆業一つに集中できる境涯にありながら、体力が続かず書けなくなることを案じているのです。

 書くということは、ただ原稿用紙に向かっていればいいというものでもないのです。私が書いているのは今のところ医療小説です。「孤高のメス」の主人公は肝臓移植に挑みますし、「緋色のメス」のキーワードは「乳癌」と「再建術」です。医学的に誤ったことは書けませんから、かつては頭にインプットしていたものも、メスを置いてからかなり時日を経ているために、記憶があいまいになりかかっています。必然復習が必要となり、医学書や論文を紐解かなければなりません。これが又根気と体力を要するのです。二足の草鞋はあと5年で終えたいといった理由がその辺にあります。

 余談ながら、私があさはかにも挑んだ懸賞小説の当選者は、今は亡き三浦綾子さんでした。彼女はその処女作「氷点」で世に出、亡くなるまで文筆家として生きられたのですから、私がそれにかけた思惑ばかりはまんざら見当違いのものでもなかったようです。ただただ才能がなかった、身のほど知らずであった、というだけでしょう。