一松書院のブログ -68ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

三坂通 鎌倉保育園(1)へ


 曽田嘉伊智の復帰後、鎌倉保育園京城支部は立て直しをはかり、園内の印刷工場を再建するとともに公的な補助金や下賜金の獲得に努めた。1925年から26年にかけての新聞報道で、この時期の補助金や援助の一端を垣間見ることができる。

・社會事業 補助金配贈 경긔도京畿道에서から(『每日申報』1925年12月4日 400円)
・國庫補助바든受けた 府內各社會事業 總額一萬二千四百圓 불교仏教자졔회가慈済会が  뎨일 만타一番多い
(『每日申報』1925年12月19日 1200円)
・朝鮮社會事業 御下賜金 四十三團體 一萬四千三百圓(『每日申報』1926年2月13日)
・府廳에서から 粟二十石 고아에게孤児に 긔부寄付(『每日申報』1926年5月28日)

 

 1927年には、事業助成金2000円を得て園の宿舎の増築、病室の新築、浴室拡張などを行なっている。

 もちろん、こうした公的な援助だけでは施設の運営経費をまかなうことができず、曽田嘉伊智は個人や団体からの賛助金・寄付金を集めるためにたえず奔走していた。

 この頃、曽田嘉伊智はラジオ放送にも出演している。家庭講座「育児のお話」。ここでいう「育児」とはいわゆる「子育て」ではなく「身寄りのない子供達の養育」という意味である。JODK京城放送局のラジオ放送は1927年2月16日に本放送が始まり、当初は日本語と朝鮮語との両言語の番組を交互に編成して放送していた。その日本語の番組に出演したのである。

 これも、身寄りのない朝鮮の子供達のことを内地人に広く知らしめると同時に、鎌倉保育園の活動への理解を得ようとするものでもあった。

 

 この当時の朝鮮社会で、親をなくしたり、親に捨てられたり、帰る家をなくした子供達が置かれた状況は厳しいものであった。

 赤間騎風の『大地を見ろ』(1924)の中に「幼年乞食“趙老馬”」というルポがある。一人の子供「乞食」が、米屋の軒下の藁クズの中から20分間かけて一銭銅貨を探し出すのを見ていた赤間騎風が、8歳のその子から聞き出した話を書いたものだ。

そこいらに迂路ついてゐる乞食を、一人づゝつかまえて、その身の上話をきいたなら私達が一掬同情の涙を注かずにはゐられない悲惨な物語りをするに違ひない。茲に記した幼年乞食趙老馬のような、親に捨てられた薄幸な孤児も、必ず數多くゐることゝおもはれる、何とかして救つてやれないものか、彼等は救へば生産的な、社會の一員となることができるのだが…

 この時期、京城の街頭にはかなりの数のホームレスの子供たちがいて、施設に収容されるのはそのごく一部にすぎなかった。多くは「迷子」や「棄児」であった。趙老馬(チョロマ?)も始興の貧農の子で父と死別、母に置いていかれて物乞いを始めた。
 日本による統治政策のしわ寄せが最下層の朝鮮人、中でももっとも弱い幼児・児童に犠牲を強いることになったともいえる。

 
 

 1930年、鎌倉保育園の評議会で、園全体の最高責任者である理事に曽田嘉伊智が選出された。しかし、曽田嘉伊智は京城を離れることができないとして鎌倉には行かなかった。そのため、鎌倉の本園では引き続き佐竹音次郎が理事代理として運営に当たった。その後、旅順支部の佐竹昇が鎌倉に戻って理事代理業務を行った。曽田嘉伊智は理事の肩書きでそのまま京城支部に留まり、その後1936年に理事補に戻った。佐竹音次郎は、理事を引き継ぐに当たって、世襲を避けたいと考え、曽田嘉伊智を後継者にしようとしたが、曽田嘉伊智は京城での施設運営を優先したのである。

 

 1930年代になっても、京城では棄児や迷児が多くいた。

 そうした中、1934年4月6日、朝鮮総督宇垣一成が鎌倉保育園京城支部を訪問した。『京城日報』は翌日の朝刊で写真入りでこれを報じている。下の写真中央の中折れ帽が宇垣一成、その右に立つ白い髭の男性が曽田嘉伊智、宇垣の左側で子供達の列の端に立つ洋装白髪の女性がタキ夫人であろう。後述の『朝鮮及満洲』の記事に、「六十を既に幾つか越したと云ふ銀髪の夫人…夫人は京城に於ける内地婦人の洋装で先鞭をつけた人でもある」とタキ夫人を描写している。

 この時、普通学校(小学校)の学齢の子供達の世話をしていたのは金粉玉と新谷孝子。タキ夫人の後ろは低学年の児童を担当していた金粉玉であろうか。新谷孝子の回想によれば、

起床六時、一週間交代に金女史と私が起床の鐘を打ち鳴らします。…朝食は、一段低い棟の大広間に勢ぞろいしていただきました。食前のお祈りは、お父様の日もあり、太田さんの日もあり、私共の日もあって、一汁一菜の麦御飯をアルミのサバリにたっぷりつけて、皆元気よくいただいていました。

 

 ちょうどこの時期に、もう一人の朝鮮人女性がスタッフとして加わっている。

 平安北道の裕福な家の出身で、東京の日本女子大を卒業して一旦は学校の教員になるが、退職して鎌倉保育園京城支部で働くことにしたという李承愛である。『東亜日報』が1940年の1月に記事にしている。

 李承愛は、6年前からスタッフとなったとあるが、1934年秋までいた新谷孝子の回想には出てこない。新谷孝子と入れ替わりで入ったのであろう。さらに、1938年には「鎌倉保育園李承愛」としてラジオ放送に出演して「家庭時間 保育事業이야기イヤギ」と題して話をしている。

 この当時は、京城のラジオ局は日本語放送と朝鮮語放送の別周波数を分離して、別編成の番組を流すようになっていた。「保育事業이야기イヤギ」は朝鮮語で放送され、鎌倉保育園の活動への朝鮮の人々の理解を深めることにもなったであろう。

 

 このように、1930年代には、朝鮮人の有能で意欲のあるスタッフが加わってきていた。

 姜振馨は、結婚して1927年に長男斗煕が鎌倉保育園京城支部で誕生した。その後生まれた4人の子供も含めてこの保育園で育てた。夫人も職員として勤務していた。

 

 1935年9月には,、印刷部を独立させて光煕町に工場を開設した。

 

 1936年の雑誌『朝鮮及満洲』(6月号)に「京城の孤児院を訪ねて—鎌倉保育園支部を観る—」という記事が掲載された。当時は、曽田嘉伊智・タキ夫妻、主事1名、保母2名、裁縫・洗濯・炊事がそれぞれ1人という体制だったという。主事は姜振馨であろう。

記事にはこのようなことが書かれている。

 この当時の鎌倉保育園は、京城府で収容した「孤児」「迷児」「棄児」「遺児」を養育する業務が中心で、収容児一人について毎月9円が京城府から支給される。その前年までは16歳まで支給されてきた養育費が、この年から年齢上限が引き下げられて13歳までとなった。

 学齢前の幼児たちは、南大門外のセブランス病院内の幼稚園に通わせ(4名)、学齢に達した児童55名は普通学校(朝鮮人向けの6年制初等教育学校)に通わせている。公立の普通学校には14名、それ以外の児童は、攻玉普通学校や攻玉女子普通学校に通っている。

 この当時、朝鮮人には義務教育はなかった。このため公立の普通学校に行くには選抜試験があり、親の資産や思想なども合否の判定材料とされた。私立の攻玉普通学校・攻玉女子普通学校は南大門通三丁目、現在の南大門市場セロナショッピングの場所にあったが、私立普通学校は施設や設備も貧弱だった。しかし、朝鮮人の未就学児が少なくなかった当時、養護施設から公立に14人、私立に41人を就学させることは並大抵のことではなかったであろう。

 さらに、上級学校の培材や徽文、第一などの高等普通学校に進学する例もある。また、内地人の児童が3人いて、そのうち2人は小学校に通っている。そのほかに、「内鮮婚」の子供で内地人の名字を名乗っていながら普通学校に通っているケースがある。

 普通学校を終えて、園が経営している光煕町にある印刷工場で働いているのが19名、その他外部で商売などしている園出身者もいる。

 内地人の園児は三坂小学校に通っていたのであろう。三坂小学校の同窓会誌『鉄石と千草』(1983)には三坂通の色々な思い出が綴られているが、ごく近くにあったはずの鎌倉保育園のことは全く出てこない。数十人から百人くらいの同年代の児童らがいたはずなのだが、綴じ込みの思い出マップにも鎌倉保育園の表示はない。

 

 時代は戦時色を一気に強め、日中戦争から国家総動員体制となり、内鮮一体と皇国臣民化、国語常用、創氏改名などが推し進められていく。その中で、鎌倉保育園京城支部ではどのような変化があったのか、そうしたことに触れた記録や資料は今のところ見当たらない。

 

 1940年8月16日、佐竹音次郎が永眠。鎌倉美以教会にて佐竹音次郎の葬儀が行われた。

 

 1942年、京城支部の設立当初、主任として施設の開設のために働いた須田権太郎が鎌倉の本園から京城支部に戻ってきた。曽田嘉伊智は須田権太郎に責任者を委ね、自らは相談役に回った。さらに1943年秋、牧師が不在となっていた元山メソジスト教会に定住伝道師として赴任するため京城を離れた。しかし、タキ夫人は引き続き京城支部に残って園母の役割を担った。

 

 1945年8月15日、水曜日の正午に「玉音放送」が流れた。大日本帝国は敗戦の日をむかえることになった。

 

 京城では野菜の配給はすでに停止していた。鎌倉保育園の園児たちは、食べられる雑草を集めてそれを食事の時に調理していた。15日以降、主食の配給も止まった。150名の園児と、内地人4人、朝鮮人12人の職員は、ヤミの食糧を得ることもできないまま、なんとか手持ちの食糧で運営を維持していた。ところが、8月末に火災が起きて、鎌倉保育園京城支部の建物は、物置を除いて全て焼失してしまった。

 かろうじて焼け残った物置と、そばにあった三坂秀英学院を借りてそこに園児たちを避難させた。三坂秀英学院は、無産階級の子供達向けの補習学級のような私塾で、建物はトタン葺きのあばら屋であったが、とりあえず雨露はしのげた。

 日本の敗戦は、各社会団体に1945年度の京城府からの交付金が出る前で、しかも8月15日以降、役所の業務は休止状態になった。資金は枯渇し食糧も調達できない。職員の一人が、龍山の日本軍の糧秣倉庫の塵に穀物が混じっているらしいという話を聞き込んできた。日本軍と交渉して倉庫の床の塵をもらい受け、須田権太郎たちの男性職員総出で倉庫から運び出し、その塵の中から女性職員や園児が米や豆を選り分け、これを食料にした。また、早目に引揚げを決断した内地人が捨てていく非常食の乾パンなどを貰い受けた。

 

 9月上旬、沖縄にいたホッジ中将を司令官とするアメリカ第24軍が仁川に上陸して京城に入ることになった。当初は7日に京城入城ということで、日本軍は6日までに大田まで撤退することが命じられた。実際には、天候の関係でアメリカ軍の到着は8日にずれ込んだが、京城の日本軍は6日未明には移動を完了した。

 日本軍の施設の中に、敗戦直前に完成した新しい施設が鷺梁津(漢江の南岸)にあり、その施設の部隊長に須田権太郎が直接掛け合って、撤退後の施設を鎌倉保育園京城支部に無償で提供してくれることになった。寝具や食料などもそのまま使えるように手配された。9月6日の日本軍撤退後にそこに移動する予定であった。

 ところが日本軍が部隊を移動させた途端に群衆が日本軍の施設に押し寄せ、食料や備品はもとより、建物そのものも解体して持ち去ってしまった。鎌倉保育園京城支部は行き場を失った。

 やむなく、それまでの人脈をたどって朝鮮建国準備委員会の有力メンバーなどと交渉したが支援は得られず、京城で結成された日本人世話会にも相談を持ちかけたが、内地人の引揚げで手いっぱいだと断られた。

 結局、アメリカ軍政府に直接支援を要請して、10月中旬になってようやく園児たちを朝鮮側で運営していた3つの孤児施設に分散して収容することができた。

 

 さらに、須田権太郎や髙橋芙蓉とその家族などの内地人は日本に引揚げなければならなかった。鎌倉保育園京城支部は、朝鮮の植民地支配の終焉とともに幕を閉じることになった。引揚げに際しては、全く身寄りがなく朝鮮を本籍とする戸籍が登録されていない園児については、鎌倉の本園に連れて行くことになった。

 植民地支配下の朝鮮では、本籍が内地にあれば「内地人」、朝鮮に本籍があれば「朝鮮人」であった。本籍を移すことはできなかった。施設に収容される子供達は、出自が判明していることもあったし服装や言語によって区別できることもあった。しかし、乳幼児などは判断できないケースも多くあった。1938年12月の『毎日申報』に、迷児や棄児についても戸籍を作るようになるとの記事がある。収容された場所を本籍にするというものである。それ以前は身元不明の子供たちの「戸籍」がどうのような扱いになっていたのか定かではない。

 

 引揚げには下のような特別輸送乗車船証明書の交付を受ける必要があった。ただし6歳未満の子供はこの証明書は不要とされた。しかし、困難が予想される引揚げの道中のことを思うと連れて行ける子供の人数はさほど多くはなかったであろう。

 

 元山に行っていた曽田嘉伊智は音信不通のままであった。さらに、他の施設に分散して送った園児たちが鎌倉保育園の焼け跡に戻ってくるということがしばしば起きていた。京城支部では園内で園児たちに日本式の生活や教育をしていたこともあり、園児たちは朝鮮の施設に馴染めなかったり、京城支部の職員に会いたいといったことで戻ってきたのだった。そうしたことから、曽田タキは、須田権太郎たちと一緒に引揚げるのではなく、そのまま京城に残留することを決断した。

 

 須田権太郎など京城支部の日本人職員が、身寄りのない子供達(人数の記録なし)を連れて鎌倉保育園本園に帰着したのは、この年の11月25日であった。他の引揚げ記録などを参考に逆算すると、11月18〜19日に龍山駅から引揚げ列車に乗車したものと思われる。

 鎌倉保育園の記録では、ここで「京城支部からの引揚げは完了」となっている。

 

(続く)

 『京城精密地図』(三重出版社京城支店 1933)の三坂通(現在の厚岩洞)の南山よりのところに「鎌倉保育園」という記載がある。

 

 この施設は孤児のための児童養護施設で、佐竹音次郎によって設立された。

 

 佐竹音次郎は、土佐の幡多郡下田村竹島で1864年に生まれた。上京して私立医学校済世学舎を出て医術開業試験に合格して医者となり、1894年に鎌倉の腰越で「腰越医院」を開業、2年後には児童養護施設である「小児保育園」を併設した。自身が重い病にかかり、それが快癒すると1902年に鎌倉の教会で洗礼を受けてクリスチャンになった。その後、佐竹音次郎は夫人熊子とともに、児童養護施設運営に専念することにした。有力支援者から寄贈を受けて鎌倉佐助ヶ谷に施設を移転し、腰越在住の子爵秋月種繁から書画の寄贈を受け、その紹介で子爵曾我祐準の知遇を得た。曾我子爵のつてで政界の有力者、書家などの揮毫を受け、その頒布会を開いて資金を集めた。

 資金集めの頒布会で大連・京城を訪問した際、その地にも子供達のための施設の設立を決意。1913年、旅順と京城にそれぞれ支部を設立して外地での養護施設運営に着手した。京城には、鎌倉小児保育園で成長した須田権太郎と戸倉豊子を責任者として送った。婚約していた二人は、当時京城の長谷川町にあった日本基督教会京城教会で結婚式を挙げ、夫婦で京城の施設の立ち上げと運営に当たった。

 1913年8月11日、「鎌倉保育園京城支部」は開設された。当初は、上記地図にある三坂通ではなく、漢江通十三番地(三角地)の借家に置かれた。

社会福祉法人聖音会ホームページより

写真左側の男性が佐竹音次郎、右側でしゃがんでいるのが須田権太郎

中央の女性が戸倉豊子、その横で子供を抱くのが佐竹熊子

 

 最初に預かったのは内地人の迷子や孤児5人で、朝鮮人の子供の入園者はなかなか出てこなかった。須田夫妻は、バリカンを購入し、それを持って土幕民集落を訪ねるなどして散髪をしながら預かるべき「不遇の」朝鮮人の子供を探した。周囲からの経済的な支援もない中での運営は困難を極め、須田夫妻の食事は龍山に駐留する日本軍の残飯であった。当初は、内地児童と朝鮮児童を一緒に養育しようとしたが、難しい点も多く、内地人の子供達は鎌倉の施設に移して京城支部は朝鮮児童を中心とする施設とすることになった。

 この頃、姜振馨が通訳兼職員となった。彼は咸鏡道出身のクリスチャンで、福祉事業に強い関心を持って京城のYMCAで活動していたという。あるいは、YMCAで後述する曽田嘉伊智から日本語を学んだのかもしれない。

 

 須田夫妻の地道な努力もあって、1917年には京城府から須田(佐竹)権太郎が篤行者として表彰されるまでになった。朝鮮総督府の機関紙であった日本語の「京城日報」と、朝鮮語の「毎日申報」に報じられている。

 須田権太郎は、佐竹権太郎と名乗っていた。佐竹音次郎に敬意を表し、佐竹の鎌倉保育園であることを示すため「佐竹」姓を名乗っていたのかもしれない。

 

 さらに、5月17日付の「京城日報」が、鎌倉保育園を訪問取材した写真入りの記事を掲載した。この取材時には、須田権太郎は不在で、妻豊子が応対した。4歳から18歳の16名の朝鮮人の子供達がいて、朝鮮語ではなく日本語を使い、朝夕には賛美歌を歌い、お祈りをしている。軍隊の残飯で豚を飼ったり、鶏を飼ったりしているなどと語っている。

 

 この記事は、2日後の19日付で朝鮮語の『毎日申報』にも掲載された。

 

 翌1917年6月に佐竹音次郎が京城支部を訪ねた時には、子供は22人になっていた。

中央で子供を抱いているのが佐竹音次郎と熊子
後列左端が須田権太郎、一人置いて豊子
中央で白い朝鮮服を着ているのが姜振馨

 

 三角地の借家では手狭になり、もっと広い新たな施設への移転を検討し始めた。その候補に挙がったのが、三坂通の朝鮮銀行社宅の奥にある旧典牲署の敷地と建物である。典牲署は、朝鮮王朝時代に宮中の祭祀で用いる生贄を司った役所で、ここで、牛・羊・山羊・豚などの飼育もしていた。1894年の甲午改革で廃止され使われなくなり、併合後の1914年7月、朝鮮総督府は典牲署の土地と建物の入札払下げの公示をした。敷地が1300坪、建物が11棟170坪という物件だったが、家畜の飼育や屠殺をしていたため、入札がなかったのかも知れない。払い下げられないままになっていた。

 佐竹音次郎は資金面では常に苦労していたが、上述の書画の頒布会を通じて総督府上層部に人脈ができていた。また鎌倉の施設支援を通じて親交があった内村鑑三や堺利彦の人脈もあった。萬朝報の英文欄を担当し、1909年4月にThe Seoul Press Weeklyの発行人兼編集人となっていた山縣五十雄もその一人であった。さらに、キリスト教を通じて、日本基督教会京城教会の長老であった朝鮮高等法院長渡辺暢ともつながりがあった。山縣や渡辺は鎌倉保育園京城支部の評議員になっている。

 こうしたこともあってのことであろう。旧典牲署の敷地と建物を、払い下げではなく無償供与というかたちで使用することが認められた。1917年7月31日、鎌倉保育園京城支部は、三坂通370番地に移転した。現在この場所には永楽ヨンナク保隣院ボリンウォン(後述)がある。

 

旧典牲署に移転直後の鎌倉保育園京城支部(『鎌倉保育園70年史』より)

 1918年になると、京城府からの委託児童養育が始まるようになり、運営は多少安定してきた。4月から5月にかけて『毎日申報』に掲載された迷子の記事で、いずれも鎌倉保育園で一時保護されているとなっており、こうした保護業務が鎌倉保育圏に委託され、その経費が貴重な財源になった。

 さらに、当時鍾路在住の朝鮮人資産家として名の知れていた全命基から20円の寄付があった。これが3・1運動前の「武断政治」の中で唯一の朝鮮語媒体であった『毎日申報』で報じられたことの意味は大きかった。

 尹致昊は『尹致昊日記」1919年7月10日で次のように佐竹権太郎について書いている。

JULY, 1919    10th. Thursday. Beautiful morning.
After breakfast, went with 致昌 to the 鎌倉保育園支部 outside of the South Gate. The Home For Destitute Children is located on the southern side of Namsan―buildings which were 典牲署 in olden days. The site commands a fine view surrounded by wooded hills. The Home is under the management of the 佐竹權太郞 a fine-looking Japanese Christian. He has about 25 children under his care and some old folks too. His father is the Father of the Kaudenra Home for Destitute Children. They are doing a piece of real good work.

尹致昊日記 七巻

時期は不明だが、金允植も次のような漢詩を佐竹権太郎に贈っている。

『雲養續集』卷之一 詩

 尹致昊、金允植といえば、朝鮮の近代史では必ず登場する人物。京城府からの業務委託だけでなく、このように朝鮮人有力人士たちの認知度も上がり、さらに園内に小さな印刷工場を併設運用し、鎌倉保育園京城支部の運営は軌道に乗り始めた。

 

 ところが、1920年に須田権太郎・豊子夫妻は支部を退職することになった。その理由はさだかではない。20年後の1941年に再び京城支部に赴任して責任者となっている。須田権太郎の名前は『社会福祉人名資料事典』(日本図書センター 2003)にも掲載されており、それによれば、「鎌倉保育園に明治43年に就任以来会計経理事務を担当し(中略)特に戦中戦後の困難な施設経営の一翼を担い」とあって、1956年には黄綬褒章を受けている。そうしたことから考えると、鎌倉保育園内の事情で、京城支部から鎌倉の本園に戻したものと考えられる。

 

 須田権太郎・豊子夫妻が京城支部を去った年の初夏、京城明治町2丁目で聖書販売店を開いていた曽田嘉伊智を佐竹音次郎が訪ねた。佐竹音次郎は、1913年に鎌倉保育園京城支部を設立する際、知人の紹介で曽田嘉伊智を京城明治町の聖書販売店に訪ねたことがあった。7年後のこの時、曽田嘉伊智は佐竹音次郎の依頼に応じて鎌倉保育園京城支部の相談役を引き受けた。

 

 曽田嘉伊智は、1867年に長州の熊毛郡曽根村(現平生町)で生まれた。ノルウェー船の船員になって香港に渡り、その後台湾でドイツ人の会社で働いていた。その時、台湾の山中で倒れたところを朝鮮人に助けられたことが縁で、1905年に大韓帝国に渡ることになり、漢城(京城)のYMCAで日本語の教師となった。その前後にキリスト教に接しクリスチャンになっている。

 1908年、41歳の曽田嘉伊智は、上野タキ(瀧子)と結婚した。タキは唐津の出身で長崎の梅香崎女学校(のちの下関梅光女学院)を卒業して、京城の日の出小学校の教員となった。曽田嘉伊智は明治町二丁目でアメリカの聖書会社の聖書販売店を開いて販売伝道を始めた。タキは、店での販売のかたわら、淑明女子専門学校や梨花女子専門学校で英語を教えた。

 

 翌1921年春、佐竹音次郎は再び曽田嘉伊智を訪ねて、今度は鎌倉保育園京城支部の責任者としての就任を打診した。肯定的な返事を受けると、すぐその晩に渡辺暢(高等法院長)宅で鎌倉保育園京城支部評議員会が開かれ、曽田嘉伊智を鎌倉保育園京城支部の主任として迎え入れることが決定された。翌日、山縣五十雄(The Seoul Press Weekly社長)が曽田嘉伊智を直接訪問して正式に就任を要請した。

 

 実はこの頃の京城支部の実情を書いた『京城日報』の記事がある。1921年3月9日から5回連載で「孤児は何処へ行く」という記事が掲載され、朝鮮総督府と京城府の社会事業について触れ、児童養護施設について詳述している。この連載では、救世軍育児ホーム、聖保録嬰児孤院、孤児救済会、和光教園などとともに、第3回で鎌倉保育園京城支部を取り上げている。

 鎌倉保育園京城支部について、1920年の経費は年額(月額の誤りか?)60余円、特別基本金1000円を保有しており、1921年11月に京畿道から500円、総督府から1000円の補助金をうけているとある。

 曽田嘉伊智・タキ夫妻が鎌倉保育園京城支部の責任者として運営にあたることとなったのは、1921年初夏。まさにこの時期である。補助金でかなり安定した基盤はできつつあったが、園で成長した子供たちの職業訓練が課題であった。印刷機を手に入れて印刷部を置き、バスケットや靴下の製造も始め、確保した資金で老朽化した建物の修理などにも着手した。

 朝鮮総督府発行の月刊誌『朝鮮』の1921年6月号にも鎌倉保育園京城支部の記事が掲載されている。ちょうど曽田夫妻がこの施設に関わり始めた時期に取材して、掲載された記事と思われる。

 

 翌1922年1月には、総督府の社会事業奨励金として鎌倉保育園京城支部は1300円を受領している。

 

 

 順調に進むかと思われていた1923年春、鎌倉の佐竹音次郎が健康を害し、曽田嘉伊智に対して鎌倉保育園本園の理事職への就任を依頼した。しかし、曽田嘉伊智は、京城を離れることができないとしてこれを受けなかった。その9月、関東大震災が起こり鎌倉保育園も大きな被害を受けた。佐竹音次郎は健康が優れなかったが、鎌倉保育園の再建に奔走した。

 ところが、1924年1月末、今度は京城の曽田嘉伊智が病いに倒れた。総督府病院で3ヶ月療養したが病状が改善せず、タキとともに故郷山口に帰って療養することとなった。曽田夫妻の不在の間、姜振馨が京城支部の維持に奮闘していたが、大和与次郎の夫人露子が毎日のように園に通って園母の役割を果たした。大和与次郎は、曽田嘉伊智と香港で出会い、生き方や考え方は全く異なっていたにも関わらず、京城でも深い付き合いがあった。大和与次郎は、1920年の第1回京城府協議会議員選挙に出馬して当選し、朝鮮運輸連合会の会長として新たに「朝鮮運送会社」を立ち上げて社長になるなど京城実業界の名士であった。曽田嘉伊智夫妻が不在となった施設に自分の妻を手伝いに行かせた。姜振馨や大和露子が努力したが、授産事業はうまく回らなくなり、資金繰りも苦しくなり、基本金を取り崩すところまでになった。翌1925年、曽田嘉伊智の健康はかなり回復し、京城支部に復帰することができた。

 当時は、こうした社会事業の経営や運営は、個人の人脈や熱意、献身的な努力に大きく依存せざるを得なかった。

 

(続く)

 ソウル歴史博物館のサイトのソウル歴史アーカイブ(서울역사아카이브)に、厚岩洞フアムドンを紹介する電子ブックがアップされている(서울생활문화자료>자료조사>자료소개>용산구>후암동)。厚岩洞は、日本の植民地時代の三坂通、吉野町で、その周辺には古市町(東子洞トンジャドン)、岡崎町(葛月洞カルウォルドン)、練兵町(南営洞ナミョンドン)があり、一帯にはところどころに日本家屋が残っている。

 その電子ブックに、朝鮮戦争の戦災後の写真が掲載されている(81/ 468、撮影日時不明:写真A)。ちょうどソウル駅の駅前の一帯を上空から撮影したものである。旧御成町、旧古市町、旧吉野町といったあたり。

この部分を、GoogleEarthで今の街並みを見るとこうなっている(写真B)。

1936年発行の『大京城府大観』ではこうなっている(写真C)。これは1935年8月25日に撮影した航空写真をもとに描かれた鳥瞰地図。

 

 電子ブックの写真Aの中央部に空き地のように見える場所がある。A・B・Cの同じ部分を並べてみた。

 

 ここが、以前のブログ「古市町10番地 ひとのみち教団』に書いた「ひとのみち教団」が1935年から1937年4月まで京城支部布教所をおいた場所、古市町10である。

 朝鮮戦争以降とされる写真Aでは、基礎部分らしきものが写っているが、中央の画像Cの左下に「1」と振られている建物はない。

 

 この場所と思われる映像が1963年10月に封切られた映画「血脈」に出てくる。この場面。


 旧御成町から旧古市町のこの一帯は、解放後、地名が陽洞ヤンドンと変えられた。この映画の舞台は、1946年解放直後のソウル駅前の陽洞。「板子家パンジャジップ」「箱房ハコバン」と呼ばれる粗末な小屋が立ち並ぶスラムに暮らす家族の物語である。彼らは38度線以北から避難してきた人々であった。

地番入新洞名入ソウル案內(1946)

 日本の敗戦後、ソ連軍が進駐してきた北緯38度線以北から日本人は引揚げのために南下した。朝鮮人の中にも南に避難する人々がいた。また、「募集」「官斡旋」「徴用」という名目で日本内地に強制連行されていた人々が日本内地から続々と戻ってきていた。これらの人々の大半は住まいのない人々で、「戦災民チョンジェミン」と呼ばれた。戦災民の一部は、日本人が去った後の遊郭などの施設に収容されたりもしたが、多くは防空壕や自力で建てた小屋に住まざるを得なかった。朝鮮戦争の始まる前のことである。

 

 映画「血脈」は、1963年に、この陽洞のスラムで撮影されている。

 この場面で、後ろに映り込んでいるのは現在の南大門教会である。

『宣教新聞』2010-08-16付記事より

 南大門教会は、1885年にアレン宣教師夫妻などによって建てられた済衆院教会が前身で、1904年に済衆院が南大門外に移転してセブランス病院となり、教会もここに移転した。教会堂は今のものではない。セブランス病院の裏手にはセブランス医専があり、解放後はセブランス医科大学となった。1957年に延禧大学校と統合して延世大学校となるのだが、そのセブランス医大の横に1950年代後半に建築されたのが現在の南大門教会の会堂である(上掲写真)。

 解放直後という時代設定とは矛盾するのだが…。

 

 映画「血脈」のあの広場の場面にも、もう一つの教会が映っている。

 これは、いま東子洞にあるソウル城南ソンナム教会である。この教会の会堂は1961年11月に完成したもの。従って、これも映画の時代設定とはズレがある。

現在のソンナム教会(Google3D地図)と位置

 もともとこの場所には、植民地時代に天理教布教管理所があった。日本の敗戦直後、北部朝鮮から脱営してきた日本兵が京城駅にたどり着くと、この天理教の施設に収容されていたという。

井上寿美子 「遥かな追憶」

平和祈念展示資料館 海外引揚者が語り継ぐ労苦(引揚編) 第5巻 

 

 日本の朝鮮からの引揚げに伴い、日本政府(朝鮮総督府)及びその傘下の機関、それに各種社会団体、法人、民間人が所有あるいは支配していた財産は、「帰属財産」あるいは「敵産」とされた。それらは当時の南部朝鮮の総資産の70〜80%を占めていた。これらは米軍政庁の管理下に置かれ、それぞれに法的・行政的措置が取られることになっていた。しかし軍政当局の処理が始まる前に、日本側が朝鮮人側に売却したものもあった。上記井上寿美子の両親の家も朝鮮人に売却している。米軍政当局はこうした売買を無効としたが、実際にはそのままになったものも多くあった。

 天理教布教管理所がどのように処理されたのか、その経緯は不明だが、1946年6月にはここにキリスト教長老派の神学校が開かれるという報道がある。そして、それが後日ソンナム教会になるのである。

 

 こうした映り込んでいる建物などを検証すると、映画「血脈」に出てくる広場は、植民地時代の古市町10、すなわち「ひとのみち教団」の施設があり、その後高村甚一が買い取った場所ということでほぼ間違いなかろう。


この一帯の区画では、1970年代に入って大宇テウ財閥がソウル駅前の開発に乗り出し、1976年に大宇ビルをソウル駅前に竣工させ、この地域の様相が変わり始めた。

 さらに1979年、ヒルトンホテルの建設計画が持ち上がった。映画「血脈」の舞台になったスラムとその下の広場がその敷地である。
 植民地時代にこの広場部分を所有していた高村甚一は、京城府立城東中学設立のために多額の寄付をし、学校の支援目的で「高村財団」を設立していた。この「高村財団」の資産は、「帰属財産」とならずに、韓国の「蛍雪財団」に引き継がれたものとされた。ただ、このひとのみち教団の跡地が「高村財団」の資産となっていたかどうかはわからない。「帰属財産」として処理されたのかもしれない。

 1979年9月にはホテルの建築許可が下りたのだが、その直後に朴正煕大統領の暗殺事件が起き、さらに一部の用地買収が進まずに着工できない状態が続いた。

 1980年7月、陽洞という地名のイメージがよくないというので南大門路5街に変更になった。今は陽洞というのは昔語りにしか出てこない。ただ、ヒルトンホテルができた頃でも、ソウル駅前の陽洞というと、「スラム」「私娼窟」といったイメージがあった。1984年の映画「鯨捕り」で、失語症の娼婦チュンジャを私娼窟から救出するミヌとビョンテは、ソウル駅前に脱出してくる。

 

 1981年3月、全斗煥大統領が就任して第五共和国が出帆すると、ソウル市は、市内の再開発のために再開発地域の2/3以上の所有権を有するものに収用権を与えるという都市開発法改定案を政府に建議した。この時、ヒルトンホテル建設を請負った企業体が、7,652坪を買収していたのだが、186坪を所有していた4人の地主が高額買い取りを要求して折り合いがつかず、ホテル建設に着工できない状態が続いていた。このため、全斗煥大統領が権力の座に就いたのをいいことに、開発独裁の発動と開発最優先の政策遂行ができるような都市再開発法の改定が進められることになった。

 

 政府は、ヒルトンホテル建設を前提に1985年のIMF年次総会と中央銀行総裁会議開催をソウルに誘致しており、全斗煥政権としてもヒルトンホテルを早期に完成させる必要があった。この時の都市開発法の改定によって、売却に応じなかった186坪を強制収用して工事が始まった。

1976年航空写真

 1983年12月7日にヒルトンホテルは営業を開始した。

1984年航空写真

 ホテルは完成したが、高層ホテルの窓から下を見下ろすと、眼下にはパンジャジップ(판자집)がびっしりと立ち並んでいた。下の写真は、1988年のものだが、すでに陽洞のスラムの部分は駐車場になっている。この部分には障害者のコミュニティなどもあったというが、1984年の春に全てが一気に撤去された。

 

 これ以降、1986年のソウルアジア大会、1988年のソウルオリンピックに向けて、スラム街・貧民街が市内中心部から追い立てられ、周辺部に移っていくことになる。

 そして1981年の都市開発法の改定は、不条理な立ち退きを迫られた人々の抵抗を、警察が過剰な実力行使で排除しようとして多数の死者を出した2009年の「龍山ヨンサン惨事」にも繋がっていくのである。