曽田嘉伊智の復帰後、鎌倉保育園京城支部は立て直しをはかり、園内の印刷工場を再建するとともに公的な補助金や下賜金の獲得に努めた。1925年から26年にかけての新聞報道で、この時期の補助金や援助の一端を垣間見ることができる。
・社會事業에 補助金配贈 경긔도에서(『每日申報』1925年12月4日 400円)
・國庫補助를바든 府內各社會事業 總額一萬二千四百圓 불교자졔회가 뎨일 만타
(『每日申報』1925年12月19日 1200円)
・朝鮮社會事業에 御下賜金 四十三團體에 一萬四千三百圓(『每日申報』1926年2月13日)
・府廳에서 粟二十石 고아에게 긔부(『每日申報』1926年5月28日)
1927年には、事業助成金2000円を得て園の宿舎の増築、病室の新築、浴室拡張などを行なっている。
もちろん、こうした公的な援助だけでは施設の運営経費をまかなうことができず、曽田嘉伊智は個人や団体からの賛助金・寄付金を集めるためにたえず奔走していた。
この頃、曽田嘉伊智はラジオ放送にも出演している。家庭講座「育児のお話」。ここでいう「育児」とはいわゆる「子育て」ではなく「身寄りのない子供達の養育」という意味である。JODK京城放送局のラジオ放送は1927年2月16日に本放送が始まり、当初は日本語と朝鮮語との両言語の番組を交互に編成して放送していた。その日本語の番組に出演したのである。
これも、身寄りのない朝鮮の子供達のことを内地人に広く知らしめると同時に、鎌倉保育園の活動への理解を得ようとするものでもあった。
この当時の朝鮮社会で、親をなくしたり、親に捨てられたり、帰る家をなくした子供達が置かれた状況は厳しいものであった。
赤間騎風の『大地を見ろ』(1924)の中に「幼年乞食“趙老馬”」というルポがある。一人の子供「乞食」が、米屋の軒下の藁クズの中から20分間かけて一銭銅貨を探し出すのを見ていた赤間騎風が、8歳のその子から聞き出した話を書いたものだ。
そこいらに迂路ついてゐる乞食を、一人づゝつかまえて、その身の上話をきいたなら私達が一掬同情の涙を注かずにはゐられない悲惨な物語りをするに違ひない。茲に記した幼年乞食趙老馬のような、親に捨てられた薄幸な孤児も、必ず數多くゐることゝおもはれる、何とかして救つてやれないものか、彼等は救へば生産的な、社會の一員となることができるのだが…
この時期、京城の街頭にはかなりの数のホームレスの子供たちがいて、施設に収容されるのはそのごく一部にすぎなかった。多くは「迷子」や「棄児」であった。趙老馬(チョロマ?)も始興の貧農の子で父と死別、母に置いていかれて物乞いを始めた。
日本による統治政策のしわ寄せが最下層の朝鮮人、中でももっとも弱い幼児・児童に犠牲を強いることになったともいえる。
1930年、鎌倉保育園の評議会で、園全体の最高責任者である理事に曽田嘉伊智が選出された。しかし、曽田嘉伊智は京城を離れることができないとして鎌倉には行かなかった。そのため、鎌倉の本園では引き続き佐竹音次郎が理事代理として運営に当たった。その後、旅順支部の佐竹昇が鎌倉に戻って理事代理業務を行った。曽田嘉伊智は理事の肩書きでそのまま京城支部に留まり、その後1936年に理事補に戻った。佐竹音次郎は、理事を引き継ぐに当たって、世襲を避けたいと考え、曽田嘉伊智を後継者にしようとしたが、曽田嘉伊智は京城での施設運営を優先したのである。
1930年代になっても、京城では棄児や迷児が多くいた。
そうした中、1934年4月6日、朝鮮総督宇垣一成が鎌倉保育園京城支部を訪問した。『京城日報』は翌日の朝刊で写真入りでこれを報じている。下の写真中央の中折れ帽が宇垣一成、その右に立つ白い髭の男性が曽田嘉伊智、宇垣の左側で子供達の列の端に立つ洋装白髪の女性がタキ夫人であろう。後述の『朝鮮及満洲』の記事に、「六十を既に幾つか越したと云ふ銀髪の夫人…夫人は京城に於ける内地婦人の洋装で先鞭をつけた人でもある」とタキ夫人を描写している。
この時、普通学校(小学校)の学齢の子供達の世話をしていたのは金粉玉と新谷孝子。タキ夫人の後ろは低学年の児童を担当していた金粉玉であろうか。新谷孝子の回想によれば、
起床六時、一週間交代に金女史と私が起床の鐘を打ち鳴らします。…朝食は、一段低い棟の大広間に勢ぞろいしていただきました。食前のお祈りは、お父様の日もあり、太田さんの日もあり、私共の日もあって、一汁一菜の麦御飯をアルミのサバリにたっぷりつけて、皆元気よくいただいていました。
ちょうどこの時期に、もう一人の朝鮮人女性がスタッフとして加わっている。
平安北道の裕福な家の出身で、東京の日本女子大を卒業して一旦は学校の教員になるが、退職して鎌倉保育園京城支部で働くことにしたという李承愛である。『東亜日報』が1940年の1月に記事にしている。
李承愛は、6年前からスタッフとなったとあるが、1934年秋までいた新谷孝子の回想には出てこない。新谷孝子と入れ替わりで入ったのであろう。さらに、1938年には「鎌倉保育園李承愛」としてラジオ放送に出演して「家庭時間 保育事業이야기」と題して話をしている。
この当時は、京城のラジオ局は日本語放送と朝鮮語放送の別周波数を分離して、別編成の番組を流すようになっていた。「保育事業이야기」は朝鮮語で放送され、鎌倉保育園の活動への朝鮮の人々の理解を深めることにもなったであろう。
このように、1930年代には、朝鮮人の有能で意欲のあるスタッフが加わってきていた。
姜振馨は、結婚して1927年に長男斗煕が鎌倉保育園京城支部で誕生した。その後生まれた4人の子供も含めてこの保育園で育てた。夫人も職員として勤務していた。
1935年9月には,、印刷部を独立させて光煕町に工場を開設した。
1936年の雑誌『朝鮮及満洲』(6月号)に「京城の孤児院を訪ねて—鎌倉保育園支部を観る—」という記事が掲載された。当時は、曽田嘉伊智・タキ夫妻、主事1名、保母2名、裁縫・洗濯・炊事がそれぞれ1人という体制だったという。主事は姜振馨であろう。
記事にはこのようなことが書かれている。
この当時の鎌倉保育園は、京城府で収容した「孤児」「迷児」「棄児」「遺児」を養育する業務が中心で、収容児一人について毎月9円が京城府から支給される。その前年までは16歳まで支給されてきた養育費が、この年から年齢上限が引き下げられて13歳までとなった。
学齢前の幼児たちは、南大門外のセブランス病院内の幼稚園に通わせ(4名)、学齢に達した児童55名は普通学校(朝鮮人向けの6年制初等教育学校)に通わせている。公立の普通学校には14名、それ以外の児童は、攻玉普通学校や攻玉女子普通学校に通っている。
この当時、朝鮮人には義務教育はなかった。このため公立の普通学校に行くには選抜試験があり、親の資産や思想なども合否の判定材料とされた。私立の攻玉普通学校・攻玉女子普通学校は南大門通三丁目、現在の南大門市場セロナショッピングの場所にあったが、私立普通学校は施設や設備も貧弱だった。しかし、朝鮮人の未就学児が少なくなかった当時、養護施設から公立に14人、私立に41人を就学させることは並大抵のことではなかったであろう。
さらに、上級学校の培材や徽文、第一などの高等普通学校に進学する例もある。また、内地人の児童が3人いて、そのうち2人は小学校に通っている。そのほかに、「内鮮婚」の子供で内地人の名字を名乗っていながら普通学校に通っているケースがある。
普通学校を終えて、園が経営している光煕町にある印刷工場で働いているのが19名、その他外部で商売などしている園出身者もいる。
内地人の園児は三坂小学校に通っていたのであろう。三坂小学校の同窓会誌『鉄石と千草』(1983)には三坂通の色々な思い出が綴られているが、ごく近くにあったはずの鎌倉保育園のことは全く出てこない。数十人から百人くらいの同年代の児童らがいたはずなのだが、綴じ込みの思い出マップにも鎌倉保育園の表示はない。
時代は戦時色を一気に強め、日中戦争から国家総動員体制となり、内鮮一体と皇国臣民化、国語常用、創氏改名などが推し進められていく。その中で、鎌倉保育園京城支部ではどのような変化があったのか、そうしたことに触れた記録や資料は今のところ見当たらない。
1940年8月16日、佐竹音次郎が永眠。鎌倉美以教会にて佐竹音次郎の葬儀が行われた。
1942年、京城支部の設立当初、主任として施設の開設のために働いた須田権太郎が鎌倉の本園から京城支部に戻ってきた。曽田嘉伊智は須田権太郎に責任者を委ね、自らは相談役に回った。さらに1943年秋、牧師が不在となっていた元山メソジスト教会に定住伝道師として赴任するため京城を離れた。しかし、タキ夫人は引き続き京城支部に残って園母の役割を担った。
1945年8月15日、水曜日の正午に「玉音放送」が流れた。大日本帝国は敗戦の日をむかえることになった。
京城では野菜の配給はすでに停止していた。鎌倉保育園の園児たちは、食べられる雑草を集めてそれを食事の時に調理していた。15日以降、主食の配給も止まった。150名の園児と、内地人4人、朝鮮人12人の職員は、ヤミの食糧を得ることもできないまま、なんとか手持ちの食糧で運営を維持していた。ところが、8月末に火災が起きて、鎌倉保育園京城支部の建物は、物置を除いて全て焼失してしまった。
かろうじて焼け残った物置と、そばにあった三坂秀英学院を借りてそこに園児たちを避難させた。三坂秀英学院は、無産階級の子供達向けの補習学級のような私塾で、建物はトタン葺きのあばら屋であったが、とりあえず雨露はしのげた。
日本の敗戦は、各社会団体に1945年度の京城府からの交付金が出る前で、しかも8月15日以降、役所の業務は休止状態になった。資金は枯渇し食糧も調達できない。職員の一人が、龍山の日本軍の糧秣倉庫の塵に穀物が混じっているらしいという話を聞き込んできた。日本軍と交渉して倉庫の床の塵をもらい受け、須田権太郎たちの男性職員総出で倉庫から運び出し、その塵の中から女性職員や園児が米や豆を選り分け、これを食料にした。また、早目に引揚げを決断した内地人が捨てていく非常食の乾パンなどを貰い受けた。
9月上旬、沖縄にいたホッジ中将を司令官とするアメリカ第24軍が仁川に上陸して京城に入ることになった。当初は7日に京城入城ということで、日本軍は6日までに大田まで撤退することが命じられた。実際には、天候の関係でアメリカ軍の到着は8日にずれ込んだが、京城の日本軍は6日未明には移動を完了した。
日本軍の施設の中に、敗戦直前に完成した新しい施設が鷺梁津(漢江の南岸)にあり、その施設の部隊長に須田権太郎が直接掛け合って、撤退後の施設を鎌倉保育園京城支部に無償で提供してくれることになった。寝具や食料などもそのまま使えるように手配された。9月6日の日本軍撤退後にそこに移動する予定であった。
ところが日本軍が部隊を移動させた途端に群衆が日本軍の施設に押し寄せ、食料や備品はもとより、建物そのものも解体して持ち去ってしまった。鎌倉保育園京城支部は行き場を失った。
やむなく、それまでの人脈をたどって朝鮮建国準備委員会の有力メンバーなどと交渉したが支援は得られず、京城で結成された日本人世話会にも相談を持ちかけたが、内地人の引揚げで手いっぱいだと断られた。
結局、アメリカ軍政府に直接支援を要請して、10月中旬になってようやく園児たちを朝鮮側で運営していた3つの孤児施設に分散して収容することができた。
さらに、須田権太郎や髙橋芙蓉とその家族などの内地人は日本に引揚げなければならなかった。鎌倉保育園京城支部は、朝鮮の植民地支配の終焉とともに幕を閉じることになった。引揚げに際しては、全く身寄りがなく朝鮮を本籍とする戸籍が登録されていない園児については、鎌倉の本園に連れて行くことになった。
植民地支配下の朝鮮では、本籍が内地にあれば「内地人」、朝鮮に本籍があれば「朝鮮人」であった。本籍を移すことはできなかった。施設に収容される子供達は、出自が判明していることもあったし服装や言語によって区別できることもあった。しかし、乳幼児などは判断できないケースも多くあった。1938年12月の『毎日申報』に、迷児や棄児についても戸籍を作るようになるとの記事がある。収容された場所を本籍にするというものである。それ以前は身元不明の子供たちの「戸籍」がどうのような扱いになっていたのか定かではない。
引揚げには下のような特別輸送乗車船証明書の交付を受ける必要があった。ただし6歳未満の子供はこの証明書は不要とされた。しかし、困難が予想される引揚げの道中のことを思うと連れて行ける子供の人数はさほど多くはなかったであろう。
元山に行っていた曽田嘉伊智は音信不通のままであった。さらに、他の施設に分散して送った園児たちが鎌倉保育園の焼け跡に戻ってくるということがしばしば起きていた。京城支部では園内で園児たちに日本式の生活や教育をしていたこともあり、園児たちは朝鮮の施設に馴染めなかったり、京城支部の職員に会いたいといったことで戻ってきたのだった。そうしたことから、曽田タキは、須田権太郎たちと一緒に引揚げるのではなく、そのまま京城に残留することを決断した。
須田権太郎など京城支部の日本人職員が、身寄りのない子供達(人数の記録なし)を連れて鎌倉保育園本園に帰着したのは、この年の11月25日であった。他の引揚げ記録などを参考に逆算すると、11月18〜19日に龍山駅から引揚げ列車に乗車したものと思われる。
鎌倉保育園の記録では、ここで「京城支部からの引揚げは完了」となっている。


















































