ソウル駅前「陽洞(ヤンドン)」再開発 | 一松書院のブログ

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 ソウル歴史博物館のサイトのソウル歴史アーカイブ(서울역사아카이브)に、厚岩洞フアムドンを紹介する電子ブックがアップされている(서울생활문화자료>자료조사>자료소개>용산구>후암동)。厚岩洞は、日本の植民地時代の三坂通、吉野町で、その周辺には古市町(東子洞トンジャドン)、岡崎町(葛月洞カルウォルドン)、練兵町(南営洞ナミョンドン)があり、一帯にはところどころに日本家屋が残っている。

 その電子ブックに、朝鮮戦争の戦災後の写真が掲載されている(81/ 468、撮影日時不明:写真A)。ちょうどソウル駅の駅前の一帯を上空から撮影したものである。旧御成町、旧古市町、旧吉野町といったあたり。

この部分を、GoogleEarthで今の街並みを見るとこうなっている(写真B)。

1936年発行の『大京城府大観』ではこうなっている(写真C)。これは1935年8月25日に撮影した航空写真をもとに描かれた鳥瞰地図。

 

 電子ブックの写真Aの中央部に空き地のように見える場所がある。A・B・Cの同じ部分を並べてみた。

 

 ここが、以前のブログ「古市町10番地 ひとのみち教団』に書いた「ひとのみち教団」が1935年から1937年4月まで京城支部布教所をおいた場所、古市町10である。

 朝鮮戦争以降とされる写真Aでは、基礎部分らしきものが写っているが、中央の画像Cの左下に「1」と振られている建物はない。

 

 この場所と思われる映像が1963年10月に封切られた映画「血脈」に出てくる。この場面。


 旧御成町から旧古市町のこの一帯は、解放後、地名が陽洞ヤンドンと変えられた。この映画の舞台は、1946年解放直後のソウル駅前の陽洞。「板子家パンジャジップ」「箱房ハコバン」と呼ばれる粗末な小屋が立ち並ぶスラムに暮らす家族の物語である。彼らは38度線以北から避難してきた人々であった。

地番入新洞名入ソウル案內(1946)

 日本の敗戦後、ソ連軍が進駐してきた北緯38度線以北から日本人は引揚げのために南下した。朝鮮人の中にも南に避難する人々がいた。また、「募集」「官斡旋」「徴用」という名目で日本内地に強制連行されていた人々が日本内地から続々と戻ってきていた。これらの人々の大半は住まいのない人々で、「戦災民チョンジェミン」と呼ばれた。戦災民の一部は、日本人が去った後の遊郭などの施設に収容されたりもしたが、多くは防空壕や自力で建てた小屋に住まざるを得なかった。朝鮮戦争の始まる前のことである。

 

 映画「血脈」は、1963年に、この陽洞のスラムで撮影されている。

 この場面で、後ろに映り込んでいるのは現在の南大門教会である。

『宣教新聞』2010-08-16付記事より

 南大門教会は、1885年にアレン宣教師夫妻などによって建てられた済衆院教会が前身で、1904年に済衆院が南大門外に移転してセブランス病院となり、教会もここに移転した。教会堂は今のものではない。セブランス病院の裏手にはセブランス医専があり、解放後はセブランス医科大学となった。1957年に延禧大学校と統合して延世大学校となるのだが、そのセブランス医大の横に1950年代後半に建築されたのが現在の南大門教会の会堂である(上掲写真)。

 解放直後という時代設定とは矛盾するのだが…。

 

 映画「血脈」のあの広場の場面にも、もう一つの教会が映っている。

 これは、いま東子洞にあるソウル城南ソンナム教会である。この教会の会堂は1961年11月に完成したもの。従って、これも映画の時代設定とはズレがある。

現在のソンナム教会(Google3D地図)と位置

 もともとこの場所には、植民地時代に天理教布教管理所があった。日本の敗戦直後、北部朝鮮から脱営してきた日本兵が京城駅にたどり着くと、この天理教の施設に収容されていたという。

井上寿美子 「遥かな追憶」

平和祈念展示資料館 海外引揚者が語り継ぐ労苦(引揚編) 第5巻 

 

 日本の朝鮮からの引揚げに伴い、日本政府(朝鮮総督府)及びその傘下の機関、それに各種社会団体、法人、民間人が所有あるいは支配していた財産は、「帰属財産」あるいは「敵産」とされた。それらは当時の南部朝鮮の総資産の70〜80%を占めていた。これらは米軍政庁の管理下に置かれ、それぞれに法的・行政的措置が取られることになっていた。しかし軍政当局の処理が始まる前に、日本側が朝鮮人側に売却したものもあった。上記井上寿美子の両親の家も朝鮮人に売却している。米軍政当局はこうした売買を無効としたが、実際にはそのままになったものも多くあった。

 天理教布教管理所がどのように処理されたのか、その経緯は不明だが、1946年6月にはここにキリスト教長老派の神学校が開かれるという報道がある。そして、それが後日ソンナム教会になるのである。

 

 こうした映り込んでいる建物などを検証すると、映画「血脈」に出てくる広場は、植民地時代の古市町10、すなわち「ひとのみち教団」の施設があり、その後高村甚一が買い取った場所ということでほぼ間違いなかろう。


この一帯の区画では、1970年代に入って大宇テウ財閥がソウル駅前の開発に乗り出し、1976年に大宇ビルをソウル駅前に竣工させ、この地域の様相が変わり始めた。

 さらに1979年、ヒルトンホテルの建設計画が持ち上がった。映画「血脈」の舞台になったスラムとその下の広場がその敷地である。
 植民地時代にこの広場部分を所有していた高村甚一は、京城府立城東中学設立のために多額の寄付をし、学校の支援目的で「高村財団」を設立していた。この「高村財団」の資産は、「帰属財産」とならずに、韓国の「蛍雪財団」に引き継がれたものとされた。ただ、このひとのみち教団の跡地が「高村財団」の資産となっていたかどうかはわからない。「帰属財産」として処理されたのかもしれない。

 1979年9月にはホテルの建築許可が下りたのだが、その直後に朴正煕大統領の暗殺事件が起き、さらに一部の用地買収が進まずに着工できない状態が続いた。

 1980年7月、陽洞という地名のイメージがよくないというので南大門路5街に変更になった。今は陽洞というのは昔語りにしか出てこない。ただ、ヒルトンホテルができた頃でも、ソウル駅前の陽洞というと、「スラム」「私娼窟」といったイメージがあった。1984年の映画「鯨捕り」で、失語症の娼婦チュンジャを私娼窟から救出するミヌとビョンテは、ソウル駅前に脱出してくる。

 

 1981年3月、全斗煥大統領が就任して第五共和国が出帆すると、ソウル市は、市内の再開発のために再開発地域の2/3以上の所有権を有するものに収用権を与えるという都市開発法改定案を政府に建議した。この時、ヒルトンホテル建設を請負った企業体が、7,652坪を買収していたのだが、186坪を所有していた4人の地主が高額買い取りを要求して折り合いがつかず、ホテル建設に着工できない状態が続いていた。このため、全斗煥大統領が権力の座に就いたのをいいことに、開発独裁の発動と開発最優先の政策遂行ができるような都市再開発法の改定が進められることになった。

 

 政府は、ヒルトンホテル建設を前提に1985年のIMF年次総会と中央銀行総裁会議開催をソウルに誘致しており、全斗煥政権としてもヒルトンホテルを早期に完成させる必要があった。この時の都市開発法の改定によって、売却に応じなかった186坪を強制収用して工事が始まった。

1976年航空写真

 1983年12月7日にヒルトンホテルは営業を開始した。

1984年航空写真

 ホテルは完成したが、高層ホテルの窓から下を見下ろすと、眼下にはパンジャジップ(판자집)がびっしりと立ち並んでいた。下の写真は、1988年のものだが、すでに陽洞のスラムの部分は駐車場になっている。この部分には障害者のコミュニティなどもあったというが、1984年の春に全てが一気に撤去された。

 

 これ以降、1986年のソウルアジア大会、1988年のソウルオリンピックに向けて、スラム街・貧民街が市内中心部から追い立てられ、周辺部に移っていくことになる。

 そして1981年の都市開発法の改定は、不条理な立ち退きを迫られた人々の抵抗を、警察が過剰な実力行使で排除しようとして多数の死者を出した2009年の「龍山ヨンサン惨事」にも繋がっていくのである。