『京城精密地図』(三重出版社京城支店 1933)の三坂通(現在の厚岩洞)の南山よりのところに「鎌倉保育園」という記載がある。

この施設は孤児のための児童養護施設で、佐竹音次郎によって設立された。
佐竹音次郎は、土佐の幡多郡下田村竹島で1864年に生まれた。上京して私立医学校済世学舎を出て医術開業試験に合格して医者となり、1894年に鎌倉の腰越で「腰越医院」を開業、2年後には児童養護施設である「小児保育園」を併設した。自身が重い病にかかり、それが快癒すると1902年に鎌倉の教会で洗礼を受けてクリスチャンになった。その後、佐竹音次郎は夫人熊子とともに、児童養護施設運営に専念することにした。有力支援者から寄贈を受けて鎌倉佐助ヶ谷に施設を移転し、腰越在住の子爵秋月種繁から書画の寄贈を受け、その紹介で子爵曾我祐準の知遇を得た。曾我子爵のつてで政界の有力者、書家などの揮毫を受け、その頒布会を開いて資金を集めた。
資金集めの頒布会で大連・京城を訪問した際、その地にも子供達のための施設の設立を決意。1913年、旅順と京城にそれぞれ支部を設立して外地での養護施設運営に着手した。京城には、鎌倉小児保育園で成長した須田権太郎と戸倉豊子を責任者として送った。婚約していた二人は、当時京城の長谷川町にあった日本基督教会京城教会で結婚式を挙げ、夫婦で京城の施設の立ち上げと運営に当たった。
1913年8月11日、「鎌倉保育園京城支部」は開設された。当初は、上記地図にある三坂通ではなく、漢江通十三番地(三角地)の借家に置かれた。
社会福祉法人聖音会ホームページより
写真左側の男性が佐竹音次郎、右側でしゃがんでいるのが須田権太郎
中央の女性が戸倉豊子、その横で子供を抱くのが佐竹熊子
最初に預かったのは内地人の迷子や孤児5人で、朝鮮人の子供の入園者はなかなか出てこなかった。須田夫妻は、バリカンを購入し、それを持って土幕民集落を訪ねるなどして散髪をしながら預かるべき「不遇の」朝鮮人の子供を探した。周囲からの経済的な支援もない中での運営は困難を極め、須田夫妻の食事は龍山に駐留する日本軍の残飯であった。当初は、内地児童と朝鮮児童を一緒に養育しようとしたが、難しい点も多く、内地人の子供達は鎌倉の施設に移して京城支部は朝鮮児童を中心とする施設とすることになった。
この頃、姜振馨が通訳兼職員となった。彼は咸鏡道出身のクリスチャンで、福祉事業に強い関心を持って京城のYMCAで活動していたという。あるいは、YMCAで後述する曽田嘉伊智から日本語を学んだのかもしれない。
須田夫妻の地道な努力もあって、1917年には京城府から須田(佐竹)権太郎が篤行者として表彰されるまでになった。朝鮮総督府の機関紙であった日本語の「京城日報」と、朝鮮語の「毎日申報」に報じられている。
須田権太郎は、佐竹権太郎と名乗っていた。佐竹音次郎に敬意を表し、佐竹の鎌倉保育園であることを示すため「佐竹」姓を名乗っていたのかもしれない。
さらに、5月17日付の「京城日報」が、鎌倉保育園を訪問取材した写真入りの記事を掲載した。この取材時には、須田権太郎は不在で、妻豊子が応対した。4歳から18歳の16名の朝鮮人の子供達がいて、朝鮮語ではなく日本語を使い、朝夕には賛美歌を歌い、お祈りをしている。軍隊の残飯で豚を飼ったり、鶏を飼ったりしているなどと語っている。
この記事は、2日後の19日付で朝鮮語の『毎日申報』にも掲載された。
翌1917年6月に佐竹音次郎が京城支部を訪ねた時には、子供は22人になっていた。
中央で子供を抱いているのが佐竹音次郎と熊子
後列左端が須田権太郎、一人置いて豊子
中央で白い朝鮮服を着ているのが姜振馨
三角地の借家では手狭になり、もっと広い新たな施設への移転を検討し始めた。その候補に挙がったのが、三坂通の朝鮮銀行社宅の奥にある旧典牲署の敷地と建物である。典牲署は、朝鮮王朝時代に宮中の祭祀で用いる生贄を司った役所で、ここで、牛・羊・山羊・豚などの飼育もしていた。1894年の甲午改革で廃止され使われなくなり、併合後の1914年7月、朝鮮総督府は典牲署の土地と建物の入札払下げの公示をした。敷地が1300坪、建物が11棟170坪という物件だったが、家畜の飼育や屠殺をしていたため、入札がなかったのかも知れない。払い下げられないままになっていた。
佐竹音次郎は資金面では常に苦労していたが、上述の書画の頒布会を通じて総督府上層部に人脈ができていた。また鎌倉の施設支援を通じて親交があった内村鑑三や堺利彦の人脈もあった。萬朝報の英文欄を担当し、1909年4月にThe Seoul Press Weeklyの発行人兼編集人となっていた山縣五十雄もその一人であった。さらに、キリスト教を通じて、日本基督教会京城教会の長老であった朝鮮高等法院長渡辺暢ともつながりがあった。山縣や渡辺は鎌倉保育園京城支部の評議員になっている。
こうしたこともあってのことであろう。旧典牲署の敷地と建物を、払い下げではなく無償供与というかたちで使用することが認められた。1917年7月31日、鎌倉保育園京城支部は、三坂通370番地に移転した。現在この場所には永楽保隣院(後述)がある。
旧典牲署に移転直後の鎌倉保育園京城支部(『鎌倉保育園70年史』より)
1918年になると、京城府からの委託児童養育が始まるようになり、運営は多少安定してきた。4月から5月にかけて『毎日申報』に掲載された迷子の記事で、いずれも鎌倉保育園で一時保護されているとなっており、こうした保護業務が鎌倉保育圏に委託され、その経費が貴重な財源になった。
さらに、当時鍾路在住の朝鮮人資産家として名の知れていた全命基から20円の寄付があった。これが3・1運動前の「武断政治」の中で唯一の朝鮮語媒体であった『毎日申報』で報じられたことの意味は大きかった。
尹致昊は『尹致昊日記」1919年7月10日で次のように佐竹権太郎について書いている。
JULY, 1919 10th. Thursday. Beautiful morning.
After breakfast, went with 致昌 to the 鎌倉保育園支部 outside of the South Gate. The Home For Destitute Children is located on the southern side of Namsan―buildings which were 典牲署 in olden days. The site commands a fine view surrounded by wooded hills. The Home is under the management of the 佐竹權太郞 a fine-looking Japanese Christian. He has about 25 children under his care and some old folks too. His father is the Father of the Kaudenra Home for Destitute Children. They are doing a piece of real good work.尹致昊日記 七巻
時期は不明だが、金允植も次のような漢詩を佐竹権太郎に贈っている。
『雲養續集』卷之一 詩
尹致昊、金允植といえば、朝鮮の近代史では必ず登場する人物。京城府からの業務委託だけでなく、このように朝鮮人有力人士たちの認知度も上がり、さらに園内に小さな印刷工場を併設運用し、鎌倉保育園京城支部の運営は軌道に乗り始めた。
ところが、1920年に須田権太郎・豊子夫妻は支部を退職することになった。その理由はさだかではない。20年後の1941年に再び京城支部に赴任して責任者となっている。須田権太郎の名前は『社会福祉人名資料事典』(日本図書センター 2003)にも掲載されており、それによれば、「鎌倉保育園に明治43年に就任以来会計経理事務を担当し(中略)特に戦中戦後の困難な施設経営の一翼を担い」とあって、1956年には黄綬褒章を受けている。そうしたことから考えると、鎌倉保育園内の事情で、京城支部から鎌倉の本園に戻したものと考えられる。
須田権太郎・豊子夫妻が京城支部を去った年の初夏、京城明治町2丁目で聖書販売店を開いていた曽田嘉伊智を佐竹音次郎が訪ねた。佐竹音次郎は、1913年に鎌倉保育園京城支部を設立する際、知人の紹介で曽田嘉伊智を京城明治町の聖書販売店に訪ねたことがあった。7年後のこの時、曽田嘉伊智は佐竹音次郎の依頼に応じて鎌倉保育園京城支部の相談役を引き受けた。
曽田嘉伊智は、1867年に長州の熊毛郡曽根村(現平生町)で生まれた。ノルウェー船の船員になって香港に渡り、その後台湾でドイツ人の会社で働いていた。その時、台湾の山中で倒れたところを朝鮮人に助けられたことが縁で、1905年に大韓帝国に渡ることになり、漢城(京城)のYMCAで日本語の教師となった。その前後にキリスト教に接しクリスチャンになっている。
1908年、41歳の曽田嘉伊智は、上野タキ(瀧子)と結婚した。タキは唐津の出身で長崎の梅香崎女学校(のちの下関梅光女学院)を卒業して、京城の日の出小学校の教員となった。曽田嘉伊智は明治町二丁目でアメリカの聖書会社の聖書販売店を開いて販売伝道を始めた。タキは、店での販売のかたわら、淑明女子専門学校や梨花女子専門学校で英語を教えた。
翌1921年春、佐竹音次郎は再び曽田嘉伊智を訪ねて、今度は鎌倉保育園京城支部の責任者としての就任を打診した。肯定的な返事を受けると、すぐその晩に渡辺暢(高等法院長)宅で鎌倉保育園京城支部評議員会が開かれ、曽田嘉伊智を鎌倉保育園京城支部の主任として迎え入れることが決定された。翌日、山縣五十雄(The Seoul Press Weekly社長)が曽田嘉伊智を直接訪問して正式に就任を要請した。
実はこの頃の京城支部の実情を書いた『京城日報』の記事がある。1921年3月9日から5回連載で「孤児は何処へ行く」という記事が掲載され、朝鮮総督府と京城府の社会事業について触れ、児童養護施設について詳述している。この連載では、救世軍育児ホーム、聖保録嬰児孤院、孤児救済会、和光教園などとともに、第3回で鎌倉保育園京城支部を取り上げている。
鎌倉保育園京城支部について、1920年の経費は年額(月額の誤りか?)60余円、特別基本金1000円を保有しており、1921年11月に京畿道から500円、総督府から1000円の補助金をうけているとある。
曽田嘉伊智・タキ夫妻が鎌倉保育園京城支部の責任者として運営にあたることとなったのは、1921年初夏。まさにこの時期である。補助金でかなり安定した基盤はできつつあったが、園で成長した子供たちの職業訓練が課題であった。印刷機を手に入れて印刷部を置き、バスケットや靴下の製造も始め、確保した資金で老朽化した建物の修理などにも着手した。
朝鮮総督府発行の月刊誌『朝鮮』の1921年6月号にも鎌倉保育園京城支部の記事が掲載されている。ちょうど曽田夫妻がこの施設に関わり始めた時期に取材して、掲載された記事と思われる。
翌1922年1月には、総督府の社会事業奨励金として鎌倉保育園京城支部は1300円を受領している。
順調に進むかと思われていた1923年春、鎌倉の佐竹音次郎が健康を害し、曽田嘉伊智に対して鎌倉保育園本園の理事職への就任を依頼した。しかし、曽田嘉伊智は、京城を離れることができないとしてこれを受けなかった。その9月、関東大震災が起こり鎌倉保育園も大きな被害を受けた。佐竹音次郎は健康が優れなかったが、鎌倉保育園の再建に奔走した。
ところが、1924年1月末、今度は京城の曽田嘉伊智が病いに倒れた。総督府病院で3ヶ月療養したが病状が改善せず、タキとともに故郷山口に帰って療養することとなった。曽田夫妻の不在の間、姜振馨が京城支部の維持に奮闘していたが、大和与次郎の夫人露子が毎日のように園に通って園母の役割を果たした。大和与次郎は、曽田嘉伊智と香港で出会い、生き方や考え方は全く異なっていたにも関わらず、京城でも深い付き合いがあった。大和与次郎は、1920年の第1回京城府協議会議員選挙に出馬して当選し、朝鮮運輸連合会の会長として新たに「朝鮮運送会社」を立ち上げて社長になるなど京城実業界の名士であった。曽田嘉伊智夫妻が不在となった施設に自分の妻を手伝いに行かせた。姜振馨や大和露子が努力したが、授産事業はうまく回らなくなり、資金繰りも苦しくなり、基本金を取り崩すところまでになった。翌1925年、曽田嘉伊智の健康はかなり回復し、京城支部に復帰することができた。
当時は、こうした社会事業の経営や運営は、個人の人脈や熱意、献身的な努力に大きく依存せざるを得なかった。














