古市町10番地 ひとのみち教団 | 一松書院のブログ

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 朝鮮総督府の嘱託として朝鮮の経済や社会の調査に従事した善生永ぜんしょう助は、1932年の「特殊部落と土幕部落」(『朝鮮』209号 1932年10月)に、こう書いている。1930年時点での実態調査によるものだという。

◎京畿道京城府古市町十番地
古市町十番地にて南山寄りの高臺に位置す。部落名なし、私有地なり。
大正十四年(1925)頃朝鮮神宮裏参道道筋に散在し居りたりしを、神域なるの故を以て、彼等に退去を命じたる處、現在地に轉住し、最初は約十五六戸に過ぎざりしが、年々增加して現在數に達せり。
所帯数五八戸 人口二六五

 1936年至誠堂発行の『地番区画入大京城精図』で調べると、古市町十番地は、南廟の北側、吉野町2丁目の西北に隣接するのこのあたりになる。

 

 KakaoMapと1936年8月発行の『大京城府大観』とを比較してみると、現在のヒルトンホテルの駐車場から退渓路テゲロ側の大宇テウ財団ビルディングのあたりではないかと推定される。この当時は、現在の退渓路は存在しなかった。

 そして、『大京城府大観』には、この古市町十番地のあたりに「人の道教團」という記載がある。

 

 「人の道教團」とあるのは、現在のPL教団の前身「扶桑教 ひとのみち教団」の京城支部布教所である。

 「ひとのみち教団」は、京城の本町2丁目87に布教所を設置することを1934年1月10日に朝鮮総督府に届け出ている(1934年9月4日付朝鮮総督府官報)。その後1936年7月7日には、布教所を本町から古市町10に変更する届けを出した(1936年9月5日付官報)。

 さらに、雑誌『朝鮮及満洲』が、この1934年の11月号に「京城の[ひとのみち]教を探る」という記事を掲載しており、その内容からもう少し詳しいことがわかる。

 京城に進出した「ひとのみち教団」は、1933年初夏から本町2丁目を拠点に京城での布教活動を始め、かなりの信者を獲得して、1935年末に古市町の高台に200畳敷の本殿と付属建物を建てて移転したとある。古市町の施設は、まだ仮の施設とはいうものの土地購入と建物建設にかかった費用が12万円。現在の貨幣価値にすると4億から5億円以上ということになろう。

『朝鮮及満洲』1936年11月号

 

 『大京城府大観』は、京城で日本語の新聞「朝鮮新聞」を発刊する朝鮮新聞社が、1935年から36年にかけて、作製・販売した地図で、京都の地図製図師小野三正が写真を参照しながら建物なども描いた俯瞰図である。航空写真の撮影は1935年8月24日午後2時30分から、小野三正立会いで500メートルの高度から東西3コース、南北7コースで約2時間かけて行われた。したがって、8月にはひとのみち教団の建物は形になっていたと考えられる。

 地図には、地名や公共機関に加え、朝鮮新聞社で募った協賛店名なども書き加えられている。下部に協賛一覧があって、各町・洞ごとに協賛者に番号が振られ、その番号が地図の該当箇所に記載されている。

 「ひとのみち教団」も、協賛欄に記載がある。協賛索引で、古市町の欄の1に掲載されており、地図上に1の番号が振られた建物が見える。これが『朝鮮及満洲』の記事にある「200畳敷の本殿」であろう。

 

 『大京城府大観』とほぼ同時期に編集されていた中央情報鮮満支社『大京城写真帖』がある。この219ページにも「ひとのみち教団」の写真がある。建物の外観はなく、1の建物の内部と思われる写真が掲載されている。

 この写真集の発行日は「昭和121937年5月5日」なのだが、この日付の頃には「ひとのみち教団」京城支部は、すでにほぼ消滅していた。

 

 1936年9月末、教祖御木徳一みき とくはるが信者の娘に対する強姦容疑で逮捕された。雑誌『朝鮮及満洲』が11月号でこの教団を取り上げたのも、そのスキャンダルがあったからである。この記事の最後はこう結ばれている。

所が神にお祈りして此信徒の不幸や病氣を本人の身代はりとなつて助ける(所謂御振替)と云ふ教祖三木(ママ)德一が神殿奥深き所で神の威光で奉侍の小女十餘名を試食したと云うのだから全く驚かざるを得ない。エライ神さんもあつたものだ。

 さらに翌月の同誌12月号にも「ひとのみち教団」の告発記事が掲載された。この記事では、満州国関東局長談話の形式で11月16日に発表された関東局警務部の見解を紹介しつつ、大連・新京・奉天のひとのみち教団が「インチキ宗教」を広めており、教義内容が極めて「不敬」であると強調している。

 すなわち、満洲国当局による「ひとのみち教団」潰しの動きを紹介することで、朝鮮における「ひとのみち教団」潰しキャンペーンに一役買ったものである。この宗教団体を管轄していた京畿道警察当局も、早くから「ひとのみち教団」に対して監視と情報収集を進めていた。

 

 日本内地では、1937年4月に「ひとのみち教団」に対して結社禁止が発令された。このニュースは、4月28日のラジオ放送で朝鮮にも伝わった。翌日の「京城日報」も早速これを伝えている。

 「ひとのみち教団」京城支部の対応は非常に素早かった。29日からの朝詣の行事を中止とするとともに自発的に布教所の閉鎖を決定し、朝鮮の地方に置かれた布教所にもその旨を通達した。京城の日本語新聞「京城日報」「朝鮮日報」の両紙は、5月4日付で閉鎖される布教所の記事をに掲載している。

 これより先、京城支部の幹部は、京畿道の高等警察保安課長を訪ねて教団支部解散と謹慎の意を伝え、管轄の本町警察署にも出向いて同様の意向を伝達した。さらに、信者たちには信仰の対象となるものを古市町の布教所に持参させ、それを5月5日に弘済外里の河原(火葬場の先の土幕民収容施設向上台の前)に運んで全て焼却した(1937年5月15日付京畿道警察部長発(秘)報告)。京畿道警察の高等課は、内通者を通して「ひとのみち教団」の監視を続けてきており、警務局長と検察局、各道の警察部長と管内の警察署長に逐一報告がなされていた。

 朝鮮総督府は、5月5日付の「朝鮮総督府官報」で、古市町の布教所、それに大田、大邱、釜山、馬山、元山、咸興の布教所の使用禁止を公示した。

 教団京城支部の幹部は、京城神宮に出向いて参拝して転向の意向を表明し、神社境内の清掃などの奉仕活動を実践するようになっていた。さらに、古市町10番地の「ひとのみち教団」布教所の土地と建物などについても、自主的に整理するとして、早々に売却に向けて動き出した。その結果、5月17日に、教団幹部の三木清一の東四軒町の自宅で整理委員会が開かれ、この席で95,823円60銭で高村甚一に教団の不動産を売却することが決定された(1937年5月24日付京畿道警察部長発(秘)報告)。

 いわば事故物件となった高額不動産なので、簡単に買い手がつくとは思えないにも関わらず、3週間もたたずに売却が決まった。

 

 こうして『大京城府大観』に描かれていたひとのみち教団は、日本の植民地支配下の朝鮮からその姿を消すことになった。

 

※2019年7月24日

『大京城府大観』の航空写真撮影についての『朝鮮新聞』記事関連部分を追記

※2019年8月2日

タイトルを変更して、高村甚一に関する部分を削除