朝鮮語奬勵試驗(1921ー1937) | 一松書院のブログ

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 1921年3月11日付『京城日報』に、「朝鮮語奨励手当に関する件」が内地の官報で公布されたことが伝えられた。

 1920年代に韓流ブームがあったわけではない。ハングル能力試験(ハン検)とか韓国語能力試験(TOPIK)のような試験ができて、それに合格すると「朝鮮語奨励手当」がもらえるという制度である。ただし、これは、企業人や一般市民・学生を対象とするものではなく、朝鮮総督府の役人限定のものであった。

 1921年3月12日付の「京城日報」にこのような記事が出た。

朝鮮語を内地人吏員に普及せしめ行政上便宜を得せしむると共に内鮮融和に資せしめんとする事は新政綱中にも聲明せられたる所なるが從来は學校教員の一部及び巡査憲兵に對する小額の通譯手當を給與するのみなりしが尚ほ特に奬勵の意味を含めて學校裁判所及各行政廰を統一し之等判任以下の職員に対し一定試験の合格者を選定し奬勵手當を給與せんとするものなり

 当時、1919年の31独立運動で植民地統治方針の見直しを迫られた日本は、武断政治から所謂「文化政治」へと転換をはかっていた。その中で「行政上便宜」を目的として始められたのが「朝鮮語奨励手当」であり、その受給資格を得るための「朝鮮語奨励試験」が始められた。

梶井陟 山田寛人 呉大煥などの研究あり)

 朝鮮総督府は、1920年8月に『朝鮮に於ける新施政』を出した。その60ページに「朝鮮語の奨励」という項目がある。これが上記記事にある「新政綱中にも聲明せられたる所」である。

 当初、朝鮮語奨励試験には甲乙の二種類の試験が設けられ、乙種は各所長官の推薦によって各道ごとに行われ、乙種に合格したものが甲種の試験を受けるとなっていた。受験科目は「解釈」「訳文」「書取」「対話」。手当については、1等から5等に区分され、甲種合格の1等が50円、2等が30円、乙種合格は3等20円、4等10円、5等10円以下となっていた。

 

 ちなみに、私の祖父は統監府時代の1910年に朝鮮に渡り、判任官四等で55円だったという。1918年に役人を辞めて転職したが、在任中に俸給は大して上がらなかったらしい。

 ところが、31独立運動後、1920年に総督府関連の官吏の俸給が大きく跳ね上がった。例えば、1920年10月に忠清道の巡査の俸給が一気に2倍以上になっている。内地人巡査の最高額は40円から78円に、朝鮮人の場合は37円が65円。最低は朝鮮人巡査の29円になった。「内鮮融和」といいながら、俸給表には内地人と朝鮮人との間にはっきりと格差があったことが示されている。

 

 俸給が上がったとはいっても、この給与水準で朝鮮語奨励手当の最高額50円というのは、かなりの額だったといえる。

 これは、内地人官吏向けの試験であり、朝鮮語を母語とする朝鮮人官吏は対象とはならない。にも関わらず、「東亜日報」は5月に試験委員長の青木総督府参事官の話を記事にしている。朝鮮人側でも関心をもって見守っていたのであろう。

 

 最初の朝鮮語奨励試験は乙種の試験で、8月25日と26日の両日行われた。京城での試験会場は京城中学(現在の京城歴史博物館の場所)で、洋服もしくは袴着用、筆と墨、硯を持参とある。

 乙種試験は京城だけでなく各道でも実施されることになっており、上掲記事で忠清道の清州でも行われていたことがわかる。清州で50名の受験者というのだから結構盛況だったといえる。1日目が筆記試験、2日目は口頭試験であった。

 

 初の甲種試験は、12月15日、16日、17日の3日間、京城永楽町2丁目(現在の乙支路3街の南側洞)法政研究会で行われた。

 

 この甲種試験は、本来は乙種試験合格者が受験するものだったが、この最初の試験と翌年11月の2回目の甲種試験までは、導入期の例外として所属長の推薦だけで受験を認めていた。

 1922年11月3日、4日に行われた2回目の甲種試験については、合格者名と講評が「毎日申報」に掲載されている。「京城日報」にも載ったはずだが、残念ながらこの前後の時期の紙面が残っていない。

 講評の中で、92名の受験者のうち、1等が3名 2等が15名、3等が21人の39名が合格、1回目に比べると合格率は下がっているが、学力水準は向上しているとしている。当初は、甲種試験は1等と2等であったが、実施前に制度が変更されて甲種が1等、2等、3等に、そして乙種が1等と2等となっていた。

 ちなみに、1等に合格した有田米藏は警察官署通譯生、隈部一男は京城專修學校書記、片山宗三郎は京城高等普通學校附設臨時敎員養成所出身でのちに裁判所通訳となっている。

 翌年1923年には、4月に乙種試験が行われ、8月に3回目の甲種試験が行われた。この甲種試験の結果は「京城日報」に所属官職つきで掲載されている。

 

 この時の試験からは、規定通りに受験資格が乙種試験の合格者だけとなった。

 この時の甲種1等合格者は、鍾路警察巡査、公州法院書記、全南谷城郡庁一般職、逓信局書記。2等合格者は、地方官庁一般職7人、警部補2名、専売局一般職、警部、刑務所看守、普通学校(朝鮮人の初等学校)訓導が各1名。3等合格者は、普通学校訓導2名、巡査2名、普通学校書記、警部、刑務所看守、地方官庁一般職、地方官庁技手、道庁雇員、逓信局書記、税関事務官、専売局一般職、専売局技手が各1名。

 

 朝鮮語奨励試験委員の感想談が掲載されている。

 試験委員長には朝鮮総督府の高等官が就くことになっていた。試験委員は朝鮮総督府または所属官署の官吏から任じられることになっており、朝鮮語のできる内地人が任命された。この感想(講評)は、試験問題の実際の出題・採点者である内地人試験委員によって書かれたものであろう。全体の印象とともに、試験のポイントやアドバイスなども語られている。試験委員は内地人だけではなく、各道の朝鮮人参与官・理事官や警視なども任命されていた。

さらに訓導レベルの官吏も試験委員になっていた。例えば、1922年の試験では全南潭陽公立普通學校訓導の丁基宣、1923年の試験では寶城公立普通學校副訓導崔錫琢が試験委員になっている。

 

『朝鮮総督府施政二十五周年記念表彰者名鑑』(1935年)

 

 その後1924年に朝鮮語奨励規定は改定されて、試験の種類が甲種と乙種から、第1種、第2種、第3種の試験に区分けされ、1924年の9月の第2種の試験からはこの改定規定が適用された。第1種は「朝鮮語の通訳に差し支えなき程度」、第2種は「朝鮮語もって自己の意思を発表するに差し支えなき程度」、第3種は「普通の朝鮮語を解し得る程度」とレベル分けされた。第1種の1等が月額50円の手当、第1種2等が40円、最も下のランクの3種の3等は月額5円の手当が支給されるとされた。

 

 この時期に出版されていた辞書の一つに、井口弥寿男『日鮮辞典』丁未出版社 (1920)があり、これはクリックすると国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。こうした辞書も学習に使われていたのかもしれない。朝鮮総督府の『朝鮮語辞典』が出版されたのも1920年。この辞書は日本の国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧できるし、韓国の国立中央図書館のデジタルデータも閲覧可能である。


 1925年に石井重次『朝鮮語奨励試験問題義解』(朝鮮印刷出版部)という本が出ている。

要するに「過去問集」である。初回から9回分の試験について問題と義解(模範解答)が載っている。

乙種試驗問題(大正十年八月施行)
甲種試驗問題(大正十年十二月施行)
乙種試驗問題(大正十一年八月施行)
甲種試驗問題(大正十一年十一月施行)
乙種試驗問題(大正十二年四月施行)
甲種試驗問題(大正十二年八月施行)
乙種試驗問題及義解(大正十三年五月施行)
第二種試驗問題及義解(大正十三年九月施行)
第一種試驗問題及義解(大正十四年一月施行)

 韓国の国立中央図書館にデジタルデータがあるので、ここから入って緑の部分をクリックすれば閲覧できる。

Mac、iPad、iPhoneの場合は下図参照。

 試験問題はなかなか難しい。この本で勉強すると、タイムマシンで100年前の京城の街に行った時には役にたつだろうが、今のソウルで使うと通じないかもしれない。

 

 この本は、1925年6月5日に発行されて、すぐに8月1日に再版が出ている。結構売れ行きがよかったのだろう。著者の石井重次は、1910年代の後半には朝鮮總督府裁判所書記として資料にその名前が出てくる。 

右訊問ハ立會書記タル朝鮮總督府裁判所通譯生ノ通譯ニ依リ之ヲ行ヒタリ.

於同日同廳

朝鮮總督府裁判所書記 石井重次

裁判所の書記としての通訳の実績から試験委員に任命されたのであろう。「京城日報」など新聞に掲載された講評談話もひょっとすると石井重次のものかもしれない。

 石井重次は、その後も朝鮮総督府や地方官庁の官吏の朝鮮語奨励に関連する業務をやっていたという資料がある。

 その後、1932年に燕岐郡の郡長を最後に引退して京城の三宅組に転職している。天下りであろう。

 

 1934年8月に出された『朝鮮総督府施政年報 昭和6年・7年』の「第20節 朝鮮語の奨励」に次のような記載がある。

大正十年朝鮮語奬勵規定實施當初合格者ノ員數ハ僅カニ五百六十名ニ過ギザリシモ昭和七年度末ニ於テハ合格者總員數四千二百六名ヲ算スルニ至レリ而シテ昭和七年度内ニ於ル狀況ハ第一種受驗志願者二十四名内合格者十四名、第二種受驗志願者九十四名内合格者二十六名、第三種受驗志願者五百三十五名内合格者百九十五名ヲ出シタル等朝鮮語學習者ハ遂年其ノ數ヲ増シ成績頗ル良好ナリ

 朝鮮語奨励試験初年度の1921年は560名が合格したとある。乙種と甲種の試験がそれぞれ一回づつで、甲種の1等、2等、3等合格者は40名程度と推測されるので、乙種1等、2等が500名以上いたことになる。その後、1932年までの12年間で合格者の総計が4206名なので、1年あたりの平均合格者数は350名程度。初年度合格者数よりも減少している。1932年の試験では、全受験者653名、合格者数は235名で、「遂年其ノ數ヲ増シ成績頗ル良好」という記述とは裏腹に受験者数、合格者数ともに減少していたことを示している。

 

 この朝鮮語奨励試験は、1937年2月12日・13日に行われた第1種試験を最後に廃止された。この時の試験では13名の合格者があった。彼らが最後の合格者となった。

 

 すでに明らかになっているように、日本による朝鮮植民地統治は、1937年を境に、それまでの朝鮮語・日本語の「二言語併用」をかなぐり捨てて、「日本語専用」に突っ走り始めた。

 

 1936年11月21日付「朝鮮新聞」には、このような記事が掲載されていた。

 

 朝鮮人の日本語習得率は、31独立運動の1919年には2%にも満たなかった。そのため、「行政上便宜」により、日本による植民地統治を「円滑」にするという目的で行われていたのがこの「朝鮮語奨励試験」であった。その15年後、日本語習得率10%程度の段階で「国語(日本語)常用」のキャンペーンが始まり、総動員体制構築が急テンポになり、「皇国臣民」化が進められたのである。日本語を習得せず朝鮮語を常用し、日本語の必要を感じていなかった朝鮮人にとっては、その転換は、まさに「朝鮮語の禁止」「日本語の強要」以外の何ものでもなかった。


 

 そして、日本の敗戦をむかえる。

 

余談 1:

 敗戦後の日本国内では、日本国籍を失うことになった朝鮮人が朝鮮語を取り戻すための教育を始めたが、旧内地人を対象とする朝鮮語/韓国語学習は、全くといっていいほどなくなり、その状態がほぼ30数年間続いた。NHKがラジオ・テレビで朝鮮半島の言葉の語学番組を「ハングル講座」というタイトルで放送を始めたのは1984年。朝鮮語奨励試験が中止されてから47年後。ハングル検定が始まるのは1993年。韓国学術振興財団によって韓国語能力試験(TOPIK)が日本で実施されたのは、さらにその4年後1997年のことであった。

1957年に始まったロシア語能力検定試験もあったはず。だから「7番目」が正しいと思うのだが。