朝鮮語奨励試験:補遺 —東京外国語学校朝鮮語科 | 一松書院のブログ

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2019-07-15掲載の朝鮮語奬勵試驗(1921ー1937)の補遺

 

 朝鮮総督府が「朝鮮語奨励試験」を実施するのが1921年。その前年の1920年3月23日に、4月から東京外国語学校に朝鮮語科が復活するとの記事を『京城日報』が掲載している。東京発の「語学校に鮮語復活 日鮮融和から」という記事。

 

 1920年4月から定員30名の2年間夜間コースを置くというもの。

 記事に書かれた当時の長屋順耳東京外国語学校校長の話を要約すると、

 村上直次郎校長・茨木清次郎校長の時代に「この学科が置かれようとして遂になくなって仕舞った」のは学校の方針ではなく「志願者が絶無」だったためで、それは「朝鮮語は国内語であるから無用」という世論によるもの。しかし、三一運動が起きたことで、「内地人も朝鮮語を知らねば統治上非常に不都合だということがわかってきた」し、水野政務総監に会ってそれを説明した。その結果、官吏や実業家になるもので朝鮮語がわかるものには俸給を増やすという方針が示されたので、すでに職業に就いている人で将来朝鮮で働く人を対象に2年間の夜間コースを置くことにした。

とこういう内容。

 

 『東京外国語大学史』(1999)掲載の朝鮮語科の志願者・入学者数の表を見ると1916年から志願者がゼロになっている。1913年もゼロだが、この時は速成科のみの募集だったという事情からだという。その後1914年・15年はそこそこの志願者があったが、1916年以降パッタリとなくなった。「朝鮮語は国内語であるから無用」という世論によるものなのか。もちろんそうした「世論」の背後では、統治者・権力者、そしてマスコミや学者までもが「朝鮮蔑視」を煽っていたことは言うまでもない。

 

 31独立運動で植民地統治の失敗が明らかになったとことで、「内地人も朝鮮語を知らねば統治上非常に不都合だということがわかってきた」権力者に対して長屋順耳校長が働きかけを行って、朝鮮学科の活性化を図ったものであろう。水野錬太郎政務総監も同意したからというようなことで、定員30名の2年間夜間コース設置が4月から開講することになり、すでに募集を行い、さらに補欠募集も行ったと上掲記事にはある。

 『東京外国語大学史』には、「1921年、1922年に速成科聴講生が在籍」とあるので、これがこの記事でいう定員30名の2年間夜間コースで受け入れた生徒ということかと思われる。つまり、正確に言えば、朝鮮語科の復活ではなく速成科の聴講生受け入れだったのであろう。

 

 これだけにとどまらず、この年9月21日に『東亜日報』がこのような記事を掲載している。

朝鮮語枓復活
一昨年廃止された東京外国語学校朝鮮語枓は、最近の水野政務総監と長屋校長との間で行われた数回の意見交換の結果、来年度から本枓ならびに専修枓を復活し、入学した生徒に対しては総督府から特別給与を与え、卒業後は総督府で引き受けることとなった。近々文部省からこのことを具申して同省からも特別の奨励を得ることになったが、これは政務総監が日本人の朝鮮理解の必要性を悟ったことから計画されたものという(東京電)

 朝鮮総督府は、31独立運動後の統治体制の見直しを具体化するための『朝鮮に於ける新施政』を1920年8月に公表した。いわゆる「文化政治」への転換で、様々な分野での新たな方針を打ち出した。その一つが、「朝鮮語の奨励」で、ここで朝鮮語奨励試験がほぼ確定している。

 この流れを利用して、長屋順耳は聴講生の速成科をさらに進めて、朝鮮語枓の本科に朝鮮総督府の特待生的な生徒を受け入れることで朝鮮語科の活性化を図ったとも考えられる。

 

 しかし、『東京外国語大学史』の付表では、1921年、22年、23年と本科、専修科ともに志願者はゼロであり、総督府の関与する生徒の受け入れは実現しなかったものと思われる。