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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 『東亜日報』中央版で、1924年6月25日から「一百洞町 一百名物 내동리ネトンニ名物」という記事を連載している。毎日、京城の洞や町(トンニ)を二つ取り上げて、そこの名物を写真と記事で紹介するというものである。全50回の連載で、8月15日付の掲載分が最終回。最終回の翌日に掲載した100個の洞・町名物の一覧が出ている。

 歴史的な建物、井戸や巨木など、橋や市場、それに植民地支配関係の施設など多種多様である。中には「蚊」とか「ハエ」などという「名物(?)」も取り上げられている。

 

 この連載については、読者参加型の納涼企画として、6月5日付の紙面で最初に公表された。企画の趣旨とともに、懸賞や投稿についても書かれている。

 ソウル(ママ)には、85の「洞」と101の「町」があるが、その中から100の洞・町について、一般に認められているご当地名物(いい意味でも悪い意味でも)を東亜日報社で選んで写真と記事を掲載する。そこで何が掲載されるかを読者に当ててもらおうという企画である。応募者は、当該の洞・町に住む読者で、記事に取り上げられる名物とその理由をハガキに書いて6月15日までに応募する。正解者が複数の場合は抽選で当選者を決め、当選者には『東亜日報』の無料購読券1ヶ月分が贈られる。

 指定された洞・町を地図——1933年発行の「京城精密地図」なので、1924年にはなかった景福宮前の総督府や京城帝国大学が載っているが——に落としてみると、下の図のようになる。緑色を重ねたところが、1924年の『東亜日報』で「〜町」になっているところ、それ以外が「〜洞」である。この時期、内地人の集住地区は「町」、そうでないところは「洞」が用いられていた。


 黄金町(現在の乙支路ウルチロ)から南山にかけての町と南大門から漢江にかけての町、例えば旭町・南山町・明治町・南米倉町、それに京城最大の繁華街になっていた本町、新たな住宅街として脚光を浴びつつあった吉野町・三坂通などは対象になってない。これらの町内には名物がないわけではない。内地人の居住区で、朝鮮語新聞の『東亜日報』の購読者がほとんどいないということで対象から外されたのであろう。この配置図を眺めていると、「朝鮮の人たちのものでなくなった街」がいやでも見えてくる。

 

 『東亜日報』は、3・1独立運動後の文化統治への転換過程で発刊の可能性が生じた。1919年10月に花洞138番地に事務所を開設して朝鮮総督府に新聞発刊の申請を行った。『朝鮮日報』『時事新聞』に比べて『東亜日報』は「排日」傾向が強いと見なされていたが、1920年1月6日に発刊の許可が下り、4月1日に創刊号が発刊された。

 

 この「내동리我が町内名物」の連載が企画されたのは、新聞発刊から4年目の1924年。6月からこの企画が動き出しているが、その前、5月14日の株主総会で取締役社長をはじめとする東亜日報社内の体制に大きな変動が起きていた。これに先立つ3月25日、朝鮮総督府警務局長丸山鶴吉が主導して、親日団体を糾合して総督府の政策遂行を支援する「各派有志連盟」を発足させた。これに対して、『東亜日報』は、3月30日付で「いわゆる各派有志連合について」、4月2日付で「官民野合の漁利運動」という批判記事を、いずれも一面トップで掲載した。

 この記事に対して、朝鮮側から「各派有志連盟」に加わっていた「労働相愛会」の朴春琴などが東亜日報幹部を呼び出して糾弾するという事件が起きた。この結果、当時の東亜日報社長の宋鎮禹が4月に辞職し、5月14日の臨時株主総会で大幅な人事異動が行われた。

(朴仁植『植民地朝鮮における民間三紙許可の政治的意図』富士ゼロックス 2006参照)

 この連載は、そうした状況の中で始まった企画であった。何らかの関連があるかは定かではないが、読者参加型で1ヶ月の購読料無料といった賞品を用意している点などから、読者をつなぎとめる、あるいは販路確保といった目的があったのかもしれない。

 

 賞品は1ヶ月の無料購読券となっているが、当時の購読料はいくらくらいだったのだろうか。1920年4月1日に刊行された『東亜日報』に購読料についての記事が載っている。

 購読料は1ヶ月60銭、地方での購読の場合は郵送料込みで75銭であった。年間契約すると8円80銭という価格。これ以前から総督府の機関紙として発刊されていた日本語の『京城日報』や朝鮮語の『毎日申報』とほぼ同じ価格設定である。「配達部」というのがあったとされているので(李瑞求「初創期の東亜日報社」『三千里』1939年1月号)、京城府内では個別の配達が行われていたのであろう。各新聞とも地方については郵送を利用して配送をしていた。ただ、地方への郵送配送では、遅配があったり購読料回収が滞ったりすることがあった。この連載企画の賞品である1ヶ月分の購読料無料券というのは、特別豪華な景品とはいえない。京城における新聞の販路拡大のための広報キャンペーンとみることもできよう。

 ちなみに、翌1925年8月に、紙面拡張を理由に購読料を1ヶ月1円に値上げしている。同時に、地方購読者が前金で購読料を支払うと郵送料15銭を新聞社側で負担するというサービスも打ち出している。地方への販路の拡大、購読料の確保というのが重視されていたのであろう。

 

 さて、「내동리名物」企画の公示は、6月5日に最初に掲載されてから、6月7日と9日をのぞいて13日まで7日間掲載された。締め切りの前日14日には、


投稿が明日までであることを知らせると同時に、13日正午までの投稿数が800通を越えたとしている。読者だけではなく、一般の人々の間でも評判になっていると自賛している。そして、締め切り当日には、

当初15日までに「応募ハガキ到着」となっていた締め切りを、当日の消印まで有効として、最後まで投稿を促している。

 

 こうして、6月25日からいよいよ毎日二つの記事が掲載され始めた。

 

 最初の記事は、「鍾路の鍾閣」と「安國洞の感故堂」である。

鍾路鍾閣

◇鍾閣はもとの名前は普信閣です。その中の鐘は外国人が朝鮮500年の芸術の代表作だとも言います。この鐘を慶州の鐘と比較すると技巧的には劣るが大きさでは上回るといいます。以前はこの鐘が早朝と夕刻に鳴らされ、早朝のものを「罷漏」といい四大門が開き、夕刻に鳴るのを「人定」といって四大門が閉じられました。
◇四大門を開けっぱなしにするようになったので、鐘も鳴らされなくなりました。「鍾閣の鐘はどんな人々に夕べを知らせるのだろうか」と詩人が嘆いていたのだが、三一運動の時にちょっとだけ力強い響きを響かせました。
◇力強いといえば、以前は鐘の下を掘ってあったので、鐘の鳴る音が3〜40里のところまで聞こえていたのが、大院君の斥和碑を埋めて穴を塞いだので音が小さくなりました。この次にこの鐘が「ボストン」の小さな家に置かれている割れた鐘のように力強い音を響かせる日がないとどうして言い切れるでしょうか。

 日本の植民地支配に対する抵抗の意思表示とも読み取れる文面である。

 

 感故堂は、粛宗の王妃仁顯イニョン王后ミン氏の実家である。また、高宗の王妃閔氏(のちの廟号明成ミョンソン皇后)が住んでいたところもある。現在は、徳成トクソン女子高校になっている。仁寺洞インサドンの北側、安国アングッグロータリーの道路を北に渡り安国ビルの横の路地を入っていくと、徳成女子高校の敷地に感故堂跡地の説明がある。


感故堂の建物は、2004年に閔氏の本貫の驪州ヨジュに移され復元されている。

 

 次回からは、連載の2回目以降のものからいくつかピックアップしながら取り上げていきたい。

 植民地時代の養護施設「鎌倉保育園京城支部」の話をブログに書いた。
 三坂通 鎌倉保育園(1)

 

 韓国のドラマには「孤児」とか「孤児院」というのがよく出てくる。ネットで検索すると、孤児の出てくるドラマのランキングとか、韓国ドラマの筋書きに孤児や孤児院が出てくる背景の分析などの記事が少なからず目に付く。

 

 そんなドラマで思い出したのがこれ。もうだいぶ前になるが、2001年の陰暦の正月(ソル)に放送されたSBSドラマ「遠い道(먼길)」。その終盤にこんな場面がある。

 NHKでも2005年と2006年の正月にオンエアされた。ちなみに、このドラマはここで全編を観ることができる(字幕なし)。

http://allvod.sbs.co.kr/allvod/vodEndPage.do?mdaId=22000280159&btn=free

 このドラマの設定では、主人公のウシク(イ・ビョンホン)は父親と死別し、母は自分一人では育てられないとウシクを孤児院に預けたことになっている。「棄児」のケースである。

 

 一方、これは映画「怪しい彼女」(2014年公開)の中の架空の挿入ドラマ。

 1993年にいなくなった娘を探し出したという設定。これは「迷児」として施設で育ったというケースであろう。この場面は、韓国人がいかにこの種のドラマが好きか、韓国人自身がよくわかっていることを示している。

 

 ところで、ブログを書くにあたっていろいろ検索していたら、興味深い資料がいくつか出てきた。

 併合前、大韓帝国時代の1909年の『皇城新聞』に迷子の記事がある。

迷子探し

南門外に住む十二歳の女児黄順伊が三四日前に北部の中橋などで道に迷ってさまよっていたが、中学校内に住む盧炳祥氏が自分の家で保護しその子が家に帰れるよう待ち望んでいるという。

 日本の侵略とともに、首都の様相が急激に変化し、さらに人の移動が多くなったことも関係しているのかもしれない。

 

 1920年代に入って、迷子に関する記事を検索していたら、「失家児」という言い方もしていたことがわかった。「失家児」というキーワードで検索しても結構記事が引っかかってくる。

 新聞に掲載されているのは、迷子になった子供が保護されて、その情報を新聞に掲載して親や親族を探すケースがほとんどである。ただ、全体の迷子の数からすれば、新聞に載るのはごく一部であっただろうし、この記事のように写真まで掲載するという例はそう多くはなかった。

 

 一方、行方不明になった子供を親が探すケースもあった。いなくなった5歳の子供を探す親が、謝礼金50円を出すという話が記事になっている。

 実は、大人も迷子になっていた。それが1923年のこの記事。4〜5日前に安城から京城府の勧農洞に引っ越してきたばっかりの朴相雲の妻池成川(33歳)が街の様子を見に行くといってそのまま帰ってこない。きっと迷子になったに違いないと鍾路署に届けて探しているという記事である。

 

NAVER Newslibraryでキーワード「迷兒」と「棄兒」とをそれぞれ検索してみると、

日本の植民地支配下では、「棄兒」に関する新聞記事が非常に多かったことがわかる。

 

 ところで、『毎日申報』の記事の写真を見ていて思い出したことがある。迷子の写真が載っている牛乳の紙パックである。

 「迷兒」に関する記事が突出している1986年。1986年は、ソウルでアジア競技大会が開かれた年だが、この年に迷子が激増したわけではない。「迷子探し」が一つの流れになった年が1986年である。

 その先陣を切ったのが、ラーメン製造の青宝チョンボ食品。7月28日から自社のインスタントラーメンの袋に、迷子になったという子供の写真を印刷して販売し始めた。1ヶ月も経たないうちに、知的障害のある行方不明の青年が見つかった。

このキャンペーンは脚光を浴び、青宝食品の金元吉キムウォンギル社長は一躍時の人となった。

 1983年6月からの「離散家族探し」が影響していると思う。とにかく、一日中テレビはこのような放送を流していた。家にいたら、ずっとこのテレビ画面を見ていた。知っている人が出てくるわけでもないけど、目が離せない。外に出ても、店でも食堂でもバスターミナルでも、これがかかっていると見入ってしまう。

 ↓こんな感じの放送を一日中、コマーシャルなしで流していた。
https://www.youtube.com/watch?v=X311bZz5HiI
 とにかく、しばらく見ていると、何かあると「マジャヨォ!」「マッスムニダ!!」というのが浮かんでくるようになる。「家族の再会」が最高の価値であるとインプットされた。

 多分、これが1986年の「迷子探し」にも強く影響したと思う。今回改めて「離散家族探し」の動画を見ていたら、朝鮮戦争の時に親や兄弟姉妹とはぐれて、つまり迷子になって孤児院で育ったというケースが結構あることに気づいた。

 

 ラーメンの包装紙の写真で迷子が見つかると、今後は牛乳メーカーがこれに加わった。8月末から、メイル牛乳が牛乳パックに迷子の写真を掲載し始めた。行方不明になった子供の親から提供された写真と個別情報を牛乳パックにプリントしたのである。これは私もしっかり覚えている。

 そして、このキャンペーンで親のもとに帰ることができた子供がいた。

 こうした成果を受けて、三立サムニップ食品もパンの包装紙への迷子探しの写真掲載を始めた。そして、その結果、1年ぶりの親子再会を果たすという成果をあげている。

 1990年代に入ってからは、タバコの外箱に迷子で行方不明になった子供の写真を載せるようになった。

 

 このあたりがアナログの「迷子探し」の最後かもしれない。すでにパソコン通信などのネットワークが動き始めようとする時期にさしかかっていた。
 韓国通信が、パソコン通信を利用した迷子探しのシステムを稼働させたのが1994年6月20日から。それ以前から警察のネットワーク化なども進んでいたはずだが、やっぱりこうした民に開かれた情報交換・情報共有の威力は大きかったと思われる。

 

 

 ラーメンの袋や牛乳パックやタバコの箱に印刷された子供達の何人くらいが親元に帰れたのだろうか。もう30年前後は時間が経過しているので、30代後半から40手前くらいの大人になっているだろう。養子として海を渡った子供もいるかもしれないし。

 

 今は、こんなサイトで迷子を探せる。

 http://missingchild.or.kr/

 ここを運営しているのは、児童権利保障院。2005年12月1日制定の「失踪児童等の保護及び支援に関する法律」に基づいて設立され、保健福祉部の委託を受けて事業を行っているとある。

 

 うちの息子は3歳からソウル暮らしをしたが、幸い迷子にはならず小学生になって帰国できた。今は息子が迷子になる心配はなくなったが、今度は高齢者の自分が迷子にならないように気をつけなきゃ……。

 

三坂通 鎌倉保育園(1)へ

 

 鎌倉保育園の記録では、1945年11月に京城支部の引揚げが完了したことになっている。

 だが、現地では、その後も曽田タキや朝鮮人職員などが、消失した施設の再建に向けて努力していた。1946年3月4日付の「大東テドン新聞」にこのような記事が出ている。

鎌倉保育再建

市内三坂通にある鎌倉保育園は昨年8月に火災で全焼した後、子供達は別の孤児院に行っていたが、玄鳳学氏など数名が保育園の再建を計って旧保育園の近所に建物を確保して10名程度の園児を収容した。しかし、経営が困難なため経費を得るため4日と5日の両日、市内の貞洞教会で聖画(販売)と漫談大会を開くという。

 玄鳳学ヒョン ボンハックは旧鎌倉保育園の朝鮮人職員であろう。長く職員だった姜振馨カン ジンソンは、1943年に引退していた。しかし、鎌倉保育園に併設されていた三坂教会や三坂日曜学校に関係しており、こうした再建運動にも関係していたのではないかと思われる。それに曽田タキも加わって、元の鎌倉保育園の近くに建物を確保して10名程度の園児を呼び戻した。

 これ以降は、「鎌倉保育園」の消息を伝える記事は見当たらない。

 

 一方、曽田嘉伊智は、日本の敗戦直後、ソ連軍が入ってきた元山にそのまま留まらざるを得なかった。1946年5月15日になって元山の内地人の引揚げが始まり、この時に曽田嘉伊智も列車で元山から京城に向かって脱出した。しかし、出発後すぐに列車は停車し、日本人は列車を降りてそれぞれに北緯38度線の南側を目指した。曽田嘉伊智は徒歩で京城を目指し、5月23日に京城に到着してタキ夫人との再会を果たした。

 その後、嘉伊智はソウル(京城)に残って旧鎌倉保育園の園児たちの施設を、小規模ながら運営していたものと思われる。

 植民地時代には、毎年かなりの額の補助金や公的な支援を受けて運営されていた。それらが全てなくなった中で、米軍政府からの支援も期待できなかった。朝鮮社会は、新しい独立国家建国に向けて左右両勢力の対立が深刻化していた。右派の有力指導者の一人であった李承晩イ スンマンとは大韓帝国時代のYMCAでの知り合いであっても、助力を期待できるような状況ではなかったであろう。

 1947年、7月19日に左右両勢力の合作のかなめだった呂運亨ヨ ウニョンが暗殺された。李承晩は総選挙の実施を強く主張していた。

 曽田嘉伊智が日本で、伝道と平和運動を行うことを決意したのはこの頃だとされる。既存の著作物には、敗戦後の日本の悲惨な状況を伝え聞いたためとある。また、曽田嘉伊智本人の回想では、帰国を前にして李承晩に面談したという。曽田嘉伊智は、10月13日に単身ソウルを出発した。すでに81歳であった。徒歩で釜山プサンを目指し、釜山からは米軍の船に乗せてもらって11月中旬に下関に上陸した。その時の名刺にはこのように記されている。これによって帰国前の様子を推測することができる。

 曽田嘉伊智は、元山からソウルに戻った直後の1946年6月に米軍政当局から残留許可を得ていることになる。3月14日付で米軍政庁から京城の日本人世話会に「日本人は総引揚げ」の命令が出ていた。この時点で名簿上では171世帯が京城に残留していた。日本人世話会のメンバーも北部朝鮮から引揚げてくる日本人を援助するために残留していた。タキはこの時に何らかの理由(収容孤児の世話などか?)で残留許可を取り、曽田嘉伊智はソウルに戻って同じように残留許可を得たものと考えられる。

 曽田嘉伊智のソウルの住所は「京城市厚岩洞358の49」。三坂通は新しい名称である厚岩洞フアムドンと表記されている。ただ、番地については植民地時代のものが基本的には変わっていない。曽田嘉伊智の名刺に書かれた番地は鎌倉保育園京城支部があった370ではない。今のKakao Mapで検索するとこのような位置関係になる。。

「大東新聞」の記事に、

旧保育園の近所に建物を確保して10名程度の園児を収容した

とある場所が、この358番地49ではなかろうか。ここに曽田タキと元山から戻った曽田嘉伊智は園児とともに住んでいたものと思われる。

 

 鎌倉保育園京城支部があった三坂通370の土地と建物は、韓国併合後に朝鮮総督府の所有(国有)とされた旧典牲署で、これが無償で鎌倉保育園京城支部に貸与されていた。鎌倉保育園側の資料では、1938年7月12日付でこの土地と建物が朝鮮総督府から財団法人鎌倉保育園に譲渡されたとなっている。

 日本の敗戦で、朝鮮総督府及びその傘下の機関の不動産・資産だけでなく、それまで内地人や団体が所有・運営していた各種社会団体、法人、民間企業、それに内地人の個人の財産などは「帰属財産」「敵産」とされた。これらは、原則として一旦米軍政庁の管理下に置かれ、その後その一部の帰属財産は1948年の大韓民国政府樹立までに朝鮮側に払い下げられ、残りの大半の帰属財産は大韓民国建国後に李承晩政権に移管された。

 ただ、教育機関や研究機関、医療機関それに宗教施設などでは日本側から朝鮮側への引き継ぎ・引き渡しが行われたものも少なくなかった。ただ、この旧鎌倉保育園京城支部の土地と建物については、引き継がれたという記録はない。建物は大半が火事で消失しており、混乱の中で放置状態だったのではなかろうか。永楽ヨンナク保隣院ボリンウォンに引き継がれたという記述が散見されるが、何らかの引き継ぎが行われた形跡はないし、後述するように時間的にもズレがある。 

 

 1949年12月30日に、日本に滞在中の曽田嘉伊智のもとに、ソウルのタキが急性肺炎でセブランス病院に入院したとの電報が届いた。当時はセブランス病院はソウル駅前にあった。その数日後にはタキの12月21日付の手紙が届いた。タキもそろそろ日本への引揚げを考えているとも書き添えてあった。

こちらで最後の桜の花を見て帰りましょう。私は冬期にはお召しを受けない確信があります。

 1950年1月14日、韓国から曽田タキ昇天の電報がきた。曽田タキは、この日午前ソウル駅前のセブランス病院で肺炎のため逝去。74歳であった。

 16日の「東亜日報」はこのように報じている。

 曽田タキの葬儀は1月18日、鎌倉保育園卒園者一同と韓国社会事業関係者一同による「社会葬」としてセブランス病院に隣接する南大門ナムデムン教会で行われ、大臣級の政府関係者、京畿道知事、ソウル市長が弔辞を述べた。亡骸なきがら楊花津ヤンファジンの墓地に埋葬された。

 一旦朝鮮から引揚げた曽田嘉伊智の朝鮮再渡航は認められなかった。1948年に建国した大韓民国とは外交関係がないままであったし、日本は無謀な戦争で国家主権を喪失していた。一般の民間人が国外に渡航することはほぼ不可能だった。

 

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮の人民軍がソウルを占領し、国連軍の名目で介入したアメリカ軍と韓国軍を大邱テグの先の洛東江ナクトンガンまで追い詰めた。釜山プサンを臨時首都とした大韓民国は、アメリカ軍の仁川インチョン上陸作戦で反攻に転じ、中国国境にまで迫った。しかし、中国義勇軍の参戦で押し戻され、北緯38度線付近で戦線は膠着状態に陥った。1953年に休戦協定に署名され、戦闘は停止されたが、朝鮮半島全土にわたって大きな人的、物的、そして精神的な被害をもたらした。

 この間曽田嘉伊智は朝鮮のことを案じつつ、高齢のため1951年からは明石愛老園で過ごすことになった。

 

 1955年の秋、東京水道橋の「在日韓国基督教青年会(YMCA)」が解放10周年の記念大会に日本人の賓客を招待した。この時の主賓は以下の通りである。

 ・曽田嘉伊智

 ・須藤権太郎(欠席)

 ・枡富昭子 全北金堤農場を経営した枡富安左衛門夫人

 ・川村ノリ(代理) 京城産婆会長

 ・熊本利平(欠席) 全北群山で農場経営 無医村の医療事業に従事

 ・須藤チョウ(代理) 須藤信治(済々院院長)夫人 

 ・浅川サキ子 浅川巧夫人

 ・江田俊雄 恵化専門学校教頭

 ・萩野ミツ 萩野順導(和光教園)夫人

 ・森フジ 韓国人・在日韓国人伝道

 この場で、曽田嘉伊智は参加者を代表して、京城時代のことを回想しながら感謝の辞を述べた。

 

 ところで、日韓の国交正常化交渉は、朝鮮戦争開戦後、1952年2月に始まっていた。曽田嘉伊智が在日韓国YMCAに招かれた時期には、1953年10月15日の久保田発言によって日韓の対話が暗礁に乗り上げている状態にあった。久保田発言とは、「韓国は36年間の日本の支配下での被害に対する賠償請求権を有す」との韓国側の見解に対し、日本側の首席代表久保田貫一郎が「日本は韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」と発言したもので、この発言によってその後会談が開けなくなっていた。さらに李承晩ラインでの日本漁船の拿捕や対日交易中止声明で緊張が高まっていたそのような時期に、東京韓国YMCAが、植民地時代の日本人の関係者を解放記念集会の賓客として招いたというのは興味深い。

 1958年4月に日韓会談は再開されるが、翌年の在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題を巡って日韓は激しく対立していた。

 

 1960年の元旦の「朝日新聞」正月特集の中に「李承晩さん、この人ご存じ」という記事が掲載された。

この記事を書いたのは、朝日新聞の記者疋田桂一郎。後年「天声人語」を担当した記者である。単なる記事ではなく、李承晩大統領へのメッセージ形式の記事に仕立てたのである。最後の部分で、政府当局者の中に、曽田嘉伊智を使って膠着した日韓国交正常化交渉を打開しようとする動きがあったことも匂わせている。

 この当時、韓国政府は日本のマスコミに特派員駐在を認めておらず、元旦の曽田嘉伊智に関する記事への反応は1月6日にAP通信がソウル発で送ってきたものを記事にしている。

 この当時、韓国の一般の人々が日本の新聞を購入することはできなかった。官庁や図書館などは全国250部限定で購入ができた。たぶん、曽田嘉伊智や鎌倉保育園京城支部関係の情報・データが朝日新聞からAP通信に送られ、APの支局の朝日新聞を見せて取材をしたのであろう。

 鎌倉保育園京城支部のあった場所には新たな児童福祉施設ができていた。永楽保隣院である。院長は牧師の韓景職ハンギョンジク。韓景職は、五山学校から平壌の崇実専門学校を出て、神学を学ぶためアメリカに留学した。帰国して教師になったが1935年に新義州第二教会の牧師となり、義州孤児院を併設するなどの社会活動にも熱心に取り組んでいた。解放後は、ソ連軍の支配下に入ることを嫌って南に下り、ソウルに永楽教会を設立した。また教育や社会事業を積極的に展開していた。

 韓景職と永楽教会は、米軍政当局から厚岩洞(旧三坂通)370の敷地の払い下げを受けたのであろう。少なくとも、鎌倉保育園京城支部と永楽保隣院との間には、継承や連続性というものは見出せない。また、AP通信の記事では、

鎌倉保育園は昭和20年終戦直後の火事で焼け、その跡に現在の永楽保育園(ママ)の四つの建物が建った。韓牧師は曽田さんの住所をたずね「いまの保育園(ママ)と園児の写真を送ってあげたい」といった。

と書かれており、韓景職と曽田嘉伊智とはそれまでつながりがなかったと思われる。同じ場所ではあるが、「引き継ぎ」といったものはなかったであろう。

 朝鮮戦争が始まると、北から逃れてきた韓景職をはじめ、北から脱出してきた信者の多かった永楽教会やその関係機関はソウルでの活動を中断して南に避難せざるを得なくなった。1951年3月に国連軍側はソウルを再度奪い返すが、ソウルでの活動が本格的に再開できるのは、休戦協定が調印された1953年7月27日以降のことである。 

 

 上述の曽田嘉伊智の消息を伝える「朝日新聞」の記事に対して、永楽保隣園の園長韓景職は歓迎の意を表明しただけでなく、さらに韓国政府に対して働きかけを行う意向を朝日新聞に知らせてきた。日本側でも兵庫の韓国居留民団をはじめ在日韓国人団体が韓国政府関係者に人道的見地からの入国許可を求める嘆願書を提出した。

 韓国では、この年の春に大統領選挙が予定されていた。「朝日新聞」の記事が、選挙を控えた李承晩の目に触れたかどうかはわからない。3月15日に実施された選挙では、大統領候補李承晩と副大統領候補の李起鵬が当選した。しかしこの選挙では不正行為が横行し、それに抗議する声が高まった。この抗議運動が4・19学生革命となり、李承晩は4月26日に大統領を辞任、5月29日にハワイへ亡命した。

 曽田嘉伊智のソウル渡航も一旦は白紙に戻った。

 

 翌年3月12日付で「朝日新聞」は、ソウルの真崎光晴特派員発で、永楽保隣院の韓景職が曽田嘉伊智の招待状と財政保証書を本人あてに発送したという記事を掲載した。韓国政府当局も曽田嘉伊智の韓国渡航についての協力を約束しているという。

 この招待状などの書類は3月16日に本人の手元に届いた。

 

 李承晩政権が倒れると、1960年5月に韓国政府ははじめて日本人記者団の入国を認めた。各社の初のソウル特派員は5月17日に羽田からCAT(Civil Air Transport:民航空運公司)機で金浦飛行場に向かった。CATは元々はCIAが設立に関わった台湾の航空会社で、当時Northwestとともに羽田ー金浦便を運航していた。上記記事を書いた真崎光晴は11月3日に交代の特派員としてソウルに赴任していた。

 この時期の韓国は、議院内閣制に移行して、大統領ではなく首相の張勉チャンミョンが統治の実権を握っていた。日韓の国交正常化交渉は、419学生革命で中断し、張勉政権のもとで10月25日から再開されていた。

 

 曽田嘉伊智の特例的な韓国渡航が認められることになったのは、永楽保隣院院長の韓景職の熱意と政治力に寄るところが大きいのだろう。しかし、韓国の政治状況の変化や、当時停滞していた日韓国交正常化交渉などとも連動した側面もあったかもしれない。

 

 3月16日以降、曽田嘉伊智を韓国に渡航させるための種々の準備が始まった。

 旅券の申請やビザの取得、旅程の検討、ソウルでの生活についてのサポート体制の検討など、いまの海外渡航では考えられないような煩瑣な手続きが必要だった。京城の鎌倉保育園京城支部時代に付き合いがあった大和与次郎・露子夫妻の子息で参議院議員になっていた大和与一が出国のための手続きに尽力した。また韓国への入国に関しては居留民団が窓口となって本国と連絡を取りながら進めた。

 渡航ルートは、朝日新聞が社有機8機の中の2機のエアロコマンダー機(双発7人乗)を提供して大阪から金浦へ向かうことになった。2機目には東京都知事や朝日新聞社長から尹潽善ユン ボソン大統領に宛てたメッセージと記念品、池田勇人夫人らから永楽保隣院に寄贈する品々が積まれていた。 

 5月6日、曽田嘉伊智は金浦飛行場に降り立った。韓国側の新聞もその歓迎ぶりを伝えており、翌日にはソウル市長から名誉市民章を授与されたことも報じられている。

 「朝日新聞」は、真崎光晴に加えて、最初に記事を書いた疋田桂一郎も同行取材して記事を掲載している。曽田嘉伊智の韓国への渡航は、「朝日新聞」の特ネタで自社の社有機まで提供しているので他社とは全く異なる紙面構成になっている。

 「毎日新聞」は、「曽田嘉伊智」のキーワード検索では一件も出てこない。ただ、5月7日にベタ記事で「京城入り」の事実のみを報じている。

 「読売新聞」は、「いずみ」というコラム欄にソウル特派員の島元謙郞が記事を書いている。

 実は、島元謙郞は京城の三坂小学校の卒業である(1940年卒)。父親の島元勤は、1929年に京城日報社に入り経済部長、編集局長を歴任した。住まいは三坂通で、まさに鎌倉保育園から表通りに下ってきたところにあった。とはいえ、京城で過ごしていた頃は曽田嘉伊智や鎌倉保育園については知らなかったのではないかと思われる。 

 

 ソウルで95歳になった曽田嘉伊智は、1962年3月29日に永楽保隣院で永眠。

 葬儀は4月2日午前10時から、ソウル市の国民会堂クンミンホェダンで韓国社会団体連合葬として執り行われた。

 前年曽田嘉伊智がソウルに到着した直後の5月16日、朴正煕パク チョンヒをリーダーとするクーデターが起きて張勉内閣は総辞職した。最高会議議長となった朴正煕は、訪米途中に日本に立ち寄り首相の池田勇人と会談、1962年に入るとKCIA部長の金鍾泌キム ジョンピルが池田勇人と会って日韓国交正常化の早期実現で合意した。3月24日に朴正煕は辞任した尹潽善に代わって「大統領権限代行」になっていた。

 

 曽田嘉伊智の葬儀には、大統領権限代行朴正煕と並んで外務大臣小坂善太郎の花輪が飾られ、国家再建国民運動本部長柳逹永ユ ダルヨン、社会保健相鄭煕燮チョン ヒソップ、ソウル市長尹泰日ユン テイルなどが出席して行われた。

 遺体は、楊花津のタキ夫人の隣りに埋葬された。

 

楊花津外国人宣教師墓地WEBサイトより

 

 これによって鎌倉保育園京城支部は完全にその幕を閉じることになった。

 

 曽田嘉伊智の三周忌の追悼式が1964年5月2日、鍾路のYMCA講堂で開催された。
朴正煕大統領の花輪が飾られ、尹致暎ユンジヨンソウル市長以下韓国側から200人あまりが出席した。日本からも曽田嘉伊智の甥や姪などが出席し、同郷の岸信介元首相の代理として安倍晋太郎夫妻が出席した。
 曽田嘉伊智は、現在の山口県の平生町出身、隣町の田布施町は岸信介・佐藤栄作の出身地である。


 安倍晋太郎はちょうどこの三周忌の時には、衆議院議員選挙で落選しており、肩書きは「前代議士」。次回選挙での絶対当選のため、岸や佐藤が全力でテコ入れしていた。日韓国交正常化交渉の最後の山場に差し掛かるところでもあり、政界ではそれなりに注目されたであろう。
 

 朝日新聞の疋田桂一郎記者が最初の記事を書く前に、日本政府のある筋から曽田嘉伊智に「韓国に渡ってくれないか」という申し入れがあった。そのとき、曽田嘉伊智は、

キリストの愛において、隣人の韓国とゆるしあい、助け合おうと、私は思っているのだ。いきなり政治的なことを話し合え、といわれても、私にはできません。

と語ったという。

 その曽田嘉伊智の三周忌に、同郷とはいえ岸信介や安倍晋太郎が絡んでいたことをこうして書きながら、1965年の日韓国交正常化とはなんだったのか、さまざまな角度からさらに検討されるべきだと思っている。

 

(完)

 

日能光子ひよきてるこ編『聖愛一路』教文館 1940  

佐竹昇編『松籟』鎌倉保育園 1941

鮫島盛隆『韓国孤児の慈父 曽田嘉伊智翁』牧羊社 1975

鎌倉保育園『年表と写真に見る百年史』1997

鎌倉保育園『創立七十年史』1965

鎌倉保育園『創立八十年史』1976

森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料編第二巻』厳南堂書店 1980

津川泉『JODK消えたコールサイン』白水社 1993

聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞記事データベース)
毎索(毎日新聞社のデータベース)
ヨミダス歴史館(読売新聞)

韓国国立中央図書館電子図書館DB 

『京城日報』

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