三坂通 鎌倉保育園(1)へ
鎌倉保育園の記録では、1945年11月に京城支部の引揚げが完了したことになっている。
だが、現地では、その後も曽田タキや朝鮮人職員などが、消失した施設の再建に向けて努力していた。1946年3月4日付の「大東テドン 新聞」にこのような記事が出ている。
鎌倉保育再建
市内三坂通にある鎌倉保育園は昨年8月に火災で全焼した後、子供達は別の孤児院に行っていたが、玄鳳学氏など数名が保育園の再建を計って旧保育園の近所に建物を確保して10名程度の園児を収容した。しかし、経営が困難なため経費を得るため4日と5日の両日、市内の貞洞教会で聖画(販売)と漫談大会を開くという。
玄鳳学ヒョン ボンハック は旧鎌倉保育園の朝鮮人職員であろう。長く職員だった姜振馨カン ジンソン は、1943年に引退していた。しかし、鎌倉保育園に併設されていた三坂教会や三坂日曜学校に関係しており、こうした再建運動にも関係していたのではないかと思われる。それに曽田タキも加わって、元の鎌倉保育園の近くに建物を確保して10名程度の園児を呼び戻した。
これ以降は、「鎌倉保育園」の消息を伝える記事は見当たらない。
一方、曽田嘉伊智は、日本の敗戦直後、ソ連軍が入ってきた元山にそのまま留まらざるを得なかった。1946年5月15日になって元山の内地人の引揚げが始まり、この時に曽田嘉伊智も列車で元山から京城に向かって脱出した。しかし、出発後すぐに列車は停車し、日本人は列車を降りてそれぞれに北緯38度線の南側を目指した。曽田嘉伊智は徒歩で京城を目指し、5月23日に京城に到着してタキ夫人との再会を果たした。
その後、嘉伊智はソウル(京城)に残って旧鎌倉保育園の園児たちの施設を、小規模ながら運営していたものと思われる。
植民地時代には、毎年かなりの額の補助金や公的な支援を受けて運営されていた。それらが全てなくなった中で、米軍政府からの支援も期待できなかった。朝鮮社会は、新しい独立国家建国に向けて左右両勢力の対立が深刻化していた。右派の有力指導者の一人であった李承晩イ スンマン とは大韓帝国時代のYMCAでの知り合いであっても、助力を期待できるような状況ではなかったであろう。
1947年、7月19日に左右両勢力の合作のかなめだった呂運亨ヨ ウニョン が暗殺された。李承晩は総選挙の実施を強く主張していた。
曽田嘉伊智が日本で、伝道と平和運動を行うことを決意したのはこの頃だとされる。既存の著作物には、敗戦後の日本の悲惨な状況を伝え聞いたためとある。また、曽田嘉伊智本人の回想では、帰国を前にして李承晩に面談したという。曽田嘉伊智は、10月13日に単身ソウルを出発した。すでに81歳であった。徒歩で釜山プサン を目指し、釜山からは米軍の船に乗せてもらって11月中旬に下関に上陸した。その時の名刺にはこのように記されている。これによって帰国前の様子を推測することができる。
曽田嘉伊智は、元山からソウルに戻った直後の1946年6月に米軍政当局から残留許可を得ていることになる。3月14日付で米軍政庁から京城の日本人世話会に「日本人は総引揚げ」の命令が出ていた。この時点で名簿上では171世帯が京城に残留していた。日本人世話会のメンバーも北部朝鮮から引揚げてくる日本人を援助するために残留していた。タキはこの時に何らかの理由(収容孤児の世話などか?)で残留許可を取り、曽田嘉伊智はソウルに戻って同じように残留許可を得たものと考えられる。
曽田嘉伊智のソウルの住所は「京城市厚岩洞358の49」。三坂通は新しい名称である厚岩洞フアムドン と表記されている。ただ、番地については植民地時代のものが基本的には変わっていない。曽田嘉伊智の名刺に書かれた番地は鎌倉保育園京城支部があった370ではない。今のKakao Mapで検索するとこのような位置関係になる。。
「大東新聞」の記事に、
旧保育園の近所に建物を確保して10名程度の園児を収容した
とある場所が、この358番地49ではなかろうか。ここに曽田タキと元山から戻った曽田嘉伊智は園児とともに住んでいたものと思われる。
鎌倉保育園京城支部があった三坂通370の土地と建物は、韓国併合後に朝鮮総督府の所有(国有)とされた旧典牲署で、これが無償で鎌倉保育園京城支部に貸与されていた。鎌倉保育園側の資料では、1938年7月12日付でこの土地と建物が朝鮮総督府から財団法人鎌倉保育園に譲渡されたとなっている。
日本の敗戦で、朝鮮総督府及びその傘下の機関の不動産・資産だけでなく、それまで内地人や団体が所有・運営していた各種社会団体、法人、民間企業、それに内地人の個人の財産などは「帰属財産」「敵産」とされた。これらは、原則として一旦米軍政庁の管理下に置かれ、その後その一部の帰属財産は1948年の大韓民国政府樹立までに朝鮮側に払い下げられ、残りの大半の帰属財産は大韓民国建国後に李承晩政権に移管された。
ただ、教育機関や研究機関、医療機関それに宗教施設などでは日本側から朝鮮側への引き継ぎ・引き渡しが行われたものも少なくなかった。ただ、この旧鎌倉保育園京城支部の土地と建物については、引き継がれたという記録はない。建物は大半が火事で消失しており、混乱の中で放置状態だったのではなかろうか。永楽ヨンナク 保隣院ボリンウォン に引き継がれたという記述が散見されるが、何らかの引き継ぎが行われた形跡はないし、後述するように時間的にもズレがある。
1949年12月30日に、日本に滞在中の曽田嘉伊智のもとに、ソウルのタキが急性肺炎でセブランス病院に入院したとの電報が届いた。当時はセブランス病院はソウル駅前にあった。その数日後にはタキの12月21日付の手紙が届いた。タキもそろそろ日本への引揚げを考えているとも書き添えてあった。
こちらで最後の桜の花を見て帰りましょう。私は冬期にはお召しを受けない確信があります。
1950年1月14日、韓国から曽田タキ昇天の電報がきた。曽田タキは、この日午前ソウル駅前のセブランス病院で肺炎のため逝去。74歳であった。
16日の「東亜日報」はこのように報じている。
曽田タキの葬儀は1月18日、鎌倉保育園卒園者一同と韓国社会事業関係者一同による「社会葬」としてセブランス病院に隣接する南大門ナムデムン 教会で行われ、大臣級の政府関係者、京畿道知事、ソウル市長が弔辞を述べた。亡骸なきがら は楊花津ヤンファジン の墓地に埋葬された。
一旦朝鮮から引揚げた曽田嘉伊智の朝鮮再渡航は認められなかった。1948年に建国した大韓民国とは外交関係がないままであったし、日本は無謀な戦争で国家主権を喪失していた。一般の民間人が国外に渡航することはほぼ不可能だった。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮の人民軍がソウルを占領し、国連軍の名目で介入したアメリカ軍と韓国軍を大邱テグ の先の洛東江ナクトンガン まで追い詰めた。釜山プサン を臨時首都とした大韓民国は、アメリカ軍の仁川インチョン 上陸作戦で反攻に転じ、中国国境にまで迫った。しかし、中国義勇軍の参戦で押し戻され、北緯38度線付近で戦線は膠着状態に陥った。1953年に休戦協定に署名され、戦闘は停止されたが、朝鮮半島全土にわたって大きな人的、物的、そして精神的な被害をもたらした。
この間曽田嘉伊智は朝鮮のことを案じつつ、高齢のため1951年からは明石愛老園で過ごすことになった。
1955年の秋、東京水道橋の「在日韓国基督教青年会(YMCA)」が解放10周年の記念大会に日本人の賓客を招待した。この時の主賓は以下の通りである。
・曽田嘉伊智
・須藤権太郎(欠席)
・枡富昭子 全北金堤農場を経営した枡富安左衛門夫人
・川村ノリ(代理) 京城産婆会長
・熊本利平(欠席) 全北群山で農場経営 無医村の医療事業に従事
・須藤チョウ(代理) 須藤信治(済々院院長)夫人
・浅川サキ子 浅川巧夫人
・江田俊雄 恵化専門学校教頭
・萩野ミツ 萩野順導(和光教園)夫人
・森フジ 韓国人・在日韓国人伝道
この場で、曽田嘉伊智は参加者を代表して、京城時代のことを回想しながら感謝の辞を述べた。
ところで、日韓の国交正常化交渉は、朝鮮戦争開戦後、1952年2月に始まっていた。曽田嘉伊智が在日韓国YMCAに招かれた時期には、1953年10月15日の久保田発言によって日韓の対話が暗礁に乗り上げている状態にあった。久保田発言とは、「韓国は36年間の日本の支配下での被害に対する賠償請求権を有す」との韓国側の見解に対し、日本側の首席代表久保田貫一郎が「日本は韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」と発言したもので、この発言によってその後会談が開けなくなっていた。さらに李承晩ラインでの日本漁船の拿捕や対日交易中止声明で緊張が高まっていたそのような時期に、東京韓国YMCAが、植民地時代の日本人の関係者を解放記念集会の賓客として招いたというのは興味深い。
1958年4月に日韓会談は再開されるが、翌年の在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題を巡って日韓は激しく対立していた。
1960年の元旦の「朝日新聞」正月特集の中に「李承晩さん、この人ご存じ」という記事が掲載された。
この記事を書いたのは、朝日新聞の記者疋田桂一郎。後年「天声人語」を担当した記者である。単なる記事ではなく、李承晩大統領へのメッセージ形式の記事に仕立てたのである。最後の部分で、政府当局者の中に、曽田嘉伊智を使って膠着した日韓国交正常化交渉を打開しようとする動きがあったことも匂わせている。
この当時、韓国政府は日本のマスコミに特派員駐在を認めておらず、元旦の曽田嘉伊智に関する記事への反応は1月6日にAP通信がソウル発で送ってきたものを記事にしている。
この当時、韓国の一般の人々が日本の新聞を購入することはできなかった。官庁や図書館などは全国250部限定で購入ができた。たぶん、曽田嘉伊智や鎌倉保育園京城支部関係の情報・データが朝日新聞からAP通信に送られ、APの支局の朝日新聞を見せて取材をしたのであろう。
鎌倉保育園京城支部のあった場所には新たな児童福祉施設ができていた。永楽保隣院である。院長は牧師の韓景職ハンギョンジク 。韓景職は、五山学校から平壌の崇実専門学校を出て、神学を学ぶためアメリカに留学した。帰国して教師になったが1935年に新義州第二教会の牧師となり、義州孤児院を併設するなどの社会活動にも熱心に取り組んでいた。解放後は、ソ連軍の支配下に入ることを嫌って南に下り、ソウルに永楽教会を設立した。また教育や社会事業を積極的に展開していた。
韓景職と永楽教会は、米軍政当局から厚岩洞(旧三坂通)370の敷地の払い下げを受けたのであろう。少なくとも、鎌倉保育園京城支部と永楽保隣院との間には、継承や連続性というものは見出せない。また、AP通信の記事では、
鎌倉保育園は昭和20年終戦直後の火事で焼け、その跡に現在の永楽保育園(ママ) の四つの建物が建った。韓牧師は曽田さんの住所をたずね「いまの保育園(ママ) と園児の写真を送ってあげたい」といった。
と書かれており、韓景職と曽田嘉伊智とはそれまでつながりがなかったと思われる。同じ場所ではあるが、「引き継ぎ」といったものはなかったであろう。
朝鮮戦争が始まると、北から逃れてきた韓景職をはじめ、北から脱出してきた信者の多かった永楽教会やその関係機関はソウルでの活動を中断して南に避難せざるを得なくなった。1951年3月に国連軍側はソウルを再度奪い返すが、ソウルでの活動が本格的に再開できるのは、休戦協定が調印された1953年7月27日以降のことである。
上述の曽田嘉伊智の消息を伝える「朝日新聞」の記事に対して、永楽保隣園の園長韓景職は歓迎の意を表明しただけでなく、さらに韓国政府に対して働きかけを行う意向を朝日新聞に知らせてきた。日本側でも兵庫の韓国居留民団をはじめ在日韓国人団体が韓国政府関係者に人道的見地からの入国許可を求める嘆願書を提出した。
韓国では、この年の春に大統領選挙が予定されていた。「朝日新聞」の記事が、選挙を控えた李承晩の目に触れたかどうかはわからない。3月15日に実施された選挙では、大統領候補李承晩と副大統領候補の李起鵬が当選した。しかしこの選挙では不正行為が横行し、それに抗議する声が高まった。この抗議運動が4・19学生革命となり、李承晩は4月26日に大統領を辞任、5月29日にハワイへ亡命した。
曽田嘉伊智のソウル渡航も一旦は白紙に戻った。
翌年3月12日付で「朝日新聞」は、ソウルの真崎光晴特派員発で、永楽保隣院の韓景職が曽田嘉伊智の招待状と財政保証書を本人あてに発送したという記事を掲載した。韓国政府当局も曽田嘉伊智の韓国渡航についての協力を約束しているという。
この招待状などの書類は3月16日に本人の手元に届いた。
李承晩政権が倒れると、1960年5月に韓国政府ははじめて日本人記者団の入国を認めた。各社の初のソウル特派員は5月17日に羽田からCAT(Civil Air Transport:民航空運公司)機で金浦飛行場に向かった。CATは元々はCIAが設立に関わった台湾の航空会社で、当時Northwestとともに羽田ー金浦便を運航していた。上記記事を書いた真崎光晴は11月3日に交代の特派員としてソウルに赴任していた。
この時期の韓国は、議院内閣制に移行して、大統領ではなく首相の張勉チャンミョン が統治の実権を握っていた。日韓の国交正常化交渉は、419学生革命で中断し、張勉政権のもとで10月25日から再開されていた。
曽田嘉伊智の特例的な韓国渡航が認められることになったのは、永楽保隣院院長の韓景職の熱意と政治力に寄るところが大きいのだろう。しかし、韓国の政治状況の変化や、当時停滞していた日韓国交正常化交渉などとも連動した側面もあったかもしれない。
3月16日以降、曽田嘉伊智を韓国に渡航させるための種々の準備が始まった。
旅券の申請やビザの取得、旅程の検討、ソウルでの生活についてのサポート体制の検討など、いまの海外渡航では考えられないような煩瑣な手続きが必要だった。京城の鎌倉保育園京城支部時代に付き合いがあった大和与次郎・露子夫妻の子息で参議院議員になっていた大和与一が出国のための手続きに尽力した。また韓国への入国に関しては居留民団が窓口となって本国と連絡を取りながら進めた。
渡航ルートは、朝日新聞が社有機8機の中の2機のエアロコマンダー機(双発7人乗)を提供して大阪から金浦へ向かうことになった。2機目には東京都知事や朝日新聞社長から尹潽善ユン ボソン 大統領に宛てたメッセージと記念品、池田勇人夫人らから永楽保隣院に寄贈する品々が積まれていた。
5月6日、曽田嘉伊智は金浦飛行場に降り立った。韓国側の新聞もその歓迎ぶりを伝えており、翌日にはソウル市長から名誉市民章を授与されたことも報じられている。
「朝日新聞」は、真崎光晴に加えて、最初に記事を書いた疋田桂一郎も同行取材して記事を掲載している。曽田嘉伊智の韓国への渡航は、「朝日新聞」の特ネタで自社の社有機まで提供しているので他社とは全く異なる紙面構成になっている。
「毎日新聞」は、「曽田嘉伊智」のキーワード検索では一件も出てこない。ただ、5月7日にベタ記事で「京城入り」の事実のみを報じている。
「読売新聞」は、「いずみ」というコラム欄にソウル特派員の島元謙郞が記事を書いている。
実は、島元謙郞は京城の三坂小学校の卒業である(1940年卒)。父親の島元勤は、1929年に京城日報社に入り経済部長、編集局長を歴任した。住まいは三坂通で、まさに鎌倉保育園から表通りに下ってきたところにあった。とはいえ、京城で過ごしていた頃は曽田嘉伊智や鎌倉保育園については知らなかったのではないかと思われる。
ソウルで95歳になった曽田嘉伊智は、1962年3月29日に永楽保隣院で永眠。
葬儀は4月2日午前10時から、ソウル市の国民会堂クンミンホェダン で韓国社会団体連合葬として執り行われた。
前年曽田嘉伊智がソウルに到着した直後の5月16日、朴正煕パク チョンヒ をリーダーとするクーデターが起きて張勉内閣は総辞職した。最高会議議長となった朴正煕は、訪米途中に日本に立ち寄り首相の池田勇人と会談、1962年に入るとKCIA部長の金鍾泌キム ジョンピル が池田勇人と会って日韓国交正常化の早期実現で合意した。3月24日に朴正煕は辞任した尹潽善に代わって「大統領権限代行」になっていた。
曽田嘉伊智の葬儀には、大統領権限代行朴正煕と並んで外務大臣小坂善太郎の花輪が飾られ、国家再建国民運動本部長柳逹永ユ ダルヨン 、社会保健相鄭煕燮チョン ヒソップ 、ソウル市長尹泰日ユン テイル などが出席して行われた。
遺体は、楊花津のタキ夫人の隣りに埋葬された。
楊花津外国人宣教師墓地WEBサイトより
これによって鎌倉保育園京城支部は完全にその幕を閉じることになった。
曽田嘉伊智の三周忌の追悼式が1964年5月2日、鍾路のYMCA講堂で開催された。
朴正煕大統領の花輪が飾られ、尹致暎ユンジヨン ソウル市長以下韓国側から200人あまりが出席した。日本からも曽田嘉伊智の甥や姪などが出席し、同郷の岸信介元首相の代理として安倍晋太郎夫妻が出席した。
曽田嘉伊智は、現在の山口県の平生町出身、隣町の田布施町は岸信介・佐藤栄作の出身地である。
安倍晋太郎はちょうどこの三周忌の時には、衆議院議員選挙で落選しており、肩書きは「前代議士」。次回選挙での絶対当選のため、岸や佐藤が全力でテコ入れしていた。日韓国交正常化交渉の最後の山場に差し掛かるところでもあり、政界ではそれなりに注目されたであろう。
朝日新聞の疋田桂一郎記者が最初の記事を書く前に、日本政府のある筋から曽田嘉伊智に「韓国に渡ってくれないか」という申し入れがあった。そのとき、曽田嘉伊智は、
キリストの愛において、隣人の韓国とゆるしあい、助け合おうと、私は思っているのだ。いきなり政治的なことを話し合え、といわれても、私にはできません。
と語ったという。
その曽田嘉伊智の三周忌に、同郷とはいえ岸信介や安倍晋太郎が絡んでいたことをこうして書きながら、1965年の日韓国交正常化とはなんだったのか、さまざまな角度からさらに検討されるべきだと思っている。
(完)
日能光子ひよきてるこ 編『聖愛一路』教文館 1940
佐竹昇編『松籟』鎌倉保育園 1941
鮫島盛隆『韓国孤児の慈父 曽田嘉伊智翁』牧羊社 1975
鎌倉保育園『年表と写真に見る百年史』1997
鎌倉保育園『創立七十年史』1965
鎌倉保育園『創立八十年史』1976
森田芳夫『朝鮮終戦の記録 資料編第二巻』厳南堂書店 1980
津川泉『JODK消えたコールサイン』白水社 1993
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞記事データベース)
毎索(毎日新聞社のデータベース)
ヨミダス歴史館(読売新聞)
韓国国立中央図書館電子図書館DB
『京城日報』
韓国歴史情報統合システム
네이버 뉴스라이브러리(NAVER Newslibrary)