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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 洞・町内の名物第2弾、日本の植民地統治のための組織を3つ取り上げる。

  • 公平洞 裁判所(공평동 재판소) 1924年6月26日掲載
  • 壽松洞 騎馬隊(수송동 기마대) 1924年6月27日掲載
  • 峴底洞 刑務所(현저동 형무소) 1924年7月29日掲載

 場所は1921年修正版1万分の1地図で下のようになる。

 

 記事を日本語にしてみた。

 

◇鍾路の交差点を過ぎると避雷針の立った大きな建物があります。愚夫愚婦でも喧嘩をして気に入らないと「おい、裁判しに行こう」といい、受けた側も「裁判だろうがゴミ判だろうが、ややろうじゃないか」となるが、ここがその裁判をするところなのです。
◇いまは京城地方法院と京城覆審法院になっていますが、この建物は大韓帝国の隆煕2年1908に平理院として建てられたものです。その後、統監府の時代には大審院控訴院地方裁判所となり、大正元年19124月に総督府裁判所令で地方法院、覆審法院となったもので、今年になって登記係、供託局も置かれました。

◇この裁判所ができてから、義兵大将として有名だった許ママ(許蔿)、李康年もここで死刑宣告を受けて人々の胸を打ち、寺内総督時代には105人事件の判決がここで下され、朝鮮の山河を震わせた独立運動に関してもほとんどがここで判決が下され、斎藤総督に爆弾を投じた後、白髭姿で悲憤慷慨して裁判長を論駁した姜宇奎もここで裁判を受けました。しかしこんな法廷でも、時には花のような美人が哀れな境遇を嘆いて涙を流しながら「どうにも生きてはいけません」というような離婚裁判も最近は多くなりました。


◇京城で何かことが起こるたびに、人々で混雑しているたびに、馬に乗った巡査が現れて蹄で人を追い散らし、最近は言論圧迫に憤慨して立ち上がった民衆の真っ当な叫びまでこの騎馬巡査隊の馬蹄で踏みにじられました。ではこの騎馬巡査はどこからやってくるのでしょう。
◇京畿道警察部所属で市内の壽松洞にある騎馬巡査詰所からやってくるのです。彼らはなぜそこにいるのか、警察部側の言い分をそのまま紹介すれば、何か大きな事件であったり地位ある両班が通るとき、巡査の力だけでは群衆を整理しきれないという場合は馬で追い払うのであって、普段は騎馬巡査たちは交通警官の仕事で市内に出ているといいます。
◇朝鮮に騎馬警察が最初にできたのは、丁未年1905に軍隊が解散されて怒りに燃え上がる京城を鎮めるため、今の光化門通の衛生試験所に漢城府警視庁があった時分、当時の韓国警察の顧問だった丸山重俊が発案したのだといいます。初めは4名で、京畿一帯での義兵討伐も行なったといいます。大正8年までは10人程度だったのが、独立運動が起こったというので一気に増やして現在は馬が30数頭、巡査が20数名になってます。


◇峴底洞には他では見られない「刑務所」という恐ろしい名物があります。刑務所というのは最近の言葉で、以前は「監獄所」と言ったものです。
◇世の中で何が不幸かといって刑務所の中で苦労している人たちよりも不幸な人がいるでしょうか。
◇彼らも母親のお腹から生まれ、人生で幸せに幸運をつかんで羽振りのいい暮らしをしようと思っていたのに、何かの間違いで思い通りにはいかなくなり、固く閉じられた鉄の扉と高い煉瓦塀の中で、涙とため息の暮らしをすることになったのです。
◇人として生まれた時は同じでも、ある人は運が良くて山海の珍味にも飽き飽きして自動車に乗って散歩して、ある人は食べ物も着るものもなく生きるために仕方なく悪いことをするということでひょっとしたことから監獄所の臭い飯を食って髪が白くなりますとさ。
◇世の中では四六時中警察署だ監獄所だと殺風景なことですが、それを言ったからってどうなるものでもありますまい。いつかは世の中が平穏になって警察署だとか監獄所だとかいう恐ろしいものがなくなるのでしょうかね。


●公平洞裁判所について

 朝鮮では、甲午更張の1895年(高宗32年)「裁判所構成法」が公布されて西欧的な裁判制度が始まった。1899年の「裁判所構成法」の改定で高等裁判所が平理院に改称された。日本の侵略にともなって1905年に統監府が設置されると、西小門町37番地にあった平理院は、朝鮮王朝時代に義禁府があった公平洞に新築・移転されることになった。1907年に着工し、翌年6万円あまりの工費をかけて平理院が完成した。
 これは設計段階での平理院の図面である。

일제시기 건축도면 컬렉션(日帝時期建築図面コレクション)
 併合後、この平理院の建物が京城覆審法院と京城地方法院になった。『東亜日報』に掲載された写真はこの建物である。

 平理院の配置図を1万分の1地図と比較すると正門は鍾路側の狭い方であることがわかる。上の写真はその正門側から撮ったもの。


 

 1928年に、もともと平理院があった西小門町に、高等法院と京城地方法院、覆審法院の合同庁舎が新築された。公平洞の裁判所はこの年10月に全て徳寿宮の南西側の建物に移転した。

 現在のソウル市立シリップ美術館ミスルグァンの建物が「京城三法院」の建物である。

 その後、公平洞の旧裁判所施設には、1929年に鍾路のYMCA西側にあった鍾路警察署が移転した。

 解放後もそのまま警察署として使用されていたが、朝鮮戦争で鍾閣チョンガックの交差点にあった和信百貨店が全焼し、その改修工事に手間取った和信が、1955年11月に道路を隔てた向かい側、鍾路警察署の跡地に2階建ての新新百貨店を出した。鍾路警察署はその年に現在の安国アングッグ交差点の横に移転していた。平理院として建てられた建物は、この新新百貨店建設にともなって撤去された。

新新百貨店

 その後、和信百貨店は1980年10月に巨額の不渡りを出し、和信とともに新新の土地建物も売却処分された。新新百貨店跡地、すなわち平理院があった場所は第一チェイル銀行に売却され、現在は第一銀行(SC제일은행)の本店ビルが建っている。

 


●壽松洞騎馬隊について

 KakaoMapと『京城精密地図』(三重出版社京城支店 1933)とを比較してみると、今の鍾路チョンノ区庁の場所が1924年当時の騎馬隊の詰所だったことがわかる。「警察顧問の丸山重俊が騎馬隊の創設を発案した」という大韓帝国当時に漢城府警視庁があった場所は、現在の外交部ウェギョブが入っている政府庁舎の前庭の部分に当たる。ちなみに、現在アメリカ大使館になっているのは、警察官講習所の南部分で、北の部分は旧文化公報部、現在の大韓民国歴史博物館ヨクサパンムルグァンである。

 

 記事には、「最近は言論圧迫に憤慨して立ち上がった民衆の真っ当な叫びまでこの騎馬巡査隊の馬蹄で踏みにじられました」とあるが、この事件はこの記事掲載の直前に起きたものだった。

 騎馬隊を壽松洞の名物として掲載したのは6月27日。事件が起きたのは6月21日。この日、朝鮮総督府による言論弾圧と集会禁止に抗議する集会が天道教会堂で予定されていた。前年の関東大震災以降、朝鮮総督府は言論統制を強め、新聞や雑誌の押収が相次いだ。また、多くの集会が禁止された。さらに、親日団体「各派有志連盟」が東亜日報社長の宋鎮禹らを呼び出して恐喝まがいの圧力をかける事件も起きていた。こうした中で23社会団体が連合して「言論集会圧迫弾劾大会」が計画された。しかし、警察はこの集会を禁止し、当日集まった人々を騎馬警官が追い散らすという事態になった。『東亜日報』は6月22日の紙面で騎馬警官の写真入りでこれを報じている。

 1926年4月26日に、大韓帝国の最後の皇帝だった純宗が逝去した。その葬儀は6月10日に行われたが、この葬儀に合わせて各所で「独立万歳」を叫ぶ街頭デモが起きた。この時も騎馬隊が鎮圧に出動している。『東亜日報』は号外が発行禁止になったため、翌日の朝刊で集まった民衆の写真と騎馬警察の姿を重ね合わせて、各所での衝突を伝えている。特に、騎馬警官が集まった群衆の中に突如として馬を乗り入れたために負傷者が多数出たとも書いている。騎馬警察は、今でいえば、放水車を従えて催涙銃を打つ機動隊の役割を担っていたのである。

 ちなみに、朝鮮総督府の機関紙『京城日報』では、「国葬日の不謹慎事件」「民心は至って静穏」という記事を6月12日付で載せているだけである。

 


●峴底洞刑務所について

 峴底洞に刑務所が設置されたのは大韓帝国時代の1907年。当時は京城監獄署といっていた。

일제시기 건축도면 컬렉션(日帝時期建築図面コレクション)

 併合後の1912年、孔徳洞に新しい刑務所を建ててこれを京城監獄とし、峴底洞の施設は西大門監獄とした。

 残っている図面を見る限りでは、1918年〜20年にかけて西大門監獄の檻房や執務施設などが増築されている。現在、西大門ソデムン刑務所ヒョンムソ歴史館ヨクサグァンの入り口となっている正門部分の設計図面は1918年のものが残っている。

 この刑務所にも、独立運動や抗日運動で服役している囚人や、3・1独立運動で拘留された人々が多く収監されていたのだが、この記事ではそれには全く触れられていない。むしろ、社会の構造的な矛盾や問題が囚人を生んでいるという点に力点が置かれている。

 裁判所や騎馬隊の記事との比較においても興味深い点である。

 

 解放後、1945年11月に「ソウル刑務所」と名称が変わり、1961年「ソウル矯導所」、1967年には「ソウル拘置所」となった。1987年11月に始興郡に建設された新施設に「ソウル拘置所」は移転し、刑務所跡地を含む一帯は公園化され、刑務所の建物は「西大門刑務所歴史館」として1998年11月5日にオープンした。

 日本人が住んでいるところを「名物」にした記事を三つ取り上げたい。

  • 1924年6月29日 松峴洞(송현동) 殖銀村(식은촌)
  • 1924年8月4日 通義洞(통의동) 東拓舍宅(동척사택)
  • 1924年8月2日 水下町(수하정) 日人貧民窟(일인빈민굴)
 当時の朝鮮には、内地に本籍がある「日本人」と、朝鮮に本籍がある「国籍は日本にされた朝鮮人」がいた。一般には、前者を「内地人」「日本人」と呼び、後者を「朝鮮人」と呼んだ。本籍を変えることは原則的にできなかったので、この区分は明確で固定的であった。そして、両者はお互い「違う部類の住人」として異なる制度(教育や行政手続き、兵役など)のものとで暮らしていた。
 ここで、冒頭「日本人が住んでいた」と書いたのは、内地に本籍がある「日本人」ということである。
 「日人貧民窟」の記事には「日人」「日本人(일본사람)」の用語が出てきているが、松峴洞殖銀村と通義洞東拓舍宅の記事には、明示的に「日本人」は出てこない。しかし、「違う部類の住人」すなわち「日本人」を強く意識して書かれた内容である。
 

 舞台となった場所は、1921年修正の1万分1地図に載せてみると下のようになる。この地図には、景福宮の南部分に「総督府庁舎新築場」との記載があるが、1924年の記事掲載時にはまだ完成はしてなかった。松峴洞の殖銀村と通義洞の東拓舍宅は、まさに朝鮮人のテリトリーの中にあった。水下町は、「町」が使われていることもわかるように、日本人のテリトリーの北端、ちょうど境界部分であった。

 

 

◇松峴洞の一帯は殖銀舎宅です。これを見るだけでも朝鮮人の京城の没落が分かるというものです。この舎宅の前身は、府院君というよりも、頭でっかち将軍(尹徳栄)の弟として有名な尹澤榮氏の家でした。しばらくはちゃんとしていたのですが、兄弟が張り合って身の丈を越えた暮らしをしたためか、この家を学生寄宿舎にして貸し出すことになりました。そして最後は殖産銀行の手に渡ることになったのです。
◇殖産銀行では、この家の周辺約8500坪ほどを買い取って、アメリカで流行りの近代住宅34棟の立派な家を建てるのに3年の歳月と70万円の経費をつぎ込みました。赤い屋根を見て監獄みたいだという人もいますが、中に入ると理想的な文化住宅なんだそうです。さて、この家は誰のお金で建てられたのでしょう。隣にいまにもくずれそうなボロ屋が立っている横で暮らす彼らも、多少は申し訳ないと思っていることでしょう。経費を節約するため、下っ端の行員を捨て置いて、庭の前には庭石や草花が一つ二つ置かれているというのも妙なものです。ところで、この舎宅のおかげといえば、安国洞に電車が早く開通したことだといいます。両班でもない奴が偉そうに振る舞う式に、電車に乗ってその気にでもなってみますか。


◇東拓とか盗拓とかいう会社がある意味で朝鮮の名物だといえば、そして、その会社の人間が住んでいる東拓舎宅がうちの通義洞の名物だといえば、ちょっと恥ずかしいのですが当然というしかないのです。
◇彼らはかわいそうな小作人の血を絞り、後継者がいないといって田畑を奪い、そしてこんな立派な家を建てて暮らしているのです。神様も思いやりがないですよね。
◇こんな家のために、男や女が荷物を担いで愛する故国を出て行かざるを得ない、そんな人々がどれほどいるかお分かりですか。この家に住んでいる人たちの暮らしのために、食べ物のことを気にかけながら街を彷徨う兄弟がどれほどいるかご存知ですか。このように義理のない行いをすることが一日も早くなくなり、文字通り「通義洞」の名そのままに「義の洞」として理致にかなう日が来るのはいつのことでしょうか。
◇暑い今日この頃、愚痴はこのくらいにして笑い話を一つ。この舎宅の中には入居すると妻が亡くなってしまうという呪われた家があり、その家は取り壊したんだそうです。小作人には恐ろしい彼らも、迷信には震えあがるようです。


◇水下町には日本人の貧民窟があります。チンコゲ(泥峴:日本人街の旧名)を見物して帰りに立ち寄ると貧民窟だと一目でわかります。しかし、普通の朝鮮人が住むところを見てきた目には全くそうは見えないほど立派です。
◇刑務所の中では強面の看守もここの住人ですし昌徳宮や総督府のようなところで見物人を仕切る守衛もここの住人です。ここに住む人の中にはこうしたおいしい職種についている人が住んでいるだけはありません。将来大金持ちになることもあり功績をあげる人も出るでしょう。そのために、お人好しの朝鮮人たちは死にそうなんですが。
◇朝鮮人からすると貧民窟というには恐れ多いこの貧民窟には家が何棟もあり一棟の家に何所帯かが暮らしているといいます。この家を建てるのに使った材木は新しい材木ではなく再利用の材木が使われてます。それにしては立派なものです。こんなに立派な材木がどこからきたのかといえば景福宮の宮闕から持ち出してきたものだといいます。もちろん景福宮はこの貧民窟の家を建てるために壊されたんではないですよね。


 いまのKakao Mapではこうなる。

 日人貧民窟があったとされる下水洞ハスドンは現在はオフィスビルが立ち並ぶ一角になっており、当時の痕跡は皆無である。景福宮を破壊して持ち出した廃材も残念ながらみることはできない。

 

 通義洞の東拓舍宅は、朝鮮総督府の庁舎が景福宮の勤政殿前に完成した後の航空写真に写っている。かなりの規模である。しかし、これも現在は痕跡は残っていないほんのわずかに痕跡が残っているのみである。
※liumei(韓国古建築散歩)さんに現在の통의동25の周辺に東拓舍宅の一部が残っているとの情報をいただいた。感謝して修正する(2019/08/31追記)。

 孝子洞行きの路面電車の通義洞電停があったあたり

 

 松峴洞の殖銀村跡地は現在は空き地になっている。

   2019年6月鍾路区庁提供(nocutnews

 殖産銀行がアメリカで流行りの住宅を建てたからというわけではなかろうが、この場所は、1997年までアメリカ大使館の館員住宅として使われていた。旧韓国日報ハングギルボ社(現在のTwin Tree Towe B)の向かい側の一角が高い黒い石塀で囲まれて、戦闘警察が警備していた。

 実は、1980年代に私はここによく通った。この中のプールで泳いでいたから。当時は、ここが殖産銀行の舎宅跡とは知らず、よく観察しなかったが、ほとんど建て替えられていたと思う。

 1997年に、1400億ウォンでサムソン文化財団に売却された。龍山の米軍基地の返還とそこへのアメリカ大使館移転が具体化しつつあった時期である。

 しかし、サムソンが館員宿舎跡地に計画した複合文化施設は、用途や建築基準に制限があって建設ができなくなった。2008年、大韓航空の韓進ハンジングループに2900億ウォンで転売された。しかし、韓進グループが目論んでいたホテル建設も実現は難しい状況であった。ソウル市は、ここを公園化する計画があるというが、公示地価は1628億ウォンで、売却に応じるという韓進グループとは価格面でなかなか折り合いがつきそうにない。

 というわけで、殖銀村跡地はすでに20年以上空き地のままになっている。

 

 ところで、朝鮮殖産銀行は、大韓帝国の時代に設置された各地の農工銀行を、1918年の朝鮮殖産銀行令で合併させてできた銀行であった。本店は、南大門通り、現在のロッテショッピングの場所にあった。銀行の目の前に黄金町の電停があり、孝子洞行きの電車で北に上がっていくと鍾路、安国を通って次の中学洞で降りると、そこが殖銀舎宅であった。

 東洋拓殖もこの黄金町に本店があった。同じ路面電車で、中学洞から総督府前、積善洞、その次が通義洞で、その電停を降りてすぐが東拓舎宅であった。

 

 この3つの東亜日報の記事には、日本の植民地支配への不満や批判がストレートに出ている。美味しいところは日本人が持って行ってしまい、朝鮮人にしわ寄せがきているとはっきりと書いてある。

 各洞・町で何を「名物」として取り上げるか、読者はそれを投稿で当てるのだが、この3件についてはいずれも正解者が出ている。「名物」を当てただけではなく、その記事に書かれた思いは多くの読者とも共有されていたのであろう。

 

 先日、ギャオが期間限定で無料公開していた映画映画「ワンドゥギ」(2011)を久しぶりに見た。ちょうど新聞の『東亜日報』がらみの話を調べていたので、気になった場面。

 ユ・アインはいかにも新聞配達をしてそうだし、キム・ユンソクは新聞紙でケツを拭いてそうな気もするが、それはいい役者だからであって、実際にはそんなことはやってない(はずだ)。

 

 1980年代のはじめ、ソウルで下宿生活をしていた日本人留学生の院生が嘆いていた。

いつも僕のとっている新聞を読もうとすると便所にあるんですよね。一部は使われちゃってるし…

 

 最近は、トイレットペーパーをくずかごに入れるのではなく、便器で流すというキャンペーンをやっている。さすがに、新聞紙の時代には流せなかった。今は新聞紙を使うことはなくなり、トイレットペーパーの水溶性もよくなった。PCやスマホじゃ、確かにケツは拭けない。

 

 1970年代は、新聞のたばを担いで走り回っているのは少年たちだった。これはちょっと古いが1957年の映像(音声なし)。

 こちらは1969年の映像である。1970年代に初めて韓国に行った時もこんな感じだったと思う。新聞社の前の掲示板には、人だかりができていたことは記憶にある。
 
 1980年代には、トークン(バスに乗るための専用のコイン)を売っている小屋や路上でも新聞を売っていた。今でもバス停の近くに、交通カードの充填ができたり飲み物を売っている小屋があるが、これがトークン売り場だった。ここで新聞も買えた。
 これは1981年の映像だが、確かに新聞が置いてあって勝手にお金を置いて(場合によってはお釣りをとって)新聞を持っていくというのもあった。
 
 地下鉄2号線が全線開通すると、地下鉄の車内での新聞販売が盛んに行われるようになった。
 さらに、3号線、4号線が開通すると、そこでも新聞の移動販売が行われていた。下の画像は1985年末に刊行された『韓国グラフィティ』(みずうみ書房)に掲載されたもので、ラッシュの電車の中でも人混みをかき分けて新聞を売り歩く売り子の姿はかなりのインパクトがあった。
 1990年代に入ると、車内の移動販売から駅の新聞販売所(가판대カパンデ)での販売に移り始め、車内販売は次第に姿を消した。今度は駅構内の販売所の利権を巡って様々の社会問題が起きた。
 新聞販売所はソウル市の条例に基づいて、低所得者や障害者・高齢者などを対象にして公募し、抽選で3年契約で運営されることになった。
 しかし、2004年くらいからはこれも減少し始めた。一つはこの時期から、無料のタブロイド紙など無料新聞が配布され始め、一般紙やスポーツ紙の販売部数が激減していったことによる。また、ネットでデジタル版の提供が始まったことも一因である。その結果、新聞販売に限定したいた店舗を、2006年からは飲み物やタバコ販売なども許容するように転換したが、これも採算が取れず数年後には地下鉄駅の売店は消滅した。
 
 新聞の販売が車内の移動販売から構内の小洒落た「뉴스스탠드News Stand」に転換した時期、新聞配達の方も大きく変わっていたのであろう。2003年公開の映画「マドレーヌ」の新聞配達を見て、「あ、時代が変わったんだ」と思った。チョ・インソンとシン・ミナが新聞配達している。
 それからすでに15年以上が過ぎている。

 

 新聞の販売や配達だけではない。いろんなものを見ていて韓国社会が急激に大きく変わってきたことを痛感する。そして、日本も急激に、しかも過激に変わってきている。

 私にとっては、韓国の変化の方が圧倒的に心地よいのはとても残念なのだが…。