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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1932年夏に、朝鮮人の街である鍾路の商店や住居に便所がない問題が突如新聞各紙で取り上げられた。

 まず『毎日申報』が鍾路の商店1535戸に便所がないということで、鍾路警察が設置を命ずる通知書を出したことを報じた。

 さらに『大阪每日新聞西部版』(朝鮮でも購読されていた)が7月5日に取り上げた。

 7月15日には『京城日報』と『毎日申報』が記事を書いている。

 そして、7月22日には『東亜日報』も記事を掲載している。

 9月に入ると3日以内に便所を作れと、鍾路警察署からかなり無体な要求が出されたことが『毎日申報』に掲載された。3日で作れる便所とはどのようなものが想定されていたのか…。

 もともと、京城府の主管で汲取りをしていたので、便所がどのように分布しているのかは京城府当局は把握していたはずである。『毎日申報』が「便所不備の鍾路商店 勿驚(驚くなかれ)一千五百余」「モダン京城の大侮辱」と書き、『大阪毎日新聞』が「なんと八千余戸」と驚いているが、むしろ便所がないままここまで放置されていたことに驚かされる。

 確かに、朝鮮においては「尿缸:요강」を室内で使う伝統もあったが、糞尿をそこら中に巻き散らかすという習慣があったわけではない。京城の街中で朝鮮人居住区の住環境が悪化した結果、各建物に便所を設置するスペースが確保できず、当局による共同の便所設備もなく、したがって汲取りも行われないまま放置されたものと考えられる。

 日本人は、糞尿処理場を見学しながら「臭くてたまらん」と言いながら、自分たちは「文明人」の仲間入りをしたつもりだった。朝鮮人はそこから抜け落ちていた。そして、「朝鮮人は衛生観念がない」などと言い立てた。

 

 5年経った1937年1月の『毎日申報』にも、鍾路の便所の話が出ている。衛生上の問題だけでなく、国際都市京城の体面上も好ましくないとしながらも、

…便所の設置を求めている。しかし元々びっちりと建物が立て込んでいて便所を作る余地にないところも多くあり、京城府当局と協力して付近に共同便所を数カ所新設する方針だという。

と、朝鮮人街の中心地である鍾路が、便所を設置する余地がないような住環境にあったことが書かれている。その劣悪な条件は、1932年にもすでにそうだったのであり、鍾路警察が「便所を作れ」と強権的に命令したとしても改善できるようなものではなかった。

 

 (1)の最後でも書いたように、1928年に稼働し始めた京城の二つの糞尿処理場は、その数年後には処理能力が限界に達すると同時に、肥料売却収益で建設資金回収と運用経費捻出を目論んでいた当初の計画が、全くの見込み違いであることが露呈した。また、糞尿利権を巡って不透明な動きがあり、京城府の官吏の不正疑惑にまで発展した。

 京城府では、1935年から糞尿の汲取りを有料化しようとしたが、京城府協議会では非常に強い反対論が起きた。

 もともと、統監府時代の1907年に「漢城衛生会」が作られ、有料で汲取りを行なっていた。日本人および外国人は一人1ヶ月8銭、韓国人は建物ごとに20銭となっていた。これが、併合後1914年になって無料化された。しかし、1935年時点で、糞尿の収集・処理に関わる予算額が京城府の経常歳出予算の14%を占め、かつ新たな施設投資も必要であるとして、京城府は有料化に踏み切った。1935年6月1日から汲取りは有料となった。

※古賀国太郎(京城府掃除係長)「屎尿汲取手数料制度に対する私見」『警務彙報』1935年7月号(第341号)

 「糞尿汲取手数料条例」で、京城府の戸別税の等級で金額が定められ、54等級以上は月額20銭、55等から60等までは月額15銭、61等以下は月額10銭とされた。 汲取料をあらかじめ支払うと汲取券が交付される。これがあるとその月に汲取りに来てもらえるという仕組みである。 

 

 しかし、有料化したからといって糞尿処理についての状況が改善するわけではない。

 逆に、汲取りになかなか来ないといった不満が高まる一方で、汲取りの作業員からは労賃が低すぎるとして作業を「ボイコット」するという事態も起きていた。

 作業員の不足と同時に、市内で糞尿の運搬に使う馬車の馬が足らなくなって汲取りが滞っていた。このため、夜間に民間業者に用具や運搬車を貸し出し、民間の請負い汲取りも始めた。ところが、この民間の業者が問題を起こしている。

 この記事では、鍾路の飲食店「永保グリル」の汲取りを下往十里の今井保一郎が請け負ったが、作業員が汲み取った糞尿を観水橋から清渓川に投棄したのが摘発されて処罰されたと伝えている。汲取り・運搬・糞尿処理の工程がうまく機能しなくなっていたのであろう。

 こうした不法投棄は常態化していたようで、その後、清渓川の汚物による汚染問題は深刻化している。翌年には清渓川での野菜洗浄が厳禁され、京城府で設置した共同洗浄場で洗うよう指示している。清渓川の糞尿による汚染が限界まで進んでいたことを物語るものである。

 1937年10月の『京城日報』には、貫鉄町・長水町・観水町あたりの清渓川は「あたかも汚物処理場の観」とある。まさに京城の中心部に糞尿があふれていたのである。これは、京城府の失政であり、京城の糞尿処理政策が破綻していたことを示すものである。

 

 このように清渓川が糞尿で極度に汚染される中、清渓川の暗渠化案が出てきた。さらには覆蓋の上に高架鉄道を通す案など派手な「夢」を振りまいて「糞尿処理場と化した清渓川」から目を逸らさせようとする、京城府の糞尿処理に関する失政を糊塗するためのものであった。

 6月末には、総予算500万円、5カ年計画で京城府が本格的な検討に乗り出したことが伝えられている。ここでは、清渓川全体を暗渠化して道路にする案をはじめ、運河を作る案や中央部だけ下水道にする案、上流にダムを作って間欠的に送水清掃する案が提示されたとしている。全暗渠とした上に清涼里から光化門まで高架鉄道を作る案は、さすがに「あまりにも積極的で遠大理想案」だとして保留されていた。

 翌年5月の『京城日報』は、光化門前の広場部分から三角町までの450メートルを暗渠化する工事がはじめられることを報じている。

 光化門の交差点から南大門通りまでの覆蓋は完成したものの、その後は、戦時体制化に入り資金不足、資材不足、それに人手不足によって工事は行われないままであった。

 これ以外にも、新たな処分場の計画や新しい施設を設けて糞尿の肥料利用を促進する方法なども打ち出されはしたが、どの程度まで進捗したか定かではない。

 

 これ以降、特に太平洋戦争期に入ってからは京城の糞尿に関する新聞報道はほとんど出てこない。韓国歴史情報統合システムで、1941年から45年まで、「屎尿」「糞尿」「清渓川」で検索しても定期刊行物には特段の記事は出てこない。

 

 1945年8月までの京城府の統治下では、清渓川の支流と光化門交差点から南大門通までについては暗渠化が行われたが、清渓川本流の覆蓋はそれ以上は進まなかった。それが本格的に始まったのは1958年になってからのことである。1958年5月から1961年12月にかけての広橋クァンギョから清渓6街チョンゲユッカまでを手始めに、新踏シンダップ鉄橋までが暗渠化された。そして、覆蓋の上には高架道路が建設された。

 積極的な都市開発に見えなくもないが、その経緯から見るならば、京城府の糞尿処理が破綻した結果、極度の汚染状態になっていた清渓川を最終的に暗渠化せざるを得なかったのである。

 大韓民国になってから、日本による植民地支配時代の京城府の糞尿処理政策の失敗の、まさに「尻ぬぐい」をさせられた。そして臭いものに蓋をしたというわけだ。

 京城の裁判所や刑務所の設計図に便所の設計図があった。調べてみると、色々の施設の便所の設計図がある。

 

 災害時には、電気・水道・ガスのライフラインとともに深刻な問題になるトイレ。人間生活、特に近代以降の人口が集中する都市部での生活で、便所と屎尿処理の問題は、大きな問題であった。植民地支配下の京城はどうだったのだろうか。

 

 1914年頃の朝鮮総督府博物館の観覧者用の便所。大勢の観覧者が利用するのにこれで大丈夫?って感じ。

 下のは、景福宮前に建てられた朝鮮総督府庁舎の便所の設計図(1920年代はじめ?)
 旧総督府庁舎が「中央庁」から「国立博物館」になってからあの建物には何度か行ったけど、その時には水洗トイレになっていたと思う。

 

 時代が下った1936年の税務監督局庁舎の便所の設計図。こちらは内装の一部はタイル風にも見える。

 1930年代半ばの建物の便所なので、見取り図的には今のトイレに近いような印象もある。ただ、どれも汲取式で、今のような水洗式ではない。

 

 水洗便所は、1930年代半ばには朝鮮でも京城をはじめとする各地のビルなどに設置され始めていた。「水槽便所」とも呼ばれていた。1937年には朝鮮全体で水槽便所が835ヶ所、京城府内で390ヶ所ほどあった。ほとんどがビルに設置されたものであった。しかし、内地の首都圏では、関東大震災以降のインフラ再整備の中で下水道の整備が進んだとされるが、朝鮮では必ずしもそうではなかった。浄化装置もないままそのまま未整備の下水に糞尿を垂れ流すため水槽便所は衛生上好ましくないとされ、1937年の10月施行の「朝鮮汚物掃除令」では規制の対象になった。

 

 植民地時代の京城の一般の便所は、1945年まで大勢は汲取便所であったのである。

 

 ちなみに、日本でバキュームカーが屎尿汲取に使われたのは1951年の川崎市が最初だという。私も小さい頃に桶で担ぎ出していたのをみた記憶がある。汚穢屋おわいやという言葉もあったなぁ。要は、ぼっとん便所は必要に応じて溜まった糞尿を汲み出し、運び出す必要があった。当たり前だが、自然になくなりはしない。1950年代まではそれを柄杓ひしゃくや桶を使ってやっていた。

 

 赤間騎風が1924年3月に出した『大地を見ろ』の「芥取人夫となるの記」の中に、京城の糞尿汲取人夫のことが書かれている。芳山町(現在の芳山洞バンサンドン乙支路5街ウルチロオガ交差点の西北側)にあった京城府衛生課分室で赤間騎風が聞き込んだ話である。少し長くなるが引用する。

 

彼の語るところによると、糞尿汲取人夫の方は1日九十錢貰ふが、塵芥除去人夫は七十錢で、此日給は人夫になつたその日から一年経つても一定不變だが照り降りなしの勞働だから、自分さへ休まなければ食ふに困るやうなことはないと、寧ろ新參者の私を戒める口吻だつた。
「だが最初は隨分つらいよ。日本人は駄目だよ」と彼は私をあわれむやうな笑ひをうかべた。
…………
(中略)
…………
それから今度は糞尿汲取人夫の群に入つて行つて、マドロスパイプに荒刻みの臭い煙草を詰めてぷかぷかやつてゐる逹擦髯の男に話しかけた。
「寒いですね?」
さうすると、髯はニコニコ笑いながら、
「えゝ寒いですよ」と、親しげである。私は此男が話好きらしいと見て取つたので、心の中でよろこびながら、
「私は今日始めて芥取りをやるんだが、七十錢にしかならないんだからつまらないが、君は一日九十錢も取るさうだからいゝね」と水をむけると、髯は急ににがい顔をして、吐き出すやうに、
「九十錢—何がいゝ七十錢や九十錢じや生きてゐられないよ。これをごらん、此煙草を。君はチヨイイリ(朝日)でも吸つてるが家族の四人もあると、ヨロクがあつても、こんな煙草しか吸えないんです」さう云つて髯はマドロスパイプのがん首をつかんで口へ持つてゆくと、スパリスパリと、天を睨みながら例の臭い煙を吹き上げた。私は髯がヨロクと口走つたのを聞き漏らさなかつた。急いで懐中から朝日の袋を取り出し、一本引き抜いて髯に與えると、髯はまたニコニコと笑つて、頼みもしないのに燐寸をすつて私の煙草に火をうつしてくれた。チャンスは今だと、私はスパスパ二、三度煙を吐くと、
「ヨロクがあるんですか、九十錢の外に?」
すると髯は、大きく肯いて。
「大したこともないですがね、此糞取りをやつてると—日本人に限るが—十錢か二十錢かくれる家がある、大きな料理屋だの、新町の遊郭だのゝ二三軒はきつとくれる、素人の家でも時々くれるのがあるが、あれは時間の都合なんだらう、朝早く取つてもらいたいのを、いそがしい時やお客のゐるときに取られては困るんだらう、だから、今度來る時は早く來てくれつて頼みながら錢をくれるんだね、さうされると此方は迴る都合が惡くなつても人情で、向ふの便利なやうにしてやりますのさ」
「成程、それも當りまへのことだね」
「まだある、冬はかまわないがね、夏なんぞは随分臭いからね、あれに大分弱るとみへて、庭へ水を撒いたり、醤油を火の中へ入れたりするよ、あれはツマリまじないなんだがね、それでもたまらないとみへて、臭くないやうに、なるべくソッと取つてくれつて、それ錢を出すやつさぁアハゝゝ」
彼は汚い髯にかこまれた大きな口を開いて笑つた。
「臭くないやうに取れつて?隨分無理な注文だね」
私は、髯の言葉が、だんだんぞんざいになつて來たので、私も「ですか」「でせう」をやめてしまつた。彼の言葉のぞんざいになつたのは、話にすこし興が乘つたのと、2人の中にもういくらかの親しみがわいたからだつた。
「いや」と髯は、マドロスパイプを持つ手で私の言葉を押へつけた。
「臭くなく取れる、それあいくらか臭いに違ひないが、なるべく静かに取れば餘り臭くないんだ、コイツで…」と汲取ヒシャクを一つトンと地べたにハヅませた髯は、
「コイツでガバガバ掻き廻したら、それあ臭くてたまらない、そして糞を取つてしまつた後が、いつまでも臭いんだ、つまり上から取つていけばいいんだが、下からひつくり返すと臭いんだね」彼は、なかなか皮肉な男である、糞取りの秘法を滔々と述べ立てゝ尚語を継いだ。
「それから桶の都合で、きれいに取れないで少し殘して置くこともある、すると、便所へ入つたものが厄介なんだね、糞壺の中の水がはね上がるんだ、そいつをはねさすまいと思つて灰を壺の中に入れたり、するもんだから灰は沈んで下で固まる。だんだん汲みにくくなるのを知らないで、あんな物を入れるのはいけないよ」
髯の話が脱線しさうなので、私は氣が氣でなく口をはさんだ。
「きれいに取つてもらいたいと頼んで錢をくれる家もあるのかい?」
髯はコクリと頭で肯き、
「さうだ、あれを殘されると困るだろうよ、だが桶の都合で仕方がないからな…」
壺の中に汚物を残されて困るといふことは糞尿汲取人夫も能く知つてゐるのである、ポチャンとやると、ピチーンとおつりがくる、おそらく此位ひ氣持ちの悪いものは、天下にあるまい、それが厭さに、紙を澤山投げ込んだり、尻をふつて調子をとり、糞の落ち工合を看測したり、便所の中で命を縮めるやうな苦心惨憺をすることも、髯は或は知つてるかもしれない、と思ふとこの髯が小面にくひやうにも思はれるが、それよりも賢いのは、十錢が二十錢かのチツプをはづむにまさるものはあるまい、髯はそれから、壺の中へ貴重品を落して困つてゐるのを探し出し、比較的多額の禮金をもらうことの度々あることをも語つたのである。
「便所掃除の水を糞壺や小便壺に入れるのは罪だよ、あいつにはほんとに始末がわるいからな」と、髯は云つた。
「水がまぢつてゐるのがわかるのかい?」と私がきいた。
「わかるとも、桶に入れると、はねて仕方がない、壺に殘して置けば自分のケツへはねてゆくのも知らないで…、」
職業とは云ひながら、髯はよくも斯くまで「糞取哲學?」を研究したものだと私は舌を巻いて敬服したのである。

 「髯」は朝鮮人のようだが、赤間騎風は一体何語で話していたのか、いつも気になるのだが…、それは置くとして。

 

 赤間騎風が1日だけやった芥取人夫の例からすると、糞尿汲取人夫も、その日に担当する地区が指示され、そこの便所を汲取って回るのであろう。

 

 さて、赤間騎風はここまでしか書いていないが、汲み取った糞尿はどうしていたのか。

 高陽郡漢芝面新堂面に「京城府糞尿溜池」があった。衛生課分室からは1.5キロほどのところである。

1921年修正測図1/10000地形図

 1924年の10月に、この糞尿溜池の堤防の一部が決壊して糞尿が商業学校から清渓川に流れ込み漢江にまで汚染が広がるという騒ぎが起きた。

 京城府の心算としては、汲み取った糞尿は、京城から30里(12km)程度までの近郊農家で人糞肥料として使うということになっていた。しかし、京城の人口が膨張し、1924年時点で京城府で汲み取る糞尿が毎日1200石(216m3)に達し、肥料として消費できるのはそのうち1/3のみ、残りの2/3はこの糞尿溜池に貯めていたという。結構恐ろしいことになっていたんだと思う。

 昔は、田んぼのそばなどに「肥溜め」があって子供にとっては恐ろしいものだった。時々落ちるやつがいた。

 その肥溜めの巨大なやつから糞尿があふれ出して、清渓川から漢江にまで流れ込んだというのだからただごとではない。これ以降、糞尿処理問題がクローズアップされた。

 

 あとで(2)で触れるが、1930年代に入ってから、鍾路をはじめとして朝鮮人の居住区域に便所が極端に少ないというのが問題になった。要するに「京城の朝鮮人居住区ではあまり汲み取られていなかった」「1万2千石のかなりの部分は日本人の排泄物であった」ということになろう。日本人の生活に関わることだからか、京城府では熱心にこの問題には取り組んだ。

 事故の翌年には、金浦方面の農民にも肥料として供給できるように船で運搬する案や、人肥研究とともに泥炭を使っての浄化処理研究なども始めたと報じられている。

しかし、年間で40数万石の糞尿を酌み取って、そのうち20数万石はそのまま貯めるしかないという状況では焼け石に水である。

 1926年3月、京城府では、新たに取り組む糞尿処理の計画案をたて、京城府協議会に「汚物掃除費継続費設定の件」を議案として諮った。その案では、龍頭里(現在の東大門区トンデムング龍頭洞ヨンドゥドン:新堂面の「京城府糞尿溜池」の清渓川下流の対岸)に汚物処分場を新設するとともに、阿峴里の高台に流入槽を作り、そこから麻浦の漢江江岸に設けた貯溜槽に地中パイプで送り込むという計画であった。

 阿峴里からのパイプは、径が1尺2寸(36センチ)でこれを27町(2.94キロ)にわたって埋設するとされた。さらに、東大門外から龍頭里に新設する汚物処分場までは、糞尿運搬軌道(軽便線)を建設し、ここで府内各所から馬車で運んできた糞尿を重機でトロッコに積み替えて運搬することになっていた。当初は電動の糞尿運搬車を使う予定だったが、経費節約などから電車はやめになり、線路上のトロッコを馬に引かせる方式に変更された。

 

 この工事は、1926年度に着工され、阿峴里・麻浦貯溜槽の施設は1927年内に完成、東大門外(昌信洞)・龍頭里の施設も1928年の春から初夏にかけて完成して稼働を始めた。

 1928年8月13日に、京城府トップの馬野精一京城府尹自ら先頭に立って、京城府庁詰めの新聞記者や京城府協議会議員をともなって2ヶ所の新たな糞尿処分場を回る見学会を行った。『京城日報』は8月14日の紙面で、『朝鮮新聞』は8月14日と15日の紙面で写真入りで紹介している。

『京城日報』1928年8月14日 上は龍頭里の処分場、下は東大門外で馬車から糞尿を重機を使って貨車に積み換えるところか。

『朝鮮新聞』1928年8月14日 東大門外での積み換えであろう。

 

 『朝鮮新聞』の記事は二日間連載で、糞尿槽の大きさや糞尿の量など詳しい数値が事細かに書かれている。記事によれば、現場視察では、とにかく耐えられないほどの悪臭だったという。

 京城府内で汲み取られた糞尿は、馬車で東大門外まで運ばれここで線路上のトロッコに積み替えられる。それを龍頭里の処分場に運び込む。タンクは25000石(4500m3:25mプール7個分弱)で、50日分は貯溜できるという。これを生肥として販売する。一方、阿峴の方のタンクは、糞尿15000石(2700m3)で、ここから約3キロにわたって敷設した鉄管を使って麻浦の貯溜槽に送り、そこから船に積み替えて、遠くは黄海道延白などにまで運んで生肥として販売する。ただ、これはあくまでも京城府の担当者の説明を記事にしたものであって、生肥として販売できなかった場合はどうするのかとか、実際の販売がどのように行われているのかとかはよくわからない。

 地図で見ると、東大門外から龍頭里の処分場の様子はわかるのだが、阿峴から麻浦のパイプは判然としない。

 どちらの処理場も、朝鮮人の居住する場所に作られた。龍頭里の近隣にも住民がいたが、記事では「すめば都でその異臭も太して鼻にはつかぬと」いっているなどと呑気なことを書いている。阿峴里の地主・住民は、当初からこの計画に反対していた。しかし、そのまま工事が続けられ1927年には完成した。完成後も「糞尿タンク撤廃期成会」を組織したり住民の決起大会を行ったりして反対していたが、そのまま押し切られた。

 阿峴から麻浦にかけては、もともと漢城直近の城外で、朝鮮人の共同墓地が古くからあり、日本人の火葬場が作られたり屠殺場や刑務所が作られ、その間をぬって土幕民が集住するような場所であった。京城の中心街、特に日本人の集住地域には上水道が整備されつつあったが、朝鮮人の居住区、特に旧城外の生活用水は、井戸や湧水に頼っていた。その生活用水は、不十分な住環境の中での急激な人口増加で排泄物による汚染が深刻化しつつあり、それに加えて、糞尿タンクや輸送パイプからの漏えいによる汚染も心配された。実際、麻浦では糞尿が漢江に投棄されて漢江下流の住民たちは生活用水として使えなくなっていた。

 

1928年以前の京城上水道(朝鮮総督府『朝鮮土木事業史』1928)

 

 1928年の2カ所の糞尿処理施設の完成は、確かに京城の汚物処理の画期をなすものだったといえよう。ただ、その施設も数年で対応しきれなくなった。おまけに、京城府が糞尿の売却先としていた京城肥料株式会社が、1930年10月から糞尿代金の支払いができなくなっていた。想定通りには人糞肥料が売れず、採算が取れなくなったためであった。京城府は糞尿の売却代金を年間7万4千円以上見込んでいたが、その目算は外れた。

 1932年に京城府会本会議で、東大門外からの糞尿運搬を、京城軌道会社に委託するとともに纛島どうじま(現在の뚝섬トゥクソム)まで糞尿を搬出するという議案がかけられた。議員からは、纛島には上水道の水源地があり肥料会社が費用を滞納している中での委託は問題外だとの反対もあったが、この委託案は京城府の原案通り確定した。

 これによって、往十里から纛島への線路で運行していた京城軌道が、京城府の委託を受けて糞尿を纛島まで運ぶということになった。龍頭里での処理が限界に達したため、漢江辺で漢江対岸の農村などへの人糞肥料供給ということも考えてのことではなかろうか。

 

 その後、京城軌道は、東大門駅から纛島遊園地や広壮を結んで旅客を運ぶ路線運行をしている。『東亜日報』の記事では、糞尿の運搬は10カ年契約となっているのだが、旅客運送と糞尿の運送とを並行して行っていたのか、そのあたりはよくわからない。

 

※京城軌道と糞尿の輸送に関してはkotonoha_sekiさんの軌道のあった街 -京城軌道ものがたり 4-」に地図などが掲載されている。

 植民地時代の刑務所の話を調べていて思い出したのが、刑期満了とか恩赦の釈放で刑務所から出てきたときに食べるという豆腐。韓国のテレビドラマや映画では、繰り返し出てくるのでよく知られている。

 私が今でも印象に残っているのは、「オアシス」のこの場面のソル・ギョング。  

오아시스 (2002-08)

 そして、「親切なクムジャさん」の冒頭のこの場面もインパクトがあった。

친절한 금자씨 (2005-07)

 

 NAVERの新聞記事検索でこんな記事が見つかった。

時代とともに変わる「出所儀礼」
クリスマス仮釈放
刑務所前の珍風景
パガジがないのでかわりに卵を踏む

 クリスマスを迎え、全国30以上の刑務所から1300人の時局囚と一般囚とが一斉に特別仮釈放された。24日の午前、各刑務所の正門前では、「出所通過儀礼」でひとしきり騒ぎが起きていた。
 もともとの「出所通過儀礼」では、出所者の家族が刑務所の正門前で、まず出所者の体に粗塩を振りまき、出所者が「厄払いが終わった」とパガジを踏み潰して豆腐を食べる。
 これにも「きまり」があって、粗塩は3回振りかけ、パガジは足を交互に替えながら3回踏みつけ、豆腐は3回切って食べるという3の原則の要領を必ず守らなければならない。
 このような通過儀礼の伝統について、ソウル拘置所の金インソム副所長(55)は、朝鮮時代の義禁府の時代からあったようだ」という。
 その由来は、パガジを踏み潰す「儀礼」は、葬儀の時に棺を安置した部屋の敷居の上のパガジを砕いて厄払いをすることから始まったとソウル拘置所のある看守はいう。塩をまくのもこれと同じ厄払い。豆腐は、86年に刑務所の食事が改善される前の「豆飯」で過ごした受刑者に、苦労したという意味を込めて与えたもの。
 しかし、このやり方も最近大きく変わった。
 パガジが手に入りにくくなって、最近では出所者のほとんどが生卵を3つ潰すことになっていて、豆腐は飲み込まずに吐き出す。
 こうしたことから、各刑務所の周辺の飲食店では、卵と塩、豆腐をセットにして袋詰めしたものを置いている。
 ソウル拘置所の正門を担当する黃ヒョンチョル(23)氏は、「一回出所があると、その後での豆腐などの片付けが大変」と語っている。

 1993年のこの記事では、「塩」と「パガジ」と「豆腐」の3種類で厄払いをするのが出所の際の「定番」とされている。瓢箪ひょうたんでできていた本物のパガジは手に入らなくなったので—プラスチック製になった—、代りに卵を潰して代用するとある。

 ただ、冒頭の映像でもそうだが、「刑務所を出所すると豆腐」というように、豆腐だけが突出しているように思える。あんまり塩とかパガジあるいは卵というのは印象にない。

 

 もうちょっと遡った1962年の記事も出てきた。1962年8月15日の『京郷新聞』である。

光復の光明は獄窓にも

子供をおんぶした婦女など
家族と抱き合い、声をからし
399人歓喜の一歩

 8.15解放17周年を迎え、特別赦免の恩典を受けた399人の模範囚は、15日朝、全国19の刑務所から一斉に出所して自由の身になった。
 この日に出所した人々は、初犯であるか、60歳以上の高齢者、または子供のいる婦女子が多かった。この他にも、この日151人の模範囚が減刑された。
 15日朝10時、ソウル刑務所の門を出た李奉玄(48仮名・背任罪)氏は、「司法上の救済がない私も行政上の恩典で満期日(9月1日)より前に出られることになり、政府当局に感謝する」と語った。
 この日、刑務所の正門前には、早朝から数百人の家族が殺到し、家族や友人たちが一人ずつ出所してくるごとに走り寄って、豆腐を食べさせたり、塩を振りかけ、卵やパガジを地面に置いて踏み潰すなどしていた。

 この写真に写っている正門は、西大門刑務所とは形状が異なる。孔徳にあった麻浦矯導所(旧京城監獄)かとも思うがはっきりしない。

 

孔徳の京城監獄正門とその設計図(部分)

 この『京郷新聞』の記事でも「塩」「豆腐」「パガジもしくは卵」というのが出てくる。どうも、パガジがなくなったから卵で代用というわけでもなさそうだ。

 それにしても、1962年段階で、刑務所から出てきたらこうするものという情報が広く定着していたのは興味深い。

 

 尹興吉の「長雨」(『文学と知性』1973年)にもこのような場面が出てくる。

 父はまる一週間ぶりにやっと解放された。食べ物を差し入れするために、その間、街まで何度となく往来していた母が、表門の敷居をまたごうとする父の頭上に、続けざまに塩を振りかけながら涙を流した。引き立てられる前とは別人のように、父の顔はげっそりしていた。目の縁は落ちこぼみ、かわりに頬骨だけ目にみえて尖り、まるで作りたてのキャラコのように、顔色はいいようもないくらい青白くやつれて見えた。僕の目をさらにそらさせたのは、足を踏み出すたびに、右足がびっこを引き、ひどく苦しそうな様子をすることであった。家に戻ってきた最初の夜、父は当時の村ではなかなか求められなかった豆腐を、一度に三丁も生のまま食べてしまった。もともと口の重い方だったが、その日から父はますます口数が少なくなった。
 (姜舜訳:尹興吉『長雨』東京新聞出版局 1979年)

 ここでも塩と豆腐が出てくる。ただ、豆腐3丁食べたのは、厄払いというより腹が減っていたからのような気もするが…。

 

 プルムウォン食品の技術研究所豆腐研究チーム長ユ・ヨンギ氏によると、「豆腐は、タンパク質、脂肪、炭水化物、必須アミノ酸、脳細胞の代謝機能を促進させ、不安解消効果があるギャバ(GABA)という成分が入っている。豆の繊維は、水に溶けないが、豆腐は水溶性で体内吸収がよくなり、拘禁生活で低下した体力を短時間で回復させることができる」という。

 そういえば、比叡山の千日回峰の修行では、豆腐とじゃがいもとうどんを食べていた。

 

 「出所儀礼」は、韓国・朝鮮社会でかなり早い時期から行われていたということが推測される。ユ・ヨンギ氏は、日本の植民地支配下で、刑務所から出所した時に豆腐を食べさせる習慣が始まったというが、特に資料は提示されていない。ソウル拘置所の副署長がいうように朝鮮王朝時代からなのか。

 ということで、『朝鮮王朝実録』サイトで検索してみた。

 さらに『承政院日記』サイトでも。

 

 検索結果は、どちらも0件。まぁそうだろう。こんな単純なand検索じゃ無理だ。

 検索にひっかからなかったからといって、なかったということではないが。

 

 日本の植民地支配下で、西大門監獄の前や孔徳の京城監獄の前で塩を振りまいたり、パガジを踏み潰していたり、豆腐を食べていたりしたんじゃないかな、と想像を巡らせている。ありそうな気がしてきた。