1932年夏に、朝鮮人の街である鍾路の商店や住居に便所がない問題が突如新聞各紙で取り上げられた。
まず『毎日申報』が鍾路の商店1535戸に便所がないということで、鍾路警察が設置を命ずる通知書を出したことを報じた。
さらに『大阪每日新聞西部版』(朝鮮でも購読されていた)が7月5日に取り上げた。
7月15日には『京城日報』と『毎日申報』が記事を書いている。
そして、7月22日には『東亜日報』も記事を掲載している。
9月に入ると3日以内に便所を作れと、鍾路警察署からかなり無体な要求が出されたことが『毎日申報』に掲載された。3日で作れる便所とはどのようなものが想定されていたのか…。
もともと、京城府の主管で汲取りをしていたので、便所がどのように分布しているのかは京城府当局は把握していたはずである。『毎日申報』が「便所不備の鍾路商店 勿驚(驚くなかれ)一千五百余」「モダン京城の大侮辱」と書き、『大阪毎日新聞』が「なんと八千余戸」と驚いているが、むしろ便所がないままここまで放置されていたことに驚かされる。
確かに、朝鮮においては「尿缸:요강」を室内で使う伝統もあったが、糞尿をそこら中に巻き散らかすという習慣があったわけではない。京城の街中で朝鮮人居住区の住環境が悪化した結果、各建物に便所を設置するスペースが確保できず、当局による共同の便所設備もなく、したがって汲取りも行われないまま放置されたものと考えられる。
日本人は、糞尿処理場を見学しながら「臭くてたまらん」と言いながら、自分たちは「文明人」の仲間入りをしたつもりだった。朝鮮人はそこから抜け落ちていた。そして、「朝鮮人は衛生観念がない」などと言い立てた。
5年経った1937年1月の『毎日申報』にも、鍾路の便所の話が出ている。衛生上の問題だけでなく、国際都市京城の体面上も好ましくないとしながらも、
…便所の設置を求めている。しかし元々びっちりと建物が立て込んでいて便所を作る余地にないところも多くあり、京城府当局と協力して付近に共同便所を数カ所新設する方針だという。
と、朝鮮人街の中心地である鍾路が、便所を設置する余地がないような住環境にあったことが書かれている。その劣悪な条件は、1932年にもすでにそうだったのであり、鍾路警察が「便所を作れ」と強権的に命令したとしても改善できるようなものではなかった。
(1)の最後でも書いたように、1928年に稼働し始めた京城の二つの糞尿処理場は、その数年後には処理能力が限界に達すると同時に、肥料売却収益で建設資金回収と運用経費捻出を目論んでいた当初の計画が、全くの見込み違いであることが露呈した。また、糞尿利権を巡って不透明な動きがあり、京城府の官吏の不正疑惑にまで発展した。
京城府では、1935年から糞尿の汲取りを有料化しようとしたが、京城府協議会では非常に強い反対論が起きた。
もともと、統監府時代の1907年に「漢城衛生会」が作られ、有料で汲取りを行なっていた。日本人および外国人は一人1ヶ月8銭、韓国人は建物ごとに20銭となっていた。これが、併合後1914年になって無料化された。しかし、1935年時点で、糞尿の収集・処理に関わる予算額が京城府の経常歳出予算の14%を占め、かつ新たな施設投資も必要であるとして、京城府は有料化に踏み切った※。1935年6月1日から汲取りは有料となった。
※古賀国太郎(京城府掃除係長)「屎尿汲取手数料制度に対する私見」『警務彙報』1935年7月号(第341号)
「糞尿汲取手数料条例」で、京城府の戸別税の等級で金額が定められ、54等級以上は月額20銭、55等から60等までは月額15銭、61等以下は月額10銭とされた。 汲取料をあらかじめ支払うと汲取券が交付される。これがあるとその月に汲取りに来てもらえるという仕組みである。
しかし、有料化したからといって糞尿処理についての状況が改善するわけではない。
逆に、汲取りになかなか来ないといった不満が高まる一方で、汲取りの作業員からは労賃が低すぎるとして作業を「ボイコット」するという事態も起きていた。
作業員の不足と同時に、市内で糞尿の運搬に使う馬車の馬が足らなくなって汲取りが滞っていた。このため、夜間に民間業者に用具や運搬車を貸し出し、民間の請負い汲取りも始めた。ところが、この民間の業者が問題を起こしている。
この記事では、鍾路の飲食店「永保グリル」の汲取りを下往十里の今井保一郎が請け負ったが、作業員が汲み取った糞尿を観水橋から清渓川に投棄したのが摘発されて処罰されたと伝えている。汲取り・運搬・糞尿処理の工程がうまく機能しなくなっていたのであろう。
こうした不法投棄は常態化していたようで、その後、清渓川の汚物による汚染問題は深刻化している。翌年には清渓川での野菜洗浄が厳禁され、京城府で設置した共同洗浄場で洗うよう指示している。清渓川の糞尿による汚染が限界まで進んでいたことを物語るものである。
1937年10月の『京城日報』には、貫鉄町・長水町・観水町あたりの清渓川は「あたかも汚物処理場の観」とある。まさに京城の中心部に糞尿があふれていたのである。これは、京城府の失政であり、京城の糞尿処理政策が破綻していたことを示すものである。
このように清渓川が糞尿で極度に汚染される中、清渓川の暗渠化案が出てきた。さらには覆蓋の上に高架鉄道を通す案など派手な「夢」を振りまいて「糞尿処理場と化した清渓川」から目を逸らさせようとする、京城府の糞尿処理に関する失政を糊塗するためのものであった。
6月末には、総予算500万円、5カ年計画で京城府が本格的な検討に乗り出したことが伝えられている。ここでは、清渓川全体を暗渠化して道路にする案をはじめ、運河を作る案や中央部だけ下水道にする案、上流にダムを作って間欠的に送水清掃する案が提示されたとしている。全暗渠とした上に清涼里から光化門まで高架鉄道を作る案は、さすがに「あまりにも積極的で遠大理想案」だとして保留されていた。
翌年5月の『京城日報』は、光化門前の広場部分から三角町までの450メートルを暗渠化する工事がはじめられることを報じている。
光化門の交差点から南大門通りまでの覆蓋は完成したものの、その後は、戦時体制化に入り資金不足、資材不足、それに人手不足によって工事は行われないままであった。
これ以外にも、新たな処分場の計画や新しい施設を設けて糞尿の肥料利用を促進する方法なども打ち出されはしたが、どの程度まで進捗したか定かではない。
これ以降、特に太平洋戦争期に入ってからは京城の糞尿に関する新聞報道はほとんど出てこない。韓国歴史情報統合システムで、1941年から45年まで、「屎尿」「糞尿」「清渓川」で検索しても定期刊行物には特段の記事は出てこない。
1945年8月までの京城府の統治下では、清渓川の支流と光化門交差点から南大門通までについては暗渠化が行われたが、清渓川本流の覆蓋はそれ以上は進まなかった。それが本格的に始まったのは1958年になってからのことである。1958年5月から1961年12月にかけての広橋から清渓6街までを手始めに、新踏鉄橋までが暗渠化された。そして、覆蓋の上には高架道路が建設された。
積極的な都市開発に見えなくもないが、その経緯から見るならば、京城府の糞尿処理が破綻した結果、極度の汚染状態になっていた清渓川を最終的に暗渠化せざるを得なかったのである。
大韓民国になってから、日本による植民地支配時代の京城府の糞尿処理政策の失敗の、まさに「尻ぬぐい」をさせられた。そして臭いものに蓋をしたというわけだ。




















