洞・町内の名物(1) 殖銀村・東拓舍宅・日人貧民窟 | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 日本人が住んでいるところを「名物」にした記事を三つ取り上げたい。

  • 1924年6月29日 松峴洞(송현동) 殖銀村(식은촌)
  • 1924年8月4日 通義洞(통의동) 東拓舍宅(동척사택)
  • 1924年8月2日 水下町(수하정) 日人貧民窟(일인빈민굴)
 当時の朝鮮には、内地に本籍がある「日本人」と、朝鮮に本籍がある「国籍は日本にされた朝鮮人」がいた。一般には、前者を「内地人」「日本人」と呼び、後者を「朝鮮人」と呼んだ。本籍を変えることは原則的にできなかったので、この区分は明確で固定的であった。そして、両者はお互い「違う部類の住人」として異なる制度(教育や行政手続き、兵役など)のものとで暮らしていた。
 ここで、冒頭「日本人が住んでいた」と書いたのは、内地に本籍がある「日本人」ということである。
 「日人貧民窟」の記事には「日人」「日本人(일본사람)」の用語が出てきているが、松峴洞殖銀村と通義洞東拓舍宅の記事には、明示的に「日本人」は出てこない。しかし、「違う部類の住人」すなわち「日本人」を強く意識して書かれた内容である。
 

 舞台となった場所は、1921年修正の1万分1地図に載せてみると下のようになる。この地図には、景福宮の南部分に「総督府庁舎新築場」との記載があるが、1924年の記事掲載時にはまだ完成はしてなかった。松峴洞の殖銀村と通義洞の東拓舍宅は、まさに朝鮮人のテリトリーの中にあった。水下町は、「町」が使われていることもわかるように、日本人のテリトリーの北端、ちょうど境界部分であった。

 

 

◇松峴洞の一帯は殖銀舎宅です。これを見るだけでも朝鮮人の京城の没落が分かるというものです。この舎宅の前身は、府院君というよりも、頭でっかち将軍(尹徳栄)の弟として有名な尹澤榮氏の家でした。しばらくはちゃんとしていたのですが、兄弟が張り合って身の丈を越えた暮らしをしたためか、この家を学生寄宿舎にして貸し出すことになりました。そして最後は殖産銀行の手に渡ることになったのです。
◇殖産銀行では、この家の周辺約8500坪ほどを買い取って、アメリカで流行りの近代住宅34棟の立派な家を建てるのに3年の歳月と70万円の経費をつぎ込みました。赤い屋根を見て監獄みたいだという人もいますが、中に入ると理想的な文化住宅なんだそうです。さて、この家は誰のお金で建てられたのでしょう。隣にいまにもくずれそうなボロ屋が立っている横で暮らす彼らも、多少は申し訳ないと思っていることでしょう。経費を節約するため、下っ端の行員を捨て置いて、庭の前には庭石や草花が一つ二つ置かれているというのも妙なものです。ところで、この舎宅のおかげといえば、安国洞に電車が早く開通したことだといいます。両班でもない奴が偉そうに振る舞う式に、電車に乗ってその気にでもなってみますか。


◇東拓とか盗拓とかいう会社がある意味で朝鮮の名物だといえば、そして、その会社の人間が住んでいる東拓舎宅がうちの通義洞の名物だといえば、ちょっと恥ずかしいのですが当然というしかないのです。
◇彼らはかわいそうな小作人の血を絞り、後継者がいないといって田畑を奪い、そしてこんな立派な家を建てて暮らしているのです。神様も思いやりがないですよね。
◇こんな家のために、男や女が荷物を担いで愛する故国を出て行かざるを得ない、そんな人々がどれほどいるかお分かりですか。この家に住んでいる人たちの暮らしのために、食べ物のことを気にかけながら街を彷徨う兄弟がどれほどいるかご存知ですか。このように義理のない行いをすることが一日も早くなくなり、文字通り「通義洞」の名そのままに「義の洞」として理致にかなう日が来るのはいつのことでしょうか。
◇暑い今日この頃、愚痴はこのくらいにして笑い話を一つ。この舎宅の中には入居すると妻が亡くなってしまうという呪われた家があり、その家は取り壊したんだそうです。小作人には恐ろしい彼らも、迷信には震えあがるようです。


◇水下町には日本人の貧民窟があります。チンコゲ(泥峴:日本人街の旧名)を見物して帰りに立ち寄ると貧民窟だと一目でわかります。しかし、普通の朝鮮人が住むところを見てきた目には全くそうは見えないほど立派です。
◇刑務所の中では強面の看守もここの住人ですし昌徳宮や総督府のようなところで見物人を仕切る守衛もここの住人です。ここに住む人の中にはこうしたおいしい職種についている人が住んでいるだけはありません。将来大金持ちになることもあり功績をあげる人も出るでしょう。そのために、お人好しの朝鮮人たちは死にそうなんですが。
◇朝鮮人からすると貧民窟というには恐れ多いこの貧民窟には家が何棟もあり一棟の家に何所帯かが暮らしているといいます。この家を建てるのに使った材木は新しい材木ではなく再利用の材木が使われてます。それにしては立派なものです。こんなに立派な材木がどこからきたのかといえば景福宮の宮闕から持ち出してきたものだといいます。もちろん景福宮はこの貧民窟の家を建てるために壊されたんではないですよね。


 いまのKakao Mapではこうなる。

 日人貧民窟があったとされる下水洞ハスドンは現在はオフィスビルが立ち並ぶ一角になっており、当時の痕跡は皆無である。景福宮を破壊して持ち出した廃材も残念ながらみることはできない。

 

 通義洞の東拓舍宅は、朝鮮総督府の庁舎が景福宮の勤政殿前に完成した後の航空写真に写っている。かなりの規模である。しかし、これも現在は痕跡は残っていないほんのわずかに痕跡が残っているのみである。
※liumei(韓国古建築散歩)さんに現在の통의동25の周辺に東拓舍宅の一部が残っているとの情報をいただいた。感謝して修正する(2019/08/31追記)。

 孝子洞行きの路面電車の通義洞電停があったあたり

 

 松峴洞の殖銀村跡地は現在は空き地になっている。

   2019年6月鍾路区庁提供(nocutnews

 殖産銀行がアメリカで流行りの住宅を建てたからというわけではなかろうが、この場所は、1997年までアメリカ大使館の館員住宅として使われていた。旧韓国日報ハングギルボ社(現在のTwin Tree Towe B)の向かい側の一角が高い黒い石塀で囲まれて、戦闘警察が警備していた。

 実は、1980年代に私はここによく通った。この中のプールで泳いでいたから。当時は、ここが殖産銀行の舎宅跡とは知らず、よく観察しなかったが、ほとんど建て替えられていたと思う。

 1997年に、1400億ウォンでサムソン文化財団に売却された。龍山の米軍基地の返還とそこへのアメリカ大使館移転が具体化しつつあった時期である。

 しかし、サムソンが館員宿舎跡地に計画した複合文化施設は、用途や建築基準に制限があって建設ができなくなった。2008年、大韓航空の韓進ハンジングループに2900億ウォンで転売された。しかし、韓進グループが目論んでいたホテル建設も実現は難しい状況であった。ソウル市は、ここを公園化する計画があるというが、公示地価は1628億ウォンで、売却に応じるという韓進グループとは価格面でなかなか折り合いがつきそうにない。

 というわけで、殖銀村跡地はすでに20年以上空き地のままになっている。

 

 ところで、朝鮮殖産銀行は、大韓帝国の時代に設置された各地の農工銀行を、1918年の朝鮮殖産銀行令で合併させてできた銀行であった。本店は、南大門通り、現在のロッテショッピングの場所にあった。銀行の目の前に黄金町の電停があり、孝子洞行きの電車で北に上がっていくと鍾路、安国を通って次の中学洞で降りると、そこが殖銀舎宅であった。

 東洋拓殖もこの黄金町に本店があった。同じ路面電車で、中学洞から総督府前、積善洞、その次が通義洞で、その電停を降りてすぐが東拓舎宅であった。

 

 この3つの東亜日報の記事には、日本の植民地支配への不満や批判がストレートに出ている。美味しいところは日本人が持って行ってしまい、朝鮮人にしわ寄せがきているとはっきりと書いてある。

 各洞・町で何を「名物」として取り上げるか、読者はそれを投稿で当てるのだが、この3件についてはいずれも正解者が出ている。「名物」を当てただけではなく、その記事に書かれた思いは多くの読者とも共有されていたのであろう。