1924年7月31日に蓬莱町の名物として紹介されたのは貧民窟。
貧民窟といわれているが、実は、この蓬莱町の住宅は、れっきとした京城府の府営の住宅なのである。「れっきとした」とは書いたのだが、あんまり「れっき」としてはいない。
◇わかると思いますが、鹽川橋を渡って全く同じ十数軒の家に、家賃月3円で家主は京城府、借家人はほぼ貧民といえば。わかるでしょう。そう、蓬莱町の貧民窟。
◇貧民窟、貧民窟というからと、みんなが貧民だとは思わないでください。ここに入居している人で月収7〜80円という人もいるんです。でも、考えてみれば7〜80円は多いですかね。やっぱり貧乏人です。しかし、稼ぎがやっと9円という人もいるんです。このような人がいるので、7〜80円の収入の人を貧乏人と呼びにくくなっています。
◇月に9円の稼ぎで3人家族が1ヶ月暮らして、10銭以上の黒字を出したという話を聞きました。どうやって暮らしたのか、どうにも考えられません。それで尋ねてみると、我々が暮らすというのは、ただ生きるだけではなくそれ自体がやるべきことなのです。食事で思いがけず中国産の小麦粉が手に入れば鍋に煙を立てることができます。こんな苦労をする人々が一番努力をしているのです。
◇苦労といえばそうでしょう。多くの人が空を仰いで恥じるところなく、地を見下ろしても恥じるところはありません。
京城府は、大正10年度の予算に住宅難対策として40戸の「貸住宅」と100戸の「共同長屋」建築費8万6千円を計上した。
1920年代に入って、京城の住宅難は深刻化していた。朝鮮人の住宅難はもとより、住居が確保できない日本人給与生活者も急増していた。三一独立運動後の統治方針の転換もあいまって、日本人向けとともに朝鮮人向けの住居提供も立案されたのである。
1921年6月21日付の『東亜日報』が報じた京城府の調査結果によれば、給与生活者の所帯6390戸、そのうち官舎や社宅に入れているのが720戸、同居者が539名、5135名が適切な住居に入れずにいるとなっている。そして、これらの人々を「洋服細民」と呼んでいる。
1920年代の京城府の戸口数と人口はこのように推移している。
1920年から24年までの間に、日本人の戸数が3000戸、朝鮮人の戸数が8200戸ほど増えている。その分の家屋が新築されたわけではないので、間借りや同居が増加したということであろう。さらに、京城府内だけでなく、その外郭の孔徳里・阿峴里・清涼里・往十里・漢江里・梨泰院などに7500戸、3500人あまりの人が住んでいた(1922年6月の調査)。
こうした京城への人口集中がすでに始まり、京城の住宅難が顕著になり始めた中、京城府は1921年度予算で府営の住宅建設に踏み切ったのである。この予算案が審議された京城府協議会に関し、3月20日付の『東亜日報』は一面トップでその内容を伝えている。
府営の住宅について、京城府側の説明を紹介している。
(前略)京城府の住宅難を緩和するため約8万円余を投じて日本式家屋約40戸、朝鮮式家屋約100戸をを建築する計画である。 (中略) 住宅を建築して、一方で住宅難を緩和すると同時に、他方では社会政策的な意味で労働者生活の便宜を図り住まいの安定を期するばかりでなく、これによって朝鮮の在来式の家屋構造の改良を試み、共同生活に慣れると同時に倹約貯蓄の美風を養い、その他各方面にわたっての生活改善を図るところに我々の趣旨はそこにあるのであり…
『東亜日報』は、これ以降、この府営の住宅の建築について、場所の選定、工事の進捗状況、入居希望者の動向など、こまかく記事を書いている。当然のことだが、特に朝鮮人の住宅について関心を示している。
5月になって、府営の住宅の建設場所が確定した。日本式家屋は、漢江通の練兵町に、朝鮮式家屋は、京城府の西端の蓬莱町と東大門そばの訓練院跡地の2カ所に建設されることになった。
朝鮮銀行調査部が出していた『朝鮮事情』の1921年6月上旬号に、この京城府営住宅についての記事が出ている。
京城府營住宅
住宅拂底の聾は、朝鮮にあつても各都市に於て聞く所であるが、京城府では之が緩和策として、目下内地人向住宅四十戸、鮮人向住宅百戸の建築に着手してゐる。此府營住宅は、地代を計算外に置き、而かも殖産銀行から年八分の特資を融通してゐるにも拘らず、尚ほ一個年九百圓の缺損を見るのである。一戸の家賃は二十圓内外で、凡そ年收千圓以上二千圓以下の者に提供する標準で、一戸建坪は僅々十三坪五合に過ぎない。而して工事の竣成は、多分七月末頃であると云ふ。府に於ては、尚ほ是れ以上の建築をなすべきや否やに關し、住宅拂底の實情を調査してゐるが、恐らく聾程ではないらしいと云ふ事になつてゐると。
13.5坪だと45㎡で、戦後の公団住宅の3DK程度の広さ。そこそこの住まいだと思われるが、当時の京城の官舎や社宅はもっと広かったのか、朝鮮銀行の行員からすると「僅々=わずか」の広さだったようだ。それを月収で80円〜160円程度の階層に月額20円程度の家賃で住まわせるというのが府営住宅と書かれている。
しかし、ここに書かれているのは、内地人向けに日本式家屋の「貸住宅」を建てた練兵町の府営住宅のことであって、 朝鮮人向けに「共同長屋」が建てられる蓬莱町と訓練院の府営の住宅は、これとは全く異なるものであった。
5月6日付の『東亜日報』に、朝鮮人向け住宅についての具体的内容が書かれている。オンドル部屋と玄関・台所の二間で、1戸の面積は2坪6勺5合となっている。日本人向けの練兵町府営住宅の1/5の広さしかない。家賃は2円程度と予想している。
すなわち、日本人向けの府営住宅が中流階層向けであるのに対し、朝鮮人住宅は下層民を対象としていて、同じ府営住宅とはとても言い難いほどの大きな格差があった。朝鮮銀行調査部の『朝鮮事情』の1921年8月下旬号では、練兵町の住宅は「府営住宅」、蓬莱町や訓練院住宅は「府営長屋」と別の呼称を使っている。
言い換えれば、日本人では中流への住宅供給が必要とされたのに対し、朝鮮人は中流ではなく下層民だけが「住居対策」の対象と考えたのである。
練兵町の府営住宅36戸は7月中に完成し、岡崎町の4戸と合わせて全40戸のうち京城府の職員が入居する10戸を除く30戸について7月28日に入居者の抽選が行われた。家賃が格安の18円ということで、二百数十名の応募者があり、そのうち収入制限などで有資格とされた61名から抽選で当選した30名が入居することになった。全員が日本人で、8月上旬には入居が完了した。
一方、蓬莱町の府営長屋28戸は、9月に完成して10月上旬に京城府庁から入居者に通知された。抽選があったとは書かれていない。家賃は3円で、電気代や水道料などを合わせて1ヶ月4円45銭が徴収された。
さらに、訓練院の60戸も11月中に完成した。下の写真は訓練院の府営長屋の工事中の写真として掲載されたもの。
下図の間取りは「土幕」のものであるが、「土幕」とは違って、屋根や壁がちゃんとした建材で建てられている。ただ間取りとしてはやはりこうした配置であったと考えられる。これが1棟に数軒並んでいるという構造だったのであろう。

訓練院の府営長屋は、12月20日までに入居が完了した。60戸中、4戸には日本人が入居したとされる。残りの56戸が朝鮮人所帯。その業種別の内訳が報じられている。
府職員 19
官庁職員 10
銀行会社員 14
商業 5
工業 5
医者 1
薬剤師 1
按摩 1
巡査 3
消防手 1
「職員」といっても、「吏員」という正規の職員から、その補助職である「雇員」や現業職の「傭人」があり、ここでは、「傭人」もしくは「雇員」であろう。定期的な収入はあるが給与水準は低い。一方、蓬莱町の28戸については、入居者の職業などを報じた記事は見当たらないが、ほぼ同様の分布だったと推測される。これで見る限りは、入居者の多くは普通に「貧民」と呼ばれる人々である。
ところが2年後の1923年には、日雇いの労務者や日銭の収入で暮らす人が増加し、府営長屋内で貧富の格差が拡大している。すなわち、極貧層の居住者が出てきているのである。『東亜日報』は1923年の12月11日と12日の二日間にわたって「府営長屋の悲惨な生活」を載せている。「洞・町内の名物」の記事に出てくる「9円の稼ぎしかない」という例は、このときの取材によるものかもしれない。
さらに、翌年2月には、日本語の『朝鮮新聞』が、3回にわたって「貧乏は辛い 府営住宅の人々」という記事を連載している。
食べ物もなく、極寒の下でオンドルに火を入れることもできず、布団もなく一夜を過ごす家族、極貧の悲惨な生活が描かれている。悲惨さを伝えつつも、『朝鮮新聞」の記事では、朝鮮人の怠惰や刹那的な考え方を揶揄する上から目線で極貧居住者の生活が描かれている。
こうした家賃すら払えない人々が、どのように入居したのか、あるいは入居者が没落して極貧状態に陥っていったのかは不明である。「土幕」についても居住権が売買されたりしており、入居権の譲渡などもあった可能性も考えられる。
『東亜日報』は5月16日にも「貧民窟の同胞 命をつなぐだけの哀れな身の上」という記事で、府営住宅居住者の生活実態を紹介している。
すなわち、当初京城府が掲げていた「労働者生活の便宜を図り」「住まいの安定を期」して「他各方面にわたっての生活改善を図る」ということはもとより、朝鮮人の住宅難を緩和するという点でも初期の目的を果たすことはできなかった。『東亜日報』が「洞・町内の名物」選定で、蓬莱町の「名物」を貧民窟としたことにもその苛立ちがうかがえる。
ところが、その翌年、1925年9月にはこのような記事が報じられている。
京城府が、府営の住宅を京城府の「傭人」向けの住居とする方針だというのだ。そのため、現在の府営の住宅の住民は立ち退きを迫られるであろうという記事である。ここでいう府営住宅とは、蓬莱町と訓練院の1戸が3坪弱の府営長屋のことで、日本人向けの練兵町の府営住宅はその対象にはなってはいない。
前述のように、「傭人」とは、府庁に雇用されているが、単純労務に従事する薄給の現業職である。
こうして、本来、朝鮮人下層民向けの府営賃貸住宅として建てられた蓬莱町と訓練院の府営長屋88戸は、1925年中に京城府の「傭人」の住居へとその用途が変更された。1926年6月20日の『東亜日報』の記事では、61戸が埋まっており、残り27戸が空室と報じられている。3坪2間の長屋住宅では、薄給の京城府傭人でもなかなか入りたがらないのかもしれないが、食うものもなくオンドルに火も入れられないような「貧民窟」ではなくなった。傭人でなくなれば追い出されるから…。
一方、練兵町の府営住宅は、その後も入居希望者が殺到する人気の物件だった。
敗戦後引き揚げてきた三坂小学校の卒業生が作っていた同窓会が出した『鉄石と千草』(1983)に、1933年に卒業した卒業生の回想が掲載されている。
京城府の公立学校の教員は、京城府の「吏員」、すなわち正規職員であった。練兵町の府営住宅の入居者の選定で、10軒については京城府側で優先使用として抽選対象から外したが、三坂小学校の教員4名はその枠でこの府営住宅に入居したものと思われる。
この府営住宅は、解放後もそのまま住居として用いられ、今日に至っている。米軍政下で「敵産」として接収されて払い下げられるかたちで処理されたと思われるが、現在までの所有関係の異動は不明。
今もこのような形で、府営住宅当時の家屋が残され使われている。
下の写真は2019年3月撮影
一方、蓬莱町と訓練院の府営長屋の痕跡は、今日では探すことは困難である。跡形もない。
こうして見てくると、京城に暮らした「日本人」と「朝鮮人」。統治者や内地人の目には、朝鮮人が「同じ京城府の住民」として同等には映っていなかったことがはっきりとする。日本人向けに建てられた建造物は、今日でも利用可能だが、朝鮮人向けとして建てられた建造物は、いつの間にか消滅して今は痕跡すら探すことができない。
1920年代初めの「文化統治」という看板を掲げた時代に建てられた同じ府営の住宅でありながら、朝鮮人向けの長屋は数年のうちに貧民窟となり、その後京城府傭人の宿舎に転用されて消滅した。その一方で日本人向けの住宅は21世期の今日まで残されている。
日本の朝鮮植民地支配における「内地人」と「朝鮮人」との差を物語る実例の一つであろう。
























































