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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年7月31日に蓬莱町の名物として紹介されたのは貧民窟。

 貧民窟といわれているが、実は、この蓬莱町の住宅は、れっきとした京城府の府営の住宅なのである。「れっきとした」とは書いたのだが、あんまり「れっき」としてはいない。

◇わかると思いますが、鹽川橋を渡って全く同じ十数軒の家に、家賃月3円で家主は京城府、借家人はほぼ貧民といえば。わかるでしょう。そう、蓬莱町の貧民窟。
◇貧民窟、貧民窟というからと、みんなが貧民だとは思わないでください。ここに入居している人で月収7〜80円という人もいるんです。でも、考えてみれば7〜80円は多いですかね。やっぱり貧乏人です。しかし、稼ぎがやっと9円という人もいるんです。このような人がいるので、7〜80円の収入の人を貧乏人と呼びにくくなっています。
◇月に9円の稼ぎで3人家族が1ヶ月暮らして、10銭以上の黒字を出したという話を聞きました。どうやって暮らしたのか、どうにも考えられません。それで尋ねてみると、我々が暮らすというのは、ただ生きるだけではなくそれ自体がやるべきことなのです。食事で思いがけず中国産の小麦粉が手に入れば鍋に煙を立てることができます。こんな苦労をする人々が一番努力をしているのです。
◇苦労といえばそうでしょう。多くの人が空を仰いで恥じるところなく、地を見下ろしても恥じるところはありません。

 

 京城府は、大正10年1921度の予算に住宅難対策として40戸の「貸住宅」と100戸の「共同長屋」建築費8万6千円を計上した。

 1920年代に入って、京城の住宅難は深刻化していた。朝鮮人の住宅難はもとより、住居が確保できない日本人給与生活者も急増していた。三一独立運動後の統治方針の転換もあいまって、日本人向けとともに朝鮮人向けの住居提供も立案されたのである。

 1921年6月21日付の『東亜日報』が報じた京城府の調査結果によれば、給与生活者の所帯6390戸、そのうち官舎や社宅に入れているのが720戸、同居者が539名、5135名が適切な住居に入れずにいるとなっている。そして、これらの人々を「洋服細民」と呼んでいる。

 1920年代の京城府の戸口数と人口はこのように推移している。

 1920年から24年までの間に、日本人の戸数が3000戸、朝鮮人の戸数が8200戸ほど増えている。その分の家屋が新築されたわけではないので、間借りや同居が増加したということであろう。さらに、京城府内だけでなく、その外郭の孔徳里・阿峴里・清涼里・往十里・漢江里・梨泰院などに7500戸、3500人あまりの人が住んでいた(1922年6月の調査)。

 

 こうした京城への人口集中がすでに始まり、京城の住宅難が顕著になり始めた中、京城府は1921年度予算で府営の住宅建設に踏み切ったのである。この予算案が審議された京城府協議会に関し、3月20日付の『東亜日報』は一面トップでその内容を伝えている。

府営の住宅について、京城府側の説明を紹介している。

(前略)京城府の住宅難を緩和するため約8万円余を投じて日本式家屋約40戸、朝鮮式家屋約100戸をを建築する計画である。 (中略) 住宅を建築して、一方で住宅難を緩和すると同時に、他方では社会政策的な意味で労働者生活の便宜を図り住まいの安定を期するばかりでなく、これによって朝鮮の在来式の家屋構造の改良を試み、共同生活に慣れると同時に倹約貯蓄の美風を養い、その他各方面にわたっての生活改善を図るところに我々の趣旨はそこにあるのであり…

 『東亜日報』は、これ以降、この府営の住宅の建築について、場所の選定、工事の進捗状況、入居希望者の動向など、こまかく記事を書いている。当然のことだが、特に朝鮮人の住宅について関心を示している。

 

 5月になって、府営の住宅の建設場所が確定した。日本式家屋は、漢江通の練兵町に、朝鮮式家屋は、京城府の西端の蓬莱町と東大門そばの訓練院跡地の2カ所に建設されることになった。

 朝鮮銀行調査部が出していた『朝鮮事情』の1921年6月上旬号に、この京城府営住宅についての記事が出ている。

京城府營住宅
住宅拂底の聾は、朝鮮にあつても各都市に於て聞く所であるが、京城府では之が緩和策として、目下内地人向住宅四十戸、鮮人向住宅百戸の建築に着手してゐる。此府營住宅は、地代を計算外に置き、而かも殖産銀行から年八分の特資を融通してゐるにも拘らず、尚ほ一個年九百圓の缺損を見るのである。一戸の家賃は二十圓内外で、凡そ年收千圓以上二千圓以下の者に提供する標準で、一戸建坪は僅々十三坪五合に過ぎない。而して工事の竣成は、多分七月末頃であると云ふ。府に於ては、尚ほ是れ以上の建築をなすべきや否やに關し、住宅拂底の實情を調査してゐるが、恐らく聾程ではないらしいと云ふ事になつてゐると。

 13.5坪だと45㎡で、戦後の公団住宅の3DK程度の広さ。そこそこの住まいだと思われるが、当時の京城の官舎や社宅はもっと広かったのか、朝鮮銀行の行員からすると「僅々=わずか」の広さだったようだ。それを月収で80円〜160円程度の階層に月額20円程度の家賃で住まわせるというのが府営住宅と書かれている。

 しかし、ここに書かれているのは、内地人向けに日本式家屋の「貸住宅」を建てた練兵町の府営住宅のことであって、 朝鮮人向けに「共同長屋」が建てられる蓬莱町と訓練院の府営の住宅は、これとは全く異なるものであった。

 

 5月6日付の『東亜日報』に、朝鮮人向け住宅についての具体的内容が書かれている。オンドル部屋と玄関・台所の二間で、1戸の面積は2坪6勺5合(ママ)となっている。日本人向けの練兵町府営住宅の1/5の広さしかない。家賃は2円程度と予想している。

 すなわち、日本人向けの府営住宅が中流階層向けであるのに対し、朝鮮人住宅は下層民を対象としていて、同じ府営住宅とはとても言い難いほどの大きな格差があった。朝鮮銀行調査部の『朝鮮事情』の1921年8月下旬号では、練兵町の住宅は「府営住宅」、蓬莱町や訓練院住宅は「府営長屋」と別の呼称を使っている。

 言い換えれば、日本人では中流への住宅供給が必要とされたのに対し、朝鮮人は中流ではなく下層民だけが「住居対策」の対象と考えたのである。

 

 練兵町の府営住宅36戸は7月中に完成し、岡崎町の4戸と合わせて全40戸のうち京城府の職員が入居する10戸を除く30戸について7月28日に入居者の抽選が行われた。家賃が格安の18円ということで、二百数十名の応募者があり、そのうち収入制限などで有資格とされた61名から抽選で当選した30名が入居することになった。全員が日本人で、8月上旬には入居が完了した。

 

 一方、蓬莱町の府営長屋28戸は、9月に完成して10月上旬に京城府庁から入居者に通知された。抽選があったとは書かれていない。家賃は3円で、電気代や水道料などを合わせて1ヶ月4円45銭が徴収された。

 さらに、訓練院の60戸も11月中に完成した。下の写真は訓練院の府営長屋の工事中の写真として掲載されたもの。

 下図の間取りは「土幕」のものであるが、「土幕」とは違って、屋根や壁がちゃんとした建材で建てられている。ただ間取りとしてはやはりこうした配置であったと考えられる。これが1棟に数軒並んでいるという構造だったのであろう。

 

 訓練院の府営長屋は、12月20日までに入居が完了した。60戸中、4戸には日本人が入居したとされる。残りの56戸が朝鮮人所帯。その業種別の内訳が報じられている。

 府職員 19

 官庁職員 10

 銀行会社員 14

 商業 5

 工業 5

 医者 1

 薬剤師 1

 按摩 1

 巡査 3

 消防手 1

 

 「職員」といっても、「吏員」という正規の職員から、その補助職である「雇員」や現業職の「傭人」があり、ここでは、「傭人」もしくは「雇員」であろう。定期的な収入はあるが給与水準は低い。一方、蓬莱町の28戸については、入居者の職業などを報じた記事は見当たらないが、ほぼ同様の分布だったと推測される。これで見る限りは、入居者の多くは普通に「貧民」と呼ばれる人々である。

 

 ところが2年後の1923年には、日雇いの労務者や日銭の収入で暮らす人が増加し、府営長屋内で貧富の格差が拡大している。すなわち、極貧層の居住者が出てきているのである。『東亜日報』は1923年の12月11日と12日の二日間にわたって「府営長屋の悲惨な生活」を載せている。「洞・町内の名物」の記事に出てくる「9円の稼ぎしかない」という例は、このときの取材によるものかもしれない。

 

 さらに、翌年2月には、日本語の『朝鮮新聞』が、3回にわたって「貧乏は辛い 府営住宅の人々」という記事を連載している。

 食べ物もなく、極寒の下でオンドルに火を入れることもできず、布団もなく一夜を過ごす家族、極貧の悲惨な生活が描かれている。悲惨さを伝えつつも、『朝鮮新聞」の記事では、朝鮮人の怠惰や刹那的な考え方を揶揄する上から目線で極貧居住者の生活が描かれている。

 こうした家賃すら払えない人々が、どのように入居したのか、あるいは入居者が没落して極貧状態に陥っていったのかは不明である。「土幕」についても居住権が売買されたりしており、入居権の譲渡などもあった可能性も考えられる。

 

 『東亜日報』は5月16日にも「貧民窟の同胞 命をつなぐだけの哀れな身の上」という記事で、府営住宅居住者の生活実態を紹介している。

 すなわち、当初京城府が掲げていた「労働者生活の便宜を図り」「住まいの安定を期」して「他各方面にわたっての生活改善を図る」ということはもとより、朝鮮人の住宅難を緩和するという点でも初期の目的を果たすことはできなかった。『東亜日報』が「洞・町内の名物」選定で、蓬莱町の「名物」を貧民窟としたことにもその苛立ちがうかがえる。

 

 ところが、その翌年、1925年9月にはこのような記事が報じられている。

 京城府が、府営の住宅を京城府の「傭人」向けの住居とする方針だというのだ。そのため、現在の府営の住宅の住民は立ち退きを迫られるであろうという記事である。ここでいう府営住宅とは、蓬莱町と訓練院の1戸が3坪弱の府営長屋のことで、日本人向けの練兵町の府営住宅はその対象にはなってはいない。

 前述のように、「傭人」とは、府庁に雇用されているが、単純労務に従事する薄給の現業職である。

 こうして、本来、朝鮮人下層民向けの府営賃貸住宅として建てられた蓬莱町と訓練院の府営長屋88戸は、1925年中に京城府の「傭人」の住居へとその用途が変更された。1926年6月20日の『東亜日報』の記事では、61戸が埋まっており、残り27戸が空室と報じられている。3坪2間の長屋住宅では、薄給の京城府傭人でもなかなか入りたがらないのかもしれないが、食うものもなくオンドルに火も入れられないような「貧民窟」ではなくなった。傭人でなくなれば追い出されるから…。

 

 一方、練兵町の府営住宅は、その後も入居希望者が殺到する人気の物件だった。

 敗戦後引き揚げてきた三坂小学校の卒業生が作っていた同窓会が出した『鉄石と千草』(1983)に、1933年に卒業した卒業生の回想が掲載されている。

 京城府の公立学校の教員は、京城府の「吏員」、すなわち正規職員であった。練兵町の府営住宅の入居者の選定で、10軒については京城府側で優先使用として抽選対象から外したが、三坂小学校の教員4名はその枠でこの府営住宅に入居したものと思われる。

 この府営住宅は、解放後もそのまま住居として用いられ、今日に至っている。米軍政下で「敵産」として接収されて払い下げられるかたちで処理されたと思われるが、現在までの所有関係の異動は不明。

 今もこのような形で、府営住宅当時の家屋が残され使われている。

下の写真は2019年3月撮影

 

 一方、蓬莱町と訓練院の府営長屋の痕跡は、今日では探すことは困難である。跡形もない。

 

 こうして見てくると、京城に暮らした「日本人」と「朝鮮人」。統治者や内地人の目には、朝鮮人が「同じ京城府の住民」として同等には映っていなかったことがはっきりとする。日本人向けに建てられた建造物は、今日でも利用可能だが、朝鮮人向けとして建てられた建造物は、いつの間にか消滅して今は痕跡すら探すことができない。

 1920年代初めの「文化統治」という看板を掲げた時代に建てられた同じ府営の住宅でありながら、朝鮮人向けの長屋は数年のうちに貧民窟となり、その後京城府傭人の宿舎に転用されて消滅した。その一方で日本人向けの住宅は21世期の今日まで残されている。

 日本の朝鮮植民地支配における「内地人」と「朝鮮人」との差を物語る実例の一つであろう。

 京城測候所の話で、NHK第2放送で1928年11月5日に放送が始まった「気象通報」について触れた。

 私が大学生で山に行っていた1970年前後には、この「気象通報」をラジオで聴きながら天気図を作成していた。

 

 当時もいまも、「石垣島では西北の風、風力3、晴れ………」と始まる。そして、日本国内の稚内が終わるとロシアのサハリンに移る。それが終わると韓国。

 私が聴いていた頃はこうだった。

※音声が聞けない場合は、下の文章を参照してください。

 その後数十年たったあるとき、それが変わっていることに気づいた。

 例えば、今年の6月1日の「気象通報」はこうである。

※音声が聞けない場合は、下の文章を参照してください。
 いくつか違いがある。

 昔は、生身のアナウンサーが読んでいたのだが、2014年からは合成音声の機械放送システムになっているのだそうだ。それぞれの音声パーツから自然な抑揚になるようにパターンを選び出して合成された音声が流れている。そう言われて聞き直すとちょっとつなぎ目が…と思わなくもないが、ほとんど気付けない。

 もう一点。気圧は「ミリバール」を使っていたのが「ヘクトパスカル」になっている。これは1992年12月1日から変わった。テレビの天気予報などでも全て変わったので、今や気圧はヘクトパスカルが常識になっているが、当初はかなりの違和感があった。

 1960年の国際度量衡総会で、気圧は「パスカル」に統一されていたのだが、日本は「ミリバール」を使い続けた。「ミリバール」はアメリカ式の単位で、敗戦によってそれまでの「(水銀柱)ミリ」からアメリカ式に変更せざるを得なくなった。

 それから50年近く経って、日本は気圧の単位を変えた。「パスカル」に「ヘクト(100)」とつけると1ヘクトパスカルと1ミリバールの数値が等しくなる。100パスカルが1ヘクトパスカル、100アールが1ヘクトアール(ヘクタール)となるのと同じ原理。

 

 最後は、地名の読みである。読み方が変わっている。「ソウル」「モッポ」はそのままだが、以前は「ウツリョウトウ」「フザン」「サイシュウトウ」とされていたものが、「ウルルントウ」「プサン」「チェジュトウ」と発音されるようになっている。

 これは1997年7月1日から変更されたもの。

 変更されるのは、ロシアの樺太、韓国の鬱陵(うつりょう)島と済州島、中国の揚子江と海南島の五カ所。それぞれ「サハリン」「ウルルン島」「チェジュ島」「長江」の表記となり、海南島の表記はそのままだが、読み方が「かいなん島」から「ハイナン島」になる。気象庁の「予報用語及び文章」の改訂に伴うもので、七月一日から実施される。民間気象会社にも、同じ言葉遣いをするよう求めていく。
 気象庁は、台風や発達中の低気圧の位置をわかりやすく表現するため、西はバイカル湖やチベット、東はミッドウェー島の範囲で使える地名を限定し、その表記と読み方を決めている。
 中国や朝鮮半島の地名で、多くのメディアが現地読みを始めたことから、外務省が使っている呼称も参考にして踏み切った。

とあり「現地読み」への変更だとされている。この記事にはないが、このとき「フザン」も「プサン」に変えられた。

 

 朝鮮半島の地名や人名などの固有名詞をどう読むかについては、敗戦後の日本では紆余曲折があった。当初は、植民地支配当時の方式をそのまま踏襲して、当たり前のように日本漢字音読みが行われてきた。しかし、新聞社などでは、現地音読みも考慮していたようだ。ただ、視覚的な漢字が日本では好まれることや、記事の文字数の制約で( )内に入れるのにも消極的だった。

 この上掲の投書への回答にもあるように、NHKなど音声で伝える媒体では、朝鮮半島の地名や人名を日本漢字音で伝えることに、大きな疑問がいだかれることはなかった。

 70年代以前の日本社会では、「リショウバンライン」「ボクセイキ軍事独裁」「ホクセンのキンニッセイ首相」。それに、1968年2月に寸又峡で起きた籠城監禁事件は、「キンキロウ事件」だった。
 この1968年の金嬉老キム ヒロ事件の頃から、徐々にではあったが、朝鮮・韓国の人名や地名などの固有名詞を日本音で読むことが内包する差別意識の問題が、意識されるようになり始めた。金嬉老キム ヒロ事件の裁判の過程でも度々問題提起されたが、まだ日本社会では、この差別性について広く気づかれるところまでには至っていなかった。

 1975年になって、北九州の牧師崔昌華チォエ チャンホアが、自分を取材したNHKの放送の中で「サイ牧師」と自分の名前を読まれたことに対して訴訟を起こした。

 原告の崔昌華は、特別弁護人として金嬉老裁判にも関わっていた。

 「自分たちの都合や便宜」だけで他者の固有名詞を読むことに慣れていた日本社会でも、そうしたやり方に対して各方面から反省と自己批判が起こり、真っ当な日本社会への方向転換を促す動きが、徐々にではあるが起こってきた。

  しかし、この崔昌華牧師の裁判は福岡高裁では敗訴した。人格権の侵害は認められず、謝罪要求は却下された。

 とはいっても、この金嬉老事件と崔昌華訴訟は、日本社会における「日本音読み」の見直し、「現地音読み」への潮流を作る契機になったことは事実である。

 翌年7月、当時の外務大臣安倍晋太郎は、国会での答弁で、韓国人や中国人の人名については日本語漢字音で読むことをやめると表明した。当時、9月に韓国大統領全斗煥の初の日本公式訪問を控えていたこともあり、政府が日本社会で起きていた「現地音読み」の潮流も踏まえて方向転換をした。

 今だったら「忖度」と言われそうだが、NHKと民放各社はこのときに早速足並みをそろえて現地音読みを始めている。実際に「忖度」だったのかもしれないが、政府権力への忖度で、今の安倍●三周辺への忖度とはかなり違う。

 ただし、この時の「現地音読み」は、大統領や政府閣僚などの要人のみで、全ての人名・地名を現地音読みにするものではなかった。

 当時の中日映画社作成の「中日ニュース」では、まだ日本語漢字音読みと現地音読みを両方使っている。

中日ニュース No.1487_1「全斗煥大統領来日」

 

その後、1988年になって崔昌華によるNHK訴訟の最高裁の判断が出た。

 この1988年は、ソウルオリンピックが開催された年である。ソウルオリンピックの2年前の1986年には、ソウルでアジア大会が開かれた。この頃には、すでに、要人だけでなく一般の韓国の人名は韓国語読みのカタカナ表記にする、また、地名についても同様に韓国語読みのカタカナ表記という方向になっていた。当時、ソウルの日本文化院には、日本のプレスや企業などから1日に電話で何本も「これはカタカナでどう書けばいいですかねぇ?」という問い合わせがあった。この頃が一つの曲がり角であったと思う。

 

 と振り返ってみると、日本の「気象通報」が「ウツリョウトウ」「サイシュウトウ」となったのが1997年7月のことだというのは、信じられないほどの遅さである。「気象通報」など一般生活とは縁がないものだったということも理由の一つなのかもしれないが…。

 

 その前年の1996年には、サッカーW杯の日韓共同開催が決まっている。それまで「竹島」の存在などほとんど知らなかった日本社会が日韓領土問題の存在を知つことになったこの年。まだ一度もW杯本戦に出たこともなかった日本と、2度W杯本戦に出たことはあったが未だ発展途上国扱いされていた韓国が、それぞれ単独開催を主張し、FIFAが苦肉の策として打ち出したのが2002W杯日韓共同開催であった。

 2000年に韓国で公開された映画「JSA」。日本では2001年に公開され、「シュリ」に続く話題作となり日本での韓国映画ブームの火付け役となった。この映画には、「リ ヘイケン」「ソウ コウコウ」「シン カキン」それに「リ エイアイ」などが出ていた。などと日本語で語っても日本人にも全く理解してもらえない。「李炳憲」「宋康昊」「申河均」「李英愛」と書いてもわかってもらえない。今の日本社会では、「イビョンホン」「ソンガンホ」「シナギュン」「イヨンエ」とやれば、わかる人は「あ〜ぁ!」と理解できる。

 

 今の状況だけを知る人には、韓国や朝鮮の固有名詞は「ずっとそうだった」かのように思えるかもしれない。

 しかし、「リヘイケン」「ソウコウコウ」が「イビョンホン」「ソンガンホ」でしか通じなくなったというのは、そして、「ウツリョウトウ」「サイシュウトウ」が「ウルルントウ」「チェジュトウ」と呼ばれるようになったのは、差別の自覚や人権への配慮をめぐる長い歴史の積み重ねがもたらした変化によるものである。

 

現在の「NHK放送ガイドライン」には、次のように記載されている。

韓国と北朝鮮の地名・人名・企業名などは、原則としてカタカナで表記し、原音読みとする。
必要に応じて、カタカナ表記の後に漢字表記をかっこに入れて付ける。
表記にあたっては、NHKが放送で使う用字・用語のルールに準拠する。

これは単なる小手先のガイドラインではなく、他者を尊重するガイドラインはずなのだが、どこまで理解されているだろうか。また、我々もそれを自覚しているであろうか。

  1924年7月4日の「洞・町内の名物」では、楽園洞の測候所が取り上げられている。

楽園洞:測候所

◇どの新聞を見ても大体天気予報が出ています。ソウルの天気予報は全てこの楽園洞の測候所で発表されるもの。「明日の天気がどうなるか」は雨風を司る鬼神でない限りわからないのですが、この測候所では明日の天気を当てようとしているそうです。

◇しかしやはり人間の限界で、鬼神の才能を学んだという測候所も真っ赤な嘘をついてしまうことになります。十年ひと昔のように「明日は雨が降る、雪が降る、曇る、晴れる」と毎日教えてくれるのも名物であり、白々しい嘘を繰り返すことでも、町内の名物になる資格は十分です。

◇測候所の中にはいろんな機械があって、これから先の天気を機械によって判断するというのですが、唯一置かれていないのは地震計です。地震計がないのはわが朝鮮の江山がよくて日本のような地震が起きないので、地震計がなくても大丈夫なんだそうです。

 人工衛星はもとより、レーダーもデータネットワークもない中で「天気予報」を出して、当たらなかったからと「真っ赤な嘘」「白々しい嘘」と言われるのもかわいそうな気もする。しかし、そこまでいわれるんだから、よっぽど当たらなかったのだろう。

 


 

 もともと朝鮮半島に測候所が置かれたのは1904年。日本が、釜山、木浦、仁川、元山、鎮南浦の5カ所に測候所を置くことを決めた。戦争のためのデータ収集の一環として設置したものだった。

 1904年2月8日、日本は、旅順に停泊していたロシア旅順艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、翌日には仁川港外でロシア艦艇を攻撃して日露戦争に突入した。日本軍が朝鮮半島で勝手なことができるように、2月23日に日韓議定書締結を大韓帝国に強要した。そして、2月27日に朝鮮内の上記5カ所に測候所の設置を決定したのである。要は、測候所は戦争遂行のための軍事施設として置かれたものだった。

アジア歴史資料センター 公文類聚・第二十八編・明治三十七年・第三巻
「韓国釜山木浦仁川鎮南浦及元山津ノ五箇所ニ測候所ヲ設置ス」

 

 日露戦争終結後の1905年、第二次日韓協約で日本は大韓帝国に統監府を設置して自らの干渉下に置き、「保護国」と称した。そうした中で、1907年に仁川の測候所の「京城支部」が置かれることになった。京城初の測候所は、馬頭山の大韓医院の構内に置かれた。

 大韓医院は、1907年に広済院と京城医学校付属病院、大韓赤十字病院を統合して馬頭山(現在の大学路ソウル大学病院の場所)に設立された病院であった。京城の測候所は、1907年10月2日に業務を開始した。

最新京城全圖(1907) downloadはここから
右上の赤丸が「馬頭山(現ソウル大学病院の敷地)」

 

 10月3日付の『大韓每日申報』紙面に天気予報が掲載されている。多分これが京城測候所の最初の天気予報であろう。

 

10月3日は南風から西の風、曇りで午後は晴れ

果たしてこの予報が当たったかどうか… 気にはなるが確認のしようがない。

 

 併合後、京城測候所は朝鮮総督府の学務局の管轄下に置かれ、1913年に、大韓医院構内から楽園洞にあった大嬪宮の跡地に移転した。上掲「最新京城全圖」(1907)の左下の赤丸部分である。

 大嬪宮は、景宗の生母大嬪張氏(粛宗後宮)の霊廟で、1908年7月になって毓祥宮に合祀された。現在は青瓦台の迎賓館の裏側に七宮のひとつとして残っている。

 

 この旧大嬪宮の場所に移った京城測候所が、『東亜日報』で楽園洞の名物として取り上げられたのである。『東亜日報』のこの記事が書かれた翌年1925年の4月、京城測候所は総督府から京畿道に移管され、京畿道立京城測候所となった。それを公示する朝鮮総督府官報に具体的な住所が記されている。

楽園洞58番地は、左の『京城精密地図』の赤丸の部分で、ここに京城測候所があった。現在の地図で比定すると鍾路税務署がある場所が、楽園洞京城測候所の場所だったことがわかる。

 

 「洞・町内の名物」の記事が掲載された1924年当時の新聞の天気予報は、このように掲載されていた。

これは、測候所が7月3日に発表した内容を掲載したもので、『東亜日報』では翌日の朝刊に掲載されたが、『京城日報』では同じものが7月3日の夕刊に天気予報として載っている。

天気と予想最高気温を予報し、前の日の気温を掲載している。日本語の『京城日報』は摂氏と華氏の両方で温度が書かれているが、朝鮮語の『東亜日報』は華氏だけである。

 

 1926年1月15日からは、『京城日報』は天気概況を書くようになった。観測地点が増えたと同時に、それぞれの観測データをやり取りする通信網が充実してきたことによって、広域的な概況を出せるようになってきたものと思われる。

 ただ、『東亜日報』は天気と気温だけの記載がその後も長く続いた。1931年頃までであろうか。1932年以降は『東亜日報』も常時天気予報に概況を報じるようになっている。

 

 一方、1927年2月16日に本放送を始めたJODK京城放送局のラジオ放送では、当初は簡単な天気予報のみであった。しかし、1928年6月1日から、午前10時に「気象概況、各地天気実況」の放送を開始している。この時期の京城放送ラジオは、日本語と朝鮮語の放送を交互にやっていたのだが、気象概況も両言語で放送された可能性もある。

 

 ちなみに、NHK第2放送で今も午後4時から放送している「気象通報(最近の気象通報)」。この放送が始まったのは、1928年11月5日である。ただし当時聴取できたのは内地だけであった。

 

 すなわち、1920年代後半に気象観測は、観測体制が整備されてデータの交換・集約なども飛躍的に発達し、それに伴い気象情報の発信体制も整備されていった。

 

 1932年に、楽園洞の京城測候所は松月洞に移転することになった。1910年11月に慶煕宮を潰して京城中学の敷地にしたが、京城中学の後ろの山には京城を取り囲む城壁があり、それを取り壊して新たな測候所が建てられることになった。

 

 この城壁の外側の移転予定地には多くの貧民が住み着いていた。「土幕」と呼ばれる小屋を建てて暮らしており、その住民は「土幕民」と呼ばれた。上掲の3月20日の『中央日報』の記事では、土幕民の立ち退きが問題だと指摘している。

 ところが、朝鮮総督府官報で、「3月15日付で京城測候所の松月洞移転を認可した」と3月18日付で告示する以前の3月12日に、『毎日申報』がこのような記事を出している。

 『毎日申報』は、朝鮮総督府の朝鮮語機関紙であったが、朝鮮総督府が京城測候所の移転認可を公示する前に「京城測候所を移転するため松月洞の土幕民に撤去を督促している」と報じたのである。これはどうみても勇み足である。推測の域を出るものではないが、京城測候所の移転は、松月洞の土幕民を追い払うことが目的の一つで行われたようにも思える。

 実際には、京城府が前面に出て救済しては他への示しがつかないという理由で、仏教系の社会団体の和光教園に京城府が補助金を出すかたちで、追い払う土幕民への代替地を用意させることにした。和光教園では、阿峴町7番地を中心に2000坪を入手して松月洞の130戸の土幕民をここに移動させた。(詳細はこちらのブログ参照)この時期、朝鮮総督府や京城府は、朝鮮人貧民を京城の外郭へ追い払うために様々の施策を行っており、測候所の移転もそれと無関係ではないのかもしれない。

 1932年11月1日に、京城測候所は楽園洞から松月洞の新庁舎に移転した。

 11月27日には庁舎の一般公開を行っている。

 

 この時期には、『京城日報』『東亜日報』ともに、測候所の発表した天気概況を伝えている。

 


 

 解放後も、この測候所はそのまま大韓民国の気象台キサンデとして使用されたが、1998年末に気象庁キサンチョン庁舎が新大方洞シンデバンドンに完成し、ここに移転した。しかし、松月洞ソンウォルドンの旧庁舎はそのまま観測所として気温・気圧・雨量などの気象データの観測はそのまま継続されている。

 Liumeiさんのブログによれば、旧庁舎の建物は現在復元工事中で、2020年に国立気象博物館としてオープン予定だという。