1924年7月4日の「洞・町内の名物」では、楽園洞の測候所が取り上げられている。
楽園洞:測候所
◇どの新聞を見ても大体天気予報が出ています。ソウルの天気予報は全てこの楽園洞の測候所で発表されるもの。「明日の天気がどうなるか」は雨風を司る鬼神でない限りわからないのですが、この測候所では明日の天気を当てようとしているそうです。
◇しかしやはり人間の限界で、鬼神の才能を学んだという測候所も真っ赤な嘘をついてしまうことになります。十年ひと昔のように「明日は雨が降る、雪が降る、曇る、晴れる」と毎日教えてくれるのも名物であり、白々しい嘘を繰り返すことでも、町内の名物になる資格は十分です。
◇測候所の中にはいろんな機械があって、これから先の天気を機械によって判断するというのですが、唯一置かれていないのは地震計です。地震計がないのはわが朝鮮の江山がよくて日本のような地震が起きないので、地震計がなくても大丈夫なんだそうです。
人工衛星はもとより、レーダーもデータネットワークもない中で「天気予報」を出して、当たらなかったからと「真っ赤な嘘」「白々しい嘘」と言われるのもかわいそうな気もする。しかし、そこまでいわれるんだから、よっぽど当たらなかったのだろう。
もともと朝鮮半島に測候所が置かれたのは1904年。日本が、釜山、木浦、仁川、元山、鎮南浦の5カ所に測候所を置くことを決めた。戦争のためのデータ収集の一環として設置したものだった。
1904年2月8日、日本は、旅順に停泊していたロシア旅順艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、翌日には仁川港外でロシア艦艇を攻撃して日露戦争に突入した。日本軍が朝鮮半島で勝手なことができるように、2月23日に日韓議定書締結を大韓帝国に強要した。そして、2月27日に朝鮮内の上記5カ所に測候所の設置を決定したのである。要は、測候所は戦争遂行のための軍事施設として置かれたものだった。
アジア歴史資料センター 公文類聚・第二十八編・明治三十七年・第三巻
「韓国釜山木浦仁川鎮南浦及元山津ノ五箇所ニ測候所ヲ設置ス」
日露戦争終結後の1905年、第二次日韓協約で日本は大韓帝国に統監府を設置して自らの干渉下に置き、「保護国」と称した。そうした中で、1907年に仁川の測候所の「京城支部」が置かれることになった。京城初の測候所は、馬頭山の大韓医院の構内に置かれた。
大韓医院は、1907年に広済院と京城医学校付属病院、大韓赤十字病院を統合して馬頭山(現在の大学路ソウル大学病院の場所)に設立された病院であった。京城の測候所は、1907年10月2日に業務を開始した。
最新京城全圖(1907) downloadはここから
右上の赤丸が「馬頭山(現ソウル大学病院の敷地)」
10月3日付の『大韓每日申報』紙面に天気予報が掲載されている。多分これが京城測候所の最初の天気予報であろう。
10月3日は南風から西の風、曇りで午後は晴れ
果たしてこの予報が当たったかどうか… 気にはなるが確認のしようがない。
併合後、京城測候所は朝鮮総督府の学務局の管轄下に置かれ、1913年に、大韓医院構内から楽園洞にあった大嬪宮の跡地に移転した。上掲「最新京城全圖」(1907)の左下の赤丸部分である。
大嬪宮は、景宗の生母大嬪張氏(粛宗後宮)の霊廟で、1908年7月になって毓祥宮に合祀された。現在は青瓦台の迎賓館の裏側に七宮のひとつとして残っている。
この旧大嬪宮の場所に移った京城測候所が、『東亜日報』で楽園洞の名物として取り上げられたのである。『東亜日報』のこの記事が書かれた翌年1925年の4月、京城測候所は総督府から京畿道に移管され、京畿道立京城測候所となった。それを公示する朝鮮総督府官報に具体的な住所が記されている。
楽園洞58番地は、左の『京城精密地図』の赤丸の部分で、ここに京城測候所があった。現在の地図で比定すると鍾路税務署がある場所が、楽園洞京城測候所の場所だったことがわかる。
「洞・町内の名物」の記事が掲載された1924年当時の新聞の天気予報は、このように掲載されていた。
これは、測候所が7月3日に発表した内容を掲載したもので、『東亜日報』では翌日の朝刊に掲載されたが、『京城日報』では同じものが7月3日の夕刊に天気予報として載っている。
天気と予想最高気温を予報し、前の日の気温を掲載している。日本語の『京城日報』は摂氏と華氏の両方で温度が書かれているが、朝鮮語の『東亜日報』は華氏だけである。
1926年1月15日からは、『京城日報』は天気概況を書くようになった。観測地点が増えたと同時に、それぞれの観測データをやり取りする通信網が充実してきたことによって、広域的な概況を出せるようになってきたものと思われる。
ただ、『東亜日報』は天気と気温だけの記載がその後も長く続いた。1931年頃までであろうか。1932年以降は『東亜日報』も常時天気予報に概況を報じるようになっている。
一方、1927年2月16日に本放送を始めたJODK京城放送局のラジオ放送では、当初は簡単な天気予報のみであった。しかし、1928年6月1日から、午前10時に「気象概況、各地天気実況」の放送を開始している。この時期の京城放送ラジオは、日本語と朝鮮語の放送を交互にやっていたのだが、気象概況も両言語で放送された可能性もある。
ちなみに、NHK第2放送で今も午後4時から放送している「気象通報(最近の気象通報)」。この放送が始まったのは、1928年11月5日である。ただし当時聴取できたのは内地だけであった。
すなわち、1920年代後半に気象観測は、観測体制が整備されてデータの交換・集約なども飛躍的に発達し、それに伴い気象情報の発信体制も整備されていった。
1932年に、楽園洞の京城測候所は松月洞に移転することになった。1910年11月に慶煕宮を潰して京城中学の敷地にしたが、京城中学の後ろの山には京城を取り囲む城壁があり、それを取り壊して新たな測候所が建てられることになった。
この城壁の外側の移転予定地には多くの貧民が住み着いていた。「土幕」と呼ばれる小屋を建てて暮らしており、その住民は「土幕民」と呼ばれた。上掲の3月20日の『中央日報』の記事では、土幕民の立ち退きが問題だと指摘している。
ところが、朝鮮総督府官報で、「3月15日付で京城測候所の松月洞移転を認可した」と3月18日付で告示する以前の3月12日に、『毎日申報』がこのような記事を出している。
『毎日申報』は、朝鮮総督府の朝鮮語機関紙であったが、朝鮮総督府が京城測候所の移転認可を公示する前に「京城測候所を移転するため松月洞の土幕民に撤去を督促している」と報じたのである。これはどうみても勇み足である。推測の域を出るものではないが、京城測候所の移転は、松月洞の土幕民を追い払うことが目的の一つで行われたようにも思える。
実際には、京城府が前面に出て救済しては他への示しがつかないという理由で、仏教系の社会団体の和光教園に京城府が補助金を出すかたちで、追い払う土幕民への代替地を用意させることにした。和光教園では、阿峴町7番地を中心に2000坪を入手して松月洞の130戸の土幕民をここに移動させた。(詳細はこちらのブログ参照)この時期、朝鮮総督府や京城府は、朝鮮人貧民を京城の外郭へ追い払うために様々の施策を行っており、測候所の移転もそれと無関係ではないのかもしれない。
1932年11月1日に、京城測候所は楽園洞から松月洞の新庁舎に移転した。
11月27日には庁舎の一般公開を行っている。
この時期には、『京城日報』『東亜日報』ともに、測候所の発表した天気概況を伝えている。
解放後も、この測候所はそのまま大韓民国の気象台として使用されたが、1998年末に気象庁庁舎が新大方洞に完成し、ここに移転した。しかし、松月洞の旧庁舎はそのまま観測所として気温・気圧・雨量などの気象データの観測はそのまま継続されている。
Liumeiさんのブログによれば、旧庁舎の建物は現在復元工事中で、2020年に国立気象博物館としてオープン予定だという。























