1924年6月27日に掲載されたのは、桂洞の衛生所。
桂洞 衛生所
◇以前、六宮の一つだった景祐宮が桂洞にあったのです。いまそれはどこにいったのか。建物はなくなりました。だけどその場所はそのまま残ってます。北部衛生所というのがその場所全体を使っていましたが、昨年でしたか、その半分を徽文学校に運動場として渡しました。
◇景祐宮は騒ぎが起きたことがありますが、その話は後にして。その騒動の後、ここは砲兵隊の営舎になって黄色いつばの帽子を被って子供のおもちゃのような大砲を引っぱって出入りしていました。時が過ぎて、いまはここは衛生所になって、衛生所の作業員がゴミ車や糞尿馬車を引っぱって出入りしてます。
◇だいぶん前の甲申の年に、金玉均や洪英植といった若い人が政治を改革しようと政変を夢見ました。彼らが国王を伴ってこの景祐宮に移り、趙寧夏や閔泳穆などの現職将臣をここで排除しました。袁世凱の横槍で結局失敗に終わりました。これが景祐宮の騒動です。こうした風雪を経てきた古木が、徽文学校の運動場が整地されるまでは残っていたのですが、ご覧になったかも知れません。
衛生所とあるが、正式名称は「京城府衛生実行部」という。『一万分一朝鮮地形図 京城西北部 大正十一年(1922)修正測図』には「京城衛生実行事務所」と記載されている。
いまのソウルでいうと、地下鉄3号線の安国駅で降りて、3番出口を出て現代本社ビルの手前の路地を左に折れた先の右手一帯。昌徳宮のすぐ西隣の一角、敦化門から歩いて5分もかからない場所である。
ここに「衛生実行部」が置かれたのは1915年。「衛生実行部」というのは、塵芥・糞尿の集積場である。
1915年7月28日付の『毎日申報』にはこのような記事がある。
内容を要約すると、
京城府では大正4年度予算で汚穢物掃除費を大幅削減したが、市内の清掃、汚物収集のため田中半四郎氏を属託として衛生実行所を設置し、4日に1回作業員を巡回させる。もし糞尿がたまったりゴミがたくさんあるようだったら1774番、夜間は1142番に電話をくれれば、すぐに作業員を派遣する。
となる。残念ながら、ちょうどこの時期の『京城日報』が残っていない。そのため確認はできないのだが、内地人向けに同様の記事が出ていたであろう。
翌年12月の『京城日報』『毎日申報』には、このような記事がある。
すなわち、予算の関係で500人の作業員を400人に減員せざるを得ず、汚物の汲み取りも回数が減るが、衛生実行部に連絡すればすぐに作業員を派遣するというのである。
ちなみに、衛生実行所の電話番号が1915年の記事に記載されている。ちょうどこの頃に京城の電話も普及し始め加入者が急増した。
電話で火事の通報ができるようになったのは1917年である。
交換手に繋がる仕組みの時代なのだが、日本語は通じただろうが朝鮮語はどうだったのであろうか。やや時代は下るが、1924年の『時代日報』の記事では、京城府内では日本人1000人に対して電話64台であるのに対し、朝鮮人は1000人に対して5台に過ぎない。このあたりにも、歴然とした格差があったことが見て取れる。
ところで、『東亜日報』の「洞・町内の名物」記事にもあるように、ここはもとは景祐宮であった。景祐宮は、1824年(純祖24)に、朝鮮王朝第22代国王正祖(在位1776-1800)の生母綏嬪朴氏を祀るために建てられたものである。
1884年に甲申政変が起きた時、この景祐宮が舞台になった。政変の主導者金玉均や朴泳孝、洪英植らは、国王高宗を促して昌徳宮からこの景祐宮に移し、ここを拠点に権力を掌握しようとした。そして、事前に示し合わせていた日本公使竹添進一郎が日本軍守備隊を出動させて防御しようとしたのもこの景祐宮であった。

『高宗実録』巻21 高宗21年10月17日(陰暦)
總辦洪英植主之。宴將終,見牆外火起。時閔泳翊,以區右營使,亦與會,爲救火,先起出門外。有何許凶徒數名,揮劍迎擊,泳翊被刺還仆堂上。座皆驚散,金玉均、洪英植、朴泳孝、徐光範、徐載弼等,自座中起走,入闕內,直至寢殿,急奏有變,請亟移御避之。上離次景祐宮,各殿、宮,亦蒼皇步從。玉均等,以上命求日本公使來援,夜深,日本公使竹添進一郞率兵來護衛。
『実録』は、王朝が交替した後に前王朝の「正史」を編纂するための基礎資料となるもので、王の代替わり後に史官の記録などを整理して編集される。しかし『高宗実録』と『純宗実録』については、日本の侵略下で編纂されたものであり、史料としての扱いには極めて慎重を要する。その『高宗実録』には上記のような記載がある。
結局、袁世凱の清軍が出動したため、日本の守備隊は景祐宮を守りきれず、竹添進一郎は政変の主導勢力だった金玉均・朴泳孝らを伴って南山北麓慶雲洞に新築したばかりだった日本公使館に退却、そこから公使館員や守備隊、避難してきた在留日本人などとともに西大門方面から仁川に脱出した。
日本側の報告書は、公文書館アジア歴史資料センターで、報告書と関連の付属書類を閲覧することができる。
この甲申政変の翌年、その舞台となった景祐宮は、高宗の指示で景福宮の西側に移転されることになった。
『高宗実録』巻22 高宗22年12月26日(陰暦)
『最新京城全図(1907)』
その後、景祐宮は1908年に現在の宮井洞七宮に移され今日に至っている。
景祐宮跡地はそのまま放置された。
1898年、大韓帝国の勅令第23号で、侍衛隊の步兵一中隊を砲兵隊に編成替えしている(『高宗実録』高宗35年7月2日)。ここで編成された砲兵隊が、この景祐宮跡地に営舎を置くことになった。
『韓国京城全図(1903年)』
砲兵隊の南東側には親衛第2大隊の営舎があった。
1904年、日露戦争のために日本は「日韓議定書」を強要し、その第4条で、日本軍は「軍略上必要の地点を臨機収用することを得」として、京城にも多数の日本軍を駐留させた。
「第二次日韓協約」で大韓帝国を「保護国」とした後の1907年の『京城実測地図』では、旧景祐宮の場所は「侍衛砲兵第一大隊」となっている。その一方で、侍衛第2大隊の場所には、日本軍の歩兵第59連隊の本部と第2連隊と表示され日章旗が描かれている。
歩兵第59連隊の第1連隊と第3連隊は、宗廟の南東側に駐屯していた。後にそこは東亜煙草会社の工場と倉庫になる(洞・町内の名物(6)仁義洞 煙草工場参照)。
ハーグ密使事件を口実に、日本が締結を強要した「第三次日韓協約」で大韓帝国軍には解散が命じられた。侍衛隊の一部は、南大門周辺で市街戦を展開して抵抗したが、日本軍第59連隊と第60連隊によって制圧された。1907年8月1日、大韓帝国の軍隊は解散させられ、旧景祐宮を営舎としていた砲兵隊も消滅した。
そして、1915年、この場所には「衛生実行部」が置かれることになった。
作業員数は400人から500人。夜の作業員の出入りもあった。1919年2月の火災では、厩舎と作業員の朝鮮長屋5棟が焼失したとある。作業員宿舎や糞尿運搬用馬車の馬の厩舎は、砲兵隊当時の建物を転用したものかも知れない。そして、集められたゴミや汲み取られた糞尿はここに集積された。
臭いや粉塵、騒音などは相当ひどかったのではないかと思われる。
火災を報じる記事では、「付近には李埼鎔子(爵)、閔(丙奭)李王職長官等知名の士の邸宅多き事とて一時は却々の混雑なりき」と報じられている。また、1904年に閔泳徽が建てた徽文学校が隣接していた。そのような場所に、収集した糞尿の集積場が置かれていたのである。
開設から7年後の1922年、隣接する徽文高等普通学校が運動場用地として6657坪の衛生実行部の敷地のうち4000坪の買収に動き出した。京城府でもこれを機に、衛生実行部を府外への移転させる検討を始めた。
9月25日の京城府協議会では、これまでも桂洞の住民との間で問題が起きていたこともあり、次第に居住者が増えてきた街中に「衛生実行部」を置くことは、衛生上も市街の発展という見地からも好ましくないとして、実行部敷地の徽文高普学校への一部売却、光煕門外の東洋拓殖所有地への移転を議決した。移転後も、桂洞には、収集器具倉庫と作業員の点呼場などを残すとし、翌年の春以降、光煕門外の施設の建設の進捗に合わせて移転するものとされた。
『一万分一朝鮮地形図 大正十一年(1922)修正測図』には、「新堂里共同墓地」の南側に「汚物溜場」が描かれている。
1924年の東亜日報の洞町内の名物記事に掲載された当時、衛生実行部の一部は桂洞に残されていたが、塵芥と糞尿の集積場としての機能はすでに新堂里の分室に移されていた。しかし、臭くて汚い「衛生実行部」のことは、この洞内に住む人々は忘れてはいなかったであろう。
上掲の地図の「汚物溜場」のすぐ西側には、「火葬場」があり、その右下が「内地人共同墓地」になっている。「火葬場」については、「京城とソウルの火葬場」を参照いただきたい。
また、この新堂里の「汚物溜場」を含む京城の汚物処理に関しては、「京城の便所事情と屎尿処理(1)」と「京城の便所事情と屎尿処理(2)」にも目を通していただきたい。






























































