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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1924年6月27日に掲載されたのは、桂洞の衛生所。

桂洞 衛生所

◇以前、六宮の一つだった景祐宮が桂洞にあったのです。いまそれはどこにいったのか。建物はなくなりました。だけどその場所はそのまま残ってます。北部衛生所というのがその場所全体を使っていましたが、昨年でしたか、その半分を徽文学校に運動場として渡しました。

◇景祐宮は騒ぎが起きたことがありますが、その話は後にして。その騒動の後、ここは砲兵隊の営舎になって黄色いつばの帽子を被って子供のおもちゃのような大砲を引っぱって出入りしていました。時が過ぎて、いまはここは衛生所になって、衛生所の作業員がゴミ車や糞尿馬車を引っぱって出入りしてます。

◇だいぶん前の甲申の年に、金玉均や洪英植といった若い人が政治を改革しようと政変を夢見ました。彼らが国王を伴ってこの景祐宮に移り、趙寧夏や閔泳穆などの現職将臣をここで排除しました。袁世凱の横槍で結局失敗に終わりました。これが景祐宮の騒動です。こうした風雪を経てきた古木が、徽文学校の運動場が整地されるまでは残っていたのですが、ご覧になったかも知れません。

 衛生所とあるが、正式名称は「京城府衛生実行部」という。『一万分一朝鮮地形図 京城西北部 大正十一年(1922)修正測図』には「京城衛生実行事務所」と記載されている。

 いまのソウルでいうと、地下鉄3号線の安国駅で降りて、3番出口を出て現代本社ビルの手前の路地を左に折れた先の右手一帯。昌徳宮のすぐ西隣の一角、敦化門から歩いて5分もかからない場所である。

 

 ここに「衛生実行部」が置かれたのは1915年。「衛生実行部」というのは、塵芥・糞尿の集積場である。

 1915年7月28日付の『毎日申報』にはこのような記事がある。

 内容を要約すると、

京城府では大正4年度予算で汚穢物掃除費を大幅削減したが、市内の清掃、汚物収集のため田中半四郎氏を属託として衛生実行所を設置し、4日に1回作業員を巡回させる。もし糞尿がたまったりゴミがたくさんあるようだったら1774番、夜間は1142番に電話をくれれば、すぐに作業員を派遣する。

となる。残念ながら、ちょうどこの時期の『京城日報』が残っていない。そのため確認はできないのだが、内地人向けに同様の記事が出ていたであろう。

 翌年12月の『京城日報』『毎日申報』には、このような記事がある。

 すなわち、予算の関係で500人の作業員を400人に減員せざるを得ず、汚物の汲み取りも回数が減るが、衛生実行部に連絡すればすぐに作業員を派遣するというのである。

 ちなみに、衛生実行所の電話番号が1915年の記事に記載されている。ちょうどこの頃に京城の電話も普及し始め加入者が急増した。

 電話で火事の通報ができるようになったのは1917年である。

 交換手に繋がる仕組みの時代なのだが、日本語は通じただろうが朝鮮語はどうだったのであろうか。やや時代は下るが、1924年の『時代日報』の記事では、京城府内では日本人1000人に対して電話64台であるのに対し、朝鮮人は1000人に対して5台に過ぎない。このあたりにも、歴然とした格差があったことが見て取れる。

 


 ところで、『東亜日報』の「洞・町内の名物」記事にもあるように、ここはもとは景祐宮であった。景祐宮は、1824年(純祖24)に、朝鮮王朝第22代国王正祖(在位1776-1800)の生母綏嬪朴氏を祀るために建てられたものである。

 

 1884年に甲申政変が起きた時、この景祐宮が舞台になった。政変の主導者金玉均や朴泳孝、洪英植らは、国王高宗を促して昌徳宮からこの景祐宮に移し、ここを拠点に権力を掌握しようとした。そして、事前に示し合わせていた日本公使竹添進一郎が日本軍守備隊を出動させて防御しようとしたのもこの景祐宮であった。

『高宗実録』巻21 高宗21年10月17日(陰暦)

總辦洪英植主之。宴將終,見牆外火起。時閔泳翊,以區右營使,亦與會,爲救火,先起出門外。有何許凶徒數名,揮劍迎擊,泳翊被刺還仆堂上。座皆驚散,金玉均、洪英植、朴泳孝、徐光範、徐載弼等,自座中起走,入闕內,直至寢殿,急奏有變,請亟移御避之。上離次景祐宮,各殿、宮,亦蒼皇步從。玉均等,以上命求日本公使來援,夜深,日本公使竹添進一郞率兵來護衛。

 『実録』は、王朝が交替した後に前王朝の「正史」を編纂するための基礎資料となるもので、王の代替わり後に史官の記録などを整理して編集される。しかし『高宗実録』と『純宗実録』については、日本の侵略下で編纂されたものであり、史料としての扱いには極めて慎重を要する。その『高宗実録』には上記のような記載がある。

 

 結局、袁世凱の清軍が出動したため、日本の守備隊は景祐宮を守りきれず、竹添進一郎は政変の主導勢力だった金玉均・朴泳孝らを伴って南山北麓慶雲洞に新築したばかりだった日本公使館に退却、そこから公使館員や守備隊、避難してきた在留日本人などとともに西大門方面から仁川に脱出した。

 

 日本側の報告書は、公文書館アジア歴史資料センターで、報告書と関連の付属書類を閲覧することができる。

朝鮮事変/2 〔明治17年11月28日から明治18年1月〕

 

 この甲申政変の翌年、その舞台となった景祐宮は、高宗の指示で景福宮の西側に移転されることになった。

『高宗実録』巻22 高宗22年12月26日(陰暦)

 

『最新京城全図(1907)』

  その後、景祐宮は1908年に現在の宮井洞七宮に移され今日に至っている。

 

 景祐宮跡地はそのまま放置された。

 1898年、大韓帝国の勅令第23号で、侍衛隊の步兵一中隊を砲兵隊に編成替えしている(『高宗実録』高宗35年7月2日)。ここで編成された砲兵隊が、この景祐宮跡地に営舎を置くことになった。

『韓国京城全図(1903年)』

 砲兵隊の南東側には親衛第2大隊の営舎があった。

 

 1904年、日露戦争のために日本は「日韓議定書」を強要し、その第4条で、日本軍は「軍略上必要の地点を臨機収用することを得」として、京城にも多数の日本軍を駐留させた。

 「第二次日韓協約」で大韓帝国を「保護国」とした後の1907年の『京城実測地図』では、旧景祐宮の場所は「侍衛砲兵第一大隊」となっている。その一方で、侍衛第2大隊の場所には、日本軍の歩兵第59連隊の本部と第2連隊と表示され日章旗が描かれている。

 歩兵第59連隊の第1連隊と第3連隊は、宗廟の南東側に駐屯していた。後にそこは東亜煙草会社の工場と倉庫になる(洞・町内の名物(6)仁義洞 煙草工場参照)。

 ハーグ密使事件を口実に、日本が締結を強要した「第三次日韓協約」で大韓帝国軍には解散が命じられた。侍衛隊の一部は、南大門周辺で市街戦を展開して抵抗したが、日本軍第59連隊と第60連隊によって制圧された。1907年8月1日、大韓帝国の軍隊は解散させられ、旧景祐宮を営舎としていた砲兵隊も消滅した。

 

 そして、1915年、この場所には「衛生実行部」が置かれることになった。

 作業員数は400人から500人。夜の作業員の出入りもあった。1919年2月の火災では、厩舎と作業員の朝鮮長屋5棟が焼失したとある。作業員宿舎や糞尿運搬用馬車の馬の厩舎は、砲兵隊当時の建物を転用したものかも知れない。そして、集められたゴミや汲み取られた糞尿はここに集積された。

 臭いや粉塵、騒音などは相当ひどかったのではないかと思われる。

 火災を報じる記事では、「付近には李埼鎔子(爵)、閔(丙奭)李王職長官等知名の士の邸宅多き事とて一時は却々なかなかの混雑なりき」と報じられている。また、1904年に閔泳徽が建てた徽文学校が隣接していた。そのような場所に、収集した糞尿の集積場が置かれていたのである。

 

 開設から7年後の1922年、隣接する徽文高等普通学校が運動場用地として6657坪の衛生実行部の敷地のうち4000坪の買収に動き出した。京城府でもこれを機に、衛生実行部を府外への移転させる検討を始めた。

 9月25日の京城府協議会では、これまでも桂洞の住民との間で問題が起きていたこともあり、次第に居住者が増えてきた街中に「衛生実行部」を置くことは、衛生上も市街の発展という見地からも好ましくないとして、実行部敷地の徽文高普学校への一部売却、光煕門外の東洋拓殖所有地への移転を議決した。移転後も、桂洞には、収集器具倉庫と作業員の点呼場などを残すとし、翌年の春以降、光煕門外の施設の建設の進捗に合わせて移転するものとされた。

 

 

 『一万分一朝鮮地形図 大正十一年(1922)修正測図』には、「新堂里共同墓地」の南側に「汚物溜場」が描かれている。

 

 1924年の東亜日報の洞町内の名物記事に掲載された当時、衛生実行部の一部は桂洞に残されていたが、塵芥と糞尿の集積場としての機能はすでに新堂里の分室に移されていた。しかし、臭くて汚い「衛生実行部」のことは、この洞内に住む人々は忘れてはいなかったであろう。

 

 


 

 上掲の地図の「汚物溜場」のすぐ西側には、「火葬場」があり、その右下が「内地人共同墓地」になっている。「火葬場」については、「京城とソウルの火葬場」を参照いただきたい。

 また、この新堂里の「汚物溜場」を含む京城の汚物処理に関しては、「京城の便所事情と屎尿処理(1)」と「京城の便所事情と屎尿処理(2)」にも目を通していただきたい。

 1985年の冬、初めて韓国のスキー場に行った。私の家族3人と、ソウル駐在の日本人3人の6人で龍平スキー場に行ったのだが、その時のこと。

 スキー場で貸しスキーを借りるところで、私がタバコを吸いながらスキー靴を履いていたら、場違いなコート姿のアジョッシがどこからともなく現れて横に立っていた。

 「그 담배そのタバコ 외제지오洋モクですよね?」

 最初は何を聞かれているのか理解できなかった。しかし、すぐに状況が飲み込めた。

 その時、私は日本のセブンスターを吸っていた。1985年当時、韓国では外国タバコの喫煙は禁止されていた。外国タバコは「ヤンタンベ」といわれ——日本製も——、吸っているところを摘発されると5万ウォンの罰金だった。

 「양담배 피면 안 된다는 거洋モクは吸っちゃダメって 알지요知ってるよね.」

状況が飲み込めた私はこう答えた。

 「 일본사람인데요日本人なんですが.」

そう言っても、まだ疑わしげなアジョッシに外国人登録証をみせた。外国人には洋タンベ禁止は適用されない。その途端に、アジョッシは何処いずこへともなく去っていった。

 そのしばらく前に、テレビで「この人は何をする人でしょう」的なクイズ番組(NHKが昔やってた「私の秘密」)があって、煙だけでタバコの銘柄を当てるという人物が登場したことがあった。その人物は専売庁のタバコ取締官だった。

 

 韓国国内で韓国人は外国産タバコを吸ってはいけないことは早くから知っていた。しかし、専売庁の取締官に喫煙現場を直接押えられなければ問題にならない。お土産として免税のタバコなどを渡せばそのまま受け取ってくれたし、ルームサロンだとかちょっとした飲み屋でも、外国製タバコ——ケントとかマルボーロとかキャメルとか——を普通に売っていた。いろんな入手経路があったようで、1980年代にはヤンタンベを吸っている韓国人が結構いた。だけど、それまで一度も摘発されるのを見たことはなかった。だから、スキー場でヤンタンベ取締官が目の前に現れたんだとわかったとき、ちょっと興奮した.。

 

 闇ヤンタンベの最大の供給源は、在韓米軍のPXだった。米軍のPXでは、免税でさまざまなものが安く入手できる。さらに、1980年代には、韓国系アメリカ兵が増えていた。アメリカに移民して、早くグリーンカードを得ようとしてアメリカで兵役を志願する在米韓国人が多くいたからである。そうした中には、韓国勤務になって免税品の横流しなどの裏商売で稼ぐ軍人も少なからずいた。

 ちなみに、もう一つグリーンカード取得のためによく使われたのが、すでにアメリカの市民権を持っている人との結婚。そのための偽装結婚を描いた映画が1985年に封切られた安聖基アンソンギ張美姫チャンミヒの「깊고 푸른 밤キップコプルンパム(Deep Blue Night)」。そんな時代だった。

 


 1945年の解放直後、9月にアメリカの軍政下で最初のタバコ「승리(勝利)」が出ている。旧朝鮮総督府専売局の工場で生産されたものと思われる。その後も「장수연(長寿煙)」「무궁화(無窮花)」などが売り出された。

 その一方で、1947年には、北緯38度線以南朝鮮への外国製タバコの輸入が禁止された。専売制度を守り、国内のタバコ産業の保護・育成を名目にしたものであった。この時点では、朝鮮総督府の「朝鮮煙草専売令」がそのまま有効とされていた。

 朝鮮戦争が勃発すると、韓国側にはアメリカ産のタバコが大量に持ち込まれた。休戦後の1955年、それまでの「朝鮮煙草専売令」にかわる「煙草専売法案」が成立した。その国会審議の過程で、外国産タバコの輸入を認めて関税をかけてはという議論もあったが、国産タバコの専売で多額の収益があったこともあって、タバコの輸入は見送られた。

 1961年には「特定外来品販売禁止法」が公布され、特定の物品については、輸入禁止だけではなく国内での販売が禁じられた。外国タバコも、韓国国内で販売すると処罰されることになった。

 さらに、1961年5月16日の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任した朴正煕パクチョンヒは、翌年9月に「特定外来品」の使用者についても徹底して摘発するようにと命じた。

洋タンベを吸う人は韓国人ではない。そういう人は摘発するだけじゃなくて名前を新聞に公表するように!

と指示をしたのである。

 朴正煕は、ヘビースモーカーで、大統領在任中も喫煙する場面がたくさん残っている。

1966年2月東南アジア歴訪(大韓ニュース)

 朴正煕大統領がどんなタバコを吸っていたのかわからない。さすがに洋タンベは吸っていなかったと思う。1979年10月23日に宮井洞の接宴施設で金載圭に撃たれたとき、朴正煕は禁煙しようとしていてタバコは持っていなかったといわれている。ガムや仁丹を持ち歩いていたという。この事件の時に飲んでいたのは輸入ウイスキーのシバスリーガル。ウィスキーは特定外来品には入っていなかった。

 

 朴正煕の後を継いで政権の座に着いた全斗煥チョンドゥファンもヘビースモーカーだった。国産タバコといっても、市販のものではなく、大統領専用のブレンドで専売庁が製造していたという話も残っている。

 下の動画は、1980年8月11日、MBCの単独インタビューを前に李振羲イジニMBC社長と会話する姿。相手にタバコをすすめて火を付ける。これは気さくさや親しみとを示すものとしてよく使われた手法だった。

 韓国人は、酒を飲む時、「チャァ!チャァ!」とグラスをみんなで持ち上げて飲む。タバコも、自分が吸うときには周りの人にもすすめることが多かった。一人だけで吸うというのはあまりなかった。今、ビルの外にタバコを吸う人だかりができるのは、オフィスからみんなでタバコを吸いに降りてくるからではないかと思っている。

 

 1984年2月の『京郷新聞』の「招待席」欄で専売庁の李永喆調査一係長が紹介されている。この記事によれば、彼はタバコの煙だけでその銘柄がわかる。ヤンタンベを吸っている現場を押さえると、英語や日本語を使って外国人のふりをするのがいるという。私がスキー場で日本人だと言っても信用されなかったのもそのせいなのかも知れない。

 

 しかし、1986年にはソウルアジア大会、1988年にはソウルオリンピックを控え、韓国社会はヤンタンベの喫煙禁止を続けるのは困難な情勢になりつつあった。

 1986年5月には、ヤンタンベの自由化はすでに既定方針となり、『京郷新聞』には上掲の李永喆係長のヤンタンベ取締り回想談が掲載されている。

 

 そして、1986年9月1日を期して、外国製タバコの一般販売が解禁となった。

 ヤンタンベが市販されるようになって1週間。その間に売れたヤンタンベは、全タバコ販売量の0.1%に過ぎなかったと報じられていた。5年後の1991年段階でも、輸入タバコは韓国のタバコ消費量全体の5%程度であった。

 その後、韓国の喫煙率も下がった。私もタバコをやめた。

 

 ヤンタンベで罰金を取られるあの頃とは隔世の感がある。

 それでも、「虎がタバコを吸っていた頃(호랑이 담배 피던 시절)」ほどの昔話ではない。

 1924年7月6日の『東亜日報』に仁義洞の名物として掲載されたのは煙草工場。

  『大京城府大観』(1936)で、宗廟に隣接する南東側の一角に「専賣支局 工塲」とあるのが、この記事に出てくる工場である。現在は、世運セウンスクエアーになっていて、時計・貴金属の卸売店などが入っている。道路の向かい側、東大門警察署の裏手は専売局の倉庫である。

(日本語訳—一松書院)

仁義洞 煙草工場

◇仁義洞の名物は専売局の分工場でしょう。以前、この建物は国家の軍人を養成する施設でしたが、今では人々の頭を腐らせる「ニコチン」製造所になりました。

◇こうした施設が朝鮮に一つだけというはずはありません。ソウルの中だけでも2〜3ヶ所あり、平壌・全州にもあります。いろんなところで作られる煙草の売り上げが毎年2千万円以上にもなるとのことですが、この多額のお金は貧しい朝鮮の人々が財布を叩いたものではありませんか。朝鮮人は大切なお金で高い毒を買って吸っています。なんと不幸な人々なのでしょうか。

◇大切なお金で高い毒を買って吸うのは好きでやることですからとやかくいうことではないですが、この工場で働いている職工たちが可哀想でほおっておけません。この仁義洞工場だけでも1000名近いのですが、その中で15〜6歳未満の子供たちが500名にもなるそうです。この幼い子供たちが1日に10時間働いてやっと5〜60銭の稼ぎにしかならないというのですから可哀想ではありませんか。他の子たちが字を習っている時に臭い煙草のにおいを嗅ぎながら一日中閉じ込められている可哀想な幼い国民!本当に可哀想で胸が痛くなる名物です。

 

 1907年発行の『京城案内記』に掲載されている「実測詳密京城市街全図」では、この宗廟の南東側にはこの時期に日本軍が駐屯していたと記されている。

 1907年当時、ここには日本軍の歩兵第59連隊が駐屯していた(赤マーク)。歩兵第59連隊は日露戦争で大連に上陸して戦闘に加わり、日露戦争後は京城の警備を名目にここに駐屯していた。第3大隊が後の煙草工場の場所に、その向かい側の倉庫の場所には第1大隊が駐屯していた。そしてその横には「親衛第1大隊」と記されている(緑マーク)。日章旗が描かれていない。これは、この後に解散させられてしまう大韓帝国の軍隊である。図左上の敦化門南西側にも親衛第2大隊とある。この地図には、これ以外にも、大韓帝国の軍隊として、光化門の南西側に侍衛第2大隊と昭義門(西小門)の南東側に侍衛第1大隊兵営が描かれている。

 1907年、ハーグ密使事件を口実に日本政府は第3次日韓協約を強要し、8月1日に大韓帝国軍を解体した。その前日、武装して蜂起した韓国侍衛軍将兵と、第51連隊、第59連隊、第60連隊など日本軍との間で衝突が起きた。南大門から西小門方面で激しい市街戦となり、日本軍4人戦死、韓国軍68名戦死、その他多数の負傷者が出た(京城居留民団『京城発達史』1912)。
 

 『東亜日報』の洞・町内名物記事の冒頭部分は、そうした史実も念頭に置いて書かれたものであろう。

 

 この『東亜日報』の記事では、「専売局煙草工場」となっているが、専売局の工場になるのは「朝鮮専売令」が施行された1921年4月1日以降のことであった。

 

 実は、日本政府は日露戦争開戦直後1904年6月の「対韓方針に関する決定」で、韓国で煙草の専売を行うことを打ち出していた。日本では、日露戦争の戦費を確保するため「煙草専売法」がちょうどこの時期に施行されている。

 しかし、併合後も朝鮮では専売制には移行せず、10年以上民間の複数の煙草会社が製造販売を行っていた。1921年に煙草の製造・販売が専売局に一本化され、民間の煙草製造工場を専売局が買い取った。その結果、京城府内の数カ所に煙草工場や専売局施設が散らばることになった。

『京城精密地図』(1933)の「専売局」表示

 

 当時の民間の煙草会社をみていこう。

●広江商会

 岡追助『京城繁昌記』(博文社 1915)では、1904年3月に朝鮮で開業した広江商会が、朝鮮最初の煙草製造業とされている。先代の広江澤次郎が1908年に病で倒れた後、慶應大学出身の養子の二代目澤次郎が会社を引き継いで朝鮮での煙草耕作を推進し、手広く販路を広げたとされる。新橋通(後の太平通1丁目)と長谷川町に工場を置いていた。1916年になって大和町3丁目に新しい工場が完成し、ここに移転した。

広江商会長谷川町分工場(『京城繁盛記』1915年)

 

 広江商会は、朝鮮から英米煙草トラストを駆逐し、朝鮮内で他の煙草メーカーと激しく競い合っていた。しかし、広江澤次郞は、中国方面への新たな展開を模索するとして、1916年4月に、大和町3丁目に建設中だった新工場を含め資産を東亜煙草会社に譲渡し、広江商会は専売化をまたずに朝鮮の煙草製造業界から手を引いた。多分、専売化を見越して転換をはかったものと思われる。

●東亜煙草会社

 1912年8月14日の『毎日申報』に、当時の京城の煙草業界に関する記事が出ている。

 ここでは京城の煙草製造会社として、「東亜」「広江商会」「東光社」「東西煙草」があげられている。広江商会についてはすでに述べた。東亜煙草会社は、1909年11月の創業。東部蓮花洞に煉瓦造りの製造所を設置したとある。蓮花洞は1914年に仁義洞と町名が変更になっており、この工場が1921年に専売局の工場になり、1924年の『東亜日報』に仁義洞の名物として掲載されているのである

 

京城市街全図』(1918〜19年頃か?)

 

  『朝鮮在住內地人實業家人名士典』第1編(1913)には、東亜煙草会社は、1904年に杉山孝平を組合長として組織された「官烟輸出組合」がその前身だったとされる。杉山孝平は、松方正義内閣のもとで政府と関わりが深く、三井系の大阪商船の専務をつとめていた。1910年4月の『東京朝日新聞』の記事よれば、日本の専売局が煙草原料を送ってこの東亜煙草会社に朝鮮での現地生産をさせていたとあり、半官半民といえる会社であった。

 

 この東亜煙草工場では、「朝鮮人の子女だけでも二千余名」が働いているとされている。

 翌年1月の『毎日申報』には、「各煙草商会職工総数」という記事があるのだが、ここでは、広江商会で男1210名、女216名、東亜煙草では男300名となっていて人数的には必ずしも一致しない。。

 

 この時期に「煙草職工 夜学校現状」という記事も出ている。兪吉濬など朝鮮有識者の建議で、前年から設けられた公立普通学校(朝鮮人児童を対象とする初等教育機関:義務教育ではない)の夜学部だけでなく、私立学校にも夜学部を設けて煙草工場の雇用主や篤志家の費用負担で煙草職工を通わせようとしていることが報じられている。

 それだけ、煙草工場では、児童労働が多かったということであろう。ただ、この夜学への就学が本当に実現したかどうかは疑わしい。『東亜日報』の洞内名物の記事内容を見ても、専売局の運営下においても未就学児童による低賃金長時間労働という環境は改善されていなかったと思われる。

 

 下の画像は、1916年に発行された絵葉書に載っている東亜煙草会社の工場内の写真である。

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

●朝鮮煙草会社

 1916年10月の『毎日申報』の煙草の輸出に関する記事には、すでに東亜煙草に吸収された広江商会の記載はなく、東亜煙草会社に次ぐ輸出実績を挙げている朝鮮煙草会社が登場している。

 朝鮮煙草会社は、1914年になって義州路に工場を置いて開業した朝鮮では後発の会社である。1904年に内地で施行された「煙草専売法」で、内地での製造ができなくなったため、専売法の適用外であった朝鮮に進出したものである。資金力も技術力もあったことから、創業直後から大きく業績を伸ばした。

岡追助『京城繁昌記』博文社 1915年

 場所は、西大門側で現在は警察庁庁舎のあるところ。

 この 『大京城府大観』(1936)の地図の建物は、その上の1915年の『京城繁昌記』の写真とはかなり形状が異なる。実は1928年に最初の工場は火災で全焼し、その後建て替えられた新工場が『大京城府大観』に描かれている。

 

●東光社

 東光社は、1911年12月28日に「美人」「東光」「天鶏」「京城」の「改良紙巻煙草」を売り出している。

 発売前日の27日に『毎日申報』に、発売当日の28日には『京城新報』(京城日報の前身)に全面広告を出している。

 この東光社の所在地をみるとわかるように、この東光社は「独立館」に製造所を置いていた。1896年 11月、華夷システムから国際法システムへの移行を求める徐載弼などの「独立協会」が、迎恩門を壊して独立門を立て、その横にあった慕華館を独立館とした、あの独立館である。その後「独立協会」は解体され、宋秉畯の「一進会」に受け継がれるかたちになった。独立館の敷地には新たに六角形の建物が建てられ、これを「国民演説台」と称した。

 

 1909年、京城の日本人組織の居留民団は、一進会からこの敷地を借りて在留日本人のための京城中学校を開校した。翌1910年に官立京城中学となり、併合後の11月に慶熙宮跡に新校舎が完成してそちらに移転した。

 その後、ここで東光社が煙草製造を始めた。1912年1月12日に宋秉畯がここを訪れて職工たちに訓示したとの『毎日申報』の記事があり、宋秉畯ら朝鮮人主導の煙草製造会社とみられる。

福崎毅一編『京仁通覧』1912

 

 上述のように、東光社は『京城新報』と『毎日申報』に全面広告を出しているが、その日本語と朝鮮語の内容がかなり違っている。

帝國の新領土たる朝鮮半島をして將來卓越なる煙草生産地たらしめ以て國宗の大富源を開發し尚且つ幾多の可憐の子弟婦女に適當の職業を與へ聖世の下善良の生活を得せしめんとするの微衷に外ならす

といった日本の支配に迎合する日本語の文章は、朝鮮語では全く抜け落ちている。

 東光社の煙草製品は絵葉書としても写真が残されている。

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 この東光社以外にも、「韓興煙草合名会社」や「同志商会株式会社」などは、朝鮮人が設立した会社であった。また、「東西煙草商会」は、1915年の青柳綱太郎『京城案内』に、「工場主 イエス・コンスタンチス」として掲載されている。翌年1916年の11月8日の朝鮮総督府官報に白寅基の名前で商号が届出られているので、これも朝鮮人が経営する煙草会社になったと考えられる。

 


煙草専売への移行

 1921年、4月に「朝鮮専売令」が施行され、7月1日に朝鮮の煙草の製造と販売は、朝鮮総督府専売局に移された。

 これに伴って、内地資本の大手煙草会社であった東亜煙草と朝鮮煙草からは57人が専売局の判任官として任用された。さらに、朝鮮人経営の工場施設や設備なども含め、全ての施設・設備を専売局で買い取ることになっていた。しかし、その買収価格を巡っては、最大手の東亜煙草会社が鑑定価格にクレームをつけたと報じられている。

 

 結局、東亜煙草と朝鮮煙草の2社の工場を再編成するかたちで朝鮮専売局の煙草生産の一本化が進められた。朝鮮人の創立した煙草会社は東光社を含め全て消滅した。

 

 1921年当時の専売局の煙草はこのようになっていた。

 

 仁義洞の旧東亜煙草会社に専売局が移って、ここが本拠地となった。義州路の旧朝鮮煙草工場は専売工場、そして大和町3丁目に移って東亜煙草に譲渡された旧広江商会工場は専売局印刷工場となった。もう一つ永楽町1丁目に専売局の施設がある。これは工場ではなく、1926年の朝鮮総督府新庁舎建設に合わせて、それまで商品陳列館として使われていた建物を改修して専売局としたものである。1926年に専売局は旧東亜煙草会社の仁義洞からここ永楽町1丁目の庁舎に移転した。ここで、仁義洞は専売支局の分工場となった。

 

 『東亜日報』の洞・町内名物記事は、煙草が専売になってちょうど3年目。まだ仁義洞の煙草工場が専売本局の工場として稼働していた時の記事ということになる。

 

 

<<余禄>>

 ちなみに、植民地時代の絵葉書に、たばこ屋の写真が残っている。「日鮮語対話」というシリーズの絵葉書があったらしく、その「旅館にて」という会話の挿入写真として載っている。

 たばこ屋の店頭風景も興味深いが、この会話の方も面白い。