一松書院のブログ -61ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 京城の本町2丁目の「日之出商行」が出した「日鮮語対話」という絵葉書がある。

 葉書のオモテ面

 

 裏の絵の部分に、いくつかの場面設定での日本語の会話文に朝鮮語の発音をカタカナでふってあるシリーズ物である。左下にはハングル表記の会話が書かれている。実用会話を意識したものかも知れないが、カナをそのまま読んでも通じない。むしろ、内地にお土産にしたり、内地に送って朝鮮情緒を出そうということもあったのだろう。

 日本語では子音で終わる終声は「ん」しかない。だから「ん」以外のいろんな終声がある朝鮮語をカナで表記するのは無理。また、激音や濃音の使い分けもカナでは表記できない。とはいっても、日本語で文章を書くときには、ハングルや韓国の固有名詞にはカナでルビをふった方がいいかなとも思うし、刊行物の原稿ではそれが求められる。このブログでも便宜的にカナでルビをふっている。

 ということで、あくまでもカナは「便宜的なもの」と断わった上で、この絵葉書の朝鮮語とカナについて気づいた点を書いてみたい。

 

●旅中の挨拶

御きげんよくいらっしゃいますか

アンニョン ハーシブニッカ

안녕하십닛가.

ありがとう。達者です

コーマプソ. ピョナンハムニダ

고맙소.편안합니다.

何処へ御出かけですか

オデルル、カーシムニッカ

어대를가십닛가.

内地へ行って参ります

ネチエ、カッタオーゲッスムニダ

내지애갓다오겟씁니다.

いつ、お帰りですか

オンジェ、オーシブニッカ

언재오십닛가.

ぢき帰って来ます

コッ タンギョオブニダ

꼿당겨옵니다.

 韓国語の教科書には、「口音こうおんの鼻音化」というのがあるが、これがこの絵葉書では、カナに反映されたり、されなかったりしている。

 「口音の鼻音化」とは、終声ㅂの後ろにㅁ・ㄴが来ると、唇を閉じるだけで音の出ないㅂ(口音)が、鼻の方に空気が抜けて鼻の奥が振動して音らしきものが出てㅁ(鼻音)になるというようなもの。どちらも母音を伴わないので、カナの「ブ」がカナの「ム」になるのではない。しかし、カナではそう書くしかない。

 上の1行目の「ハーシブニッカ」は文字表記に引きずられて「ブ」。3行目は「カーシムニッカ」で、鼻音化を反映させようとした表記。しかし、5行目でまた「オーシブニッカ」となっている。

 ちなみに、この時代の綴字法では、現在の「ㅂ니까」を「ㅂ닛가」と書いた。

 最後の「帰ってくる」も、今は「돌아오다トラオダ」が普通だが、ここでは「당겨오다タンギョオダ」を使っている。「댕겨오다」などとも使うが、これは方言っぽい感じがする。

 

●数のよみ方

あなたは 日本語が わかりますか

タグシーヌン イルボンマルル アーシブニッカ

당신은일본말을아십닛가.

わかりません
モルラヨ

몰라요.

朝鮮語で これを かぞへてごらん

チョーソンマルロ イゴスル シヨボーシヨ

조선말로이것을시어보시오.

一つ 二つ 三つ 四つ 五つ 六つ 七つ 八つ 九つ 十う

ハナ トゥル セッ ネッ ターソッ ヨーソッ イルクプ ヨードル アーホプ ヨール

하나 둘 샛 냇 다섯 이섯 일급 여덜 아홉 열.

十うあります

ヨール イッスムニダ

열잇습니다.

 最初の「あなたは」のカナは、「タグシーヌン」となっている。「당신タンシン」の당の終声ngを「グ」で書いている。 「ン」と書くのが一般的だが、ここでは「グ」。かなり無理があるが、終声がnではなくngであることを表したかったのかも知れない。

 この「タンシン」という言葉は、韓国では「夫婦の間で使われる呼び方」あるいは「喧嘩をするときに相手のことを指して使う」もので、二人称のつもりでうっかり使うとまずいことになると教えられた。ところが、中国の朝鮮族や北朝鮮の人との会話では、「タンシン」「タンシン」とよく出てくる。喧嘩を売られているのかと思ったが、韓国以外では二人称として普通に使われることもあるということ。

 日本の植民地支配下ではどうだったのか気になるところ。

 1920年の朝鮮総督府『朝鮮語辞典』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1761833)には(123コマ)、

  當身(당신) 尊敬する人に對する敬稱

となっている。同じ1920年の井口弥寿男『日鮮辞典 : 実用本位』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958731)には(18コマ)、
 

とある。井口弥寿男は당신に「タンシヌ」とカナをふっている。

 この絵葉書に書いてあるからといって当時は普通に使われていたと判断するわけにもいかないが、相手を高める二人称なので、今の韓国での使われ方とは違っていた可能性はあるのだろう。

 

●店頭にて

あれは朝鮮で出来ますか
チョゴヌン、チョーソンエソ、テンコムニッカ
저거는조선애서댄겁닛가.
そうです
クロスムニダ
그럿습니다
これはいくらですか
イゴ、オルマーエヨ
이것얼마애요.
それは一円五十銭です
クゴヌン、イルウォンオーシブチョニヨ
그것은일원오십전이요.
余り高い 少しまけなさい
ノムーピッサニー チョゴムカムハーシヨ
너무빗사니 조금감하시오.
それでは十銭だけひきませう
クロミョン、シブチョンマン カムハヂヨ
그러면 십전만감하지요.

 値切る場面。

 今であれば、「사게 해 주세요サゲヘジュセヨ」とか「깎아 주세요カッカジュセヨ」というところだが、ここでは「감하시오カマシオ」と言っている。「감」は「減」であり、『朝鮮語辞典』には、

と「減価(감ㅅ가)」という言葉が挙げられている。こうした意味での「減하시오」。今は値切るときには使われることはない。それでも、母語話者は話の流れから聞けばわかるという。

 

●停車場にて

京城行きの記者は何時に出ますか
キョンソンヘンキチャヌンメッシーエトーナムニッカ
경성행기차는몃시애남닛가.
急行は午后七時二十分にあります
クペンウンオフーイルクプシーイーシップニーエヨ
切符はこゝで買へますか
チャピョヌン ヨギソサムニッカ
차표는여기서삽닛가.
えー、あそこで売ってゐますよ
ネー チョギソパムニダ
내, 저기서팝니다.

 この場面の会話でふられたカナは、今のガイドブックなどのカタカナのルビとほぼ同じだろう。

 とはいっても、これで韓国語が通じるわけではない。1行目の「キチャ」の「チャ」は息を出す激音「차」で、「トーナムニッカ」の「ト」は声帯を閉めて出す濃言「떠」、3行目の切符の「チャピョ」は両方とも激音で「차표」。つまり、このカタカナをそのまま読んでも、日本語の母語話者には韓国語のように聞こえるかも知れないが、実際には韓国語にはならない。

 

●葉書を買いに

郵便所へ行ってはがき十枚買っておいで
ウーピョンソエカソ ヨプソヨルチャン サガヂゴオノラ
우편소애가서 엽소열장사가지고오너라.
はい 往って参ります
ネー タンギョオーゴスブニダ
내, 당겨오거습니다.
往って参りました
カッタワッスムニダ
갓다왓습니다.
おつりは?
ナームンドン ヌン
나문돈은.
五銭残りました
オーチョンナーモッスムニダ
오전남엇습니다.

 NAVER NewsLibraryで「郵便所」「郵便局」「郵逓局」を検索してみると、はっきりと用語使用の傾向が出る。 「郵便所」という言い方は植民地時代だけのもの。大きなのは「郵便局」、小さなのは「郵便所」。解放直後は「郵便局」という言い方も一時していたが、1950年からは「郵逓局」となる。

 2行目の「往って参ります」 は、「タンギョ オーゴスブニダ」とカナがふられている。

 今の教科書では「다녀 오겠습니다」で、カナをふるとすれば「タニョ オゲッスムニダ」となるのだろう。

 この場面設定でも、上掲の「旅中の挨拶」と同じように「당겨오다」が使われている。今でも「댕겨 오겠슴니다」などとも使うが、方言っぽい感じがする。

 

●旅館にて

姐さん!煙草一つ持って来てくれ
セキシー、タムペハナカッタヂュ

시, 담하나갓다주.

はい。……燐寸も持って参りました
ネー。 ソンニャンド、カヂゴワッスムニダ
내. 성냥도가지고왓슴니다.
今何時だね?
チクム、メッシーヨ
지금맷시요.
十時半でございます
ヨルシーパン、イムニダ
열시반입니다.
それではすぐ寝よう
クロミョン コッ チャヂョ
그러면, 곳자저.
おやすみなさいませ
アンニョンヒー、チュームーシブシヨ
안영히주무십시요.

 「姐さん!」に「セキシー」とカナをふっている。旅館という設定で、旅館の若い女性従業員がタバコとマッチを持って来るという場面だが、今やもうこのようなスタイルの旅館ヨグァンはなくなっているし、こんな場面はない。

 若い女性への呼びかけは難しい。一昔前は「アガシ」と呼びかけていたが、今は使えなくなった。苦し紛れに「オンニ」とかにしたりすることもあるが、なんとなくごまかして呼ぶことが多い。年齢が上がると、ここ十数年前からは「アジュンマ」が使えなくなって「イモ」が定番になっている。

 「セキシ」は、本来は未婚の若い女性を呼ぶ言葉で、ここではその意味で使われているが、今では新婚夫婦の夫が妻を呼ぶときに使われたりもしている。

 

●自動車

あっ、雨が降って来た。
オ、ピーガ オーネー
비가오내
おい。停車場まで幾らでいくか
ヨボ、チョンゴヂャンカヂ、オルマエカーウ
여보,뎡쟝가지얼마애가우.
五十銭で参りませう
オーシブチョンイムニダ
오십전입니다.
急ぐのだぞ
クペヨ
급해요
はい。早くやります
ネー、パルニーカムニダ
내,니갑니다.

 雨がふって来たのでタクシーを拾って駅まで行くという設定。メーターはないので料金は交渉で決まる。人力車はそうだった。玄鎮健の小説「運のよい日」(1924)に出てくる。

 1936年の映画「迷夢(미몽)」には、京城の南大門から京城駅、そこから龍山方面に向かうタクシーの場面がある(Youtube)。この映画では、セリフはほぼ全てが朝鮮語で、タクシーの運転手も朝鮮人である。自動車運転免許を取得するのに学科試験があり、営業免許も必要なので、朝鮮人タクシー運転手は普通学校(朝鮮人の初等教育を行う学校)で教える程度の日本語はできたと思われる。

 「おい、停車場まで幾らで行くか」

という日本語でも通じたであろう。この「おい」という呼びかけは、今の韓国語にも残っている。ひどく見下げた呼びかけである。植民地時代に、内地人が朝鮮人に「おい!」と呼んでいた名残なのであろう。

 その「おい」には、「ヨボ」とカナがふられている。

 映画「迷夢」にはこんな場面がある。京城駅にタクシーで急いで行っていたが間に合わず、釜山行きの汽車が出てしまった。そこで、次の停車駅である龍山駅までタクシーを走らせようとする。その場面で運転手に「ヨボ!」と呼びかけている(39分49秒あたりから)。

 「여보, 저 빨리 용산역 좀 가 주세요.」

だから、朝鮮語で「ヨボ」と呼びかけるのは普通だし自然だった。ただ、内地人が「ヨボ」と使うと問題である。この時期には、内地人は朝鮮人のことを「ヨボ」ということがあった。蔑称である。

 中島敦の小説「巡査のいる風景―一九二三年の一つのスケッチ―」(1929)にこんな場面がある。

 よほど上手な朝鮮語が話せたのなら別だが、内地人の下手な朝鮮語で「ヨボ」と呼びかけるのはいかにも不適切である。ただ、この絵葉書を作ったときには、そんなことは気にも留めていなかったであろうが。

 最後の「早くやります」には、「パルニー カムニダ」とカナがふられている。ハングルは「니」となっている。

 井口弥寿男『日鮮辞典 : 実用本位』では、

「パルイ」とカナがふられている。

 今の韓国語では「빨리」で、カナは「パルリ」が一般的。映画「迷夢」にも出てくるが、明らかに「빨리」と発音している。絵葉書のカナは文字に引きずられた表記であろう。

 

●子供との話

こちらへおいで。お前姓名は何といふのか
イリ、オノラー。ノー ションミョンウン、ムーオシニャ
이리오너라. 너셩명은무어시냐.
李寿容です
リースーヨンイムニダ
리수용입니다.
歳はいくつだ?
ナーイヌンメッサリニャ
나이는맷살이냐.
十三歳です
ヨルセサルイムニダ
열새살입니다.
家に誰か居るのか
チビヌン、ヌーガケーシニャ
집이는누가게시냐.
お父さんとお母さんが居ります
アボヂーワ、オモニーガ ケーシムニダ
아버지와어머니가게십니다.

 1行目の「姓名」のカナが「ションミョン」となっている。今は、「성명」で「ソンミョン」となるのが普通なのだが、この当時のハングル表記は「셩명」であった。絵葉書のハングル表記でもそのように書かれている。ただ、井口弥寿男『日鮮辞典 : 実用本位』では、

 

となっている。多分、実際の発音はこの当時から「ソンミョン」で、だからその後の綴字法を制定するときに「셩명」が「성명」となったと考えられる。「ションミョン」というカナも、文字に引きずられたものであろう。

 


 

 ところで、この絵葉書の出版元は、「日之出商行」である。本町二丁目(今の明洞)に本店と小売部の二つの店舗を出していた。

京城精密地図(1933)


 1904年に朝鮮に渡った椎木宇之助は、京城で雑貨店「日之出商行」を開き(上掲地図の右側)、その後絵葉書・カレンダーなどの専門店にした。1915年に支店(小売部:上掲地図の左側)を開いた。

 椎木宇之助は、病に倒れ、出身地だった京都で長く療養をしていたが1925年に京城で亡くなった。1921年に「日之出商行」の商号廃止を届け出たという記録がある。

 その後、椎木宇之助の死後の1925年12月、息子の椎木五郎が「合資会社日之出商行」を設立している。「日之出商行」の商号をめぐってなんらかの葛藤があったようにも思えるが、今のところ資料がない。「日之出商行」は、「京城名所 三十景絵葉書」「京城名勝十八景」「朝鮮名所風俗絵葉書」など朝鮮を題材とした各種の絵葉書を出していて、今でもネットで「日之出 絵葉書」で検索すると、オークションや古書店のサイトで数多くヒットする。

 ここで取り上げた「日鮮語対話」の絵葉書は、1925年の合資会社設立以降、1930年代初頭までの間に出されたものと推測される。なぜなら、1930年中盤以降は、「国語常用(日本語の専用運動)」 などが始まり、朝鮮語が排除されていく時代になっていくからである。

 


 

 昔愛読していたペール・ヴァールーとマイ・シューヴァルによるスウェーデンの警察小説「マルティン・ベック シリーズ」に『テロリスト』という作品がある。ラインハルト・ハイトという南アフリカ出身のテロリストを追う話。ラインハルトは、デンマーク人と名乗ってデンマーク語を使っていたのだが、そのデンマーク語を聞いた北欧語の研究をしている女性が、「彼のデンマーク語は、19世紀末から今世紀初頭にかけて話されていた類のもの」と気づいたことで追い詰められていく。
 

 「おねえさん、ちょっと安くして」というのに、「セキシー! カマシオ」などというと、追い詰められるかも知れない。今のところ私は警察には追われていないのだが……。

鍾路の鍾閣と蠟石塔 その1から続く

8月15日『東亜日報』

◇名物、名物というのですが、ソウルの名物にタプコル公園の蠟石塔を挙げないわけにはいきますまい。この塔は、高麗時代の忠烈王妃となった元朝の王女が嫁入りするときに持ってきたものという人が多いのですが、そうではなく朝鮮で作ったものという人もいます。
◇この塔を円覚寺塔と呼ぶのは、世祖大王9年に円覚寺という寺を建立したからです。円覚寺は、中宗大王の時に寺を壊して「反正はんぜい」の功臣の屋敷を建てるのに使い、塔だけが今日までその場所に残されています。いや円覚寺碑も残っています。
◇この塔の上3層が下に降ろされているのは、壬辰倭乱の時に倭兵が持ち去ろうとしたが、あまりに重いので諦めたためといわれています。伝承ですからそのままは信じられませんが、甲午年1894の後にもある日本人が盗もうとしたことがあったともいいます。
◇この塔の姉妹塔があります。それは豊徳の敬天寺塔です。この塔は十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました。今は王宮の庭の隅っこにあるようです。

●蠟石塔

 1924年の『東亜日報』の「洞・町内の名物」連載の最後の記事で取り上げられているのは、タプコル公園の「蠟石塔」。この塔の正式な名称は「円覚寺址十層石塔」。

 

 「タプコル公園」は、「塔公園」「塔洞公園」それに「パゴダ公園」とも呼ばれていた。1990年代初めまでは「パゴダ公園」というのが公式名称だった。

 パゴダの呼称については、1897年にイギリス人顧問の総税務司ブラウンがこの場所を公園化して、Pagoda Parkと名付けたことに由来するという説があるが、「白塔」の中国語音や朝鮮語音が訛って伝わったとする説もある。

 

 ところが、1990年頃から、外来語のパゴダをやめて「タプコル公園」にすべきだという市民運動が起き、1992年にソウル市の地名委員会は「タプコル公園」を正式名称とすることを決定した。ここから道路標識などが、「파고다パゴダ」から「탑골タプコル」に書き換えられることになった。

 

 

 この公園には立派な石塔がある。これが『東亜日報』が「蠟石塔」と呼んだ塔である。今はガラス張りの建物で囲われているが、以前は剥き出しのままの石塔を直接見ることができた。

 この場所にあった円覚寺や、この大理石の石塔については、いろいろな論文や、ブログや案内文で紹介されているので、そちらをご覧いただきたい。

 ここでは、『東亜日報』に書かれている世祖の時と中宗の時の実録の記事を一つずつ紹介しておこう。

 今では、インターネットで検索できる国史編纂委員会の『朝鮮王朝実録』で、キーワード「圓覺寺」で検索すれば、「世祖実録」や「中宗実録」の関連記事を簡単にピックアップすることができる。その原文も確認することができる。

 インターネットで『朝鮮王朝実録』の検索ができるようになったのは10数年前から。それまでは、実録を調べるにはそれなりにお金がかかった。韓国の国史編纂委員会が1955年に出した『朝鮮王朝実録』の影印版があった。今でも索引まで入れて全巻53冊で125万ウォンする。日本国内でも学習院大学の東洋文化研究所が太白山本(光海君日記のみ江華本)の縮刷本『李朝実録』全56巻各巻7000円というのを出していた。フルセットだと40万円くらいになる。その後、1994年に朝鮮王朝実録CD-ROM刊行委員会のCD版(ハングル版WINDOWS3.1対応のIBM互換機でメインメモリ4MB以上、要CD‐R0Mドライプ)が出され、日本でも1996年に80万円で販売されていた。プロテクトがかかっていて特定のPCでしか使えないものだったが、全文検索ができる画期的なものだった。

 

 その『朝鮮王朝実録』が今やネット上で無料で使い放題である。『承政院日記』『日省録』『備辺司謄録』もみんなできる。すごい時代があっという間にやってきた。

 それにつけても、昔の研究者は、その歴史観はともかく、物凄いエネルギーを使って史料をあさっていたのだなぁと改めて思わされる。

 

 さて、中宗は、先代の王を廃する「反正」(廃された先代の王には廟号が与えられず「燕山君」とされた)で王位に就き、「反正」の功臣への褒賞として与える屋敷に円覚寺の建材を使った。そのため円覚寺跡には、石塔だけが残されることになったのである。

 

 タプコル公園の石塔には日本の学者も早くから関心を持っていた。

 その一人が、幣原たいらである。1902年に『東洋学芸雑誌』19巻255号に「京城塔洞の古塔に関する諸記録に就いて」(12ページ)を掲載している。

韓国国立中央博物館『東洋学芸雑誌』デジタル版 
Vol.19 第貳百五拾五號 : 明治三十五年十二月二十五日 524ページから


 これは冒頭に書かれているように、韓国研究会の11月例会のための原稿で、翌1903年9月の『韓国研究会談話録』にも掲載されている。さらに、1906年3月15日発行の雑誌『韓半島』にも掲載されている。

 後の1935年に、李晩栄が『高麗時報』に4回にわたって連載した「서울塔洞塔과 豊徳擎天寺塔」(1935年9月16日、10月1日、10月16日、11月1日)では『韓半島』の論文を翻訳・引用しており、幣原坦論文がこの塔を語る際の基本文献となっていたと思われる。

 1924年の『東亜日報』の記事も、この幣原坦の論文を参照した形跡が濃厚である。幣原坦は、断定は避けつつも、高麗忠烈王の時に元の王女とともに石塔が元から運ばれてきた可能性に言及し、元の石工が朝鮮で製作した可能性もほのめかしている。また、日本人がこの塔を持ち去ろうとした話の出どころもこの論文である。

 これに対して、1930年の朝鮮総督府の雑誌『朝鮮』11月号ではこの説を否定している。

 やったのは豊臣軍ではない、「大変な誤り」と真っ向から批判しているが、その出典が幣原坦論文であることを知らなかったのかもしれない。「朝鮮の文献に」とあって、日本を悪者にするのはなんでも韓国・朝鮮という思い込みで書かれているようにも見える。

 

 さらに、幣原坦論文では、豊徳の敬天寺の石塔との密接な関連性にも詳しく言及されている。

 タプコル公園の石塔については、元末に元から持ち込まれた可能性が高いが、その塔が素晴らしいというので元の工匠を招いて豊徳の敬天寺の石塔を作らせたのではないかとの推論も述べている。

 幣原坦は、あまり評価はしていないものの、それまでにこの塔について紹介している金澤庄三郎や信夫淳平、八木奨三郎などの著述についても言及しており、その中には豊徳の敬天寺石塔について触れたものもある。

 

 このように敬天寺石塔についても、タプコル公園の石塔とともに大きな関心を呼んでいた時に起きたのが、『東亜日報』の記事に、敬天寺石塔を「十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました」と書かれた事件である。

 

 1907年、大韓帝国皇太子(後の純宗)の婚姻に列席するため、日本からの特使として1月に訪韓した宮内大臣田中光顯が、敬天寺石塔を高宗皇帝から贈られたと称して持ち出してしまった。3月6日から10日にかけて、憲兵隊まで動員して「多少の武力を用ひて」現地豊徳の地方官や住民の抵抗を排除し、石塔を解体・梱包して運び出しで仁川から東京に運んだ。

 『大韓毎日申報』は、3月12日付でこの事件の第1報を「死守玉塔」のタイトルで報じた。

 さらに3月21日の続報で事件の詳細について報じた。

 

 この問題は、神戸・横浜のアメリカ人などの間でも物議を醸しているとして日本の新聞も報じざるを得なくなった。

 

 「古物癖」があり、「韓国の歴史上の国宝たる白玉製五重塔の珍品たるに垂涎」するような田中光顯は、幣原坦らが書いたものを読んでいたのであろう。2月4日にさっさと京城在住の日本人古物商に搬出を手配している。そしてこの塔の搬出について、「(高宗)陛下は一向に存ぜざりしよし御返事ありたり」と暴露されている。

 

 さらに、アメリカ本国でもこの搬出を問題視する論調が広まった。

 実は、1901年12月発行の月刊誌『コリアレビュー(Korea Review)』に、発行人でもあったアメリカ人ハルバート(Homer B. Hulbert)が「大理石塔」と題する文章を掲載し、タプコル公園の石塔について論じている。このハルバートの書いた記事について、幣原坦はその論文で、「今迄此塔の事を記るしたるものゝ内で、一番詳密に、又一番進歩したるもの」と称賛して、批判を加えつつも詳細に紹介している。

 すなわち、ハルバートは石塔について専門的な知識を持っていたのである。そして、 『大韓毎日申報』の発行人であるイギリス人ジャーナリスト ベッセル( Ernest T. Bethell)とは極めて親しい間柄であった。後日、ハーグの萬国平和会議に高宗皇帝が密使を送る時には、ともに送り出しに最大限の努力をしている。

 従って、田中光顯による敬天寺石塔搬出事件が起きると、ハルバートの専門知識を活用して、ベッセルの『大韓毎日申報』で搬出の不当性を訴えただけでなく、敬天寺石塔の歴史的背景や工芸品としての価値について詳細に報じることができ、日本やアメリカのジャーナリズムに詳しい情報が発信できたのである。

 こうした批判をうけて、日本当局と田中光顕は、日本に搬入した敬天寺石塔を梱包したまま上野の帝室博物館に放置し、ほとぼりが覚めた1918年になって朝鮮に返送して朝鮮総督府の所管とした。しかし、総督府博物館での調査の結果、最初の運搬時の破損が大きく、景福宮にそのまま保管されることになったのである。そして、きちんと復元されることのないまま解放の日を迎えることになった。

※黄壽永編 ; 李洋秀, 李素玲増補・日本語訳『韓国の失われた文化財 : 増補日帝期文化財被害資料』
三一書房, 2015に当時の公文書が掲載されている。元々の出典は、金嬉庚『考古美術資料/ 第20卷, 韓國塔婆硏究資料』考古美術同人會, 1962。 使われている公文書の所蔵先は確認できない。

 1924年6月25日に『東亜日報』の「洞・町内の名物」の連載が始まったが、その最初の記事は鍾路の名物で「鍾閣」。そして8月15日の最後の記事として掲載されたのも鍾路の名物で「蠟石塔」だった。

1924年6月25日『東亜日報』

鍾路鍾閣

◇鍾閣の本来の名称は普信閣です。その中の鐘は、外国人が朝鮮500年の芸術の代表作だと評しています。慶州の鐘と比較すると、この鐘は技巧では劣るが大きさでは勝るといいます。以前はこの鐘が朝晩二回鳴らされ、朝鳴らされるのを「罷漏」といいこれを合図に四つの大門が開かれ、晩に鳴らされる「人定」で四つの大門が閉じられました。
◇四つの大門が開きっぱなしになったので鐘も鳴らされなくなりました。「鍾閣の鐘はどのような人たちに夜を告げるのか」と詩人が嘆いたのですが、三一運動の時にちょっとだけ力強い音を響かせました。
◇力強い音といえば、以前は鐘の下の部分を掘り下げてあったので鐘の音が3〜40里にまで鳴り響いていたのが、大院君の斥和碑を埋めたので鐘の下が埋まってしまってからは音が小さくなってしまいました。この鐘がボストンの小さな家の割れた鐘のように力強い響きを力一杯響かせる日がこれから来ないとはどうしていえるでしょうか。

8月15日『東亜日報』

◇名物、名物というのですが、ソウルの名物にタプコル公園の蠟石塔を挙げないわけにはいきますまい。この塔は、高麗時代の忠烈王妃となった元朝の王女が嫁入りのときに持ってきたものという人が多いのですが、そうでなくて朝鮮で作ったものだという人もいます。
◇この塔を円覚寺塔と呼ぶのは、世祖大王9年に円覚寺というお寺を建立したからです。円覚寺は、中宗大王の時にこの寺を壊して「反正」の功臣の屋敷を建てるのに使い、塔だけが今日までその場所に残されています。いや円覚寺碑も残っています。
◇この塔の上3層が下に降ろされているのは、壬辰倭乱の時に倭兵が持ち去ろうとしたが、あまりに重いので諦めたためといわれています。伝承ですからそのままは信じられませんが、甲午年の後にもある日本人が盗もうとしたことがあったともいいます。
◇この塔の姉妹塔があります。それは豊徳の敬天寺塔です。この塔は十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました。今は王宮の庭の隅っこに立っているようです。

 

 日本による朝鮮植民地統治の中で、鍾路は朝鮮人にとっては自分たちの街であり、自分たちの場の象徴でもあった。黄金町以南の日本人街と比較すると、道路は舗装されないままで、上下水道やガスの普及は遅れ、電話の架設や便所の設置や汲み取りでも大きな格差のある生活条件のもとにあった。しかしそれでも、いやそれだからこそ、朝鮮人にとっての鍾路は「朝鮮人の通り」だったのであろう。

 

 この連載記事の最初と最後の二つの記事、いずれの記事からも日本の支配への抵抗の気概が読み取れる。

 

●鍾なのか、鐘なのか

 「鍾路」「鍾閣」の「鍾」という漢字について、「鐘」という漢字との使い分けについて以前から気になっていた。「鍾閣の鐘」から来てるのだとすれば、鐘ではないのか。

 数年前の韓国で、ネット上で「鐘路」「鐘閣」ではないのかという議論があった。また、「鍾」は日本の支配下で1943年に京城に区政が敷かれた時に「歪曲」されたもので、「鐘」に「戻すべき」という主張までなされたことがある。

 

 諸橋轍次『大漢和辞典』で調べると「鍾」と「鐘」は「別字」となっている。大修館書店の『漢語林』では、その語源的な違いが図入りで解説されている。

  元々は、「鍾」は「酒ツボ」、「鐘」は「ツリガネ・時のカネ」である。ただ、「鍾」もツリガネという漢字に通じるとなっている。ということは、「鍾」でも「鐘」を表せるということ。

 

 『千字文せんじもん』という漢字の教科書がある。それにハングルで朝鮮語の意味を添えた朝鮮語版がたくさん残されている。例えば、1804年とされる『註解千字文』では、鍾の漢字についてこのように解説されている。

(1)鍾という家門 姓である

(2)うつわ 酒器である

(3)集まる 聚である

(4)はかりの単位 10釜である

(5)かね 楽器で鐘とも書く


 韓国には鍾という姓がある。2015年の韓国姓の調査では鍾氏は675名しかいないが164番目に挙がっている。本貫は靈岩。これが「千字文」では「鍾」の一番最初に挙げられている。

 2番目の意味で漢字を説明するのが一般的で、「술병鍾スルピョンジョン(酒瓶の鍾)」「술잔鍾スルチャンビョン(酒杯の鍾)」となる。

 最後の5番目に、「鐘」と通じるとあって、この「鍾」でも打ち鳴らすカネの意味があるとなってはいる。「鐘」は『千字文』には出てこないが、普通は「쇠북鐘スェブックジョン(カネの鐘)」となる。しかし、「쇠북鍾(カネの鍾)」でも間違いではないということだ。

 実際、1919年の天一書館発行の『千字文』では「쇠북鍾」となっているし、最近の韓漢辞典でもこちらが多くなっているようだ。

 では、古い時代に、鍾路や鍾閣はどのように表記されてきたのか。

 1481年に編纂された『東国輿地勝覧』を、1530年に増補して今日に伝わる『新増東国輿地勝覧』ではこのようになっている。

 鐘を意味する漢字として「鐘」の字ではなく、当初から「鍾」が用いられている。

 国史編纂委員会の朝鮮王朝実録データベースで「鍾街」と「鐘街」とを検索してみた。近代以前は、「鍾路」ではなく「鍾街」と呼ばれていた。

 

 漢文の原文で見ると 「鍾街」の方が46個と多いが、「鐘街」も10個検出される。また地図でも「鍾」が使われることが多いようだ。

 官選の『新増東国輿地勝覧』が「鍾閣」と表記しているので、「鍾」を使うのが公式の表記なのだろうが、「鐘閣」「鐘路」も許容されていたのであろう。

 

 この「鍾」が主、「鐘」が従という使い方は、日本が朝鮮半島で侵略政策を展開した時期にも引き継がれたようで、統監府の公文書や朝鮮総督府の官報などではほとんどが「鍾路」である。ところが、たまに「鐘」を使った文書資料が出てくる。

 「鍾路」「鍾閣」という表記の方がずっと主流だったが、たまに「鐘路」と活字を拾うことがあったり、「鐘路分館」というゴム印を発注することがあったのだろう。

 

 さて、本題に戻る。

●鍾閣

 鍾閣に関する記述で、「大院君の斥和碑を埋めたので鐘の音が小さくなった」とある。高宗の父興宣大院君は、西欧的なものを排除する「衛正斥邪」を進める決意を示すものとして、1871年に「斥和碑」を各地に立てさせた。鍾路の鍾閣のそばにも立てられた。和は日本のことではなく、戦わないの意である。

 1882年の壬午軍乱で、大院君が清に軟禁されるとこの碑は撤去され、鍾閣のそばの碑石も地中に埋められた。後の1915年6月に、鍾路の道路拡張のために鍾閣の移転工事が行われ、その際にこの碑石も掘り出された。『東亜日報』の記事には鐘の下の共鳴用の穴に埋められたとあるが、どうもそうではないようだ。「斥和碑」で鐘の音が響かなくなったと描いたのは、何か象徴的な意味を持たせようとしたのだろうか。

 この移転の工事の時に掘り出された「斥和碑」は、総督府博物館に移され、現在は韓国の中央博物館に展示されtれいる。

移転直前の鍾閣(普信閣)

 最後の「ボストンの鐘」は、フィラデルフィアにある割れた自由の鐘(Liberty Bell)のことである。アメリカの独立を象徴するこの鐘は、何度もひび割れをして、その度に修理されてきた。

 31独立運動の時に鍾閣の鐘が鳴らされたことや、このアメリカの自由の鐘に言及していることなど、独立への強い思いのこもった記事である。

 

蠟石塔については「その2」へ