「洞・町内の名物(9)鍾路の鍾閣と蠟石塔 その2 | 一松書院のブログ

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鍾路の鍾閣と蠟石塔 その1から続く

8月15日『東亜日報』

◇名物、名物というのですが、ソウルの名物にタプコル公園の蠟石塔を挙げないわけにはいきますまい。この塔は、高麗時代の忠烈王妃となった元朝の王女が嫁入りするときに持ってきたものという人が多いのですが、そうではなく朝鮮で作ったものという人もいます。
◇この塔を円覚寺塔と呼ぶのは、世祖大王9年に円覚寺という寺を建立したからです。円覚寺は、中宗大王の時に寺を壊して「反正はんぜい」の功臣の屋敷を建てるのに使い、塔だけが今日までその場所に残されています。いや円覚寺碑も残っています。
◇この塔の上3層が下に降ろされているのは、壬辰倭乱の時に倭兵が持ち去ろうとしたが、あまりに重いので諦めたためといわれています。伝承ですからそのままは信じられませんが、甲午年1894の後にもある日本人が盗もうとしたことがあったともいいます。
◇この塔の姉妹塔があります。それは豊徳の敬天寺塔です。この塔は十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました。今は王宮の庭の隅っこにあるようです。

●蠟石塔

 1924年の『東亜日報』の「洞・町内の名物」連載の最後の記事で取り上げられているのは、タプコル公園の「蠟石塔」。この塔の正式な名称は「円覚寺址十層石塔」。

 

 「タプコル公園」は、「塔公園」「塔洞公園」それに「パゴダ公園」とも呼ばれていた。1990年代初めまでは「パゴダ公園」というのが公式名称だった。

 パゴダの呼称については、1897年にイギリス人顧問の総税務司ブラウンがこの場所を公園化して、Pagoda Parkと名付けたことに由来するという説があるが、「白塔」の中国語音や朝鮮語音が訛って伝わったとする説もある。

 

 ところが、1990年頃から、外来語のパゴダをやめて「タプコル公園」にすべきだという市民運動が起き、1992年にソウル市の地名委員会は「タプコル公園」を正式名称とすることを決定した。ここから道路標識などが、「파고다パゴダ」から「탑골タプコル」に書き換えられることになった。

 

 

 この公園には立派な石塔がある。これが『東亜日報』が「蠟石塔」と呼んだ塔である。今はガラス張りの建物で囲われているが、以前は剥き出しのままの石塔を直接見ることができた。

 この場所にあった円覚寺や、この大理石の石塔については、いろいろな論文や、ブログや案内文で紹介されているので、そちらをご覧いただきたい。

 ここでは、『東亜日報』に書かれている世祖の時と中宗の時の実録の記事を一つずつ紹介しておこう。

 今では、インターネットで検索できる国史編纂委員会の『朝鮮王朝実録』で、キーワード「圓覺寺」で検索すれば、「世祖実録」や「中宗実録」の関連記事を簡単にピックアップすることができる。その原文も確認することができる。

 インターネットで『朝鮮王朝実録』の検索ができるようになったのは10数年前から。それまでは、実録を調べるにはそれなりにお金がかかった。韓国の国史編纂委員会が1955年に出した『朝鮮王朝実録』の影印版があった。今でも索引まで入れて全巻53冊で125万ウォンする。日本国内でも学習院大学の東洋文化研究所が太白山本(光海君日記のみ江華本)の縮刷本『李朝実録』全56巻各巻7000円というのを出していた。フルセットだと40万円くらいになる。その後、1994年に朝鮮王朝実録CD-ROM刊行委員会のCD版(ハングル版WINDOWS3.1対応のIBM互換機でメインメモリ4MB以上、要CD‐R0Mドライプ)が出され、日本でも1996年に80万円で販売されていた。プロテクトがかかっていて特定のPCでしか使えないものだったが、全文検索ができる画期的なものだった。

 

 その『朝鮮王朝実録』が今やネット上で無料で使い放題である。『承政院日記』『日省録』『備辺司謄録』もみんなできる。すごい時代があっという間にやってきた。

 それにつけても、昔の研究者は、その歴史観はともかく、物凄いエネルギーを使って史料をあさっていたのだなぁと改めて思わされる。

 

 さて、中宗は、先代の王を廃する「反正」(廃された先代の王には廟号が与えられず「燕山君」とされた)で王位に就き、「反正」の功臣への褒賞として与える屋敷に円覚寺の建材を使った。そのため円覚寺跡には、石塔だけが残されることになったのである。

 

 タプコル公園の石塔には日本の学者も早くから関心を持っていた。

 その一人が、幣原たいらである。1902年に『東洋学芸雑誌』19巻255号に「京城塔洞の古塔に関する諸記録に就いて」(12ページ)を掲載している。

韓国国立中央博物館『東洋学芸雑誌』デジタル版 
Vol.19 第貳百五拾五號 : 明治三十五年十二月二十五日 524ページから


 これは冒頭に書かれているように、韓国研究会の11月例会のための原稿で、翌1903年9月の『韓国研究会談話録』にも掲載されている。さらに、1906年3月15日発行の雑誌『韓半島』にも掲載されている。

 後の1935年に、李晩栄が『高麗時報』に4回にわたって連載した「서울塔洞塔과 豊徳擎天寺塔」(1935年9月16日、10月1日、10月16日、11月1日)では『韓半島』の論文を翻訳・引用しており、幣原坦論文がこの塔を語る際の基本文献となっていたと思われる。

 1924年の『東亜日報』の記事も、この幣原坦の論文を参照した形跡が濃厚である。幣原坦は、断定は避けつつも、高麗忠烈王の時に元の王女とともに石塔が元から運ばれてきた可能性に言及し、元の石工が朝鮮で製作した可能性もほのめかしている。また、日本人がこの塔を持ち去ろうとした話の出どころもこの論文である。

 これに対して、1930年の朝鮮総督府の雑誌『朝鮮』11月号ではこの説を否定している。

 やったのは豊臣軍ではない、「大変な誤り」と真っ向から批判しているが、その出典が幣原坦論文であることを知らなかったのかもしれない。「朝鮮の文献に」とあって、日本を悪者にするのはなんでも韓国・朝鮮という思い込みで書かれているようにも見える。

 

 さらに、幣原坦論文では、豊徳の敬天寺の石塔との密接な関連性にも詳しく言及されている。

 タプコル公園の石塔については、元末に元から持ち込まれた可能性が高いが、その塔が素晴らしいというので元の工匠を招いて豊徳の敬天寺の石塔を作らせたのではないかとの推論も述べている。

 幣原坦は、あまり評価はしていないものの、それまでにこの塔について紹介している金澤庄三郎や信夫淳平、八木奨三郎などの著述についても言及しており、その中には豊徳の敬天寺石塔について触れたものもある。

 

 このように敬天寺石塔についても、タプコル公園の石塔とともに大きな関心を呼んでいた時に起きたのが、『東亜日報』の記事に、敬天寺石塔を「十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました」と書かれた事件である。

 

 1907年、大韓帝国皇太子(後の純宗)の婚姻に列席するため、日本からの特使として1月に訪韓した宮内大臣田中光顯が、敬天寺石塔を高宗皇帝から贈られたと称して持ち出してしまった。3月6日から10日にかけて、憲兵隊まで動員して「多少の武力を用ひて」現地豊徳の地方官や住民の抵抗を排除し、石塔を解体・梱包して運び出しで仁川から東京に運んだ。

 『大韓毎日申報』は、3月12日付でこの事件の第1報を「死守玉塔」のタイトルで報じた。

 さらに3月21日の続報で事件の詳細について報じた。

 

 この問題は、神戸・横浜のアメリカ人などの間でも物議を醸しているとして日本の新聞も報じざるを得なくなった。

 

 「古物癖」があり、「韓国の歴史上の国宝たる白玉製五重塔の珍品たるに垂涎」するような田中光顯は、幣原坦らが書いたものを読んでいたのであろう。2月4日にさっさと京城在住の日本人古物商に搬出を手配している。そしてこの塔の搬出について、「(高宗)陛下は一向に存ぜざりしよし御返事ありたり」と暴露されている。

 

 さらに、アメリカ本国でもこの搬出を問題視する論調が広まった。

 実は、1901年12月発行の月刊誌『コリアレビュー(Korea Review)』に、発行人でもあったアメリカ人ハルバート(Homer B. Hulbert)が「大理石塔」と題する文章を掲載し、タプコル公園の石塔について論じている。このハルバートの書いた記事について、幣原坦はその論文で、「今迄此塔の事を記るしたるものゝ内で、一番詳密に、又一番進歩したるもの」と称賛して、批判を加えつつも詳細に紹介している。

 すなわち、ハルバートは石塔について専門的な知識を持っていたのである。そして、 『大韓毎日申報』の発行人であるイギリス人ジャーナリスト ベッセル( Ernest T. Bethell)とは極めて親しい間柄であった。後日、ハーグの萬国平和会議に高宗皇帝が密使を送る時には、ともに送り出しに最大限の努力をしている。

 従って、田中光顯による敬天寺石塔搬出事件が起きると、ハルバートの専門知識を活用して、ベッセルの『大韓毎日申報』で搬出の不当性を訴えただけでなく、敬天寺石塔の歴史的背景や工芸品としての価値について詳細に報じることができ、日本やアメリカのジャーナリズムに詳しい情報が発信できたのである。

 こうした批判をうけて、日本当局と田中光顕は、日本に搬入した敬天寺石塔を梱包したまま上野の帝室博物館に放置し、ほとぼりが覚めた1918年になって朝鮮に返送して朝鮮総督府の所管とした。しかし、総督府博物館での調査の結果、最初の運搬時の破損が大きく、景福宮にそのまま保管されることになったのである。そして、きちんと復元されることのないまま解放の日を迎えることになった。

※黄壽永編 ; 李洋秀, 李素玲増補・日本語訳『韓国の失われた文化財 : 増補日帝期文化財被害資料』
三一書房, 2015に当時の公文書が掲載されている。元々の出典は、金嬉庚『考古美術資料/ 第20卷, 韓國塔婆硏究資料』考古美術同人會, 1962。 使われている公文書の所蔵先は確認できない。