1924年6月25日に『東亜日報』の「洞・町内の名物」の連載が始まったが、その最初の記事は鍾路の名物で「鍾閣」。そして8月15日の最後の記事として掲載されたのも鍾路の名物で「蠟石塔」だった。
1924年6月25日『東亜日報』
鍾路鍾閣
◇鍾閣の本来の名称は普信閣です。その中の鐘は、外国人が朝鮮500年の芸術の代表作だと評しています。慶州の鐘と比較すると、この鐘は技巧では劣るが大きさでは勝るといいます。以前はこの鐘が朝晩二回鳴らされ、朝鳴らされるのを「罷漏」といいこれを合図に四つの大門が開かれ、晩に鳴らされる「人定」で四つの大門が閉じられました。
◇四つの大門が開きっぱなしになったので鐘も鳴らされなくなりました。「鍾閣の鐘はどのような人たちに夜を告げるのか」と詩人が嘆いたのですが、三一運動の時にちょっとだけ力強い音を響かせました。
◇力強い音といえば、以前は鐘の下の部分を掘り下げてあったので鐘の音が3〜40里にまで鳴り響いていたのが、大院君の斥和碑を埋めたので鐘の下が埋まってしまってからは音が小さくなってしまいました。この鐘がボストンの小さな家の割れた鐘のように力強い響きを力一杯響かせる日がこれから来ないとはどうしていえるでしょうか。
8月15日『東亜日報』
◇名物、名物というのですが、ソウルの名物にタプコル公園の蠟石塔を挙げないわけにはいきますまい。この塔は、高麗時代の忠烈王妃となった元朝の王女が嫁入りのときに持ってきたものという人が多いのですが、そうでなくて朝鮮で作ったものだという人もいます。
◇この塔を円覚寺塔と呼ぶのは、世祖大王9年に円覚寺というお寺を建立したからです。円覚寺は、中宗大王の時にこの寺を壊して「反正」の功臣の屋敷を建てるのに使い、塔だけが今日までその場所に残されています。いや円覚寺碑も残っています。
◇この塔の上3層が下に降ろされているのは、壬辰倭乱の時に倭兵が持ち去ろうとしたが、あまりに重いので諦めたためといわれています。伝承ですからそのままは信じられませんが、甲午年の後にもある日本人が盗もうとしたことがあったともいいます。
◇この塔の姉妹塔があります。それは豊徳の敬天寺塔です。この塔は十数年前に日本の宮内大臣田中というのが盗っていきました。今は王宮の庭の隅っこに立っているようです。
日本による朝鮮植民地統治の中で、鍾路は朝鮮人にとっては自分たちの街であり、自分たちの場の象徴でもあった。黄金町以南の日本人街と比較すると、道路は舗装されないままで、上下水道やガスの普及は遅れ、電話の架設や便所の設置や汲み取りでも大きな格差のある生活条件のもとにあった。しかしそれでも、いやそれだからこそ、朝鮮人にとっての鍾路は「朝鮮人の通り」だったのであろう。
この連載記事の最初と最後の二つの記事、いずれの記事からも日本の支配への抵抗の気概が読み取れる。
●鍾なのか、鐘なのか
「鍾路」「鍾閣」の「鍾」という漢字について、「鐘」という漢字との使い分けについて以前から気になっていた。「鍾閣の鐘」から来てるのだとすれば、鐘ではないのか。
数年前の韓国で、ネット上で「鐘路」「鐘閣」ではないのかという議論があった。また、「鍾」は日本の支配下で1943年に京城に区政が敷かれた時に「歪曲」されたもので、「鐘」に「戻すべき」という主張までなされたことがある。
諸橋轍次『大漢和辞典』で調べると「鍾」と「鐘」は「別字」となっている。大修館書店の『漢語林』では、その語源的な違いが図入りで解説されている。
元々は、「鍾」は「酒ツボ」、「鐘」は「ツリガネ・時のカネ」である。ただ、「鍾」もツリガネという漢字に通じるとなっている。ということは、「鍾」でも「鐘」を表せるということ。
『千字文』という漢字の教科書がある。それにハングルで朝鮮語の意味を添えた朝鮮語版がたくさん残されている。例えば、1804年とされる『註解千字文』では、鍾の漢字についてこのように解説されている。
(1)鍾という家門 姓である
(2)うつわ 酒器である
(3)集まる 聚である
(4)はかりの単位 10釜である
(5)かね 楽器で鐘とも書く
韓国には鍾という姓がある。2015年の韓国姓の調査では鍾氏は675名しかいないが164番目に挙がっている。本貫は靈岩。これが「千字文」では「鍾」の一番最初に挙げられている。
2番目の意味で漢字を説明するのが一般的で、「술병鍾(酒瓶の鍾)」「술잔鍾(酒杯の鍾)」となる。
最後の5番目に、「鐘」と通じるとあって、この「鍾」でも打ち鳴らすカネの意味があるとなってはいる。「鐘」は『千字文』には出てこないが、普通は「쇠북鐘(カネの鐘)」となる。しかし、「쇠북鍾(カネの鍾)」でも間違いではないということだ。
実際、1919年の天一書館発行の『千字文』では「쇠북鍾」となっているし、最近の韓漢辞典でもこちらが多くなっているようだ。
では、古い時代に、鍾路や鍾閣はどのように表記されてきたのか。
1481年に編纂された『東国輿地勝覧』を、1530年に増補して今日に伝わる『新増東国輿地勝覧』ではこのようになっている。
鐘を意味する漢字として「鐘」の字ではなく、当初から「鍾」が用いられている。
国史編纂委員会の朝鮮王朝実録データベースで「鍾街」と「鐘街」とを検索してみた。近代以前は、「鍾路」ではなく「鍾街」と呼ばれていた。
漢文の原文で見ると 「鍾街」の方が46個と多いが、「鐘街」も10個検出される。また地図でも「鍾」が使われることが多いようだ。
官選の『新増東国輿地勝覧』が「鍾閣」と表記しているので、「鍾」を使うのが公式の表記なのだろうが、「鐘閣」「鐘路」も許容されていたのであろう。
この「鍾」が主、「鐘」が従という使い方は、日本が朝鮮半島で侵略政策を展開した時期にも引き継がれたようで、統監府の公文書や朝鮮総督府の官報などではほとんどが「鍾路」である。ところが、たまに「鐘」を使った文書資料が出てくる。
「鍾路」「鍾閣」という表記の方がずっと主流だったが、たまに「鐘路」と活字を拾うことがあったり、「鐘路分館」というゴム印を発注することがあったのだろう。
さて、本題に戻る。
●鍾閣
鍾閣に関する記述で、「大院君の斥和碑を埋めたので鐘の音が小さくなった」とある。高宗の父興宣大院君は、西欧的なものを排除する「衛正斥邪」を進める決意を示すものとして、1871年に「斥和碑」を各地に立てさせた。鍾路の鍾閣のそばにも立てられた。和は日本のことではなく、戦わないの意である。
1882年の壬午軍乱で、大院君が清に軟禁されるとこの碑は撤去され、鍾閣のそばの碑石も地中に埋められた。後の1915年6月に、鍾路の道路拡張のために鍾閣の移転工事が行われ、その際にこの碑石も掘り出された。『東亜日報』の記事には鐘の下の共鳴用の穴に埋められたとあるが、どうもそうではないようだ。「斥和碑」で鐘の音が響かなくなったと描いたのは、何か象徴的な意味を持たせようとしたのだろうか。
この移転の工事の時に掘り出された「斥和碑」は、総督府博物館に移され、現在は韓国の中央博物館に展示されtれいる。
移転直前の鍾閣(普信閣)
最後の「ボストンの鐘」は、フィラデルフィアにある割れた自由の鐘(Liberty Bell)のことである。アメリカの独立を象徴するこの鐘は、何度もひび割れをして、その度に修理されてきた。
31独立運動の時に鍾閣の鐘が鳴らされたことや、このアメリカの自由の鐘に言及していることなど、独立への強い思いのこもった記事である。















