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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 『東亜日報』の1924年の連載企画「洞・町内の名物」に、井戸を名物としている町内が六つある。

花洞(화동) 「복주움물」 6月29日掲載
三淸洞(삼청동) 「성제움물」 6月30日掲載
雲泥洞(운니동) 「쫄々움물」 7月1日掲載
薰井洞(훈정동)  「어수움물」 7月11日掲載
渼芹洞(미근동) 「초리움물」7月12日掲載
舟橋町(주교정)  「보름물」8月1日掲載

 そのうち、花洞の「ポクジュ井戸」と三淸洞の「ソンジェ井戸」とを調べてみた。

花洞「ポクジュ井戸」

◇花洞は、昔の名前は「花開洞ファゲドン」でした。花開洞のポクジュ井戸といえば、ソウルでは知らない人がいないほどでした。孟峴メンヒョンの丘の下の小さなポクジュ井戸は、美味しい水というだけでなく薬効があるといいます。亡くなった徳寿宮高宗太皇帝が、今から27〜8年前に「御水」として封じてこの水を1日に3回ずつ召し上がったといいます。
◇そしてその年には巡検庁まで横に建てて水を汲んだといいます。そして高宗太皇帝が亡くなられて「御水」に封じられることはなくなりましたが、あまりにも美味しい水なので、春夏秋冬、水を求める人が途切れることがありません。さらに、夏には、冷たくて美味しく、薬効まであるポクジュ井戸水を飲もうと、老若男女が雲集して花開洞は人の波で埋まってしまいます。
◇まずい水道水しか飲んだことのない大人たちが一度でもこの町内のポクジュ井戸水を味わうと、びっくり仰天して美味しいと口を揃えます。誰であろうと夏場の暑い時に我が町内の有名な水を一度飲みにおいでください。

 1907年の『韓国京城実測地図』(東京経済大学機関リポジトリー)で見ると「花開洞ファゲドン」が景福宮キョンボックンの東に隣接する一角に表示されている。

 その花開洞の東側に「孟峴」の表示がある。現在の北村路ブクチョンノ嘉会カフェ民画博物館からもう少し上がったあたり。

 「中学校」の表記があるが、これは1900年に開校した官立中学校で、植民地統治下では朝鮮人の中等教育を行う第一高等普通学校とされた場所である。現在、ここはソウル市立の正読チョンドク図書館になっている。

 このあたりに「ポクジュ井戸」はあったことになる。

 今のネット地図を見ると、正読図書館の左上に「복정우물ボクチョンウムル(福井井戸)」というのがある(下のコネスト地図で①のところ)。

 この場所では「ポクチョン食堂」が営業していて、その敷地に「ポクチョン井戸」がある。『東亜日報』に掲載されたものとは名称が違うが、これが「ポクジュ井戸」ではなかろうか。

 

 実は、ネットで「「복주우물ボクチュウムル」を検索するともう一つ別のが出てくる。

 地下鉄2号線阿峴駅で降りて、そこから「서대문ソデムン05」のマウルバスで終点まで上がる。金輪寺クムニュンサに向かうとその手前に井戸がある。

 この道をさらに登っていくと、金化トンネルが貫通している山の上部に出る。ここは、元々は漢城の城外である。むかしから、漢城の内外を問わず「ボクジュ井戸」というように「福」を冠した井戸や湧水は多かったものと思われる。

 

三清洞「ソンジェ井戸」

◇北岳山の下にあるソンジェ井戸は、三清洞の名物です。昔この井戸水で巫堂が北斗七星を祭祀したというので星祭ソンジェ井戸と呼んだといいます。歴史が長くて有名なだけでなく、薬として霊験あらたかなことで一層有名です。胸の病に十年苦しんだ人もこの水を数回飲めばよくなり、ほかの病の人も、この水を飲むとほとんどが治るとされます。
花開洞ファゲドンの「ポクジュ井戸」が「御水」に封じられ、良い水とされてますが、最初に御水に封じられたのは、ソンジェ井戸でしたが、北岳山の下の険しい道を日になんども登り降りするのが大変だというので、高宗太皇帝も水を運ぶ人を思って、良い水を飲めなくても近くて便利なポクジュ井戸の水を持ってくるように言いつけ、のちにはポクジュ井戸を御水に封じられたということです。
◇他の普通の水は、たくさん飲むと腹をこわすと言いますが、ソンジェ井戸は飲めば飲むほど体によく、来る人々は塩辛い干しにべを持ってきてこれを食べながら水を飲むといいます。この頃のような暑いときには人がとても多くて、ここの水を飲むのに半日ほども待たなければならないほどで、これがうちの町内の名物です。

 景福宮の東側、「ポクチョン食堂」の表の道を北に進むと、三清サムチョントンネルがあって城北洞ソンブクドンに抜けることができる。トンネルの先は日本の大使公邸もある閑静な高級住宅街である。ただ、この三清トンネルを通るバス路線はなく、トンネルのずっと手前のところが「종로チョンノ11」のマウルバスの終点になっている。ここから左手の路地を七宝寺チルボサ方向に入って、七宝寺の前を通り過ぎてしばらくすると「ソンジェ井戸」がある。

 

 私も飲んでみた。うーん…、病気が治りそうな気がしなくもないが。。。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その他の井戸については、とりあえず『東亜日報』の記事と、わかるものについては場所だけ紹介しておこう。

 次回の「その2」では、1924年前後の京城の井戸と上水道についてまとめることにする。

 「鍾路区臥龍洞28」に「쫄쫄우물터」(チョルチョル井戸跡)があるとするブログがある。出典などは不明。雲泥洞とは隣接するが、道を一本隔てている。

WEBサイト

 

 鍾路チョンノ薫井洞フンジョンドン2番地の宗廟チョンミョ前の市民広場にある「御井」が「御水井戸」である。ソウル特別市の有形文化財第56号に指定されている。

WEBサイト

 

 地下鉄5号線西大門ソデムン駅7番出口を出て南に下った警察庁の構内にプレートがある。この警察庁の敷地は、植民地時代に朝鮮煙草会社の工場が置かれ、1921年の専売制度の実施で朝鮮総督府専売局の煙草工場となった場所。

WEBサイト

 

 鍾路区舟橋洞281番地に井戸があったという。出典資料不明。

WEBサイト

 

 国会図書館のデジタルコレクションには、19世期末から20世記初頭に日本で出版された朝鮮語の学習書がかなりの数含まれている。1910年までに出された60種ほどがインターネット公開されている。
 国会図書館デジタルコレクションで、「韓語」「朝鮮語」「日韓 会話」など可能性のありそうな検索語で検索するとこれらの資料が出てくる。これを出版年月日順にリスト化してみると、1894年・95年の日清戦争の前後、そして1904年・05年の日露戦争の前後の2回に朝鮮語学習書出版のピークがあることがわかる。

 その中の一つに、1904年10月28日に出版された『韓語独習通信誌』第1編という本がある。 

 「大韓起業調査局通信部編」となっていて、奥付には、著者兼発行者「奥田格」、発行所「大韓起業調査局東京出張所」とある。

 奥付の部分には「韓語自宅独習科細則」が掲載されている。

 これは、朝鮮語の通信教育用の教材で、束修金や授業料を徴収して、授業期間は6ヶ月、卒業試験に通れば卒業証書を与えるということになっている。ちなみに、中国では古来から、弟子入りが認められた際の師へのお礼を「束修(束脩)」といい、日本でも明治・大正期には今の「入学金」を「束修金」といっていた。授業料の月謝50銭というのは日清戦争の時に慶応義塾に置かれた夜間コースの朝鮮語学校と同額。通信課程にしては高額である。定期的に教材を送って、書簡で質問を受け付けるというシステム。回答者としては朴泳吉、白允直、朴瑢台の名前があがっており、この教科書を編集したのもこの3人である。

 

 さらに、その運営母体の「大韓起業調査局」については、この学習書の冒頭部分に組織の概要が掲載されている。

 日本各地の有志者の出資による組織で、朝鮮での種々の経済活動のため、調査や支援を行うことを謳っている。本局は釜山に、京城をはじめ仁川、元山、木浦、馬山、群山、鎮南浦、平壌、大邱などに支局があり、「本郷6丁目31番地」に東京出張所が置かれ、『韓語独習通信誌』第1編はここで発行されている。支局の配置や業務内容をみると相当大規模の組織のように思えるが、この時点では、実績についての言及はなく、「準備中」のものがいくつかある。釜山の本局の住所なども掲載されておらず、果たして実態がどうであったのか、やや疑問もある。

 この大韓起業調査局の「業務担当者」であり、『韓語独習通信誌』第1編の「著者兼発行者」「出納監督」で授業料の納付先として名前があがっているのが奥田格である。奥田格については、1912年に中央通信社が刊行した『現代人名辞典』(第2版)に下のような掲載がある。

『明治人名辞典』(日本図書センター 1987)
これは『現代人名辞典』第2版 (中央通信社1912年刊) の改題複製である

また、1913年に刊行された『東京社会辞彙』(毎日通信社)の「ヲオ56ページ」にも同内容の記載がある。奥田格に関する情報はこれ以外には見当たらない。

 

 『韓語独習通信誌』第1編の「緒言」には、「近来日本人の渡航し来れる者は日に益々増加するも…」とあって、在韓者の書き振りになっているのだが、奥田格と朝鮮・韓国とのつながりを示す記述は出てきていない。

 朝鮮語に関する学習部分を実際に書いたのは、朴泳吉、白允直、朴瑢台である。奥田格が関与した形跡はない。

 この3人は、いずれも釜山出身で、日本では愛媛県松山市と関わりをもつという共通点がある。

 朴泳吉は、1898年頃から1904年にかけて愛媛県の松山市に滞在していた。外務省外交史料館所蔵の『要視察外國人擧動關係雜纂-朝鮮人ノ部-』4〜6(1899-1903)をもとに韓国国史編纂委員会で出版した『要視察韓國人擧動 3』に「愛媛縣松山市滯在朴泳吉」に関する報告がいくつか収録されている。例えば、

(197) 韓人動靜ニ關スル申報 [朴泳吉·白允直의 歸國]
甲秘第三一號
松山市本町四丁目寄留韓人
朴泳吉
右ハ本日當地出發韓國ヘ渡航ノ筈ニ有之其用向ハ從來同人ハ矢橋寬一郞ノ名儀ヲ以テ商業ヲ營ミ居シカ內地開放ニ付諸般ノ事自己ノ名義トナシタルヨリ夫レ等ニ關スル取片付ノ爲渡韓スルモノニシテ往復日數二十間ノ見込ナリ
朴泳吉方滯在韓人
白允直
右ハ豫テ肩書地ニ滯在ノ旨客年十二月二十七日甲秘第四六七號ヲ以テ及申報置候處同人ハ歸韓セリ
右及申報候也


明治三十三年二月十八日


愛媛縣知事 大庭寬一 印
外務大臣 子爵 靑木周藏 殿

といった記録がある。

 この資料では、朴泳吉は矢橋寬一郞名儀で松山で商売をしていたとなっている。さらに、1905年6月6日の動向報告では、「松山に滞在して韓国向けの織物の製造を計画中」とあり、松山と釜山とを行き来しながらビジネスを行っていたようである。朴泳吉は、ビジネスばかりでなく一進会を通じた改革運動、青年層の海外留学送り出しや初等教育のための学校設立などを構想していた。

 
(上の画像をクリックすると資料集へ)

 実際に、朴泳吉は、1906年4月から一進会の慶尚南道支部会長に就任しており、その後私立草梁学校の校長、東萊府民議所理事にもなっている。

 

 もう一人の白允直も、上掲の史料にあるように、朴泳吉と連携して活動していたものと思われる。『要視察韓國人擧動 3』にはこれ以外にも、朴泳吉と白允直との密接な関係を示す記事が複数ある。

白允直ハ昨二十日夜東京ヨリ着阪北區富島町旅人宿川口屋ヘ投宿今二十一日夜當港出帆ノ汽船第四肱川丸ニテ愛媛縣三ケ濱ヘ向ケ出發セリ松山ナル朴泳吉ノ訴ヘ到ル筈ナリ用向ハ信州地方ナル人蔘栽培ノ狀況ヲ視察シ之ヲ朴ニ報告センカ爲ナリ

(289) [徐亮淳·安駉壽·白允直의 動靜 報告]
特甲第三一○號(1899年7月21日)

 さらに、3人目の朴瑢台は、幼少の頃から日本語による教育を受けていた。まず、1892年に釜山の日本人向けの尋常小学校に編入している。さらに1894年に日本に渡って松山市の高等小学校に入学した。その後東京の南櫻高等小学校に転入、1897年には成城中学に入学し、2年生からは獨逸学協会中学に編入した。1900年には愛媛に戻って染織学校に入学して2年後に卒業し、実地見習いとなった。

 松山に滞在して韓国向けの織物の製造を計画していたとされる朴泳吉(1905年6月6日の動向報告)や白允直と、この朴瑢台は、愛媛の松山を足場として結びついていたと考えられる。

 朴瑢台はその後法曹界へ転じることを決意したようで、1905年1月に明治大学法律科に入学し1907年に法学士となり平理院(裁判所)判事になっている。

 『大韓帝国官員履歴書』には朴瑢台のこうした履歴記録が残されている。

國史編纂委員會編 韓國史料叢書17『大韓帝國官員履歷書』 

 

 松山と東京で、初等教育から高等教育まで受けた朴瑢台は、朝鮮語と日本語に通じており、ちょうど明治大学法科に入学する2ヶ月ほど前に『韓語独習通信誌』第1編が刊行されていることから、この本の制作でも重要な役割を果たしたとも推測される。

 

 第4章の会話パターンの部分では次のような会話が取り上げられている。

第1 渡韓船中雑話

第2 大邱旅行通話

第3 朝鮮の地理に関する話

第4 飲食に関する会話

第5 釜山港に関する話

第6 京城に関する話

第7 食料品店にての話

第8 仁川港に関する話

第9 馬山浦に関する話

第10 雑貨店にて買い物の話

第11 木浦に関する話

第12 織物店にての会話

第13 群山港に関する話

朝鮮を訪問する日本人と朝鮮人の会話の形式で、京城や木浦、群山が通り一遍の説明であるのに対し、釜山や大邱、馬山については詳しい内容の会話になっている。また、織物店にての会話があるのも、朴泳吉の商売や朴瑢台の染織学校の経歴などから考えて、その関連が思い起こされるものでもある。

 

 ところで、この朴泳吉、白允直、朴瑢台と奥村格とのつながりについては、全く手がかりがない。「大韓起業調査局」が釜山を根拠地とされていることから、朴泳吉らが語学教材や通信教育だけに関わっていたのではなく、「大韓起業調査局」そのものにも関わっていたことも考えられるが、こちらも手がかりがない。

 

 この通信教育では、「各地実業家及び会社・団体より韓語通訳生の周旋を嘱託し来れるもの少なからざれば…」とか、「目下韓国行商人養成所の潜説準備中」とかの記述があって、就職が期待できる「将来性」についての謳い文句が散りばめられている。果たして、これで受講生を呼び込めたのかどうか気になるところだが……。これも資料はない。

 

 通信教育用の『韓語独習通信誌』第1編を出してから3カ月後の1905年1月31日に、「大韓起業調査会東京支部(「調査会」と名前が変わっている)」から『韓語独習誌 附:最近韓国起業案内』第1巻が出されている。

これは、通信教育の教科書ではなく単独の学習書である。著者は藤戸計太、東京外国語学校韓語学科教師の柳苾根が校閲となっている。

 さらに、4月16日には『韓語独習誌 附:最近韓国起業案内』第2巻が出版された。

この本の著者は田中良之。第2巻となってはいるが、第1巻とは著者も違うし、内容も異なる構成になっていて1・2巻の連続性はない。「最近韓国起業案内」の部分も第1巻とは異なる内容になっている。

 この2点の出版物は、単独の学習書で、通信教育用の教材ではない。しかし、その一方で、通信教育の方の生徒募集も新聞に掲載されている。ただし、当初6カ月となっていたコースを3カ月として募集している。

 

 4月16日に『韓語独習誌 附:最近韓国起業案内』第2巻が出たあと、「大韓起業調査会」の関連キーワードで各種のデータベースを検索してもヒットがなくなる。

 

 「大韓起業調査局」による朝鮮語の通信教育は、この前後に消滅し、「大韓起業調査局」「大韓起業調査会」という組織もなくなったものと思われる。

 

 日露戦争の時期に、日本の朝鮮半島への経済侵略が本格化していく時期に出された朝鮮語通信教育の学習書。愛媛県の松山を中心に活動していた朝鮮人が何らかの役割を果たしており、しかも一進会との接点もある。さらには、小学校から日本に留学する「早期留学」のケースがあったことなど、興味深い点がある。

 

 語学の学習書については、例文や文法説明だけでなく、時代背景や編纂者の背景などを調べると意外な情報が発掘できるのである。

 1895年1月から7月まで慶應義塾に朝鮮語学校があった。1895年1月8日に授業が始まり、『慶應義塾百年史』によれば、「同年7月に廃校」となっている。しかし、「1895年11月23日撮影」と裏書きされた朝鮮語学校教員・生徒の写真が残されており、これは卒業写真と推測されている。すなわち、7月の廃校は募集停止の決定で、1年の就学という当初のカリキュラムに沿って11月末まで授業が行われ、1回だけの卒業生を出して消滅したものと考えられる。

慶應義塾百年史: 中巻 前慶應義塾百年史: 中巻 前(1960) P.144

前列左から3人目から山崎英夫(講師)、福沢諭吉、小幡篤次郎(塾長)、国分哲(講師)『図説・慶応義塾百年小史 :1858-1958』

 

 慶應義塾の朝鮮語学校の開設については、1894年12月9日付『読売新聞』に記事がある。

 

 この慶應義塾朝鮮語学校開校が報じられた時期は、「日清戦争」の最中で、戦況は日本に有利に展開していた。

 1894年、3月に全羅道で東学教徒が蜂起すると、日本政府は、それまで劣勢であった朝鮮での勢力回復を目論んで清との開戦を画策し始めた。7月に、当時の朝鮮駐在公使大鳥圭介と外務大臣陸奥宗光の種々の策謀によって清との武力衝突を実現させることができ、「日清戦争」が始まった。

 開戦に持ち込んだ日本政府は、朝鮮に対してさらなる影響力を行使するには大鳥圭介では役不足だとして、伊藤博文首相が内務大臣井上馨を口説き落として朝鮮公使として送り込むことにした。10月15日のことである。

 『慶應義塾百年史』には、1881年に憲法制定を巡る対立で大隈重信が下野して以来、福沢諭吉は井上馨と絶交状態にあったが、1892年には両者の関係は修復されており、慶應義塾の朝鮮語学校開設は、朝鮮公使となった井上馨の朝鮮政策を後押ししようとする福沢諭吉の発案によるとされている。

慶應義塾百年史: 中巻(前) P.144

 井上馨は、公使として赴任すると、朝鮮政府の主要官庁に日本人顧問官を置く政策を推進し、朝鮮語学校が開校する1895年1月頃には、すでに40数名の日本人顧問官が朝鮮政府に入り込んでいた。こうした趨勢から、朝鮮語ができる日本人の育成が急務だと考えたのであろう。

 

 日清戦争の当時、日本国内の朝鮮語教育は中断状態であった。

 

 明治維新以後、対朝鮮外交の実務が対馬藩から明治政府に移されると、それまで対馬で受け継がれてきた朝鮮語通詞の養成が問題となった。当初、1872年に対馬厳原に韓語学所が置かれたが、翌年にはこれを廃止して釜山に草梁館語学所を設置し、ここで通詞の養成が行われた。しかし、対馬の独占的な利権が消失したことで朝鮮語通詞の育成も難しくなっていた。ただ、1875年に雲揚号事件が起きて、翌年の江華島における日朝交渉の過程では、対馬の通詞が活躍しており、江華島条約締結後の金綺秀修信使一行の来日にも対馬の通詞や草梁館語学所生が通訳として同行しており、需要がなくなったわけではなかった。

 

 その後1880年になって東京外国語学校に定員25名の朝鮮語学科が設置された。当時、日本は、朝鮮の首都漢陽に官員常駐を認めない朝鮮に対して、公使館の開設を画策して、日朝の外交関係を対馬ー釜山のラインから東京ー漢城のラインに変更しようとしていた。その一環として通詞養成の場も東京に移したものであった。(月脚達彦「朝鮮語 前史」『東京外国語大学史』

 しかし、東京外国語学校は1885年に東京商業学校(87年に高等商業学校に改名)に吸収合併され、その翌年1886年には朝鮮語学科は廃止された。1884年12月の甲申政変で、日本は金玉均・朴泳孝などの主導勢力側についたが、政変の失敗で日本勢力は朝鮮半島から後退せざるを得なくなっていた。

 

 このように、1894年に日清戦争が勃発した時には、日本国内での朝鮮語教育は非常に低調、ほぼないといってもいい状態であった。

 

 そうした中で、12月18日の『朝日新聞』にこのような生徒募集の広告が出された。

 出願は12月25日締め切りで、授業の開始は翌年の1月8日となっている。さらに、黒川俊隆編輯『東京遊學案内』(少年園 1896)(60コマ)には、慶應義塾のところに次のような記載がある。

授業は午後6時から8時まで、就学期間は1年、束修金(=束脩金:入学金)が1円、月謝が五十銭となっている。

 

 翌1895年1月8日に授業が開始され、その1週間後、1月15日付『読売新聞』はこのように伝えている。

 

 この記事では、当初130余名が入学したとなっているが、『慶應義塾百年史』では「最初の月は在学生百十五名であった」となっている。この記事に、「高等商業学校にても同語学を科目中に加ふるやの噂あり」とあるが、この高等商業学校が、1885年に東京外国語学校の朝鮮語学科を吸収し、1886年にこれを廃止した東京商業学校である。

 

 慶應義塾朝鮮語学校で、主任教員として教えたのは、当時朝鮮公使館通訳官山崎英夫であった。山崎英夫については、後の1905年の『駐韓日本公使館記錄』に、

長崎縣平民山崎英夫ナル者ハ能ク韓語ヲ操リ甞テ東京駐箚韓國公使館ニ傭ハレ其後文部省外國語學校敎授京釜鐵道會社事務員タリシモ何トモ或理由ノ下ニ免職トナリ又最近我軍隊通譯トシテ渡韓致タル事モ有之候

第25巻 機密第201号 1905年10月9日   

とある。対馬の市籍(藩士ではない)の通詞の出身で、外務省に出仕した「有用のもの」の一人であったと思われる。もともとは外務省の官員で、そこから朝鮮公使館通訳に転じたものであろう。山崎英夫は、後に、1897年に高等商業学校に附設された付属語学学校の韓語学科の教授に任用され、1899年に東京外語学校として独立した後も2年間教授を勤めている。

 冒頭の卒業写真には、もう一人「講師」として国分哲が前列に写っている。国分哲も対馬の通詞出身で、1880年に釜山の居留地で日本人向けに開設された韓語学舎で朝鮮語を教えており、その後、共立釜山商業学校でも教鞭をとった。慶應義塾朝鮮語学校には途中から教員として加わったのであろう。

 これらに加えて、尹致旿ユンチオ魚允迪オユンジョック朴義秉パクウィビョンの3人が授業の補助を行なった。この3人はいずれも朝鮮からの留学生である。

西沢,直子・王賢鍾「明治期慶應義塾への朝鮮留学生(一)」『近代日本研究』Vol.31, (2014)

 

 当初、慶應義塾朝鮮語学校には、定員を越える生徒が入学したが、授業開始後半年で、生徒数は1/4にまで減少した。

この語学校は開設の最初の月は在学生百十五名であったものが、二月には百一名となり、三月七十七名。四月七十一名、五月五十五名、六月三十五名と漸次に減り、七月には二十六名となった。

『慶應義塾百年史』

 3月に定員の100名を切ったためか、3月末に「臨時募集」をしている。

しかし、それでも生徒数は減り、7月には廃校、今風に言えば「募集停止」を決断した。

 

 1895年に入ると、井上薫が主導する「改革」は、日本からの借款をめぐる陸奥宗光と井上薫の意見対立などで思うようには進まなくなり、朝鮮政府内の対立も深まっており、生徒たちの朝鮮語習得のインセンティブが下がったとも考えられる。特に、5月には三国干渉があって、一時期の朝鮮ブームが下火になったことも大きな要因であろう。同時に、語学校の生徒たちにとって朝鮮語の習得が想定以上に難しかったこともあったのかもしれない。

 

 こうして慶應義塾朝鮮語学校は、1895年11月に19名の生徒の卒業写真を撮って学校としての幕を閉じた。ごく短期間であったが、これが一つの契機となってその後朝鮮語についても学習機関の設置に向けた動きが始まった。

 

 翌年早々、1896年1月13日付けの「外国語学校設立に関する建議案」が貴族院に提出された。

 速に外国語学校を創設し英仏独露を始め伊太利西班牙支那朝鮮等の語学生を育成せむことを要す

 また、衆議院でも「外国語学校設立の建議案」が出された。

魯清韓の如きは将来益々密接の関係を有するものにして今猶其の言語を教授するの学校なく外交も商業も殆んど模索以て之れに応せむとす

といった動きがあり、1897年4月22日の勅令108号で、東京外国語学校は高等商業学校の付属学校として再設置され、韓語学科がおかれた。さらに、1899年には東京外国語学校は分離独立することになった。そして1897年に韓語学科の初代教授となったのが、慶應義塾朝鮮語学校で教えた山崎英夫であり、補助教員であった尹致旿も1899年と1900年の2年間、外国人教師として教壇に立っていた。

 

 すでに日本優越思想に染まりつつも、その後の、朝鮮文化を否定しつつ高圧的な植民地支配を展開する時代に比べれば、朝鮮語への関心や朝鮮文化理解の必要性が多少なりとも存在していた時代の一断面ともいえよう。