『東亜日報』の「洞・町内の名物」では、高宗皇帝が愛飲したり、薬効があったり、由緒正しき井戸が取り上げられている。そのうち二つの井戸を紹介したが、これらは井戸というより、むしろ湧水、韓国で「薬水」と呼ばれているものである。「洞・町内の名物」ではそれ以外の一般の井戸も取り上げられている。
日本の植民地支配下当時は、普通の井戸がたくさんあった。そして、井戸は朝鮮の人々の生活では、まさにライフラインの一つだった。
植民地統治下で出された絵葉書の中に井戸の写真が残されている。
この絵葉書では、後ろに北岳山が見えており、景福宮の東側、建春門の手前のところであろう。
下の写真もそうだが、ここに写っている人は水売りを商売にしている人であろう。
こちらは庶民の井戸利用を撮ったもの。
『ソウル上水道100年史』より
1934年に封切られた映画「青春の十字路(청춘의 십자로)」にも井戸の場面がある(無声映画で音は入ってない)。
これは、田舎での生活を回想する場面だが、そんなに京城から遠い場所で撮影されたものではなかろう。
こちらは、京城の街中の井戸での撮影だと思われるが、場所は特定できない。
ところで、『東亜日報』で「洞・町内の名物」を連載していた当時の1924年頃には、京城府内では上水道がある程度普及していた。
併合前の大韓帝国時代の1903年に、二人のアメリカ人に纛島(現在の뚝섬)における公設上水道の施設・経営に関する特許が与えられた。これが上水道事業の始まりである。漢城の日本人居留民団は、南山に簡易の水道施設を作って自分たちの居住地域を中心に運用していた。併合後、朝鮮総督府は纛島の水道公社を買収し、1911年に京畿道の道営による水道事業が始められた。
京畿道の水道事業は、1922年に京城府に移管されて京城府営の水道となった。
京城府では、上水道の整備を進めたのだが、同じ京城の中でも地域によって片寄りがあった。水道管の埋設は内地人の居住区を中心に進められ、利用者も日本人世帯が中心であった。
『ソウル上水道100年史』より
朝鮮總督府『朝鮮土木事業誌』1930
1924年の3月3日の『東亜日報』にこのような記事が出ている。
このデータは、雑誌『開闢』の記事にも使われている。水道を使用する日本人戸数が朝鮮人の戸数のほぼ2倍というばかりでなく、日本人住居では「専用水道」「私設公用」が多いのに対して、朝鮮人の水道使用は多くが「公設公用」であった。
中間人「外人의 勢力으로 觀한 朝鮮人 京城」『開闢』第48号(1924年6月1日)
京城の水道事業が、京畿道から京城府に移管された1922年、水道計量制が導入されて、使用量に応じた料金が付加されることになった。水道メータの取り付けが完了する1924年3月から導入するとされた。
この新たな従量制の料金体系では、専用栓水道と私設共用栓はそれまでの建坪あたりで徴収していた料金とはほぼ増減がないとされたが、公設公用栓については1㎥について新たに12銭を徴収するとなっている。
すなわち、この水道計量制の導入で、貧しい朝鮮人はますます井戸に依存せざるを得なくなったというわけである(金白永「京城の都市衛生問題と上下水道の空間政治」『環日本海研究年報』 (17), 2-27, 2010-03)。
上水道の利用者は、8割強が日本人、朝鮮人は2割弱に過ぎなかった。多くの朝鮮人は井戸や河川を利用していた。飲料用の水も井戸から汲み上げていたが、『東亜日報』の記事が書かれた1924年の段階で、京城の井戸水の水質は悪化が進んでいた。京城府内の管轄警察署が調査した結果を『東亜日報』が報じている。
京畿道衛生部では10月初旬から11月6日まで、府内の井戸を検査した結果、
検査数 適 否 本町署管内 742 201 541 鍾路署管内 258 147 111 東大門署管内 98 57 41 西大門署管内 567 180 387 龍山署管内 226 177 49 合計 1891 762 1129 このように、2/3が飲めない水質不良となっており、これについて衛生課長は、「下水溝の多いところが水質が悪く、中でも黄金町通や義州通沿いの井戸はアンモニアや泥が混入して、その水で炊飯もできない一方、龍山方面や東大門、本町のようなところでは比較的検査結果が良い。再度実施調査をして飲料水の水質改善を図るとともに上水道の普及を図りたい」と語った。
こうした水質悪化は、汚物処理の不十分性によるものといえる。この当時の便所は全て汲み取り式で、水洗式はまだない。従って、糞尿の汲み取り・搬出が滞ることになれば、それらは生活排水などとともに地表面の下水溝から地下に浸透して地下水が汚染されていく。急激に人口が増加していく京城の糞尿処理は京城府の大きな負担となっており、恒常的に処理が追いつかない状態にあった。
京城の便所事情と屎尿処理(1)
京城の便所事情と屎尿処理(2)
その不十分な糞尿処理のしわ寄せは、朝鮮人の居住地区の汲み取りの停滞をもたらした。上述の雑誌『開闢』には、1924年頃の「大小便運搬」データが掲載されている。
中間人「外人의 勢力으로 觀한 朝鮮人 京城」『開闢』第48号(1924年6月1日)
ここで「北部」とあるのは朝鮮人居住区であり、「南部」は日本人の居住区である。明らかに汲み取られる糞尿の量や運搬馬車数に差があり、人口を勘案すれば非常に大きな差があったことがわかる。
これが、朝鮮人居住地区での地下水の汚染につながり、朝鮮人地区のライフラインであった井戸水が飲料には不適切な水質にまで悪化した原因の一つとなったのであろう。
高貴な人が愛飲した由緒正しき井戸が『東亜日報』に掲載されたのをきっかけに、京城府民の日常の井戸と上水道についても考えてみた。
拡大していく都市では常に様々な問題が起きるのは当然であろう。しかし、植民地朝鮮の中心地京城においては、日本人居住区の問題解消のために、朝鮮人居住区にしわ寄せが押し付けられていたという側面のあったことがくっきりと浮かび上がってくる。