慶應義塾の朝鮮語学校 | 一松書院のブログ

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 1895年1月から7月まで慶應義塾に朝鮮語学校があった。1895年1月8日に授業が始まり、『慶應義塾百年史』によれば、「同年7月に廃校」となっている。しかし、「1895年11月23日撮影」と裏書きされた朝鮮語学校教員・生徒の写真が残されており、これは卒業写真と推測されている。すなわち、7月の廃校は募集停止の決定で、1年の就学という当初のカリキュラムに沿って11月末まで授業が行われ、1回だけの卒業生を出して消滅したものと考えられる。

慶應義塾百年史: 中巻 前慶應義塾百年史: 中巻 前(1960) P.144

前列左から3人目から山崎英夫(講師)、福沢諭吉、小幡篤次郎(塾長)、国分哲(講師)『図説・慶応義塾百年小史 :1858-1958』

 

 慶應義塾の朝鮮語学校の開設については、1894年12月9日付『読売新聞』に記事がある。

 

 この慶應義塾朝鮮語学校開校が報じられた時期は、「日清戦争」の最中で、戦況は日本に有利に展開していた。

 1894年、3月に全羅道で東学教徒が蜂起すると、日本政府は、それまで劣勢であった朝鮮での勢力回復を目論んで清との開戦を画策し始めた。7月に、当時の朝鮮駐在公使大鳥圭介と外務大臣陸奥宗光の種々の策謀によって清との武力衝突を実現させることができ、「日清戦争」が始まった。

 開戦に持ち込んだ日本政府は、朝鮮に対してさらなる影響力を行使するには大鳥圭介では役不足だとして、伊藤博文首相が内務大臣井上馨を口説き落として朝鮮公使として送り込むことにした。10月15日のことである。

 『慶應義塾百年史』には、1881年に憲法制定を巡る対立で大隈重信が下野して以来、福沢諭吉は井上馨と絶交状態にあったが、1892年には両者の関係は修復されており、慶應義塾の朝鮮語学校開設は、朝鮮公使となった井上馨の朝鮮政策を後押ししようとする福沢諭吉の発案によるとされている。

慶應義塾百年史: 中巻(前) P.144

 井上馨は、公使として赴任すると、朝鮮政府の主要官庁に日本人顧問官を置く政策を推進し、朝鮮語学校が開校する1895年1月頃には、すでに40数名の日本人顧問官が朝鮮政府に入り込んでいた。こうした趨勢から、朝鮮語ができる日本人の育成が急務だと考えたのであろう。

 

 日清戦争の当時、日本国内の朝鮮語教育は中断状態であった。

 

 明治維新以後、対朝鮮外交の実務が対馬藩から明治政府に移されると、それまで対馬で受け継がれてきた朝鮮語通詞の養成が問題となった。当初、1872年に対馬厳原に韓語学所が置かれたが、翌年にはこれを廃止して釜山に草梁館語学所を設置し、ここで通詞の養成が行われた。しかし、対馬の独占的な利権が消失したことで朝鮮語通詞の育成も難しくなっていた。ただ、1875年に雲揚号事件が起きて、翌年の江華島における日朝交渉の過程では、対馬の通詞が活躍しており、江華島条約締結後の金綺秀修信使一行の来日にも対馬の通詞や草梁館語学所生が通訳として同行しており、需要がなくなったわけではなかった。

 

 その後1880年になって東京外国語学校に定員25名の朝鮮語学科が設置された。当時、日本は、朝鮮の首都漢陽に官員常駐を認めない朝鮮に対して、公使館の開設を画策して、日朝の外交関係を対馬ー釜山のラインから東京ー漢城のラインに変更しようとしていた。その一環として通詞養成の場も東京に移したものであった。(月脚達彦「朝鮮語 前史」『東京外国語大学史』

 しかし、東京外国語学校は1885年に東京商業学校(87年に高等商業学校に改名)に吸収合併され、その翌年1886年には朝鮮語学科は廃止された。1884年12月の甲申政変で、日本は金玉均・朴泳孝などの主導勢力側についたが、政変の失敗で日本勢力は朝鮮半島から後退せざるを得なくなっていた。

 

 このように、1894年に日清戦争が勃発した時には、日本国内での朝鮮語教育は非常に低調、ほぼないといってもいい状態であった。

 

 そうした中で、12月18日の『朝日新聞』にこのような生徒募集の広告が出された。

 出願は12月25日締め切りで、授業の開始は翌年の1月8日となっている。さらに、黒川俊隆編輯『東京遊學案内』(少年園 1896)(60コマ)には、慶應義塾のところに次のような記載がある。

授業は午後6時から8時まで、就学期間は1年、束修金(=束脩金:入学金)が1円、月謝が五十銭となっている。

 

 翌1895年1月8日に授業が開始され、その1週間後、1月15日付『読売新聞』はこのように伝えている。

 

 この記事では、当初130余名が入学したとなっているが、『慶應義塾百年史』では「最初の月は在学生百十五名であった」となっている。この記事に、「高等商業学校にても同語学を科目中に加ふるやの噂あり」とあるが、この高等商業学校が、1885年に東京外国語学校の朝鮮語学科を吸収し、1886年にこれを廃止した東京商業学校である。

 

 慶應義塾朝鮮語学校で、主任教員として教えたのは、当時朝鮮公使館通訳官山崎英夫であった。山崎英夫については、後の1905年の『駐韓日本公使館記錄』に、

長崎縣平民山崎英夫ナル者ハ能ク韓語ヲ操リ甞テ東京駐箚韓國公使館ニ傭ハレ其後文部省外國語學校敎授京釜鐵道會社事務員タリシモ何トモ或理由ノ下ニ免職トナリ又最近我軍隊通譯トシテ渡韓致タル事モ有之候

第25巻 機密第201号 1905年10月9日   

とある。対馬の市籍(藩士ではない)の通詞の出身で、外務省に出仕した「有用のもの」の一人であったと思われる。もともとは外務省の官員で、そこから朝鮮公使館通訳に転じたものであろう。山崎英夫は、後に、1897年に高等商業学校に附設された付属語学学校の韓語学科の教授に任用され、1899年に東京外語学校として独立した後も2年間教授を勤めている。

 冒頭の卒業写真には、もう一人「講師」として国分哲が前列に写っている。国分哲も対馬の通詞出身で、1880年に釜山の居留地で日本人向けに開設された韓語学舎で朝鮮語を教えており、その後、共立釜山商業学校でも教鞭をとった。慶應義塾朝鮮語学校には途中から教員として加わったのであろう。

 これらに加えて、尹致旿ユンチオ魚允迪オユンジョック朴義秉パクウィビョンの3人が授業の補助を行なった。この3人はいずれも朝鮮からの留学生である。

西沢,直子・王賢鍾「明治期慶應義塾への朝鮮留学生(一)」『近代日本研究』Vol.31, (2014)

 

 当初、慶應義塾朝鮮語学校には、定員を越える生徒が入学したが、授業開始後半年で、生徒数は1/4にまで減少した。

この語学校は開設の最初の月は在学生百十五名であったものが、二月には百一名となり、三月七十七名。四月七十一名、五月五十五名、六月三十五名と漸次に減り、七月には二十六名となった。

『慶應義塾百年史』

 3月に定員の100名を切ったためか、3月末に「臨時募集」をしている。

しかし、それでも生徒数は減り、7月には廃校、今風に言えば「募集停止」を決断した。

 

 1895年に入ると、井上薫が主導する「改革」は、日本からの借款をめぐる陸奥宗光と井上薫の意見対立などで思うようには進まなくなり、朝鮮政府内の対立も深まっており、生徒たちの朝鮮語習得のインセンティブが下がったとも考えられる。特に、5月には三国干渉があって、一時期の朝鮮ブームが下火になったことも大きな要因であろう。同時に、語学校の生徒たちにとって朝鮮語の習得が想定以上に難しかったこともあったのかもしれない。

 

 こうして慶應義塾朝鮮語学校は、1895年11月に19名の生徒の卒業写真を撮って学校としての幕を閉じた。ごく短期間であったが、これが一つの契機となってその後朝鮮語についても学習機関の設置に向けた動きが始まった。

 

 翌年早々、1896年1月13日付けの「外国語学校設立に関する建議案」が貴族院に提出された。

 速に外国語学校を創設し英仏独露を始め伊太利西班牙支那朝鮮等の語学生を育成せむことを要す

 また、衆議院でも「外国語学校設立の建議案」が出された。

魯清韓の如きは将来益々密接の関係を有するものにして今猶其の言語を教授するの学校なく外交も商業も殆んど模索以て之れに応せむとす

といった動きがあり、1897年4月22日の勅令108号で、東京外国語学校は高等商業学校の付属学校として再設置され、韓語学科がおかれた。さらに、1899年には東京外国語学校は分離独立することになった。そして1897年に韓語学科の初代教授となったのが、慶應義塾朝鮮語学校で教えた山崎英夫であり、補助教員であった尹致旿も1899年と1900年の2年間、外国人教師として教壇に立っていた。

 

 すでに日本優越思想に染まりつつも、その後の、朝鮮文化を否定しつつ高圧的な植民地支配を展開する時代に比べれば、朝鮮語への関心や朝鮮文化理解の必要性が多少なりとも存在していた時代の一断面ともいえよう。