2019年の大晦日は、ソウルの江南のホテルの部屋で早めにベットに入った。夜中に、ラインの着信音がうるさく鳴り出したので、「ああ、2020年になったのかな」「消音にしておくべきだったなぁ」と思いながらまた眠った。
翌日1月1日、韓国人の卒業生たちと車で早朝6時にソウルを出発して全羅南道の南端まで行った。高速道路を走っていても帰省ラッシュがあるでもなく、途中立ち寄ったSAやマーケットでも新年らしい雰囲気は感じられなかった。1月1日は祭日だが、翌2日は平日。韓国で働いている卒業生は、2日は有給休暇をとってつきあってくれたが、その日のうちにソウルに戻って3日からは出勤した。
2020年1月の韓国カレンダー↓
韓国の「正月」は、太陽暦(以下「陽暦」)の1月1日ではなく、太陰暦(以下「陰暦」)の1月1日を「ソルラル」として正月を祝っていることは、中国の「春節」やベトナムの「テト」と同じように、すでに広く知られるようになっている。
韓国の今年のカレンダーを見てみると、「신정(新正)」と表記された1月1日は1日だけの祭日で、24日から27日までが4連休の表示になっている。25日が「陰1.1 설날」、そして27日は「대체휴일(代替休日)」。26日が日曜と重なったための振り替え休日である。この4日間がいわゆる「正月休み」である。
思い返してみると、私が最初にソウルで暮らしていた1980年代の前半、あの頃も正月らしい雰囲気になるのは、陽暦の1月1日ではなく、陰暦の1月1日であった。陽暦の正月が「新正」と呼ばれて3連休だったのに対し、陰暦の1月1日は「旧正」と呼ばれていた。ただ、「旧正」は祭日ではなかった。祭日ではないにもかかわらず、帰省のために高速バスや列車は混み合い、多くの店は休業し、食堂も多くは閉店。いつも大渋滞のソウル市内は車がいなくなって青空が広がっていた。
そんなことを考えていて思い出したのが、2001年の1月21日にSBSが放映した正月ドラマ「먼길(遠い路)」。2005年と06年にNHKが放送したことがある(今でもSBS VODで観られる)。
正月の帰省ラッシュの清涼里駅の前で、ウシック(イ・ビョンホン)は切符が買えなかった帰省客を狙って白タク営業をしようと声をかけていた。事情があって帰省を躊躇していた郵便局員のソンジュ(パク・チニ)は、ウシックの白タクで故郷の東海に帰省することにする。
そのドラマの中で、故郷で待っているソンジュのアボジが仕事をしている漁師にこんなことをいう場面がある。
「お前さんら、正月にも仕事をするのかい。 … 暦をみてみなよ、今日から(明日、明後日と)赤くなってるんだよ」
確かに2001年の暦をみると、陽暦の1月1日は1日だけの祭日で、陰暦の1月1日(24日)の前後は3連休になっている。もう、この時には「旧正」とは言わずに「ソルラル」といわれるようになっていた。
陰暦の1月1日が初めて祭日に指定されたのは1985年のこと。全斗煥政権の時代である。しかし、この時は陰暦の1月1日(陽暦2月20日)は「ソル(正月)」ではなく、「民俗の日」とされた。政府の立場は、あくまでも陽暦の1月1日が「正月」ということだったからである。
「正月」ではなくて「民俗の日」だとされた陰暦1月1日が「正月」として認定され、さらに、この日の前後が3連休として「正月休み」になっていったのは、盧泰愚政権の1990年代になってからのことであった。
ところで、韓国の陰暦の正月については、「日本統治下で正月が陽暦の1月1日にされた」ため陰暦の正月に固執しているという解説がよく見受けられる。
朝鮮王朝の末期、陽暦を採用することを決定したのは1895年10月26日(陰暦9月9日)。日本公使三浦梧楼らが謀議して親露派の閔妃を殺害する事件が起きた10月8日の余波が収まっていない中、金弘集内閣が決定したものである。これによって、陰暦の11月17日が、陽暦(グレゴリオ暦)の1896年1月1日とされた。
日本では、1872年11月9日に陽暦採用が決定され、陰暦の12月3日を陽暦の1月1日とした。しかし、朝鮮よりも先行して陽暦を導入した日本でも、国民生活の全てが陽暦に移行したわけではなかった。農村部では正月は陰暦の正月でやっていたし、金融界や経済界では旧正月明けの動向が注目されていた。
戦後の日本でも、1960年代までは農村部では正月は陰暦で祝われていた。
つまり、戦前・戦中・戦後において「日本は陽暦、朝鮮は陰暦」という図式は必ずしも成り立たない。
しかし、植民地統治下の朝鮮に在住する日本人は、内地の日本人よりも陽暦の使用に積極的であったように思われる。近代西欧の事物に親和的であるという「外地の日本人」の特性からくるものなのかもしれない。
その結果、朝鮮においては、かなり早い時期から「内地人は陽暦、朝鮮人は陰暦」という図式ができ上がったと考えられる。
朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙『毎日申報』には、1930年の旧正月の記事が掲載されている。
朝鮮人の中心街、鍾路では年賀の挨拶のために朝鮮の男女がひっきりなしに行き交っていると描写しながら、「二重過歳」であるとまとめている。「二重過歳」とは、新旧の二つの正月で年越しをすることをいうもので、どちらかというと否定的ニュアンスで使われる。
一方、日本語の機関紙『京城日報』の同じ日の紙面には旧正月に関する記事はない。ただ、1面下段にこのような広告が掲載されている。
雅叙園は、華僑の徐廣彬が黄金町一丁目に開いていた中華レストランで、妓生がいて高位高官や財界人が人力車や車で乗り付けるような高級店だった。その店が、旧正月で9日間休業するという広告を出している。
京城で発行されていた『朝鮮新聞』では、1932年の旧正月の時期に、朝鮮人に関するこのような記事を掲載している。
この頃には、「内地人は陽暦の正月、朝鮮人は陰暦の正月」という観念があって、二つの正月が並存していたのであろう。
ところが、1936年からは大きく様相が変化する。この1936年の年末年始から、「二重過歳」は無駄が多いとして、正月を陽暦の正月に一本化する政策を打ち出した。その結果、陰暦の正月、すなわち朝鮮人の正月は、強権的に規制されることになった。
日中戦争から太平洋戦争へという日本が軍国主義にのめり込んでいく時代に、「国語(日本語)常用」「神社参拝強制」「創氏改名」「募集・官斡旋・徴用による労働力収奪」「朝鮮人徴兵制実施」など、日本の戦争遂行のための植民地収奪強化の中で、陰暦1月1日の「朝鮮人の正月」も奪われていったのである。
1945年に植民地から解放された朝鮮では、北緯38度線以南の米軍政庁管轄区域で陽暦の1月1日が祭日とされた。
しかし、一般大衆は陰暦の正月を祝っていた。
1948年8月に大韓民国が建国された後も、韓国政府の公式的な立場は、陽暦の正月が「正月」であった。
すなわち、政権が祭日に指定した公式の正月(陽暦)と、庶民レベルでの「名節」としての正月(陰暦)がズレていて、正月が2回あるかたちになっていたのである。これは、日本の植民地支配下で「二重過歳」として、その弊害が強調されてきたものと同じパターンである。
李承晩政権下では、与党の自由党から、陰暦正月を「頌春節」にする案が出されたが立ち消えになった。朴正煕政権時代になってからも、国会で陰暦正月を「敬祖日」とする提案がなされたが保留になった(『京郷新聞』1965年2月1日「余滴」)という。
このような経緯だけをみると、韓国の執権者は、陰暦に対して否定的であるように見えるが、そうではない。韓国では、出生届を陰暦でも出すことができた。特に1950年代の朝鮮戦争後のベビーブーム世代(1955〜1963年生まれ)には、誕生日が陰暦である人が多くいる。こうした陰暦誕生日の人は、陽暦だと誕生日が毎年変わることになる。それに、住民登録証の番号は陽暦の生年月日が組み込まれるので、非常にややこしいことになっていた。この混乱は、今でも尾をひいている。
年齢の数え方についても、韓国人の年齢は満年齢よりも1〜2歳多い。「韓国式年齢」のように表現されるが、これは東アジアで一般的だった陰暦基準の年齢算出方式で、日本でも「数え年」といわれて60〜70年前までは普通に行われていた。誕生した時点で1歳。そして陰暦の正月を迎えると2歳。その後陰暦の正月ごとに歳を重ねていく。従って、誕生した日に歳をとっていくのではなく、陰暦の正月に歳が加わっていく。だから、正月には歳を加えた人同士が互いに「おめでとう」と言い合うのだが、陽暦の正月になってしまった日本でも、「おめでとう」という習慣だけが残っている。
このように韓国社会は陰暦に対して幅広く許容してきたのだが、正月だけはかたくなに陽暦の正月を連休にして、陰暦の1月1日については祭日とすることを拒んできた。
朴正煕政権下でも、帰省したり、年賀をするのは、陰暦の正月であった。祭日にはなっていないにもかかわらず、多くの人は仕事を休み、雇用する側でも休業するのが常態であった。
新正月よりも旧正月を祝う(小学生の家庭調査結果)
陰暦の正月は平日扱いなので公務員だけは執務をしなければならなかった。それ以外にも国民生活に様々な影響を及ぼすこともあり、陰暦正月を休日にする問題は繰り返し提起されてきた。
朴正煕政権時代の末期、旧暦正月の祭日化案が閣議にかけられるところまでいったことがあった。しかし、経済問題などから反対論が出て、この案は立ち消えになった。『朝日新聞』は、独裁体制の厳しい言論統制下で「旧正月公休化論争」が起きていると、皮肉っぽくソウル特派員の記事を伝えている。
結局、朴正煕政権のもとでは、陰暦正月の祭日化は実現しないまま全斗煥政権の時代になった。
そして、上述のように、全斗煥政権下の1985年、陰暦1月1日が「民俗の日」として初めて祭日になったのである。
実は、全斗煥大統領は、就任直後に、陰暦正月の祭日化に否定的なこのような発言をしていた。
1981年11月23日『東亜日報』
「新正月は旧韓末の高宗の時に決定した制度」
◇休暇を兼ねて忠清南道地域に立ち寄った全斗煥大統領は、22日、管内の有志との午餐会で、旧正月の祭日指定の要請がなされると次のように答えた。「調査の結果、今の新正月は日本の植民地支配下で始まったものではなく旧韓末の高宗の時に決定した制度であり、世界各国が新正月を祝っており、休日が増えると経済や安全保障の問題も大きくなるので現状のままが好ましい」と政府の立場を再度明らかにした。
全大統領は、「日本も100年かかって新正月に移行したもので、我々も20年もすれば新正月が完全に定着するだろう」とし、「陰暦を使わなければ占いのような旧習もなくなっていくだろう」と語った。
この全斗煥大統領の発言は、いろいろな意味で強い反発を招いた。
結局、この時の不用意な発言によって、「20年もすれば陽暦の正月が定着する」と語った全斗煥大統領自身が、陰暦1月1日を祭日とせざるを得なくなったといえよう。「ソルラル(正月)」ではない、「民俗の日」だとしたのは、せめてもの抵抗なのであろう。
1988年に盧泰愚大統領が就任すると、翌1989年の陰暦1月1日からは「ソルラル(正月)」としての祭日とされ、2日連休となった。

光州MBCは、やっと正式の「正月」として認定されたこの1989年のソルラルを回想したこんな動画をYouTubeにアップしている(フル動画구정에서 설날로 바뀐 1989년, 옛날 명절의 모습은 어땠을까?)。
この動画では、「ソルラルは3日間の連休」と言っているが、この時は、祭日は「新正」が3日、「ソルラル」が2日であった。たまたまこの年は陰暦1月1日の前日が日曜日だったため3連休となった。
それが1990年には、「新正」の連休が2日に短縮され、「ソルラル」は3日間に拡張された。
1991年は、新正は2連休、ソルラルは2月14日から16日に加えて17日が日曜日だったため4連休となった。
今や、韓国の内外で、韓国の正月は陰暦1月1日「ソルラル」ということになっているが、それが定着し始めたのは1990年代に入ってからのことであった。
1999年からは、「新正」が1日だけの休みに縮小された。ただ、この時は、2連休を急に1日に短縮すると弊害があり得るとして、ひとまず公務員についてだけ先行して短縮し、一般の企業体などについては「新正」は1日だけの休日が「望ましい」とされた。
2000年と2001年で様々な業界で「新正」は1日だけの休みとなり、これ以降、陽暦の1月1日は1日だけの休日、陰暦の1月1日は前後合わせて3連休、そして2014年以降は、日曜と重なった場合は振り替え休日が1日加えられるというパターンになったのである。
上掲の2001年のソルラルに放映された「遠い路」は、そんな時期に作成されたドラマだったのである。
日本の植民地統治の末期、「二重過歳」の弊害を口実に、1930年代前半まで朝鮮人が自分たちの正月として祝ってきた陰暦の正月が排除されるようになった。
しかし、解放後に建国された大韓民国でも、権力者たちは、経済合理主義を掲げたり開発独裁を進めるために「二重過歳」を廃すべきだととして陽暦の正月への一本化を推進しようとしてきた。そのため、陰暦の1月1日を「自分たちの正月」として祝おうとする市民層、庶民層との間ではせめぎあいが起きていた。
陰暦の1月1日を「ソルラル」とするのは、「伝統」への回帰ではあるものの、「民衆の正月」を認めようとしない権力に「正月」を公認させるという意味で、反独裁の側面も内包していたともみられる。
『朝日新聞』の特派員が、「(旧正月公休日の)論争に刺激されて自主的に旧正月を楽しもうという反骨派がかえって増えた」と書いたのも、維新体制下での動きに注目したものであろう。
特に、「20年経てば新正月が定着する」と豪語した全斗煥大統領が、4年後には陰暦1月1日を祭日にせざるを得なくなったことは興味深い。その後の「民主化宣言」、そして政権交代後の1990年代の陽暦正月から陰暦正月へという急激な流れは、単なる「暦の上」の問題ではなく、韓国社会の底流にあるアイデンティティのありようを示すものではあるまいか。



















































