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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 2019年の大晦日は、ソウルの江南カンナムのホテルの部屋で早めにベットに入った。夜中に、ラインの着信音がうるさく鳴り出したので、「ああ、2020年になったのかな」「消音にしておくべきだったなぁ」と思いながらまた眠った。

 翌日1月1日、韓国人の卒業生たちと車で早朝6時にソウルを出発して全羅南道チョルラナムドの南端まで行った。高速道路を走っていても帰省ラッシュがあるでもなく、途中立ち寄ったSAやマーケットでも新年らしい雰囲気は感じられなかった。1月1日は祭日だが、翌2日は平日。韓国で働いている卒業生は、2日は有給休暇をとってつきあってくれたが、その日のうちにソウルに戻って3日からは出勤した。

2020年1月の韓国カレンダー

 韓国の「正月」は、太陽暦(以下「陽暦」)の1月1日ではなく、太陰暦(以下「陰暦」)の1月1日を「ソルラル」として正月を祝っていることは、中国の「春節チュンジエ」やベトナムの「テト」と同じように、すでに広く知られるようになっている。

 

 韓国の今年のカレンダーを見てみると、「신정シンジョン(新正)」と表記された1月1日は1日だけの祭日で、24日から27日までが4連休の表示になっている。25日が「陰1.1 설날ソルラル」、そして27日は「대체휴일テチェヒュイル(代替休日)」。26日が日曜と重なったための振り替え休日である。この4日間がいわゆる「正月休み」である。

 

 思い返してみると、私が最初にソウルで暮らしていた1980年代の前半、あの頃も正月らしい雰囲気になるのは、陽暦の1月1日ではなく、陰暦の1月1日であった。陽暦の正月が「新正シンジョン」と呼ばれて3連休だったのに対し、陰暦の1月1日は「旧正クジョン」と呼ばれていた。ただ、「旧正」は祭日ではなかった。祭日ではないにもかかわらず、帰省のために高速バスや列車は混み合い、多くの店は休業し、食堂も多くは閉店。いつも大渋滞のソウル市内は車がいなくなって青空が広がっていた。

 

 そんなことを考えていて思い出したのが、2001年の1月21日にSBSが放映した正月ドラマ「먼길モーンギル(遠い路)」。2005年と06年にNHKが放送したことがある(今でもSBS VODで観られる)。
 正月の帰省ラッシュの清涼里駅の前で、ウシック(イ・ビョンホン)は切符が買えなかった帰省客を狙って白タク営業をしようと声をかけていた。事情があって帰省を躊躇していた郵便局員のソンジュ(パク・チニ)は、ウシックの白タクで故郷の東海トンヘに帰省することにする。

 そのドラマの中で、故郷で待っているソンジュのアボジが仕事をしている漁師にこんなことをいう場面がある。

「お前さんら、正月にも仕事をするのかい。 … 暦をみてみなよ、今日から(明日、明後日と)赤くなってるんだよ」

 確かに2001年の暦をみると、陽暦の1月1日は1日だけの祭日で、陰暦の1月1日(24日)の前後は3連休になっている。もう、この時には「旧正」とは言わずに「ソルラル」といわれるようになっていた。

 

 陰暦の1月1日が初めて祭日に指定されたのは1985年のこと。全斗煥チョンドゥファン政権の時代である。しかし、この時は陰暦の1月1日(陽暦2月20日)は「ソル(正月)」ではなく、「民俗の日ミンソゲナル」とされた。政府の立場は、あくまでも陽暦の1月1日が「正月」ということだったからである。

 

 「正月」ではなくて「民俗の日」だとされた陰暦1月1日が「正月」として認定され、さらに、この日の前後が3連休として「正月休み」になっていったのは、盧泰愚ノテウ政権の1990年代になってからのことであった。


 

 ところで、韓国の陰暦の正月については、「日本統治下で正月が陽暦の1月1日にされた」ため陰暦の正月に固執しているという解説がよく見受けられる。

 

 朝鮮王朝の末期、陽暦を採用することを決定したのは1895年10月26日(陰暦9月9日)。日本公使三浦梧楼らが謀議して親露派の閔妃ミンビ を殺害する事件が起きた10月8日の余波が収まっていない中、金弘集キムホンジプ内閣が決定したものである。これによって、陰暦の11月17日が、陽暦(グレゴリオ暦)の1896年1月1日とされた。

 

 日本では、1872年11月9日に陽暦採用が決定され、陰暦の12月3日を陽暦の1月1日とした。しかし、朝鮮よりも先行して陽暦を導入した日本でも、国民生活の全てが陽暦に移行したわけではなかった。農村部では正月は陰暦の正月でやっていたし、金融界や経済界では旧正月明けの動向が注目されていた。

 戦後の日本でも、1960年代までは農村部では正月は陰暦で祝われていた。

 つまり、戦前・戦中・戦後において「日本は陽暦、朝鮮は陰暦」という図式は必ずしも成り立たない。

 

 しかし、植民地統治下の朝鮮に在住する日本人は、内地の日本人よりも陽暦の使用に積極的であったように思われる。近代西欧の事物に親和的であるという「外地の日本人」の特性からくるものなのかもしれない。

 その結果、朝鮮においては、かなり早い時期から「内地人は陽暦、朝鮮人は陰暦」という図式ができ上がったと考えられる。

 

 朝鮮総督府の朝鮮語の機関紙『毎日申報』には、1930年の旧正月の記事が掲載されている。

 朝鮮人の中心街、鍾路では年賀の挨拶のために朝鮮の男女がひっきりなしに行き交っていると描写しながら、「二重過歳」であるとまとめている。「二重過歳」とは、新旧の二つの正月で年越しをすることをいうもので、どちらかというと否定的ニュアンスで使われる。

 

 一方、日本語の機関紙『京城日報』の同じ日の紙面には旧正月に関する記事はない。ただ、1面下段にこのような広告が掲載されている。

 雅叙園は、華僑の徐廣彬が黄金町一丁目に開いていた中華レストランで、妓生キーセンがいて高位高官や財界人が人力車や車で乗り付けるような高級店だった。その店が、旧正月で9日間休業するという広告を出している。

 京城で発行されていた『朝鮮新聞』では、1932年の旧正月の時期に、朝鮮人に関するこのような記事を掲載している。

 

 この頃には、「内地人は陽暦の正月、朝鮮人は陰暦の正月」という観念があって、二つの正月が並存していたのであろう。

 

 ところが、1936年からは大きく様相が変化する。この1936年の年末年始から、「二重過歳」は無駄が多いとして、正月を陽暦の正月に一本化する政策を打ち出した。その結果、陰暦の正月、すなわち朝鮮人の正月は、強権的に規制されることになった。

 日中戦争から太平洋戦争へという日本が軍国主義にのめり込んでいく時代に、「国語(日本語)常用」「神社参拝強制」「創氏改名」「募集・官斡旋・徴用による労働力収奪」「朝鮮人徴兵制実施」など、日本の戦争遂行のための植民地収奪強化の中で、陰暦1月1日の「朝鮮人の正月」も奪われていったのである。

 


 

 1945年に植民地から解放された朝鮮では、北緯38度線以南の米軍政庁管轄区域で陽暦の1月1日が祭日とされた。

 しかし、一般大衆は陰暦の正月を祝っていた。

 

 1948年8月に大韓民国が建国された後も、韓国政府の公式的な立場は、陽暦の正月が「正月」であった。

 すなわち、政権が祭日に指定した公式の正月(陽暦)と、庶民レベルでの「名節ミョンジョル」としての正月(陰暦)がズレていて、正月が2回あるかたちになっていたのである。これは、日本の植民地支配下で「二重過歳」として、その弊害が強調されてきたものと同じパターンである。

 

 李承晩イスンマン政権下では、与党の自由党から、陰暦正月を「頌春節ソンチュンジョル」にする案が出されたが立ち消えになった。朴正煕パクチョンヒ政権時代になってからも、国会で陰暦正月を「敬祖日キョンジョイル」とする提案がなされたが保留になった(『京郷新聞』1965年2月1日「余滴」)という。

 

 このような経緯だけをみると、韓国の執権者は、陰暦に対して否定的であるように見えるが、そうではない。韓国では、出生届を陰暦でも出すことができた。特に1950年代の朝鮮戦争後のベビーブーム世代(1955〜1963年生まれ)には、誕生日が陰暦である人が多くいる。こうした陰暦誕生日の人は、陽暦だと誕生日が毎年変わることになる。それに、住民登録証の番号は陽暦の生年月日が組み込まれるので、非常にややこしいことになっていた。この混乱は、今でも尾をひいている。

 年齢の数え方についても、韓国人の年齢は満年齢よりも1〜2歳多い。「韓国式年齢」のように表現されるが、これは東アジアで一般的だった陰暦基準の年齢算出方式で、日本でも「数え年」といわれて60〜70年前までは普通に行われていた。誕生した時点で1歳。そして陰暦の正月を迎えると2歳。その後陰暦の正月ごとに歳を重ねていく。従って、誕生した日に歳をとっていくのではなく、陰暦の正月に歳が加わっていく。だから、正月には歳を加えた人同士が互いに「おめでとう」と言い合うのだが、陽暦の正月になってしまった日本でも、「おめでとう」という習慣だけが残っている。

 

 このように韓国社会は陰暦に対して幅広く許容してきたのだが、正月だけはかたくなに陽暦の正月を連休にして、陰暦の1月1日については祭日とすることを拒んできた。

 

 朴正煕政権下でも、帰省したり、年賀をするのは、陰暦の正月であった。祭日にはなっていないにもかかわらず、多くの人は仕事を休み、雇用する側でも休業するのが常態であった。

新正月よりも旧正月を祝う(小学生の家庭調査結果)

 

 陰暦の正月は平日扱いなので公務員だけは執務をしなければならなかった。それ以外にも国民生活に様々な影響を及ぼすこともあり、陰暦正月を休日にする問題は繰り返し提起されてきた。

 朴正煕政権時代の末期、旧暦正月の祭日化案が閣議にかけられるところまでいったことがあった。しかし、経済問題などから反対論が出て、この案は立ち消えになった。『朝日新聞』は、独裁体制の厳しい言論統制下で「旧正月公休化論争」が起きていると、皮肉っぽくソウル特派員の記事を伝えている。

 

 結局、朴正煕政権のもとでは、陰暦正月の祭日化は実現しないまま全斗煥チョンドゥファン政権の時代になった。

 

 そして、上述のように、全斗煥政権下の1985年、陰暦1月1日が「民俗の日」として初めて祭日になったのである。

 

 実は、全斗煥大統領は、就任直後に、陰暦正月の祭日化に否定的なこのような発言をしていた。

1981年11月23日『東亜日報』

「新正月は旧韓末の高宗の時に決定した制度」

◇休暇を兼ねて忠清南道地域に立ち寄った全斗煥大統領は、22日、管内の有志との午餐会で、旧正月の祭日指定の要請がなされると次のように答えた。「調査の結果、今の新正月は日本の植民地支配下で始まったものではなく旧韓末の高宗の時に決定した制度であり、世界各国が新正月を祝っており、休日が増えると経済や安全保障の問題も大きくなるので現状のままが好ましい」と政府の立場を再度明らかにした。

 全大統領は、「日本も100年かかって新正月に移行したもので、我々も20年もすれば新正月が完全に定着するだろう」とし、「陰暦を使わなければ占いのような旧習もなくなっていくだろう」と語った。

 この全斗煥大統領の発言は、いろいろな意味で強い反発を招いた。

 結局、この時の不用意な発言によって、「20年もすれば陽暦の正月が定着する」と語った全斗煥大統領自身が、陰暦1月1日を祭日とせざるを得なくなったといえよう。「ソルラル(正月)」ではない、「民俗の日」だとしたのは、せめてもの抵抗なのであろう。

 

 1988年に盧泰愚大統領が就任すると、翌1989年の陰暦1月1日からは「ソルラル(正月)」としての祭日とされ、2日連休となった。



 光州MBCは、やっと正式の「正月」として認定されたこの1989年のソルラルを回想したこんな動画をYouTubeにアップしている(フル動画구정에서 설날로 바뀐 1989년, 옛날 명절의 모습은 어땠을까?)。

 この動画では、「ソルラルは3日間の連休」と言っているが、この時は、祭日は「新正」が3日、「ソルラル」が2日であった。たまたまこの年は陰暦1月1日の前日が日曜日だったため3連休となった。

 それが1990年には、「新正」の連休が2日に短縮され、「ソルラル」は3日間に拡張された。

 1991年は、新正は2連休、ソルラルは2月14日から16日に加えて17日が日曜日だったため4連休となった。

 

 今や、韓国の内外で、韓国の正月は陰暦1月1日「ソルラル」ということになっているが、それが定着し始めたのは1990年代に入ってからのことであった。

 

 1999年からは、「新正」が1日だけの休みに縮小された。ただ、この時は、2連休を急に1日に短縮すると弊害があり得るとして、ひとまず公務員についてだけ先行して短縮し、一般の企業体などについては「新正」は1日だけの休日が「望ましい」とされた。

 

 2000年と2001年で様々な業界で「新正」は1日だけの休みとなり、これ以降、陽暦の1月1日は1日だけの休日、陰暦の1月1日は前後合わせて3連休、そして2014年以降は、日曜と重なった場合は振り替え休日が1日加えられるというパターンになったのである。

 

 上掲の2001年のソルラルに放映された「遠い路」は、そんな時期に作成されたドラマだったのである。

 


 日本の植民地統治の末期、「二重過歳」の弊害を口実に、1930年代前半まで朝鮮人が自分たちの正月として祝ってきた陰暦の正月が排除されるようになった。

 しかし、解放後に建国された大韓民国でも、権力者たちは、経済合理主義を掲げたり開発独裁を進めるために「二重過歳」を廃すべきだととして陽暦の正月への一本化を推進しようとしてきた。そのため、陰暦の1月1日を「自分たちの正月」として祝おうとする市民層、庶民層との間ではせめぎあいが起きていた。

 陰暦の1月1日を「ソルラル」とするのは、「伝統」への回帰ではあるものの、「民衆の正月」を認めようとしない権力に「正月」を公認させるという意味で、反独裁の側面も内包していたともみられる。

 『朝日新聞』の特派員が、「(旧正月公休日の)論争に刺激されて自主的に旧正月を楽しもうという反骨派がかえって増えた」と書いたのも、維新体制下での動きに注目したものであろう。

 特に、「20年経てば新正月が定着する」と豪語した全斗煥大統領が、4年後には陰暦1月1日を祭日にせざるを得なくなったことは興味深い。その後の「民主化宣言」、そして政権交代後の1990年代の陽暦正月から陰暦正月へという急激な流れは、単なる「暦の上」の問題ではなく、韓国社会の底流にあるアイデンティティのありようを示すものではあるまいか。

 2014年1月に韓国で公開された映画「怪しい彼女」。シム・ウンギョン扮するオ・マルスンの孫のジハはバンドをやっている。マルスンは、夫のバン氏がドイツの炭鉱に出稼ぎに行って事故で亡くなり、遺された息子ヒョンチョルを女手一つで育てた。孫が生まれるとマルスンがジハと名付けた。ファミリーネームがキムだったら、詩人の金芝河キムジハと同じ音の名前になるのだが、孫はバン家。だから「潘ジハ」。「バンジハ」は、音でいえば「半地下」と同じになる。

 

 「バンジハ」という音の名前の孫、その名前を付けてくれたマルスン——若返ったオ・ドゥリ——の前で、自分の名前について「ダサイ名前だぜ!」と嘆く。

 この場面を説明するのにこれだけかかるものを、短い日本語字幕でどう表現するか。字幕製作者はかなり大変だっただろうと同情する。

 


 ソウルで地下室が設置されるきっかけになったのは、1968年の北朝鮮武装工作員による青瓦台チョンワデ襲撃未遂事件(1・21イリイル事態サテ)、そしてその直後に北朝鮮にアメリカの情報収集船が拿捕された「プエブロ号事件」であった。

1968年1月22日『東亜日報』

1968年1月24日『東亜日報』

 1968年1月に事件が起きると、朝鮮半島の軍事的緊張は一気に高まった。この年5月、金玄玉キムヒョンオクソウル市長は3階建以上の建物に地下室の設置を義務化し、さらに秋には、政府が2階建以上もしくは200㎡以上の新築建物には地下室を設置すべしという方針を打ち出した。

 これらは、北朝鮮との戦闘が起きた場合に、避難壕・防空壕として地下室を使うことを目的とした非常用施設であった。

 

 これ以降、次第に地下室は増加したのだが、まだこの時期には地下施設を住居として利用していたという形跡はない。

 

 地下室を住居として利用できなかった理由の一つは、オンドルの問題ではなかったかと思われる。

 この60年代から70年代にかけては、一戸建て住宅のほとんどは練炭の直焚きオンドルであった。地下室に直焚きオンドルを設置するのは無理。オンドルが、温水オンドルに転換され始めるのは1978年あたりから。温水の温突であれば、床下に温水パイプさえ埋設すれば地下の空間でも居住空間にすることができる。

 

 ということで、1980年代前半には、地下室にもオンドルをいれて住居空間とすることができるようになった。

 

 1984年4月には地下室に関する建築法が大きく変わって、首都圏の25.7坪以上の建物に地下室の設置が義務化された。25.7坪というのは、「国民住宅規模」とされた建て坪である。

 地下室の設置が義務化された一方で、地下室の住居利用については次第に規制が緩和されていった。

 1984年5月の『京郷新聞』の記事によれば、家の一部を賃貸する場合、建築許可なしでもキッチンやトイレ、水道、出入用階段などの設置が可能になるとされた。「陽性化」ということだから、1984年には、すでに多くの地下室で住居用への改造がこっそり行われており、それを追認したというわけである。

 居住のために必要な設備が公然と認められたことで、恒常的な住宅難だったソウルでは、低所得者層を中心とする地下室の住民が増加したものと考えられる。行政側でも、これを「多家族住宅」とか「多世帯住宅」と定義して、住宅難の緩和に役立てようとしていた。

 

 2015年11月から翌年初めにかけて放送されたテレビドラマ「応答せよ1988」にも「半地下」が出てくる。
 ジョンファンの家の半地下にドクソンの一家が住んでいるという設定だった。

 ジョンファンの兄ジョンボンが買ったオリンピック宝くじが大当たり。その賞金で一家はこの一戸建てに住むことになった。一方、ドクソンの家は、銀行員の父親が連帯保証人になったため、他人の負債を背負い込むことになって半地下の家で暮らしている。

 1988ソウルオリンピック開催が決まったのは1982年のこと。翌年4月初めにオリンピック宝くじ(五輪福券オリュンポッコン)が売り出された。一等賞金は1億ウォン。宝くじは何度も売り出されたので、いつの宝くじが当たった設定かはわからないが、一戸建てを建てるにしろ買うにしろ、1億ウォンは80年代であれば十分な金額であった。

 「応答せよ1988」で、ジョンファン一家が宝くじを当てて戸建ての家に住むようになったのは1980年代のなかばという設定であろう。この頃から、地下の構造物を住居として利用することが多くなっていった。

 

 1989年になると、84年に義務化されていた新築住宅の地下室設置が廃止された。冷戦構造が大きく変化しつつあり、北方政策で旧社会主義圏の国々との外交関係の樹立などもあって、非常時の施設や対応を見直すことになった結果でもあろう。

 

 地下室設置の義務化は解除されたが、一方では、地下室は戸建て住宅で建坪を増やすことができて、賃貸にも出せるというメリットもあり、地下室の建設がなくなったわけではなかった。1990年代に入っても、地下室のある戸建て住宅が「多家族住宅」として新築され、アパートや集合住宅で地下部分も住居として分譲することが可能になるなど、地下スペースの住居利用は増えていた。

 韓国の建築家や建設業者は、戸建て住宅だろうとビルだろうと、地下室の設計や施工についてのノーハウを蓄積していたし、経験も豊富だったのだろう。一戸建て住宅の地下室などほとんど見かけることのない日本社会とは違って、韓国では、1980年代から90年代にかけて多くの地下室が造られた。地下室は、当初は1/2が、後には1/3が地下部分にあれば、登記や税制において優遇措置が適用された。

 住居として利用されるのは、一部が地上部分に出ているものが多かったこともあって、「バンジハ(半地下)」と呼ばれるようになった。この「バンジハ」という言い方が一般化したのは1990年前後からである。

 NAVER Newslibraryのデータベースで、「반지하バンジハ」というキーワードで住居関連のものを探すと、1990年以前はほとんど出てこず、1990年代に入って多くの記事がヒットしてくる。

 

 下のは、ある殺人事件の新聞報道だが、事件現場は、新林洞の「ヒョンデ連立半地下・・・102号」と表記されている。

 

 2000年代になっても、こうした半地下の住宅利用はそのまま続いていた。

 

 2019年6月7日の『ソウル新聞』には、次のような記事が掲載されている。

半地下・屋上世帯のうち93%が首都圏に集中

昨年(2018)2月の建築学会論文集に掲載された「集合住宅の半地下の世代の住居環境の分析」には、約14ヶ月(2016年5月〜2017年7月)の間に京畿道アンサンの半地下住居10世帯の住居環境の実態と室内温度・湿度の調査結果が報告されている。調査の結果、10世帯全てに結露やカビがみられ、特に湿気の多いトイレとキッチンにカビが多く発生していた。
劣悪であるとわかっていても半地下に住むのは金銭的理由からである。10年前に大学生になって初めてソウルにきたカン某(30)氏は、軍服務期間を除いて8年間半地下に住んでいる。今住んでいるところは、保証金1000万ウォン、家賃36万ウォン(管理費を含む)。半地下を抜け出すためには、さらに10万ウォン以上必要である。10万ウォンを惜しんだ代償のカビ、湿度、プライバシー侵害に悩まされている。
カン氏は、「大学時代には授業料と生活費に苦しみ、今は新人社会人なのでできるだけ住居費を節約しようと半地下に住んでいる」と語った。
居住権団体のスラグユニオンが、若者242人を対象に調査した「2017年青年の住宅安全実態調査」によれば、「住居環境に危険を感じる」という項目で、地下・半地下・屋上部屋の居住者の37.9%が「YES」と答えた(地上階の居住者は22.2%)。「玄関出入口セキュリティ装置や監視カメラなど防犯設備が一つもない」と回答した地下・半地下・屋根裏部屋の居住者の割合は36.7%(地上階19.3%)。
統計庁が発表した2015年の人口住宅総調査標本集計結果を見ると、全世帯(1911万1731世帯)のうち36万3896世帯(1.9%)が、地下(半地下)に居住し、5万3832世帯(0.3%)は、屋上部屋に住んでいる。全国で地下(半地下)と屋上に居住する41万7728世帯のうち38万9981世帯(93.4%)が首都圏に集中していた。半地下と屋根裏部屋は、都市貧民の最後のスペースである。

 

 


 

 映画「パラサイト(原題:寄生虫)」には、半地下に住む家族が登場する。彼らの半地下住居が1980年代から90年代に建てられたとすれば、築20数年ということになろう。日当たりは悪く、換気が悪くてカビが生えて悪臭がする。そして集中豪雨で水没する。

 

 私は、日本では、地下に構造物があるという戸建ての建物を見たことがない。

 韓国の半地下についてこうやってまとめると、そこにも韓国の現代史の一端が見えてきた。

 

 『東亜日報』の「洞・町内の名物」では、高宗皇帝が愛飲したり、薬効があったり、由緒正しき井戸が取り上げられている。そのうち二つの井戸を紹介したが、これらは井戸というより、むしろ湧水、韓国で「薬水ヤクス」と呼ばれているものである。「洞・町内の名物」ではそれ以外の一般の井戸も取り上げられている。

 

 日本の植民地支配下当時は、普通の井戸がたくさんあった。そして、井戸は朝鮮の人々の生活では、まさにライフラインの一つだった。

 植民地統治下で出された絵葉書の中に井戸の写真が残されている。

 この絵葉書では、後ろに北岳山が見えており、景福宮の東側、建春門の手前のところであろう。

 

 下の写真もそうだが、ここに写っている人は水売りを商売にしている人であろう。

 こちらは庶民の井戸利用を撮ったもの。

 

『ソウル上水道100年史』より

 

 1934年に封切られた映画「青春の十字路(청춘의 십자로)」にも井戸の場面がある(無声映画で音は入ってない)。 

 

これは、田舎での生活を回想する場面だが、そんなに京城から遠い場所で撮影されたものではなかろう。

 

こちらは、京城の街中の井戸での撮影だと思われるが、場所は特定できない。

 

 

 ところで、『東亜日報』で「洞・町内の名物」を連載していた当時の1924年頃には、京城府内では上水道がある程度普及していた。

 

 併合前の大韓帝国時代の1903年に、二人のアメリカ人に纛島どうじま(現在の뚝섬トゥクソム)における公設上水道の施設・経営に関する特許が与えられた。これが上水道事業の始まりである。漢城の日本人居留民団は、南山に簡易の水道施設を作って自分たちの居住地域を中心に運用していた。併合後、朝鮮総督府は纛島の水道公社を買収し、1911年に京畿道の道営による水道事業が始められた。

 京畿道の水道事業は、1922年に京城府に移管されて京城府営の水道となった。

 

 

 京城府では、上水道の整備を進めたのだが、同じ京城の中でも地域によって片寄りがあった。水道管の埋設は内地人の居住区を中心に進められ、利用者も日本人世帯が中心であった。

 

『ソウル上水道100年史』より


朝鮮總督府『朝鮮土木事業誌』1930

 

 1924年の3月3日の『東亜日報』にこのような記事が出ている。

 このデータは、雑誌『開闢』の記事にも使われている。水道を使用する日本人戸数が朝鮮人の戸数のほぼ2倍というばかりでなく、日本人住居では「専用水道」「私設公用」が多いのに対して、朝鮮人の水道使用は多くが「公設公用」であった。

中間人「外人의 勢力으로 觀한 朝鮮人 京城」『開闢』第48号(1924年6月1日)

 

 京城の水道事業が、京畿道から京城府に移管された1922年、水道計量制が導入されて、使用量に応じた料金が付加されることになった。水道メータの取り付けが完了する1924年3月から導入するとされた。

 この新たな従量制の料金体系では、専用栓水道と私設共用栓はそれまでの建坪あたりで徴収していた料金とはほぼ増減がないとされたが、公設公用栓については1㎥について新たに12銭を徴収するとなっている。

 すなわち、この水道計量制の導入で、貧しい朝鮮人はますます井戸に依存せざるを得なくなったというわけである(金白永「京城の都市衛生問題と上下水道の空間政治」『環日本海研究年報』 (17), 2-27, 2010-03)。

 上水道の利用者は、8割強が日本人、朝鮮人は2割弱に過ぎなかった。多くの朝鮮人は井戸や河川を利用していた。飲料用の水も井戸から汲み上げていたが、『東亜日報』の記事が書かれた1924年の段階で、京城の井戸水の水質は悪化が進んでいた。京城府内の管轄警察署が調査した結果を『東亜日報』が報じている。

 

京畿道衛生部では10月初旬から11月6日まで、府内の井戸を検査した結果、

  検査数
本町署管内 742 201 541
鍾路署管内 258 147 111
東大門署管内 98 57 41
西大門署管内 567 180 387
龍山署管内 226 177 49
合計 1891 762 1129

このように、2/3が飲めない水質不良となっており、これについて衛生課長は、「下水溝の多いところが水質が悪く、中でも黄金町通や義州通沿いの井戸はアンモニアや泥が混入して、その水で炊飯もできない一方、龍山方面や東大門、本町のようなところでは比較的検査結果が良い。再度実施調査をして飲料水の水質改善を図るとともに上水道の普及を図りたい」と語った。

 

 こうした水質悪化は、汚物処理の不十分性によるものといえる。この当時の便所は全て汲み取り式で、水洗式はまだない。従って、糞尿の汲み取り・搬出が滞ることになれば、それらは生活排水などとともに地表面の下水溝から地下に浸透して地下水が汚染されていく。急激に人口が増加していく京城の糞尿処理は京城府の大きな負担となっており、恒常的に処理が追いつかない状態にあった。

 京城の便所事情と屎尿処理(1)
 京城の便所事情と屎尿処理(2)

 

 その不十分な糞尿処理のしわ寄せは、朝鮮人の居住地区の汲み取りの停滞をもたらした。上述の雑誌『開闢』には、1924年頃の「大小便運搬」データが掲載されている。

中間人「外人의 勢力으로 觀한 朝鮮人 京城」『開闢』第48号(1924年6月1日)

 

 ここで「北部」とあるのは朝鮮人居住区であり、「南部」は日本人の居住区である。明らかに汲み取られる糞尿の量や運搬馬車数に差があり、人口を勘案すれば非常に大きな差があったことがわかる。

 これが、朝鮮人居住地区での地下水の汚染につながり、朝鮮人地区のライフラインであった井戸水が飲料には不適切な水質にまで悪化した原因の一つとなったのであろう。

 

 高貴な人が愛飲した由緒正しき井戸が『東亜日報』に掲載されたのをきっかけに、京城府民の日常の井戸と上水道についても考えてみた。

 

 拡大していく都市では常に様々な問題が起きるのは当然であろう。しかし、植民地朝鮮の中心地京城においては、日本人居住区の問題解消のために、朝鮮人居住区にしわ寄せが押し付けられていたという側面のあったことがくっきりと浮かび上がってくる。